決戦前(4)
作戦会議が終わり、再集合時刻を今日の午後十一時半ということにしてから、各々の準備を進めるためにこの場は一時解散となった。
ブリーフィングルームから退出した裕紀は、居住区画にある自分の部屋で学校指定の制服に着替えると一人で地下施設の外へ出た。
目的地は八王子市街地よりも北側にある郊外に建てられているエリーの研究所だ。
寄り道する場所もそんな時間もないため、真っすぐに新八王子駅へ向かった裕紀は、一人用のモノレールを予約して北八王子駅へと向かった。
ブリーフィングルームから出る直前、恵から高校について説明を受けた裕紀は、静かに動くモノレールの車内から萩下高校があるだろう方角を眺めた。
裕紀が異世界へ行っていた間、この街では十五件もの魔法使いの殺人があった。
だが、どういうわけか加藤は殺した魔法使いの死体を最後まで処理しなかったのだという。
その動機が八王子市に災厄を起こす手段であると飛鳥は予想している。
ただ、そんな事情を知る由もない一般の住民には怪奇殺人として市内に報道された。
それに伴い、八王子市内の小中高校は事件が無事に収束するまで生徒たちの保守という名目で休校となったのだ。
休校の知らせを聞いてから新八王子駅へ移動中に改めて市街地の様子を伺ってみると、平日ではあるものの人通りの少なさは感じられた。そして、普段の八王子市街からは感じられない、街中に蔓延る不安や恐怖といった空気もほんの僅かに感じられた気がする。
そんなこともあってか、北八王子駅で降りた裕紀は普段以上に人気の少ない道を、市街地よりも遠い郊外付近まで歩いた。
街のコンクリート舗装された道から外れ、舗装のされていない砂利道を歩くこと数十分。
裕紀の行く手に一軒のスーパーマーケット並みの大きさはある建物が現れた。
見慣れた建物を視界に入れた裕紀は、動かす足をやや早めてその建物に歩いて行く。
建物の敷地を区切るための柵の間を通り、真っすぐに頑丈そうな扉の前まで歩み寄る。
何度来てもこの面倒臭さは拭うことはできない。何重にも設けられたセキュリティを突破するごとに溜息を吐く。
無事に最後のセキュリティも突破したことでスライド式の扉が音もなく開き、だだっ広い部屋が露わになる。
ほんの四日ぶりではあるが妙に懐かしさのある部屋に足を踏み入れた裕紀は、無意識に一言呟いていた。
「ただいま~」
この施設には小学校高学年の頃から通っているので、もはや我が家と同じようなものだ。
ここ数日はなかなか帰って来れなかったので久しぶりの挨拶に、しかしながら答える声はなかった。
(留守? 出掛けているのかな?)
そう思い部屋を見渡してみるが、部屋のあちらこちらに設置されている機材の電源は全て入っている。エリー専用のデスクトップ型のパソコンも画面は暗いが電源は入っているようなのでスリープ状態なのだろう。
基本、というか滅多なことがない限り外出はしないエリーだが、仮に外へ出るときは設置されている機材の電源は全て落とすようにしているという。
そのことを知っていた裕紀は、エリーはこの施設内のどこかにいると判断してひとまず鞄を自室に置くべく、部屋の奥側へ移動することにした。
裕紀がいまいる部屋はこの施設でも一番広い部屋だ。主にエリーが研究スペースとして扱っている部屋と、食事や休憩などに扱われるフリースペースの二重構造となっている。
奥行きが十五メートルはあるこの部屋は、エリーが研究している時は中央から隔離専用で使われるスライド式の壁が出現する仕組みとなっている。
裕紀の自室へ続く扉はフリースペースの一角に設けられていた。
現在は部屋の二分の一がその隔離壁で阻まれている。エリーがこの研究所にいるのであれば、この部屋を主なテリトリーとしている彼女があの隔離壁の向こう側にいる可能性は高い。
もし当てが外れていたようならこの施設内の何処かにいるのだろうが、探し回るのも面倒なのでこの部屋に帰って来るのを待つことにする。
内心でそう決めてから、裕紀は壁の向こう側をそろそろと覗き込んだ。
その瞬間だった。
ベチャッ、という音が耳元で響き、同時に裕紀の頬に生暖かい何かが付着した。
ゆっくりと視線だけを壁へ向けた裕紀は、汚れ一つない隔離壁にへばり付いたクリーム色の物体を見た。
スライムのようなぷるんっとした質感ではなく、ドロドロとしたそれはゆっくりと壁を伝って床へ落ちる。
そんな気色の悪い物体の外見とは裏腹に、裕紀の嗅覚をパンケーキを思わせる甘い香りが刺激した。
(まさか・・・)
裕紀が足を踏み入れた隔離壁の向こう側にはキッチンやらダイニングテーブルなどがある。
隔離壁の用途は来客者用に研究室を仕切るためのものだが、さっきのように調理中の事故で精密機器の多いエリーの研究機材などの故障を防ぐためのものだ。
しかし、当の裕紀は調理中に材料を焦がすことはあれど吹き飛ばしたりなどという失敗は一切しない。この隔離壁は、過去に起こった一人の人物の行いがきっかけで取り付けられたものだからだ。
その記録が今日また更新されたことを悟りながら、裕紀は見たくないと叫ぶ自身の本能に逆らって視線を前方にあるキッチンへ向けた。
