迷いの森/試練(7)
地面を這うように移動し足元から飛び掛かってくる取り巻き蜘蛛の胴体を、アベルは炎に包まれた愛剣を斬り上げて両断した。直後、バチャッと分断された身体から体液が勢いよく溢れ出した。それが毒性のあるものであると知っていたアベルは即座にバックステップで後方へ下がる。
ついさっきまでアベルが立っていた場所に毒の体液が被さると、毒液に晒された花たちがたちまち焦げていく。
そんな光景を視界の隅で捉えつつ、アベルは小刻みに動きながら立て続けに襲い掛かってくる蜘蛛を迎撃していく。
迷いの森に足を踏み入れてから最初の戦いは岩や倒れた樹木に囲まれているという地形の関係上、狭くてほとんど身動きが取れず、四人で固まって応戦するしかなかった。尽きることのない蜘蛛たちの猛撃に、守ることはできても攻めることができないという不利な戦いを強いられ、逃走に至るまでまともな反撃ができなかった。
だが、今の戦場は岩も樹木もその他の障害物もない。しかも動き回るには十分なほどに広々とした面積を持つこの花畑は、本来アベルの得意とする機動力を活かした戦い方が何の障害もなく発揮される場でもあった。
低姿勢を保ちながら花畑を駆け抜けたアベルは、彼を仕留めようと飛び掛かってくる敵を華麗な剣技で次々と斬り払う。風の加護によって身体能力を上げていたアベルは、自身の脚を止めることなくただひたすらに剣を振るい続けた。
機動力としては格段にアベルへ軍配の上がったこの状況に、さしもの取り巻き蜘蛛も焦りを感じたのだろうか。
正面と背後から同時に牙を向けて飛び掛かった蜘蛛たちにアベルは動じることなく対処した。
「お、うらああああっ!」
森全体を震わせるほどの気合を迸らせて大上段に構えた剣を素早く正面に振るう。刀身が獲物を分断する感触を両手で感じると、次に右足を軸に勢いよく体の向きを変える。
尋常ではない速さで振り返ったアベルは、後方から牙を立てて迫る蜘蛛を鋭い瞳で捉えると、正面で振り抜きかけていた剣を途中で横に構え直す。
一拍分の間を開けることなく、剣を横に構えたアベルは後ろに下がりながら炎の刀身を水平に振るった。
横一文字に断ち切られた蜘蛛の身体から最期の抵抗とでも言うかのように体液が吹き出し、アベルに降りかかった。風の加護のおかげか大半は防げたが、風の合間をすり抜けた幾つもの雫がアベルの顔に迫る。鎧を装備していない顔を庇ったアベルの籠手に毒の雫がかかる。バックステップによって後ろから浴びてしまった少量の体液の分も含めて、アベルの鎧は所々が溶解していることになるが、しかし彼の鎧に変化はない。
むしろ彼の鎧には、風の加護以外に何か別の力で守られているかのように、仄かに白い光が纏っていた。
それはアベルだけでなく、別の集団と戦っているユインの防具にも視られる現象だった。
アベルとユインは、魔力に恵まれたこの異世界でも魔法を扱えない人間の一人だった。幼い頃から魔法の才能に開花していた幼馴染のリーナとは違い魔法が扱えなかったこの兄弟は、村の皆を守る力を手に入れる為に、ヤムル村の門番になると同時にヤムダの弟子となった。
師匠となったヤムダからは教わった力は、魔力が充満しているこの世界の若き魔法使いとは縁のない技術だった。
生命力操作と呼ばれるその技術は、大気中に充満する魔力を扱う魔法とは異なり、自身の体内に循環する生命エネルギーを利用する。その力は魔法と比べれば些細なものだが、極めることができれば魔法使いでなくとも様々な事象に干渉することができるのだ。
生命力操作によってもたらされる効果はたくさんある。
一般的なものは自身の身体能力を強化させること。次に離れた対象を手を触れずに動かしたりすることや、自分の身に着けている防具や武器に生命エネルギーを纏わせることで、装備品にある程度の耐性を付与させることができることだ。
その他にも熟練していけば人の思考に干渉したり、他人の生命力を感じて位置を特定することもできるらしい。
残念ながらアベルもユインも未だに生命力で装備を強化させることしかできず、身体強化もアース族の青年アラタのように飛躍的に向上させることはできていない。むしろエアリアルによる加護を受けた方が、そちらの方面では効率よく動ける、というのが現状だ。
