それぞれの想い(1)
暗い。寒い。息苦しい。
生きている心地が全くしないというのはこんな感じなのだろうか。
まるで独り深海に沈められてしまったかのような感覚からどうにか逃げようとする裕紀を、闇色の霧が行かせまいと背後から迫って来る。
咄嗟に胸元のペンダントを握ろうとするが、異世界に来てからずっと裕紀を支えてくれたお守りはそこになかった。
自身の身の内から湧き上がる恐怖心を収める手段をなくした裕紀は、闇に捕まらないようにただひたすらに走った。
だが、その両足でさえ距離を走るごとに重くなり、やがて石化してしまったように固まってしまう。
身動きの取れない裕紀に追いついた闇が足元から這い上がるように裕紀の身体を呑み込んでいく。
「俺は力不足だった。でも全力で、あのウェストウルフを助けたかったんだ。村の人達を助けたかった。俺はまだ倒れることはできない。今度は、俺の大切な人を助けるために!」
闇に呑まれまいと、無我夢中でそう叫んだ裕紀の前に、一点の光が灯った。
その光からぽかぽかと、春の日差しのような温もりを感じた裕紀は、辛うじて動く右手を必死に光へと伸ばした。
(そうね、まだ、死ぬわけにはいかないね)
鈴の音のような声が耳元で響くと、裕紀に纏う闇を振り払うように、一点の光は太陽のように強く輝いた。
鉛のように重たい瞼をゆっくりと開ける。
霞んでいた視界が次第に鮮明になり、まず最初に目に入ったものは木製の天井だった。
(知らない天井だ…)
ふと、そう思ったがすぐに訂正する。木製の天井など現実世界には幾らでもある。
ということは、ここは現実世界なのだろうか。という思考を、頭を少しだけ動かした裕紀はまたも訂正した。
視界に映っていたのは戸棚の上に乗せられたサボテンの鉢植えだった。
それだけでは現実世界にもありそうな風景ではあるが、そのサボテンに問題があった。
まず、現実世界におけるサボテンには目も口もついていないし、加えて鉢植えの上でうねうね動いたりしない。
いま、裕紀の視界に映っているサボテンは絶賛活動中らしく、埴輪のような形の身体を左右前後に不定期にうねうねしていた。
(な、なんて名前なんだろう…?)
内心そう思わずにはいられなかったが、ずっと見続けているのもサボテンに対して申し訳ない気分になった裕紀は視線を天井に移して思考を整理した。
まず、ここが現実世界ではなく異世界であることは間違いない。更に言うなら、ベットに寝かされているという状況から魔獣との戦闘で意識を失ってしまったらしい裕紀を誰かが運んでくれたのだ。
寝かされているこの場所が何処なのかは残念ながら見当が付かなかったが、まずラムル村でないことは確かだ。
あの村は、魔獣の襲撃によってほとんどの建物が崩壊状態だった。怪我人も多いだろうし、こうして安心して重傷者を寝かせられる場所を提供できる余裕などないだろう。
次にラムル村のアベルの家を想像したが、彼の家にサボテンなんてなかったはずだと思い可能性を捨てた。
残念ながら、この施設がどのような場所なのか裕紀に与えられた情報では少なく皆目見当がつかないままだった。
自分の知らない場所で寝かされているということを意識すると妙に落ち着かない。
無意識のうちに胸元に手を探らせ、目的のものを見つけた裕紀はふぅっ、と息を吐いた。
先ほど視た悪夢ではペンダントはなかったが、現実ではちゃんと裕紀を見守ってくれていたらしい首飾りの存在にほっとした。
「おはようございます、アラタ。よく眠れましたか?」
「うおぇ!?」
しかし、ほっとするのも束の間。隣からいきなりそんな声が届き、質問の返答より先に驚き声が口を吐いて出てしまった。
「ぐはっ」
驚きのあまり上半身をベットから起こした裕紀は、瞬時に走った激痛に顔を歪めてベットに倒れ込んでしまう。
仕方ないので視線だけ隣へ向けると、小柄な少女が小さな椅子に腰を掛けていた。