第二の家族となって六年近く経つが、裕紀が家事を担当するようになってから調理場の清潔感は保とうと、常に綺麗に手入れはしてきた。
目の前に広がっていた光景は、そんな日々の積み重ねが木っ端微塵に吹き飛ばされたことを如実に物語っていた。
毎日、調理を終えてからは隅々まで拭いている調理台は、後ろから見ても明らかに汚い。流し台には大量の食器が雑に積み重なっていた。
「ぁ…ああ…」
まあ、また綺麗にすればいいだけの話なのだが、ここまで徹底的にやられてしまうとこんな掠れ声も出てしまうだろう。
そんな気持ちのこもった声が聞こえたのか、後ろで結んださらさらした金髪を揺らしてエリーがこちらへ振り向いた。
「や、やあ、裕紀。おかえり」
引き攣った声でそう言ったエリーの頬には赤い(ケチャップか何かだろう)液状の物体が付着していた。
ピンクのセーターの上に白色のエプロンを重ね、紺色のジーンズを穿く彼女の足元には、無残に失敗作とされてしまったパンケーキになり損ねたモノたちが散らばっていた。
普段は食べ物に感情移入しない裕紀でも、今回ばかりは犠牲になった材料たちに心から同情する。
足元に注意しながら歩み寄る裕紀に、エリーも持っていたボールを調理台のまだ安全な場所に置くと肩を縮まらせた。
肩を縮めるなどどこか豪胆な性格がある彼女にしては珍しかったが、裕紀が長い間この調理台を綺麗にし続けていたことを知っているからこそなのだろう。
エリーと会話できる距離まで歩いて来た裕紀を、彼女は口をすぼめて上目遣いで見ながらもごもごと言った。
「すまない。大切にしていたキッチンを汚してしまっただけでなく、材料までも無駄にしてしまった」
どちらが年上なのか分からないその様子が裕紀は可笑しくなり苦笑を浮かべて言った。
「いや、いいよ。汚れた場所はあとで掃除すれば綺麗になるし、材料もまた今度買えば問題はないから。それより、エリーは何を作ろうとしていたんだ?」
大方想像はできているがそう尋ねた裕紀に、エリーは恥ずかしいのかやや頬を赤くして言った。
「ホットケーキさ。インスタントや冷凍食品が底を尽きてしまってね。ちょうど材料も揃っていたから作ろうと思ったんだが、何せ料理は不得意だからな…」
「その前に外へ出て栄養のある食べ物を買ってきたり、せめて出前くらい取る気にはならなかったのかよ」
裕紀が研究所を離れている間、インスタント系の食べ物しか食べていないなんて身体に悪すぎる。
これでもエリーはまだ三十路には至っていない。結婚は考えていないようだが、美容のために少しは栄養バランスにも気を配った方がいいだろう。
そんな心意のこもった裕紀の言葉に、エリーは苦笑いを浮かべて人差し指で白い頬を掻いた。
「君の言わんとしていることはわかるけど、外出なんて久々すぎて心の準備が…」
(外に出るのに心の準備もへったくれもあるかっ!!)
と、目の前に立つ天才研究者様に内心でそう突っ込みを入れてから、裕紀は視線を調理台へ移した。
まあ見事なまでに汚してくれたものだと溜息を吐きたくなる衝動を堪え、現時点で調理台に揃っている材料を確認。と言っても、揃っているのはボールの中にあるホットケーキミックスくらいなので確認するまでもない。
(本当にホットケーキだけで済ませようとしていたんだな)
それもそれで栄養に問題がある気がしなくもないが。
ともあれ、四日ぶりに帰ってきたのだから少しはまともな食事を食べさせてあげよう。
そう思い、裕紀はひとまず自室に戻り鞄と上着を置くとキッチンへ戻る。
自分用の黒いエプロンを身に着けた裕紀がキッチンに戻って来るまで、大人しく待っていたらしいエリーに裕紀は指示を出した。
「昼ご飯、俺が作るよ。エリーはその間にテーブルを拭いて、終わったら散らかった部屋を片付けておいて」
「ようやく、我が家の家事担当が帰って来てくれたよ」
安心したようにそう言うエリーに、冷蔵庫を開けた裕紀は必要な食材を取り出しながら言った。
「そのうち出来るようになってくれよ。じゃないとお嫁にいけないぞ」
「なに、心配することはない。当分は此処にいるつもりだからな」
「あっそうですか」
笑いながらそう言いつつ、裕紀ははて…、と突拍子もないことを考える。
そういえば、エリーの研究目的は裕紀の身体能力の急向上についてなのだが、それはもう解決してしまっている。
魔法使いが自身の生命力で身体能力を向上させる技術を持ち、裕紀が昔から無意識にそれを行使している、と考えれば身体能力の急向上の説明がつくからだ。
ただ、そのことをエリーに言うわけにはいかない。魔法が関わることを、魔法とは無関係の人間に言うことは禁止されているためだ。
答えを知っていて、その答えを求める研究者と一緒にいるというのは複雑な心境だが、それでも裕紀はこの場所に心地よさを感じている。
エリー・カーティという研究者を心から信頼し、慕っている。
きっとこの暖かな感情が失われない限り裕紀はこの研究所に居続けるのだろう。
そして、その感情は決して失ってはならないものであると、裕紀は心の中で思うのであった。