だが、そんな不安定な現状でもアベルは生命力操作に大きな魅力を感じていた。
世界樹から世界中に放出される魔力を利用して魔法を扱うより、正真正銘、自分自身の体内に含まれている力を利用する生命力操作はまさに己の限界との戦いとなる。
生命力操作で本来やれなかったことがやれるようになるということは、自分自身も大きく成長しているあかしでもあると、そう思えるのだ。
前後からの攻撃を猛然と迎撃してみせたアベルは、これ以上の戦いは不利と判断したのか弟の戦っている方角へ進路を変えた蜘蛛を倒すために地を蹴った。
しかし、五メートルもダッシュする前にアベルの身体に異変が起きた。ほとんど何の前触れもなく、両足に重りを着けているような感覚がアベルを襲ったのだ。
その感覚は徐々に足から腰、上半身へと昇ってくると、たちまちアベルの全身が鉛のように重たく感じられるようになってしまう。
(ここまでかよッ)
突然起こったその現象に、アベルは内心で悪態を吐いた。
アベルの身体に起きた異常は、生命力を酷使し続けた代償のようなものだった。
エアリアルで身体能力を向上させているとはいえ、激しい動作をすれば生命力操作とは無関係に体力は消費される。しかも戦闘中、常時鎧や武器に自身の生命力を巡らせ続けていたアベルの生命力は消耗した体力と合わさってかなり減少していた。
そうと自覚して鎧を見下ろしてみると、先ほどまでは淡く純白の光を纏っていた鎧は、元の冷たい鋼色に戻っていた。
いつの間にかエアリアルの加護や愛剣に付与されていた炎属性の効果も切れている。
予想はしていたが終わりの見えない蜘蛛の数に、毎日修練を欠かさないアベルでも完全に息が上がっていることに今更ながら自覚する。
そうと自覚してから、無意識に溜まっていた疲労感がアベルの身体を猛毒の如く巡っていく。
打ち付けられるような疲れに膝を着きそうになるがそれだけはしてはならないと、剣を地面に突き立てて支えにする。
「アベルッ!?」
生命力が尽きかけているアベルの異常を遠目から確認したのだろう。蜘蛛たちと応戦しながらそう名前を叫ぶリーナに、アベルは苦し気だが大声で答えた。
「こっちは大丈夫だ。まだ、俺は戦える」
そう言いつつも、それがただの強がりであるということはよく理解していた。生命力が尽きた今のアベルには剣を自由に振るうことすらままならないだろう。仮に身体が動き剣もまともに振れたとしても、生命力操作による武装強化が切れた愛剣の刀身は、あの蜘蛛の体液によってたちまち溶かされて使い物にならなくなってしまう。
しかし、襲い来る取り巻き蜘蛛の数は果てしないが、こうして自由に動いて戦えていたことからこの戦場での戦いの主導権はまだアベルたちが握っているのだ。もしもアベルの脱落で残り二人のリズムを崩し、囲まれるようなことでもあれば、また最初の戦いの二の前になる。いや、それ以上の惨劇が待っているだろう。
だから、己の失態だけでこの戦場の勢いを完全に殺すようなことをするわけにはいかない。生命力の管理を怠っていたのは自分のミスだ。己の犯した失態は、己自身の力で取り返さなければならない。
荒い呼吸を繰り返しながら正面から迫る蜘蛛たちに鋭い眼光を浴びせつつ、普段は軽々と持ち上げた剣を重々しく前に構える。
しかしながら、それ以上の行動をアベルは取ることができなかった。体力が完全に尽きていたアベルの両足は、そこだけ石像になってしまったように言うことを聞いてくれない。
「・・・ッ、ちくしょうがっ!」
結局、何もすることのできなかった自分を強く罵りながら、アベルはとうとう両膝を着いてしまった。
そんな彼をそれぞれの戦場から視認したのだろう。魔法を放ちながら駆け寄ってくるリーナと、アベルよりはまだ軽症だが生命力が尽きかけて満身創痍なユインがアベルを庇った。
「すまん。すまねえ。くそっ、やっちまった」
必死に戦ってくれた二人の顔を視ることができず、下を向きただそう謝ることしかできない自分をアベルは殴ってやりたかったが、もうそれもできない。
