光の騎士(1)
マーリンと契約をしたことで裕紀の身体には幾つかの変化がもたらされていた。
少なくとも本人が判っている変化は現時点で一つだけ。
それは、たった少しの集中で操作できる生命力量が劇的に増幅したことだ。
マーリンと契約を交わす以前の裕紀だったら一息で二十五メートルをダッシュできるのがやっとだったが、現時点では感覚的に百メートルは跳ぶことができている。
本来ならば時間を掛けて扱える量を増やしていくはずの生命力を、どういう理屈でその上限が解放されたのかは不明だったが、現時点でやるべきことはすぐに思い浮かんだ。
「くぅ、おお・・・っ」
秒速百メートル以上の世界を肉体で体感したことのなかった裕紀は、顔面に押しかかる圧力に呼吸困難になりかけたので、一度急ブレーキをかけることで呼吸を落ち着かせようと試みた。
右足の裏を柔らかい地面に押し付けて勢いを殺そうとするが、かなりの速度で跳んだせいかなかなか減速してくれない。
「うおおおおッ」
やがて、柱から伺えた草原の境界線が肉眼で視認できる距離まで急接近してしまったので、本気で足腰に意識を集中させる。今までにないくらいの黄金の輝きが右足に纏い、靴底を地面に突き立てると地雷でも踏んだかのような轟音に続いて地鳴りと土煙が上がった。
予想を遥かに上回る効果が発揮され、秒速百メートルで跳んでいた裕紀の身体はその速度を明らかに落としていた。
(よしっ、このまま減速すれば境界線ぎりぎりで停止できる!!)
舞い上がった土煙から姿を現した裕紀は、内心でそう安堵の呟きを零すが、しかし安心するにはまだ早すぎた。
勢いを殺すために力強く踏ん張った右足が柔らかな地面に深くめり込んでしまったことで、それによって作り出された窪みに裕紀自身の脚が引っ掛かってしまったのだ。
こんな常人離れしたことなどまったく経験のなかった裕紀は、減速ばかりに気を取られてしまい他のことに意識を集中させている余裕がなかったのだ。
「やばぇッ!?」
よって、奇声を放ちながら地面から空中へ思いっきり身体を放り投げられた裕紀は、やはり今まで一度も体験したことのない高さ(十メートルくらいだが)にまで到達すると、放物線を描くようにそのまま自由落下していく。
「―――――――ッ!」
飛鳥から体術の指導を受けていたおかげか、このような状況に対していち早く対応できる癖がついていたことが幸いとなったのか。
叫び声を上げる暇もなかった裕紀の脳は、パニックに陥るよりも早く次に取るべき行動を考えていた。
地上から高さ十メートルまでの位置に放り出されたこの勢いでは、このまま何もしなければ確実に草原の境界を越えた位置に落下するだろう。倒れた柱からでもその先が見通せなかったので、境界よりも先が崖なのか土の地面なのか把握ができない。
最悪の事態を避けるために着地前に地形の把握だけでもしておこうと、背中越しに下を伺った裕紀の視界に映ったのは。
辺り一面が真っ白な地面だった。
否、地面ではない。質感よりも蒸気の塊のようなものの正体は、雲だ。真横を伺うと眩いほどの光を放つ太陽と、どこまでも続く濃い群青が広がっていた。
そうと認識した裕紀の脳裏に、つい先刻マーリンが口にしていた言葉が蘇る。
『どうやらこの近くの地上で魔獣が暴れているようですね』
今にして思えば、すでに立っているだろう地面のことを地上と言い換えるのはおかしな話だったのだ。
闇の魔力の影響で集中力が欠けていたにせよ、マーリンの言動の違和感に気付けなかったのは裕紀の失態だ。
ただ、これだけははっきり言える。
空中に浮かぶ島が本当に実在しているなんて、ノンフィクション満載の現実世界で育った裕紀が本気で信じるはずがないのだ。
そんなことを内心で言い放ちながらも、背中から白の絨毯へ自由落下する裕紀は、本能的に右腕を動かして草原の柔らかな地面に手を伸ばした。
しかし、指先が細い雑草の先に触れるだけで、裕紀の右手は空を切った。
「うわあああぁぁぁぁっ!」
遊園地の絶叫マシンを遥かに上回る、パラシュートなしのスカイダイビングを強制された裕紀は、今度こそ命の危険を感じながら高らかな絶叫を引きながら落ちて行く。
仰向けの体勢から俯せに移行して落下する裕紀は、身体を強烈な風に吹き煽られながら小柄な魔女へ怒鳴り気味に問い掛けた。
「まままままマーリン!? なん! なん、だ、これッは!?」