ダークブラウンのローブを全身に羽織った銀髪の少女は、出会ったときは目深に被っていたフードをいまは頭から取っている。
つぶらな灰色の瞳が、ベットの上で横たわる裕紀の黒い瞳と合った。
「マーリン?」
魔法使いとして契約を交わした初めての相手の名を呟くと、灰色の瞳をぱちりと瞬きさせて魔女は頷いた。
「ええ。良かった、ちゃんと戻って来れたんですね」
そう言ったマーリンは本気で裕紀の身を案じてくれていたのか、安堵するように肩を撫で下ろした。
そんなマーリンの背後には半開きになった窓があり、僅かな隙間からやや暗くなった外が伺えた。
裕紀がラムル村に向かった時はまだ明るかったので、意識を失ってからかなりの時間が経過している。
「さっき、嫌な夢を視たんだ。とても暗い場所で、闇に呑まれてしまう、そんな夢を」
いろいろ聞いておきたいことはあったが、それらの疑問を押し通してまず先に口から出たのは、そんなことだった。
「でも、最後に光が俺を助けてくれた。あの光がなかったら、俺は闇に呑まれてしまっていたと思う」
正直、悪夢の内容などどうでもいいようなものだが、最後に闇に呑まれかけた裕紀を助けてくれた光がマーリンのように思え、もしそうならちゃんと礼を言いたかったのだ。
天井を視ながらそう言った裕紀にマーリンから小さな笑い声が聞こえた。
ちらっと視線だけを隣に移すと、マーリンは幼さを残した面影のまま優しい口調で言った。
「そうですね、正直、危ない状態ではありました。一分くらい、呼吸が止まってましたし」
「ま、まじか。じゃあ、あれは三途の川? 走馬燈?」
心肺停止などと生命の危機にまで至ったことは一度もなかった裕紀は、安心しているにも関わらず背中には冷や汗が止まらなかった。
それにしても、あれが三途の川なら綺麗なお花畑も小川も先祖の方々も伺えなかったわけだが、やはり噂は噂ということだろう。
そんなことを思っていた裕紀の傍らで、どういうわけかマーリンがふっくらとした頬を膨らませて言った。
「まったく、求めていた力を手にしたからといって無茶をし過ぎです。死にかけるほど生命力を使うとは、あの小柄な少年を含めて大馬鹿野郎ですよ」
そんなマーリン大先生のお説教には、いかに重症患者の裕紀もベットの上で肩を縮まらせるしかない。
肩を縮めながらも、マーリンのフレーズからアベルも無事でいてくれていることを察して再び安堵する。
恐らく裕紀よりも重傷だろうアベルも、今頃はリーナにこってり説教をされていることだろう。
「それにしても、生命力枯渇による瀕死者の蘇生手段をすぐに思い付き、そのための素材も携帯しているとは、金髪の少女には関心です」
(金髪の少女…、リーナのことかな?)
だとすればさすがは村一番の秀才、かなりの長生きだろう魔女に褒められていることに裕紀も素直に感心する。
しっかり者のリーナの顔を脳裏に浮かべていた裕紀は、今回よりは大分軽度だが似たような展開を目撃していたことも思い出した。
あれは確か四日前のことだ。
現実世界で新八王子駅のすぐ近くで経営している喫茶店で、アークエンジェルのリーダーである飛鳥から、同じコミュニティメンバーの月夜玲奈を紹介された時のことだ。
自身の身体にそぐわない無茶な魔法で玲奈を呼び出した飛鳥が、生命力を枯渇させ半ば瀕死の状態に陥ったことがあった。
自業自得とはいえ窮地に陥ってしまった飛鳥を、玲奈はナナの種と呼ばれる異世界の植物を混入させた飲み物を彼女に飲ませることで飛鳥を助けた。
ナナの種は、それを摂取した者の生命力を回復させる効果があるらしく、生命力枯渇で死人のような顔をしていた飛鳥が、ものの数分で体調を回復させたところを間近で目撃している。
ただ、妙薬口に苦し、ということわざがあるように、ブラックコーヒを無糖で飲める飛鳥でも子供の用に呑むことを拒否するほどの苦さであるらしい。
