決戦前(3)
加藤という魔法使いが姿を消してからは、まるで録画の早送りでもしているかのように時間の流れが早かった。
火災現場である住宅街でやるべき事を果たした裕紀は、アークエンジェル地下施設へ戻るために身体強化を発動させて移動を開始した。一般の住民に気付かれないよう潜にかつ迅速に行動するのは周囲にとても気を使うので慣れるまでは不安だったが、先行した玲奈が気付かれにくいルートを走ってくれたおかげで、隠密行動に不慣れな裕紀でもたったの十分程度で廃屋まで辿り着けた。
なぜ、こんなにも急いでアークエンジェル地下施設へ向かっているのかというと、その根本的な理由は裕紀にあった。
飛鳥の推測通り、現場に姿を現した魔法使いとは危ういところで戦闘にはならなかった。
しかし、裕紀の勝手な判断で戦いの場所と時間を指定してしまったことは戦闘になるならない以上の問題だ。
このことを飛鳥に連絡した玲奈に返ってきた指令は、至急本部まで帰投すること、というものだった。
普段は他人を急かすことはあまりしない飛鳥が至急という単語を使った時点で、事態はかなり切迫しているように思える。
それもそうだ、と内心で思う。せっかくコミュニティ全体で加藤という魔法使いに対する対策を練っていたのに、いきなり裕紀がそのすべてを無駄にするようなことをしてしまったのだから。
(勝手なことをして飛鳥さん、怒ってるだろうな)
何度か彼女の逆鱗に触れかけたことのある裕紀は、古びた石階段を下りながらその時の記憶が蘇りそうになり、ぶるりと背中を震わせた。
先頭を歩く玲奈が施設の防護扉を開き裕紀もその後に続いて歩く。
どこまでも白く硬質な、長い通路をしばらく歩くと最奥の壁にやや特殊な色合いの扉が現れる。
二日前、魔女エレインに導かれてやって来た部屋と同じ扉だ。
確か、この扉の奥にアークエンジェルの作戦司令室があったはずだ。
そう思いながら前に進もうとした裕紀だったが、目の前に立っている玲奈が歩き始めないので危うく背中にぶつかりそうになった。
目的の場所はこの先のはずなのだが、いったい何をしているのだろう、と彼女の後ろから覗くようにして手元を見た。
立ち止まっていた玲奈は、扉の横に設置されている小型の端末に何かを打ち込んでいた。
端末に暗号らしき文字を打ち込み終えると、扉の奥で重々しい振動と音が鳴り響いた。
しばらく巨人の唸り声のような重い響きを扉の奥で反響させると、やがてガチャンと機械の結合部が接続される音が鳴った。
その音が鳴ると振動も反響音も消え去り、今度こそとばかりに特殊な色の扉が音もなく静かに横へスライドした。
「さあ、入って」
そんな言葉を放って部屋へ歩き始めた玲奈の背中を慌てて追う。
静かに閉まった扉の存在など完全に忘れ、裕紀は純白の蛍光灯に照らされた清潔感のある空間を眺めた。
特に何の装飾も施されていない、簡素という言葉が良く似合う部屋の中央には大テーブル型の機械が備え付けられている。
そのテーブル型機械を囲むようにして四人の男女が立っていた。
テーブルの右側に立つ一人の人物は黒いスーツを着こなした後藤飛鳥。シャツの胸元が緩くなっているのは彼女の性格ゆえなのだが、今はしきりに書類を捲ったりしているので突っ込まないことにする。
続いて奥側、裕紀たちの真正面に立っている二人の男女は、それぞれアークエンジェルの戦闘服を着ている。やや伸ばした黒髪を後ろで結んでいる蘭城昴と、赤毛のショートボブの持ち主である赤城ましろだ。
裕紀より頭一つぶんほど背の高い昴は、入ってきた二人を視認すると腕を組みながらも口元に笑みを浮かべた。同じく二人の入室に気付いたましろも、相変わらず元気が溢れそうな明るい笑みと共に小さく手を振る。
そんな二人に苦笑で答えた裕紀は、最後に左側に座る女性へ視線を移した。
そして、彼女を視認した裕紀はぎょっと目を見開いた。
この部屋に集まっているメンバーで唯一椅子に腰かけ、ノートパソコンのキーボードを打ち続けている女性は、魔法使いとしての立場であるなら初対面だった。
だが、それ以外の場では幾度となく顔を合わせている。