「大丈夫だって。まだ諦めるには早すぎだよ。私たちは、必ず生きて帰るんでしょ?」
そんなアベルを励ますように言ってくれたリーナが、力なく下がる肩に手を置いて回復魔法を発動させる。
緑色の魔力で生成された魔法陣がアベルの身体を優しく包み込み、失われた生命力を徐々に回復させていく。
かなり魔法を使っているのか、無償で魔法を扱える彼女の頬にも汗が伝っていた。やや呼吸も上がっているこの様子から、彼女の体力も限界が近いはずだ。
リーナとアベルを護衛しているユインも体力はかなり厳しそうで、戦闘序盤の勢いは完全に失速していた。
さすがの取り巻き蜘蛛たちも、敵に起きた異常を察したらしい。包囲するように、じわじわと着実にアベルたちとの距離を詰めて来た。
このまま蜘蛛の猛撃を受ければ、体力を消耗しているアベルたちは五秒も持たずに全滅するだろう。
しかし、アベルが予期していた事態は起こることはなかった。
アベルたちと蜘蛛たちの距離が約五メートルに差し掛かったとき、途端に取り巻き蜘蛛たちの動きが停止したのだ。
次いで何かに反応するように蜘蛛たちがざわざわと騒がしく身を捩り合うと、花畑の中央に位置する石板のすぐ手前に集まっていた蜘蛛の集団がさざ波のように別れた。
上空で雲が太陽を隠したのか、差し込んでいた光が途絶え荒らされた花畑が薄暗くなる。ほとんど同色の蜘蛛たちが視認しずらくなるまで暗くなった花畑で、アベルは思わず苦笑を浮かべていた。
敵がこれ以上攻めてこないということに対する安堵の笑みではない。むしろ、この事態が今この状況で訪れてしまったことへの、絶望に近い笑みだった。
リーナの才能も合わさってか、回復魔法のおかげで四割ほどの体力が回復してきたアベルは恐る恐る、石板の上へ視線を向けた。リーナもつられて視線を向けて「ぅ、ぁ・・・」と小さな喘ぎ声を漏らす。
最後に上空へ視線を向けたユインは、警戒心を露わにしながら鋭く剣を構え直した。
この花畑には石板が置かれているだけで樹木などは一本もないが、周囲に生い茂るそれらは太陽から十分な栄養を受け、花畑を覆うように太い枝を頭上に巡らせている。
いつの間にそこにいたのか。
頑丈そうな枝に糸を絡め、地上からかなり離れた場所に、この戦闘における最大の強敵がぶら下がっていた。
「いまさらお出ましかよ。タイミングが悪い」
闇に紛れていてもはっきりと蜘蛛のシルエットを視認したアベルは震える声で小さく呟く。
その呟きに反応したのか、ユインの鎧の音に反応したのか、光を失っていた八つの瞳に怪しげな紫の光がぼうっと宿った。
薄暗い闇のなかでぼんやりと光る紫の瞳の持ち主は、こちらが正体を視認すると同時に行動を始めた。
糸を軸にするように縮めていた八本もの足をゆっくりと動かし、鋭利な後ろ足でぶら下がっていた糸を断ち切るとそのまま地面に垂直落下する。
取り巻き蜘蛛との戦闘で随分と荒らされてしまった花畑の上に降り立った巨大蜘蛛は、鎌のような前足を地面に突き刺すとギロチンのような上顎をガチンと閉鎖させた。
感覚的には五割近くの体力を回復したことを感じたアベルは、まだ回復魔法を継続しようとするリーナの手を優しく肩から下ろした。
心配な眼差しを送ってくる幼馴染に力強く微笑んでみせたアベルは、まだ若干の重みはあるが剣を振るえるくらいの力は戻った右手で落ちていた剣の柄を握る。
そんなアベルの動作に反応したのか、取り巻きの蜘蛛を後ろに下がらせた巨大蜘蛛は、太く長い足を動かしてアベルたちの三メートル手前まで歩んできた。
『オロカダナ。マモルベキニンゲンヲウシナッテモナオ、ワレラトタタカイツヅケルトハ』
耳障りなノイズを含んだ思念で頭に直接語りかけてくる蜘蛛に、アベルは鼻で笑い飛ばすと強気な声で言った。
「ハッ、それの何が愚かなんだ? あいつはもう、俺たちにとっては仲間だ。仲間はどんなことがあっても絶対に守る」
そんなアベルの言葉に、今度は巨大蜘蛛が思念で大きく笑った。
『ダガ、ソノナカマトヤラハココニイナイデハナイカ? ワレラニオノノキ、ヒトリ、ニゲタノデハナイノカ?』
こんな時だけ何故かノイズが消えた、澄んだ思念で蜘蛛はアベルにそう言った。
