異世界(6)
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冷たい。
まるで真冬の日によく冷えた冷水を頭から浴びたかのような感覚が気を失っていた裕紀を襲った。
どうやら水が流れているのか身体には柔らかい抵抗感が、聴覚には涼やかな水の音が伝わってくる。
その音を聞きながら、顔の表面にごつごつとした石の感触を感じてから裕紀はようやく意識を取り戻した。
重たい瞼を開けると途端に強い光が視界に差し込み、辺りを認識するよりも先に一瞬で視界が白く染め上げられた。
反射的に瞼を固く閉じ直した裕紀は、今度はゆっくりと瞼を持ち上げて瞳だけ左右上下に動かす。
日光による目の眩みも平常に戻り、視界に映った景色はどこか見覚えがあった。
空を一面に覆った赤や橙の木の葉。数えるのも面倒なほど生い茂った木々に、これまた何処まで続いているのか分からない川に砂利の河原。
本物の自然をよく再現されたこの場所は、八王子市に新しく設立された夢の丘公園という自然公園の敷地内に似ていた。
戦争とは関係なく都会化が進んでいた現代日本において、森林など自然の生物を多く取り入れた施設は珍しくもなかった。今では都会化によって失われた自然を再現しようと、市役所やその他の団体が自然公園などの施設を増設する活動も多くある。
そして、裕紀が見ている光景は都会ではまず伺うことができないであろう自然の光景だった。
しかし、自然公園のように人工的に造られた自然は小さな観測機器など、隠そうとも隠し切れない人の技術が雰囲気として伝わってくる。
ざっと周辺を確認した程度では何とも判断を付け難いが、裕紀が考えるにこの森林は八王子市にある自然公園の敷地内ではないだろうと思えた。役員には失礼だが人工の自然とは違い、こちらのほうが断然自然な赴きがあった。
では、八王子市自然公園でなければいったいここはどこなのか。
(ここは、どこだ?)
未だにおぼろげな意識を何とか覚醒させた裕紀は、ゆっくりと横たわっていた身体を起こした。
意識を無くしていた反動からか最初は身体が重かったが、次第に四肢が言うことを聞き始め、立ち上がった頃には完全に身体の状態は正常に戻っていた。
だが、立ち上がった途端大量の水が裕紀の衣服から零れ落ち、水が水を打つ音が聴覚を刺激した。
水滴が飛び散る音を聞いた裕紀は全身を見下ろしてそれを確認すると、続いて着ていた冬の制服を手で触った。掌に伝わったシャツやズボンの感覚に顔を顰めてしまう。
どうやら裕紀は川にどっぷり身体を浸したまま意識を失っていたみたいだ。
こうして気付いてみると、脛から下が何やら冷たく柔らかな抵抗感があった。
「……はぁ」
ずぶ濡れになった全身の状態にため息を吐くと川の中から河原へ歩く。ついでに川の流れを確認して、水が流れて来る方角へ視線を向けた。
そして、裕紀はその悠然な絶景に息を呑んだ。
「すごいな……」
川の上流は遠くて視認は不可能だが、その先にそびえ立つ巨大な山々は距離があってもどうにか確認することができた。
広大な山々は紅葉が始まっているのか、半分以上が赤や橙色に染まっていた。まるで有名な画家が手掛けた絵画の中に入ってしまったかのような気分になる。
その絶景を見ていると、ずぶ濡れになったおかげで水に濡れたことで苛立っていた気分が緩和されるようだ。
気分を入れ替えようと裕紀は肩を交互に回して大きく背伸びをしてから深呼吸をした。
汚染物の含まれていない甘味さえ感じる新鮮な空気を肺へいっぱい送り込んでから、全身の力を一気に抜く。
気分転換が完了した裕紀は三度辺りを見渡した。今度は視線ではなく身体ごとなのでここがどこなのか、より詳しい情報が脳へ飛び込んで来る。
遠くの山々と同じように、裕紀の立つ場所の木々の葉も紅葉が始まっていた。枝から離れた橙色の葉が宙を舞い、川に落ちて下流へと流される。
その景色を眺めていると、やがて裕紀はこの河原と木々が根を張る地面とで数メートルの段差があることに気が付いた。
しかもこの段差はどれも均一ではなく、場所ごとに誤差が生じている。
これは裕紀にも心当たりがあった。いわゆる渓谷という奴だろう。
裕紀が知る限り八王子市の自然公園に渓谷などはない。また、詳しく知るわけではないが東京近辺でここまでの絶景を感じさせる山々も少ないだろう。
そもそも、日本での今の季節は冬だ。紅葉の季節はもうとっくに終わり、葉を散らした木の枝が寂しく寒風に晒される時季だ。
(いや、でも俺は転送先にあの研究施設をイメージしたはずだ。 だけど、どうしてこんな渓谷なんかに来てしまったんだ?)