…というか、最近は顔を合わせていないことにひしひしとある種の危機感を覚え始めていた所でもある。
「な、ななん、」
驚愕に震える裕紀の唇から、そんな要領を得ない言葉が漏れた。
その呟きで女性も新たな入室者の存在に気付いたようだ。
キーボードを打つ手を止めて、控えめに言っても可愛らしい童顔をこちらに向けてくる。
童顔のせいか茶色のミドルショートな髪型も良く似合うが、新米教師のようにぴっちりとしたスーツはあまり似合わない。
そんな印象を抱かせた女性は、裕紀を確認するや否や、にこーっとキューティクルな笑みを浮かべた。…が、目は笑っていない。
その笑顔でどれだけの男子生徒たちを虜にしてきたのかは定かではないが、残念なことに今の裕紀の気分は背後から熊に狙われているような気分だった。
「ど、どうして萩原先生がここに?」
背中に滝のように冷や汗を流しながら引き攣った笑みでそう訊いた裕紀に、冷笑を崩さずに裕紀のクラス担任である萩原恵は言った。
「あら? この状況でそれを聞くほど鈍い生徒だとは思っていなかったのだけど、まあいいでしょう。私も魔法使いとしてこのアークエンジェルに所属させてもらっているのよ。新田くん」
「そ、そうなんですね! いや、世界って案外狭いですね」
正直な話、同じ高校に四人も魔法使いが在籍していることについては驚くしかない。
「ま、魔法使いの人口は年々増えているらしいからな~」
そんな裕紀に同情するように、正面に立っている昴が笑いながら言う。
その言葉にはにかみながら笑みを浮かべた裕紀は、視線を恵に戻すと頭を下げた。
「あの、何の連絡もせずに無断で学校を休んだこと、本当にすみませんでした」
飛鳥たちには諸々の事情を話し謝罪はしたが、まだ裕紀が謝らねばならない人たちはいる。
一人の教師としてとても生徒想いな恵は裕紀の無断欠席に心配したはずだ。
それに、そのことはクラスメイトにも少なからず伝わっているはずなのだ。
魔法使いとしてではなく、一般人としても多くの人に迷惑を掛けてしまったことへの謝罪に、恵は和やかな笑みを浮かべてみせた。
「本当に、今回のことみたいなことは二度とないようにしてね? 私も、クラスのみんなもとても心配していたのよ。それに、あなたの親も、ね?」
「…はい」
今回の裕紀の独断行動に関しては反省することしかないので、ただただ肩を落とすしかない。
そんな裕紀に、恵は世話の焼ける子供にでも言うような口調で言った。
「すべての決着をつける前に、必ず家には帰ること。心配してくれたあなたの親御さんに、しっかりと説明してきなさい」
「はい」
小さく細い眉を上げてそう言った恵に、裕紀はしっかりと頷いた。
「あと、休んだ日の課題はちゃんとやるのよ。忘れたりしたら課題は二倍だからね」
「…ハイ」
どこまでも厳しく生徒想いな担任教師の一言にさっきとは違った意味合いで肩を落とした裕紀に、部屋にいた四人は揃って笑った。
四人の笑い声が納まるのとほとんど同時に、書類を捲っていた飛鳥の手も止まった。
飛鳥がテーブルに書類を置くと、和やかだった部屋の空気が瞬く間に引き締まっていた。
この場にいる全員の上官にあたるのであろう玲奈は、五人の意識が自分に集まっていることを確認すると口を開いた。
「時間も少ないので速やかに済ませるぞ。これから、明日の零時に行われるであろう決戦についての作戦会議を行う」
「すみません、その前に…」
「ん? どうした、新田?」
おずおずと手を挙げた裕紀に、飛鳥は小首を傾げながら問い掛けてくる。
覚悟は決まっている。二度目の独断行動に飛鳥はきっと激怒しているはずだ。
しかし、そのことに触れなかったということは、恐らく自主申告をすることで裕紀に事の重大さを思い知らせるためだろう。
「あの、怒らないんですか? 俺がまた、みんなの同意も得ずに勝手に決めつけたことを」
恐る恐る尋ねた裕紀に、飛鳥は何故か困ったように頭を掻くと言った。