思念ではなく肉声だったが、そんな余裕などあるはずもない。
肉声でも裕紀の声はマーリンに届く仕組みになっているのか、しばらくして裕紀の脳裏に落ち着きのある澄んだ声が届いた。
『そう言えば、わたしがいた場所が何処なのか、言っていませんでしたね』
語尾にてへっ、とでも付け足されていたら完全に裕紀の理性を抑えている線の一本は切れていたかもしれない。
『なんかそっちは面白そうだけど、こっちは全然面白くないんだけど!? というか、これは絶対に死ぬって!!』
高度千メートルは優に超えているだろう上空からそのまま地上へ到達すればどうなるかくらい誰が考えても分かることだ。
だが、そう言うマーリンの声には何が可笑しいのか笑いを堪えているような雰囲気が伝わってくる。
こんな状況であるが故に彼女の態度が少々癪に障った裕紀は、言葉ではなく滑らかに抗議の思念を送る。
『いやぁ、人間は空から落ちたらどんな反応をするのかと、前々から気になってたのです。このような立場なので、無害な人間を拉致して落すなど残酷なことはできませんし。獣人や妖精さんでは試せないので』
『人でも人外でもこんな高所から落とす奴がいるかよ!!!』
と、そんなとんでもない発言をした魔女にそんな突っ込みを入れる。
すると、裕紀の頭に拗ねた口調のマーリンの声が響いた。
『勘違いしないでください。さすがにただの人を落とそうとは思ってません。ちゃんと自身の力で対処できる魔法使いで試そうと、前々から決めていたんですから!』
『いくら魔法使いでもこの高さからの着地だと無事ではいられないのでは!? というか、もう二度とこんなことはしないでください。お願いします!』
見込みなしと言い切られるより、魔法使いとしての素質を認めてもらえたことは素直にうれしいので、そんな懇願を思念で送った。
マーリンもこれ以上無駄な言い合いをしているつもりはないらしく、小さく咳払いをしてから長年の魔女らしい冷静な声が脳に響いた。
『こほん。ではアラタ、聖具を使いなさい。あなたの魔法使いとしての素質、わたしの恩恵であるリミッター解除、そして聖具の力が合わされば、この窮地は必ず乗り越えられます』
ことの発起人であるマーリンにもう一言言ってやりたかったが、ここは気持ちを切り替えて聖具とやらを使おうとした。
しかし、使おうとしてもその先が真っ白であることに思い至った裕紀はすぐにマーリンへ問うた。
『聖具の使い方を俺は知らないんだけど!?』
今更だが、裕紀は自分が与えられた力の使い方をよく知らないのだ。
本来ならその旨でマーリンに教えてもらおうかと思ったのだが、その前に闇の魔力を感知してしまったのだから仕方がないが、こんなことになるなら口頭でも使い方くらい教えてもらえば良かった。
そんな心残りがあったからか、思わず単刀直入にそう言ってしまった裕紀にマーリンは鈴の音の声を届けた。
『聖具は手にした時から使用者の魂と強く結びつけられます。落ち着いて、あなた自身の心に精神を集中させて』
「そんなこと・・・」
・・・言われても、と言い掛けた言葉を裕紀は途中で飲み込んだ。
マーリンの言葉が本当なら、聖具を扱えるかどうかの問題は全て裕紀自身の問題となる。
無理でも不可能でもない。裕紀はいま、この場でやるしかないのだ。ここで聖具を扱えない軟弱な器であるようでは、誰の命も奪わずに戦うことはおろか、これから戦っていくだろう全ての敵から大切な人たちを守ることすらできないはずだ。
目を閉じ、意識を全て己の心に集中させる。高所からの落下の恐怖心を強引に抑え込み、裕紀は全身の力を抜いた。
ごうごうと耳に張り付く風鳴りが遠のき、瞼を閉じた暗闇の中で一つの光が瞬いた。一等星のように強く瞬くその光へ手を伸ばし、掴む。
そのとき、掴んだ拳から緑、橙、赤、紫、青の五つの光が散らばり意識の中の裕紀を取り囲むと、一斉に彼の内部へと集約した。
握り締めた手の中で内包された光が溢れ出し、暗闇だった裕紀の意識を一瞬で白に染め上げた。
純白に塗られた意識のなかで、裕紀は聖具の存在を強く感じた気がした。
瞼を開ける寸前、網膜に黄金の鎧に身を包んだ一人の騎士の姿が映った気がしたが、その姿はすぐに太陽の光に消されてしまった。
意識を現実の身体に戻し再び落下の感覚を感じても、裕紀にはもう先ほどのような恐れはなかった。