柳田彩香に不思議な石を渡され、どこでもいいからイメージしやすい場所を思い浮かべろと言われたのはつい数分前だ。
彼女曰く、イメージした場所を石へ送り込むことで、そのイメージした場所へ転送することが出来るらしいのだが。
説明とは異なり自分のイメージした場所とは違うことに、裕紀はこうなってしまった経緯を思い起こした。
(確かここに転送される前、変な男に襲われたんだよな。ええと、その時の時間は……)
脳内でつい数分前の記憶を逆再生し、ちょうど学校の校門前辺りまで記憶を辿ったところで裕紀は口を半開きにして固まった。
固まった裕紀の頬に一筋の冷や汗が流れ落ちる。
裕紀が彩香と新八王子駅を訪れたのは放課後だ。しかも、彩香の諸事情も絡まって実質校門を出たのは五時近い。その時間帯ならば、もう冬に差し掛かっている東京なら日没寸前のはずなのだ。
暗くなりかけている街と波のような帰宅ラッシュを脳裏でフラッシュバックさせてしまった裕紀は、今更訪れた疲労を無視して弾かれるように空を振り仰いだ。
空は多くの葉で遮られてよく見えないが、葉と葉の間をすり抜け網膜へ直撃した日光に目を瞬かせた。
顔を正面に戻すと同時に再びこめかみを嫌な汗が伝う。
日没、の意味を考え、太陽が地平線に沈むことだとすぐに自分で答える。
自問自答したのち、もう一度空を振り仰ぎ元気過ぎる太陽光に目を射抜かれ顔を正面に戻す。
今度は全身から嫌な汗が溢れ出るような錯覚と軽い目眩を感じた。裕紀の脳裏に嫌なイメージが過り、それを振り払うように一人叫んだ。
「そ、そうだGPSっ。あれならここが何処なのかわかるはずだ!」
ネットワーク技術が発達した今の時代、GPS機能は誰でも知っているだろう。
だが、突然の出来事が連続して起こりパニック寸前だった裕紀にとっては、そんな知識すら思い出すのには一苦労だった。
そのため、奇跡的に思い出した便利なシステムに全てを賭けるつもりで取り出した携帯の電源を入れる。
「あ、あれ? 電源が、……つかない?」
だが、裕紀の数少ない希望の光は無情にも潰えてしまった。
どうやら転送時に強い衝撃を与えられたのか、知らぬうちに川に水没してしまっていたのか、裕紀の携帯はピクリとも反応しなかった。
(携帯、壊れた)
そんなネガティブな思考が頭を過り、裕紀は思いつく限りの方法で電源を入れようとする。
しかし、どんな方法を試しても頼りの代物はうんとも反応しない。
受け入れたくはない現実をすがっていた携帯に突き付けられ、裕紀は無気力に携帯をポケットにしまった。
「はは……、ははは……」
ネットワークが進歩した今の時代、たとえ海外へ連れて行かれても確認する手段さえあればそこが何処なのか知ることができる。
その手段がなくなってしまっては、場所を調べることも知ることもできなくなってしまった。
その結論に辿り着いた裕紀は、立ち眩みを感じて額に手を押さえ付けた。力無く吊り上げられた口から自分の乾いた笑い声が聞こえた。
「ほんと、ここどこだよ」
呟かれた裕紀の声は、川のせせらぎによって空しく散ってしまった。
枝に隠れているが微かに伺える空は透き通ったような青色。その快晴の青空を隠しているのは黄色や橙、更には赤色に染まった紅葉たち。
涼やかな川のせせらぎといい、お昼寝日和にはぴったりな天候である。
太陽は中天に昇り、全ての生き物を癒してくれる暖かな光を届けてくる。時節吹いてくるやや冷え気味の通り風と太陽光が合わさり、気を抜くと睡魔に意識の所有権を取られてしまいそうだ。
いや、ここは現実逃避気味に昼寝をしてもいいかもしれない。
呑気にそんなことを思いながら、裕紀は河原の砂利に座りながら必死に眠気と戦っていた。
つい数分前に意識を取り戻した彼は、転送された地点の詳細が全く判らない状況に陥ってしまった。
だが、焦っても仕方がないと焦る気持ちを落ち着かせるために、こうして砂利の上に腰を下ろしているのだ。
座ってみると思っていた以上に心が落ち着き、入れ替わりに今日一日の疲労によるためか睡魔が襲い始めていた。
きっと、普通の何ら変哲のない人生を送ってきた人間なら何かしらの対策を考えるだろう状況で、裕紀はのんびりと日光を浴び続けている。
こんなにも突発的な出来事に裕紀が冷静でいられるのは、小学校高学年から高校一年に至るまで研究の傍ら親代わりとして必死に育ててきてくれた知り合いのおかげだろう。