自分もそんな苦みのあるものを飲まされたことを自覚すると、何故だか無性に甘いものを口に含みたくなった。
感じるはずのない苦みに苦渋の表情を露わにした裕紀に、マーリンが呆れ半分、関心半分の声音で言った。
「瀕死になるまで生命力を使い果たしたことは褒められたことではありませんけど、初の魔獣との戦いで無事でいたことだけは褒めてあげます。聖具の力もあれだけ自在に操れていれば問題はないでしょう」
「そっか。マーリンがそう言うなら、少し安心だよ」
「べ、べつに褒めてないので。操れたといっても、聖具の力だってまだほんの少し程度。聖騎士になったからには、完璧に扱い方をマスターしなければ、世界を闇から救うなど到底できません」
(さっき褒めてあげるって言ったのに…)
数秒前の自身の発言を否定したマーリンにそう内心で文句をつけるも、いまの裕紀の力が聖具の半分の力も出せていないことを知り、少々気分を落ち込ませてしまう。
マーリンと一緒にこの世界を闇から救い、かつ裕紀自身の大切な人たちを助けると誓ったばかりだが、たった一度の戦闘で瀕死の状態を繰り返すような実力では、何の誓いも果たすことはできない。
「これから、俺はどうすればいいんだ? どうやったら、強くなれる?」
そんな焦燥が裕紀の口からそんな言葉を紡がせた。
その言葉を聞いたマーリンは、灰色の大きな瞳を閉じると、ゆっくりと言った。
「アラタは魔法の知識も、技術も、まだ素人です。やるべきことはたくさんあります。ですが、まず一番に考えることをアラタはしていない」
「一番に考えること?」
言われ思考を働かそうとするが、マーリンの言う通りまだ魔法に疎い裕紀に考えらえることなど少ない。
そんな裕紀の額に、マーリンの細くしなやかな人差し指が触れた。
いきなりの行動に、まともに働かない思考が完全停止する。
「えっと、マーリン?」
彼女の意図が判らずただ苦笑を浮かべるしかない裕紀に、椅子から小柄な身体を立ち上がらせた魔女は静かな声で言った。
「誰かのために頑張ることを否定はしませんが、それより先に自分自身の状態を認識してください。魔獣から村を守ったあなたの身体は満身創痍。アースガルズに戻っても、全力で戦うことはできないでしょう。ここで身体を休めることが、最善案です」
諭すように言われたマーリンの言葉を聞き、裕紀は自分を見失いかけていたことを思い知らされた。
大切な人を救うために強くなることを望み、ここ数日間裕紀は己の身体に鞭を打ち続けていた。
アークエンジェルのメンバーやアベルたちの助力を借りて、裕紀はこうしてマーリンと出会い戦うための力を得ることができた。事実、その力のおかげでラムル村を襲う魔獣を倒すこともできたのだ。
本来だったら、そこで一度裕紀は心身共に休んでも良かったのだ。
だが、マーリンに諭されなければ、裕紀は満身創痍な現状で、現実世界で待つ敵と相対することになっていたかもしれない。
現実世界で待つ魔法使いは裕紀よりも格が上だ。しかも、他の魔法使いとは異なり、彼は人を殺すことに躊躇がない。
そんな相手にボロボロの状態で挑んでも勝機などあるはずがないのだ。
裕紀がやろうとしていることは、ただの無謀な特攻。この状況において何のメリットもない、ただの愚策だ。
マーリンは裕紀が自分を見失っていることに気付き、忠告してくれたのだ。
けど、そんな彼女の心配は嬉しいが、それでも裕紀は現実世界に戻る必要があった。
「ごめん、マーリン。君の心配はうれしい。でも、俺は行かなきゃ。柳田さんを、大切な人を必ず助ける。それは俺が、自分自身に誓ったことだから」
これだけは譲れないという覚悟の光を瞳に宿して言う裕紀の額から指を離したマーリンは、幼さなさの残った顔を百パーセント呆れた表情に変えた。
「そう言われると思っていましたけどねぇ。まあ、あなたはわたしの契約者でその逆も然りですから、無理に止めることはしません」