マーリンが与えてくれた聖具。そして、今日から自身の相棒となるこの力が傍にいてくれれば恐れるものなど何もない。今はそんな気しかしなかった。
「力を貸してくれ、エクス!」
力強くそう真名を呼応された聖具は、裕紀の声に答えるようにペンダントから光の奔流を放った。
その直後、裕紀の身体は雲の中に突入する。
厚い雲の壁すら輝かせるほどの光に包まれながら雲を抜けた裕紀は、そこで突入前後で自身の衣装が異なっていることに気付いた。
形状は外套の広いロングコートにシャツとズボンという、アークエンジェルの戦闘服そのままだ。
しかし、余すことなく黒で塗られていたはずのロングコートを含める衣服の色調が、所々の金の装飾と眩いほどの純白を基調とした色に変化していたのだ。腰には変わらず魔光剣の重みが伝わってきているが、それ以外の武器の存在を裕紀は感じる。
自分自身の恰好に動揺を隠しきれていなかった裕紀の脳裏にマーリンの声が届いた。
『それが聖具エクスの力です。エクスは使用者と一つになればなるほどその力を発揮しやすくなる。初手で聖装にまで至るとは、さすがのわたしも予想外ですが』
「そうか、これがエクスの力。そして、俺の力でもあるんだ」
思念ではなく声でそう呟いた裕紀は胸元のペンダントを軽く握りしめた。これから、この相棒と共に戦って行くと思うとなぜだかじんわりと何かかが胸に滲んだ。
『感傷に浸っているところ申し訳ないのですが、そろそろ地上が視える頃でしょう。あなたの視力強化で伺ってみなさい』
完全に状況を忘れていた裕紀に冷静な指示を与えたマーリンの言われるままに生命力で視力を強化する。
マーリンとの契約で扱える生命力が大幅に増加したとは言っても、裕紀の眼球自体が強化されたわけではない。失明の危険と隣り合わせであることを忘れずに慎重に眼球へ生命力を流す。
「村が、焼けてる!?」
視界に映った光景を視た裕紀から痛々しい呟きが漏れる。
高さ千キロメートル辺りからズームされた視界が映し出した光景は、幾つもの建物が燃え、何者かによって荒らされた村の惨劇だった。
此処からでは村の大まかな状況しか伺えることができなかったが、暗い橙に輝く地上で動く点は村人たちだろう。彼らは何かに逃げるように様々な方角へ散らばっている。
そんな人々を襲うように蠢く一つの黒い影は、恐らく闇の魔力の発生源。マーリンの言う所の魔獣だろう。
どうやら魔獣は見境なく村の建物や村人たちを襲っているらしい。
そんな魔獣を止めるための勢力も既に村には到着しているようだ。黒い影の周りで花火のように煌く色とりどりの光は魔法による光なのかもしれない。
眼球に負荷をかけ過ぎないように、一度視力強化を解除した裕紀は思念でマーリンに呼び掛けた。
『マーリン! 魔獣が村で暴れているみたいだ。たぶん魔法使いたちも応戦している。俺も早く行かないと』
『闇の魔力の強さはさほど強力ではないようなので力を得たばかりのアラタでも対応できるでしょう。わたしは援護に行くことはできませんが、あなたならきっとやれるはずです。がんばってください』
『ああ、わかった!』
契約主であるマーリンの後押しを貰ったところで、地上に到達するまでできるだけ情報を得るために再び視力を強化させた。
先ほどよりだいぶ地上との距離が縮まったせいか、ズームされた視界では村人の大まかな容姿を確認することができた。ほとんどの包囲を岩に囲まれている特徴的な地形ではないことから、襲われた村がヤムル村ではないと判断し心の隅で胸を撫で下ろす。
魔獣の襲撃を受けた村で戦っている魔法使いは全部で十人程度。村人の避難誘導をしている者も何人かいるようだ。
魔法使いたちの魔法を受けているはずの魔獣は、まだ暴れたりないかのように激しい動きで彼らに反撃している。戦局としては魔法使いたちが押され気味のようだった。
上空で最後の偵察を終えて視力強化を解除しかけた裕紀は、寸前で魔獣が魔法使いたちの包囲網を突破したところを視認する。
そろそろ目の限界が近かったが、嫌な予感が脳裏を過ったために視力の強化を続行する。
魔法使いたちが必死で作った包囲を抜けた魔獣の行く手には、小さな子供とそれを庇う女性騎士の姿があった。
黒煙と橙の炎に包まれた戦場からでもわかる金髪。水色のドレス型の鎧を身に纏った少女の姿を視た裕紀は瞳を大きく見開いた。
(リーナッ!?)