「うむ、まあ、あれだな。さっき恵が私の代わりに叱ってくれたようだし、私からは何もないと思っただけだよ。それに、今回に関しては君と敵の問題であり、君自身が考え導き出した答えだ。いかに魔法使いとして経験があっても、これ以上敵に罪を重ねて欲しくない、大切なものを守りたいという君の意志に異は唱えられないよ」
そう言ってくれる飛鳥に、これ以上の言葉を貰うことは必要ないのだろう、と裕紀は思った。
なので裕紀は、飛鳥に軽く頭を下げるだけに留めた。
そんな裕紀に何も言わない飛鳥は、次に目の前に座る恵へ頷きかけた。
飛鳥の頷きを受け、再びノートパソコンに向き合った恵が操作したのだろう。
蛍光灯の光に照らされていた部屋の照明が消され、テーブルの卓上にある巨大なモニターに地図のようなものが映し出された。
世界地図ではなく、どこかの市内の全域を描いたものだろう。いったい何処の地図なのだろうと覗き込み、それが自分たちの暮らす八王子市の地図であることに気付く。
この部屋はアークエンジェル地下施設における会議室的な場所なのだろうと、今更ながらに悟る。
そんな新田を他所に、飛鳥は全員に目配せして言った。
「いま新田が言ったように、彼は敵の魔法使い、加藤徹と決戦の約束を交わした。その決戦の場は、夢の丘公園の一部施設であるドーム型植物園となった」
説明する飛鳥のタイミングに合わせて、八王子市市街地から離れた場所に指定の場所を示す赤色の光点が点滅する。
夢の丘公園。それは八王子市に存在する公園の中でも一番大きな敷地面積を誇る施設だ。
象徴となっているのは縁結びの噂も音高い鐘付きの白い塔だが、夢の丘公園の敷地内にはもう一つ規模の大きい施設がある。
そこはドーム状の建物となっており、広大な敷地には様々な種類の植物が育てられている。言わば植物園というやつだ。
決して珍しい植物があるわけではないが、澄んだ空気や静かな雰囲気を一緒に体感するために、恋人などのデートスポットとしても多く選ばれている。
何処でそんな情報を聞いたのか、不意にそんなことを思い出している間にも飛鳥は言葉を続けた。
「加藤から提示された条件は一つ。現場には新田一人で来ること。この条件を放棄した場合は、現在意識不明となっている柳田彩香の命を絶つということ」
飛鳥の説明に反応したのは、裕紀の正面で険しい表情を浮かべながら腕を組んでいる昴だ。
「確か柳田は呪いによって生命力を蝕まれているんだったな」
「呪の解除は術者が任意で魔法を解くか、それとも術者本人を殺すことで可能となるのよね」
暗い声で言った昴の隣に立つましろも深刻そうな表情でそう言う。
しばらく何かしらの思考を巡らせたらしい昴が、諦めたような口調で言った。
「敵の状態からして説得は無理だろう。だったら、腹くくって殺すしかないんじゃないのか?」
昴の言っていることはもっともで、この状況では確実な方法なのかもしれない。
一週間前の裕紀だったら迷わずにその手段を選んでいたという確信もあるほどなのだ。
「それはダメよ。あの魔法使いを殺すことは、この世界に蔓延る闇に苦しむ、魔法使いたちの嘆きの声を否定することになりかねないわ」
そんな昴のまともな意見に反論したのは、意外なことに玲奈だった。
裕紀の師であり恩人の一人でもある彼女の赤い瞳は、真っすぐに正面に立つ昴へ向けられている。
「だが、いまの新田の実力でどこまで戦える? 異世界に行ったことで成長はしたし経験も積んだようだが、相手はそんな経験を覆してしまうほどの実戦経験者だ。仮に対等に戦えたとしても、殺さずに無力化するなんて、ある意味舐めた戦い方ができるとは思えないけどな」
「それでも、あの魔法使いを殺すことは容認できないわ」
「…おまえ…」
断固として譲らない玲奈の意志に驚いたのか、昴は険しかった表情を少しだけ緩めた。
仲間に危害を及ぼす者には容赦はせず、殺すことすら厭わないという玲奈のポリシーは変わっていないのだろう。もしも彩香が殺されたりすれば、玲奈は迷わずにあの魔法使いを殺しに行くはずだ。
ただ、今回に限ってはあの場で直接、加藤という魔法使いに纏わる過去を視た裕紀の主張を尊重してくれているのだ。
ならば、裕紀も自分が視た全てを此処にいる全員に話さなければならない。