「いろいろありがとう、マーリン。俺はいい魔女と契約したよ」
魔女という響きからマーリンにどこか賢者のような印象を抱いていた裕紀は、案外優しい魔女に微笑みと共にそう言う。
礼を言われたマーリンは白い頬を紅潮させると、細い腕を組んで気恥ずかしそうに言った。
「ですけど、全力を出せないことは覚悟してください。出せても五割が限界です。それ以上は本当に危険ですからね」
「わかったよ。忠告、ありがとう」
何だか世話焼きな妹を持った気分になってしまった裕紀は、素直な気持ちで二度目のお礼を言う。
「・・・どういたしまして・・・」
優しく微笑んでそう言った裕紀に、マーリンは目線を逸らしながらもじもじと返答するのであった。
裕紀に与えられた戦闘可能な残りの生命力はおよそ五割。全力の半分程度だが、マーリン曰く現時点の状態では全力の三割も出せない状態らしい。
それをどうやって五割まで底上げするのか、聞いてみたところ答えは単純だった。
曰く、
「ナナの種をあと二錠分は摂取しないとダメですね。アラタの生命力保有量が多いせいもあって、半分まで回復させるにはそこまでの摂取が必要になるのです」
だだし、多量摂取は逆効果になるらしい関係上、残り二錠が限度。あとは自然回復に任せるしかないらしい。
まあ、どの世界も薬物の摂り過ぎは身体に良くないことに変わりはないらしい。
そう思うと同時に、あと二錠分は壮絶な苦みと戦わなければならないということに、裕紀は心底ウンザリしてしまい、
「うへぇ~」
という嫌々しい溜息を零してしまった。
「そう言えば、ラムル村に現れたあの魔獣はどこから現れたんだ?」
ナナの種を水と一緒に飲み下し、身体を休める前にあの時の戦闘を思い返していた裕紀は思案顔でマーリンに聞いた。
アベルの話では村の周りには魔獣や獣除けの結界が所狭しと展開されている。
あの魔獣がラムル村を襲撃できたということは、ラムル村に展開されていた結界にトラブルが起こったということになる。
そんな疑問をマーリンに話すと、彼女はやや顔を顰めて答えた。
「あくまで推測なのですが、恐らく何者かに村の結界を破壊されたのでしょう。術者に気づかれることなく魔法を解除するとは、なかなか腕の立つ魔法使いに違いありません」
「犯人が魔法使いだとして、狙いは? ラムル村は港町からも近いし、資源の取引も盛んに行われている。あの村を壊滅させて、得になることなんか」
主犯の狙いが判らず唸った裕紀に、マーリンは妙に静かな声で言った。
「結界を破壊した魔法使いが、この世界の魔法使いであると確信しているわけではないですよ。もしかしたら、アースガルズの魔法使いという可能性もあるでしょう」
マーリンの呟きを聞き、唸っていた裕紀も心当たりがあることに気がつく。
彼女は契約の際、裕紀の生命情報を共有している。裕紀も僅かだがマーリンの生命情報を共有しているので、共有という言葉が記憶と同じ意味合いなことも知っている。
つまりマーリンは、裕紀の記憶を垣間見ることで得られる情報によって、既に今回の魔獣襲撃事件の主犯に目星をつけている。
そうと気づいた裕紀も、震える声でマーリンの言わんとしている人物のことを呟いた。
「ヤムル村にいたあの二人の外国人。まさか、あの二人がやったのか!?」
注意しなければ感じられないほど些細ではあるが、怒りが込められた呟き声にマーリンは頷き肯定した。
「その可能性は高いですね。あの二人はヤムル村へとある資源を要求し、確実にそれを手に入れるために無理矢理に村人と契約を結ばせた」
「だが、昨日その契約を守れずにアベルたちは資源を渡せなかった。まさか、その腹いせに資源の入手ルートであるラムル村を壊滅させたのか!?」
自身の言葉を引き継いで言った裕紀の推測に、マーリンは無言で頷いた。
(許せないっ!)