内心でそう叫んだ裕紀は奥歯を喰いしばった。銀のブレストアーマーに水色のスカート型の鎧を身に着けた金髪の騎士など、最近知った異世界人ではリーナしか思い浮かばない。
どうして彼女がここにいるのか、考える暇もなかったがその必要はなかった。
ヤムル村の村長の孫娘であるリーナは優しく正義感のある少女だ。他人に迷惑をかけないように自分の傷を隠してまで戦おうとしてくれた、責任感の強い性格でもある。
魔獣が襲った村がヤムル村ではなくとも、その近くの村が襲われていると知れば彼女は躊躇うことなく助けに行くはずだ。
そして、彼女がここにいるということは、残る二人の幼馴染もこの戦場に駆け付けているだろう。
そんな推測を立てる間にも、小さな子供を庇うように覆いかぶさったリーナに魔獣が迫る。
その行く手に、崩れた家からもう一人の小柄な騎士が飛び出した。
それが誰かなどいちいち確認するまでもなかった。ついさっきまで背中を合わせて守護獣スキュラと戦った相棒の門番は、満身創痍の身体で剣を持ち少女とリーナを襲う魔獣の行く手に立ちはだかった。
アベルならどうにかできる。そう思いたかったが、現実は魔法使いが十人がかりでも抑えきれない魔獣を、そうでないアベルが到底止められるわけがない。
崩れた建物から飛び出た理由は、魔獣の攻撃を受けたことでさっきまで意識を失っていた可能性があると考えた方が妥当だ。
だが、どんなに力の及ばない敵が相手でも人々を救うためにアベルは奮戦するのだ。
そして裕紀の手にも、もう大切な存在を救える力が、戦える力がある。
俯せに落下していた裕紀は、全精神力を振り絞って強引に身体を起こした。落下による気流で白いコートの外套が上にはためき、黒髪も上向きに立ち上るがそんなもの気にならなかった。
魔獣と三人の距離はかなり切迫している。残された時間はほんの十秒くらいか。
対して裕紀の位置から地上に到達するまで一分はかかるので、駆け付ける前に三人が魔獣に襲われてしまう。
残る手段は、およそ高度八百メートルの位置から確実に敵を行動不能にさせることだけだった。
稲妻の如く思考を走らせた裕紀は、視力強化を解除すると無意識に左腕を真下に伸ばした。
何もない空間に何かを求めるように左手を開くと、まるでその動作に反応したかのように掌を中心に垂直に光のラインが伸びる。
それを握るとラインは形状を湾曲させてその形状を変形させていく。
一瞬の瞬きと共に光のラインが、衣装と同じく金と純白の色調を与えられた大弓に変化した。
弓の扱い方など知るはずもなかったが、聖具エクスと強く同調していた裕紀はその扱い方を感覚で知っていた。
左手で弓を握り右手を添えると、右手の指先に光の矢が生成される。
この弓の特性なのか頭の中に地上の情報が図形で記されるために、視力を強化せずとも狙うべき魔獣の正確な位置を把握することができた。脳内で記される魔獣の放つ闇の魔力へ矢先を向ける。
光の矢を持った右腕を限界まで引き絞り、裕紀は魔獣に正確な狙いを定めようと意識した。その意志に反応したかのように、地上で暴れる魔獣の姿がイメージとして伝わってくる。
アベルを薙ぎ払わんと鞭のように後方へしならせた、魔獣の長い右腕の関節へ慎重に狙いを定める。
射線の微調整を終えた裕紀の身体に、どこからともなく黄金の魔力が集まった。やがて弓の正面に黄金の魔法陣が生成される。
全身に黄金の魔力を最大限にまで漲らせた裕紀は、その魔力を一気に解放させると共に魔法の詠唱を唱えた。
「ルミナリア・ストローク!」
発声と同時に光の矢を地上に射る。
後方に強烈な波動を起こして放たれた光の矢は、薄く広がる雲を破り一直線に地上へと突き進んだ。
直撃したかどうかの判断をするのも忘れて弓を消滅させた裕紀は、放たれた矢を追うかのように頭を地上に向けた。
まるでそこに不可視の壁があるかのように膝を曲げ、空中を蹴る。
幾つもの衝撃波を後方の空へ放ち、裕紀は一つの想いと共に急降下を開始した。
(アベル、リーナ、ユイン。頼む。無事でいてくれ!)