「あの魔法使いの家族は、ずっと前に殺されているんです。信頼していた人たちに裏切られて、罪もない大切な人を同じ魔法使いに殺された。その復讐のために、あの男は関係者を殺し続けていたんです」
「それは調べれば分かることだよ。俺が知りたいことは、戦うお前がどの程度の覚悟で敵と対峙するかってことだ。これは殺し合いだ。生半可な気持ちじゃ、絶対に何もできない」
(同じことを、後藤先生にも言われましたよ)
それくらい、戦いに対する覚悟は重要なのだ。
だが、もう裕紀の心も決まっている。異世界でマーリンと契約したときに、いやそれよりもずっと前から裕紀は覚悟を決めていた。
例え相手との経験の差があったとしても、裕紀は自分の意志を貫き通さなければならない。
それが身を挺して裕紀を守ってくれた彩香や、協力してくれた多くの人達への細やかな返礼なのだ。
「敵がどれほど強くても、俺は俺のやるべきことをします。あの魔法使いを覆っている深い闇の力を振り払い、あの男の復讐を止めてみせる」
こちらも断固として主張を譲らないと分かったのか、昴は表情から完全に険しさを消した。
代りに仕方がないというような表情を浮かべて言った。
「はぁ…、戦う本人があれだけ強情なら制止はむしろ枷でしかないか。しかし、弟子入りしてからそんなに経ってないのに、性格の影響受けるの早くないか?」
「失礼ね。私はそこまで頑なじゃないわよ」
にやっと笑いながら言った昴に、本気でそう思っているのか玲奈は真面目な声音で言い返す。
「どうだかね~。玲奈、結構そういうトコあるじゃん?」
「ましろまで、何を言っているのかしら…」
しかし、追撃とばかりにましろにそう言われてしまえば、玲奈も白を切るしかないようだ。
幸い、二人からそれ以上の言及はなかった。
そんな口論を静かに傍観していた飛鳥は、会話が静まると再び作戦の話を始めた。
「どうやら方針は決まったようだね。新田には植物園にて加藤を無力化して欲しい。それができない場合は躊躇わずに殺してくれ。任務完了が確認でき次第、我々は現場に急行しよう」
各々の表情を見ながら作戦を通達した飛鳥に全員が頷いた。
これで、決戦に臨むための下準備は大方が完了したことになる。
恵に言われた通り、八王子市の郊外に位置するエリーの研究所へ向かおうと思った裕紀を引き留めるように飛鳥が言葉を続けた。
「新田が植物園で戦っているあいだ、我々は植物園に近づくことはできないはずだ。よって、月夜、蘭城、赤城の三人には植物園から距離をとって待機。ターゲットに異変が起こり次第、各々の判断に沿って行動してくれ」
「あれだけの人数を殺してんだ。大量の怨念を溜め込んでいるだろうよ。それに、この街に災厄をもたらすと仄めかしている以上、何かしらの対策はしといた方がいいな」
飛鳥の指示に頷いた三人から代表するように昴が呟いた。
あの魔法使いの狙いは裕紀であり、復讐の対象者であり、この八王子市なのだ。
敵が何かを仕掛ける前に裕紀が無力化できることが最善だが、残念ながら確実に勝てる保証はなかった。
もしも苦戦を強いられた場合に備えて、起こること全てに対処できるようにしたほうが良いだろう。
「じゃあ、私はこの塔の近くで見張るわ」
玲奈が夢の丘公園の全体図の、入り口付近にある塔を指差した。
「だったらあたしはここね~」
まるで委員会の役割でも決めるような軽い調子で言ったましろが指差した位置は、植物園の背後に広がる森林だった。
「だったら、俺はここか」
そう言いながら、昴は園内の遊戯施設付近を指差した。
それぞれの監視場所を決め終えると、作戦会議を締めるためかテーブルに両手を付いた飛鳥が張った声で言った。
「みんな、今夜がこの事件における最後の戦いとなる。八王子市は我々の活動拠点にもなっている重要な街であり、多くのメンバーはこの地で育った。傷ついた仲間のためにも、この街から恐怖を取り除くためにも、あの男の思惑は絶対に食い止めるぞ」
「はい!」
コミュニティ一丸となった力強い声が、暗いブリーフィングルームに響き渡った。