魔獣の襲撃がただの偶然だったなら、いや、仮に仕組まれたことであっても村の結界を異世界人の何者かが破壊したのであればまだ仕方のないことだと割り切れる。意図的に今回の事件を引き起こした何者かの、村の人々の命をどうとも思わない残虐な心に怒りを抱くだけで良かった。
だが、その何者かがこの世界の人間ではなく、裕紀たちの住む現実世界側の魔歩使いであったというなら、怒り以外の余計な感情をも抱かずにはいられなかった。
人の命を奪う権利など誰にもない。ましてや、違う世界に住まう何百人もの人間の命を、ただの腹いせで奪うことなどあってはならないことだ。
現実世界側の人間として、その事実を知った裕紀の心は酷く荒れていた。
多くの人々をまるで子供のような動機で不幸にした二人への憤怒。
そんな人間が自分の住む世界に存在しているのだという哀しみ。
そして、事件を引き起こした者と同じ世界に暮らしていた裕紀にしか抱けない、アベルや魔獣と戦った大勢の魔法使いへの罪悪感が、裕紀の胸を掻き毟るように暴れまわっていた。
胸の痛みに耐えるよう、小刻みに震える身体を両腕で抑え込む裕紀の背中を、小さなマーリンの手が落ち着かせるように撫でた。
銀髪の魔女に優しく撫でられ、震えていた裕紀の身体も少しずつ落ち着きを取り戻した。
「優しいのですね、アラタは。このような状況に立たされれば、同族である者なら無関係を装い、現実から逃げる気もしたのですけど。それどころか、あなたは自分の立場をしっかりと認識している。アース族がこの世界に来訪してからというもの、アラタみたいな者は本当に珍しいですね」
マーリンの気遣った声に、裕紀は今にでも泣き出しそうな乾いた声で言った。
「この世界も現実世界も、人の命に変わりはないんだ。だったら、こんな些細な動機で命を奪われたラムル村の人達のためにも、俺はこの現実から目を逸らしちゃだめだ。いつか、必ずあいつらに罪を償わせる。それが、アース族の俺にできる唯一のことなんだ」
涙を堪え、前を向いてそう言った裕紀に、マーリンは静かに微笑むと言った。
「ではまず、アースガルズにおけるアラタの使命を果たさねばなりませんね」
当たり前なことを言われ、裕紀は強く頷いた。
二錠分のナナの種を摂取し終えた裕紀は、その後に起こった出来事のせいで生命力が回復しているにも関わらず、気分的には今にでもベットに潜り込みたい気分だった。
今回の魔獣襲撃事件の主犯である外国人の魔法使いは必ず捕まえる。
だが、マーリンの言う通り、裕紀には果たすべき決着があった。
そのためにも、今は少しでも体力を回復させることが最優先事項であった。
起こしていた身体をベットに寝かそうとした裕紀だったが、その前に起こった身体の変化に戸惑いの声を上げた。
「マーリン、なんか、俺の身体透けてないか?」
言ってから何を馬鹿なことをと思いつつも、自分の掌をまじまじと眺めると、肌色の掌の向こうに薄っすらと羽毛の掛け布団が視える。
実は二錠で多量摂取だったのではと、疑いの目でマーリンを見てみるが、彼女は何かを考えるように真剣な眼差しで裕紀の手を見つめている。
やがて、裕紀の身に起きた異常が掌から腕にまで進んできた頃に、マーリンが小さな口を動かした。
「アラタと契約を交わしたとき、ほんの微かに別の生命力を感じました。本来ならあり得ないことなのですが…」
「別の人?」
「わたしに会う前、誰かに魔法をかけられませんでしたか? もしくは、誰かの協力を得て魔法を発動させませんでしたか?」
そう問うてくるマーリンから視線を外した裕紀はしばし記憶を辿った。
この世界に来てから誰かに魔法をかけられたことはない。もちろん、誰かと協力して魔法を発動させたことも記憶にない。
なぜなら、この世界に来て裕紀が使った魔法は二種類のみで、その魔法はどれも自身の力で発動させているからだ。
ならば現実世界において発動させた魔法だろうと思い、更に深く記憶を辿り、裕紀は思い出した。
それは、裕紀がこの世界に存在できる最大の条件と言っても過言ではないことだった。