主だった発想が周囲の人とは少し外れた人だったので、恐らくはその考えに慣れて無意識にもこの状況に対応できていられるのだ。もし知り合いの研究者の世話にならなかったとすれば、今頃この状況にあたふたしているに違いない。
まあ、だからと言ってさすがにこの状況に焦りを感じないこともない。
なぜなら、こうなってしまった切っ掛けを作った張本人である柳田彩香の姿が何処にも見当たらないのだ。
転送される直前まで互いの距離はそう離れてはいなかったので、別々の場所に転送されたとしても驚くほど遠くはないはずだ。
しかしながら裕紀の思惑は外れ、試しにこの河原周辺を捜してみたがそれらしい人影は見付けられなかった。
たとえ携帯が使えずとも、せめて二キロ以内の範囲でそれぞれ転送されていれば、まだ捜し出す可能性は残されている。
それは河原以外の怪しい場所をしらみ潰しに捜してみる手段なのだが、場所が特定できない状態では遭難というリスクもついてしまう。見ず知らずの土地で遭難でもしてしまえば、延々と彩香と合流できないどころか裕紀自身が帰る手段を無くしてしまう。
なので、裕紀は可能性をあっさり捨てた。自信が持てない手段をいつまでも考えていたらきりがないと思ったからだ。
結局、裕紀は離れた場所で目を覚ました彩香が探しに来てくれるのを待つしかなくなってしまった。
大人しく川辺に座りながらこの美しい景色を眺めること数分のことだった。退屈で意識が遠くなりかけていた裕紀の意識に草が擦れ合う音が届いた。
退屈すぎる結果か、物体の動く音に敏感になっていた裕紀はすぐにその音源を特定する。
場所は裕紀の真後ろだった。川辺にはほとんど草木はなく砂利だけなので、音源は小さな崖の上に生える茂みからだろう。
素早く後ろを振り向いてみると、崖に沿って長く連なっている茂みの一部が大きく揺れていた。ちょうど風が吹いていないタイミングで動いていることから、何かしらの生物が潜んでいる可能性が高い。
揺れの大きさから大型か中型の生物だろうと判断した裕紀は、視認すると同時に咄嗟に立ち上がった。
なんせここは何処とも知らない山の中だ。しかも川が流れる渓流付近ともなれば凶暴な生物が生息していることも考えられる。最悪、熊やその他の大型獣と出くわしたらなりふり構わず逃げるしかない。
(熊だったら逃げる。よし、そうしよう。……はちみつ持ってないけどな)
などと内心でしょうもないことを考えながらも、視線は茂みに固定したまま裕紀は立っていた位置から一歩二歩と後退して行く。
茂みの揺れが更に大きくなり、比例するように葉の擦れ合う音もいよいよ大きくなっていく。
こめかみから冷や汗が伝い、心臓の鼓動が無意識に早まる。緊張で唇を引き結ぶが呼吸は次第に荒くなる。
後退し過ぎて川へ靴が半分浸るが、緊張しきった裕紀の意識には全く届かなかった。
茂みはそれから数秒揺れ続けると一度止まり、次の瞬間、茂みの中に身を潜めていた生物が姿を露わにした。
「っ!」
飛び出した生物に鋭く息を呑んだ裕紀は、瞬時に体を強張らせた。もしも本当に茂みに潜んでいた相手が凶暴な獣ならば、この時点で裕紀は襲われていただろうがそうはならなかった。
裕紀が瞬時に捉えた影は、大型の獣のそれより小さく細い。と言うよりも、小動物などを震え上がらせる獣の咆哮も、独特の威圧感を放つ重々しさも全然感じられない。
そのことが不思議に思った裕紀は、半分以上閉じていた瞼を持ち上げ茂みへ視線を動かした。
視界に入った身体は細く、身長も裕紀よりは高くない。頭には二つの小さな突起が時節ふよふよ動き、さらさらした長髪を下ろしている。猫耳というおかしなイメージが脳内に広がったがすぐにそれを振り払う。
ここが現実であるなら、物語などに出てきそうな空想の種族が存在するはずがないのだ。
必死に自分を説得している間にも、茂みに立っている影からは威圧感も恐怖感もなにも放たれはしない。むしろ、どこか懐かしい雰囲気とずっしりとした安堵感を裕紀にもたらした。
日光が遮られているため外見だけを観察していた裕紀をよそに、茂みから半身を出していた何者かが動き出した。
段々とこちらに歩いて来る何者かの姿は、遮られていた日光によってはっきりと視認できるようになった。
学校で見慣れた制服と印象的な美しい栗色の長髪の持ち主を認識した裕紀は、水飛沫を立てて川にへたり込んだ。
「まさか……。……君、どうしてここに来れるの?」
この事態の張本人であり裕紀にとって最後の希望だった人物は、安堵と疑惑の混ぜ合わせた表情でそう言った。