そして、辿り着いた一つの出来事に瞳を広げる。
「俺は、俺自身の力でこの世界に来たわけじゃないんだ。とある魔女の力を借りて、ゲートを発動させた。彼女の魔力で俺はこの世界にいることができていて、その魔力が尽きたら、強制的に現実世界へ戻されるんだ」
アークエンジェル本部でエレインと名乗った桜色の長髪が印象的な魔女の言葉を思い出し、そのままマーリンに言う。
「とある、魔女、ですか・・・」
裕紀の言葉を聞き、マーリンは再び黙考してしまったが、裕紀はもうこの身体異常の原因が判っていた。
つまるところ、ゲートを開いたエレインの魔力が尽きかけているのだ。
彼女の魔力が完全に尽きれば、エレインの魔力でこの世界に繋がれていた裕紀は、世界に留まる術をなくして現実世界へ強制的に帰還させられる。
迷いの森に住まう魔女と契約し力を得るという当初の目的は果たせたので、もうタイムリミットを気にする必要はない。
だが、共に戦ったアベルやユイン、リーナに別れもなしに消えてしまうというのは寂しかった。
しかし、リーナは裕紀と同じくらいかそれ以上の重傷を負っているだろうアベルの看病に忙しいはずだ。ユインもそれなりの傷を負っているはずで、この部屋に来る余裕はないだろう。
そこでさらに急な事態を起こさせて、彼女たちに更なる負担を掛けるわけにはいかなかった。
「マーリン、一つだけ頼みを聞いて欲しい」
「…頼み、ですか?」
黙って考え込んでいたマーリンに心の中で謝りながら、裕紀はベットの近くに置いてあった羊皮紙とペンを手に取った。
この世界の言葉は現実世界のそれとほとんど同じだが、文字がその通りとは限らない。
どうか同じでありますようにと、殴り書きだが日本語で羊皮紙に文章を書いた裕紀は、一枚の羊皮紙をマーリンに手渡した。
手渡されたマーリンは最初は不思議そうに文面を視ていたが、すぐに灰色の瞳が文章を追うように横へ動いた。
数秒程度で読める文章だが、やはり文字の違いか三十秒ほどの時間を掛けて読み切ったマーリンは、生命力操作で離れた場所にあるペンと羊皮紙一枚を手元に引き寄せた。
「わたしは契約によって生命情報を共有しているのでどうにか読めましたが、他の人はニホンゴを読めません。アラタには魔法以外にも、異世界の文字の勉強も必要なようですね」
「あはは、そこはもう、頑張るよ」
勉強は得意ではない裕紀だったが、マーリンに指摘されて苦笑した。
裕紀の苦笑から目を離したマーリンは、テーブルに羊皮紙を置くと、裕紀が手渡した羊皮紙の文章の模写を始めた。
その傍らで徐々に意識が薄くなっていくのを感じていた裕紀は、もう明らかに半透明に視える身体をベットに寝かせた。
胸元のペンダントを握り、瞼を瞑ると裕紀は大きく深呼吸した。
「アラタ、必ず勝ちなさい。あなたが守ると誓った者たちのためにも、この世界で関わった多くの人々のためにも」
意識が光に吸い込まれていくような感覚のなか、模写を終えたマーリンの声が頭に響き、裕紀は瞼を閉じながら口元だけ綻ばせた。
「必ずまたこの世界に来るよ。今度は俺の力でね」
「ふふっ、それは、期待しちゃいますよ」
マーリンの笑い声を最後に、裕紀の意識は光に呑まれた。
ベットに横たわっていた裕紀の姿は、光の粒子となって消滅していた。
新田裕紀が異世界マイソロジアから消滅するより、少し前のこと。
ヤムル村に建てられた小規模な医療施設の一室で、一人の少女の怒鳴り声が轟いていた。
「何考えてんのよ!? あんたが死んだりしたら、どれだけの人が悲しむと思ってんの!? いつもいつも、後先考えずに無茶ばっかりして、心配するこっちの身にもなってよ!」
目を覚ましたアベルのベットに片膝を乗せ、ぐいっと顔を近づけたリーナは、戦闘後からずっと胸に溜め込んでいたありとあらゆる感情を一思いに爆発させていた。
「いでででっ、ちょ、リーナ。痛いから、更に骨おれるぅ」
「リ、リーナ。それ以上は兄さんの怪我に響くって」
隣でユインの制止の声が聞こえた気がするが構わずに続ける。
アベルが覚醒してから医者の説明を受け、肋骨と右腕、そして左足の骨が折れていることを知らされたアベルからも弱々しい声が届くがそんなものは更に知ったことではない。
彼が生命力枯渇による瀕死の状態から、正常の状態まで回復するまでに、リーナはいろんな感情と向き合わなければならなかったのだ。本当なら医者の説明など省いてこの想いを爆発させたかった。
しかしちゃんと診察は受けなければならないので、診察を終えた医者が立ち去ってからは、もうリーナの自制心などとっくに効力を失い、気が付いたらベットに伸し掛かり重傷者の胸倉を握っていた。
「もっと自分の命を大切にしてよ! 私なんかを守るくらいなら、あんただけでも逃げればよかったのよ! こんな怪我をしてまで、死にかけてまで、自分を粗末にしないでっ!!」
無意識にぼろぼろと涙を流しながら、リーナはアベルの胸倉を何度も何度も引っ張った。
アベルにも、彼なりの覚悟があり、その覚悟に従ってリーナと少女を庇ったことは分かる。
だが、ここまでボロボロになってまでリーナはアベルに守られたくはなかった。傷だらけになっても敵と戦い続けるアベルの背中を見ることが、リーナにとっては苦しかったのだ。
そんなリーナの気持ちを、アベルも判っていたのかもしれない。
しかし、リーナより少し背の低い幼馴染は彼女の小さな肩を左手で優しく押した。
「すまね。今回のことは俺も反省してる。これからは、こんな無茶をしないくらい強くなれるように、もっともっと修練をするよ」
「…ほんと?」
「ああ、」
「ほんとにほんと?」
「あ、ああ」
「ほんとにほんとにほんとだよね?」
「あ、ああ、剣に誓う。だから、リーナ、」
今回ばかりは念を押しまくらなければ気が済まなかったリーナは、ようやくアベルの様子がおかしいことに気付き涙に濡れた瞳を擦った。
「…ん?」
小首を傾げたリーナに、アベルは引き攣った笑みを浮かべて言った。
「そろそろ、離してくれ。今度はあばらが折れそうかも…」
激痛と疲労で顔色を真っ青にしたアベルの声を聞いて、リーナは自分の行いが少々やり過ぎてしまっていることに気が付いた。
「ご、ごめん」
もっとたくさん言ってやりたいことはあったが、これ以上はアベルの身も持たないだろうからここまでにしておく。
ベットから降りて椅子に腰かけたリーナと、ベットに横たわったアベルの間に気まずい空気が漂い始めたとき。
ガチャっと、アベルの寝室のドアがゆっくりと開かれた。
恐る恐るというようにドアが開かれると、そこに立っていたのは、茶色のショートボブの可愛らしい女の子だった。
名前をフィリアという少女は、ラムル村でリーナとアベルが決死の覚悟で魔獣から庇った少女だ。
アラタが魔獣を討伐した後、リーナと救援隊の冒険者によって無事に少女の家族を見つけることができたのだ。
村は魔獣の襲撃によってほとんどの建物が炎上してしまい、フィリアの家族の家も焼かれてしまった。
帰る場所を失くしてしまった家族をヤムダが放任しておくはずもなく、こうして新しい住居が見つかるまでヤムル村で宿泊してもらっているのだ。
幸い、フィリアも両親も外傷は大したことはなく、ぷっくらした頬に応急手当用の綿を貼った少女は、片手に何かを握りながらとてとてとリーナの下へ走って来る。
「さっき廊下にいた人がお姉ちゃんに渡してって」
そう言って差し出されたものは、一枚の羊皮紙を半分に折ったものだった。
「うん、ありがとう?」
そう言って少女の頭をひと撫でしてから、差し出された右手から紙を受け取る。
どうやらリーナに懐いてしまったらしいフィリアは、ふへへ、と緩んだ笑みを浮かべるとそのままリーナの膝の上に飛び乗ってきた。
「そいつ、完全に懐いたな」
「別にそんなんじゃないわよ」
ベットの上で茶化してくるアベルに対して頬を赤くしながら言い返し、リーナは手渡された紙を開いた。
羊皮紙には、簡単な文章が書かれていた。
『アベル、リーナ、ユイン。
君たちのお陰で迷いの森に住まう魔女と契約することができた。
もっといろんなことを話したかったけど、俺はもうアースガルズに帰らないとならない。
だから、いつか必ずまたこの世界に来るから。
その時に、またいろんな話をしよう』
その文面を読んだ瞬間、リーナの視界が歪んだ。
頬に一筋の涙が零れ落ち、それは止めどなくリーナの瞳から頬を伝って零れ落ちた。
フィリアの頭にも雫が零れ、リーナを振り仰だフィリアの不思議そうな表情が歪んだ視界に映った。
「お姉ちゃん?」
「大丈夫、大丈夫だよ。あなたを、いいえ、私たちを助けてくれた魔法使いはきっと、またこの世界に来てくれるわ」
いきなり泣き出して幼い少女を不安にさせるのは良くないと、リーナは涙を流しながらも微笑みを浮かべた。
リーナの言葉でアベルとユインも察したのであろう。
一瞬だけ寂しそうな表情を一様に浮かべるが、すぐに強気な笑みで上塗りしてリーナに言った。
「アラタさんのことだから、きっとまた会いに来てくれるよ。僕たちとは違って、アース族の人達は異世界に自由に来ることができるんだから」
優しい笑みを浮かべてそう言う弟に続き、アベルも呆れたような笑みを浮かべて言った。
「あいつのことだしな。今回みたく、案外早く出会えるかもしれねえぞ」
「お姉ちゃん! 泣いてたら幸せ逃げちゃうって、ママ言ってたよ」
終いには膝の上に座っていたフィリアにまでそう言われたリーナは、涙を拭いて笑顔を咲かせた。
アラタとしっかりお別れができなかったことを寂しいと思っているのは、アベルもユインも同じはずだ。
ならば、ここでいつまでも涙を流すのは、リーナたちの無事を信じてアーズガルズへ帰って行ったアラタにも失礼だ。
「うん、…そうだね。信じなくちゃね。いつかきっと、また出会えることを」
そう言いながら、リーナは心の中でアース族の少年に「ありがとう」と一言礼を言うのであった。
一応、この手紙に書いてあることが事実であるかを確かめるためにユインが部屋へ赴いたところ、ベットにアラタの姿はなかったらしい。
「しっかし、だったらこの手紙をこいつに渡した女の人って誰だ?」
ベットに横たわっていたアベルは、リーナの膝の上でリラックスしているフィリアを眺めながら疑問を呟いた。
「確かに、アラタ君と縁のある人なんて私たち以外にはいないものね」
リーナたちのいる寝室とアラタが眠っている寝室は別の部屋となっており、ときどきリーナが様子を伺いに来ること以外では部屋の使用者はアラタ一人のはずだ。
そのはずなのだが、女の人はこの寝室へ遊びに来る前のフィリアに、この手紙を渡したのだ。
リーナが様子を伺った時も寝室にはアラタ一人だけだったはずで、その部屋に第三者が居たことは考えずらい。
何か特殊な魔法なり、魔法道具を扱われていたのなら、その可能性は大きいが。
「ね、もしかして、魔女だったりするのかな?」
「へ?」
ぽそりと呟いたリーナの発言にアベルは呆気に取られたような声を上げたが、ユインはその発言に肯定を示した。
「その可能性は高いかもしれないね。あの後、アラタは魔女と無事に契約して、僕たちを助けに来てくれた。アラタと魔女があの部屋に一緒にいたと考えると、動けないアラタからの伝言を魔女が手紙に書いてフィリアに渡したというのなら、少し納得できる」
「じ、じゃあ、このガキは、偶然にも魔女を視たってことか?」
ラムル村に長きに伝わる伝承で登場する泉の女神、もとい魔女の姿は、ラムル村の出身である三人ですら見たことがない。
それどころか、三人の両親も、そのまた両親も、村の人達全員が(もしかしたらヤムダなら知っているかもしれないが)その外見を知らないのだ。
つまり、伝承と騒いでいるが、現状誰一人として魔女を肉眼で見たことがないのだ。
魔女の姿を見た者が現れたというなら、それは村中が大騒ぎになること間違いなしだ。
そんな希少過ぎる体験を小さな少女が経験したということに、齢十六歳の男子二人と女子一人は空いた口が塞がらなかった。
三人から送られる驚愕と嫉妬の視線を小さな身体に受けた少女は、そんなことをまったく気にもしないしていないと言わんばかりに、にぱっと可愛らしい笑みを浮かべるのであった。
ようやくお盆休み!
貴重な連休なんで何をしようか悩みますね…