その思念にアベルは、自身の内心に渦巻く憤りと戦わねばならなかったが、どうにか堪えると頭上を振り仰いで言った。
「そう、かもな。でも、きっとどこかで俺たちを見ていてくれている。俺はそう思っているぜ」
それから地面に膝を着いていたアベルは剣を持って立ち上がると、ユインの隣に並んで戦闘態勢に移行する。
「じゃあ、とっとと始めようぜ。こちとら、あまり時間に余裕がなくってな」
『フンッ。ソウイッテイラレルヨユウガイツマデタモテルカ、タメシテヤロウ』
そう言い返した蜘蛛は、鎌のように鋭利な前足を大きく地面から引き剥がした。
「来るぞ!」
すぐにその動作が攻撃の予備動作だと判断したアベルは二人の相棒に声を掛けた。
その指示から三秒後に、長さが二メートルはある大鎌のような前足が水平に振られた。
両側から迫る前足にバックステップで後方へ回避するが、ぎりぎり回避距離が足りなかったせいかアベルの鎧の腹部が浅く斬られる。
ほんのごくわずかだが斬りつけられた腹部には、生命力で強化された金属鎧にも関わらずすっぱりとした切り口が残っていた。
「あいつの前足には注意しろよ。油断してると一瞬で両断されちまうぞ!」
「うん!」
「わかった!」
再び風魔法と炎魔法の加護を受けながらそう言い放ったアベルに威勢のいい返事が返ってくる。
頼もしい仲間の存在に勇気づけられたアベルは、狙いを付けられないようなるべく姿勢を低くして蜘蛛の懐目掛けてダッシュした。兄に続いてユインも走り始める。
「キュォォオオオオオッ!」
全身に怖気を走らせる甲高い雄叫びを上げた蜘蛛は、続けて両の鎌を上げると垂直に振り下ろした。
予備動作からそれらを全て回避したアベルは、そのまま蜘蛛の真下へと滑り込む。ユインは蜘蛛の頭上に跳躍し、空中で剣を大上段に構えた。
「おらあッ!!」
「はあああッ」
兄弟揃って気合を放ちながらアベルは腹部、ユインは背面に思いっきり剣を振った。
蜘蛛の真上と真下で強烈な爆炎が上がる。
「フレイムッ!」
リーナからも炎魔法による追撃が放たれ、頭部に爆炎を上げた巨大蜘蛛は身体をよろめかせた。
即座に蜘蛛の真下から抜け出して距離を取ったアベルは黒煙を上げる巨体を視認する。
あの前足の大鎌の切れ味は脅威だが、リーチがあるぶん重みもあるのか予備動作から攻撃までの移行にやや余裕がある。
敵の予備動作をしっかり見切ることができれば、機動力は上回っているであろうアベルなら回避可能だ。
そう感じたアベルは追撃を仕掛ける為に再び地面を蹴った。まずはあの巨体を支えているであろう六本の脚を斬り落とす。
そう決意したアベルは、後ろ脚を斬り落とすために剣を後ろに振り絞った。
「ギュシャアアアッ」
しかし、脚まであと少しという所で巨大蜘蛛の腹部後端にある膨らみから紫色の煙が噴き出した。
煙幕のように広がったそれが無害な煙である可能性がほとんどないことは、先の戦闘から散々取り巻き蜘蛛を斬ってきたアベルには容易に判断できた。
紫煙が噴き出ることを確認するなり、地面に両足を踏ん張らせて突進の勢いを殺す。毒ガスであろう煙に対処するためか、離れた場所からリーナの魔法詠唱が届く。
「エアロ・・・」
しかし、その詠唱が終わるより早く、巨大蜘蛛の口から何かが放たれた。
速すぎで視認ができなかったそれは、リーナに直撃すると彼女ごと後方の樹木まで吹き飛ばした。
「リーナッ!」
吹き飛ばされた幼馴染を助けようと、そう叫んで地面を蹴ろうとしたアベルの視界に、煙から迫る大鎌が入り込んでくる。
回避は不可能。
そう感じたアベルは、剣を立てると鎌を防いだ。ただし、普段通りの武装強化では呆気なく斬られてしまうことは目にみえていたアベルは、鎧に回していた生命力も愛剣に注いだ。
アベルが注げる最大限の生命力を纏った刀身が純白に輝き、刀身を包んでいた真紅の炎が奥から仄かに白く発光する。
「くうおおお!!!」
だが、想像以上の威力に生命力強化を集中させても鎌が愛剣の刀身に食い込んでくる。風魔法の加護を受けている両足で踏ん張ろうにも力量差が違い過ぎるのでどんどん後方へ押されてしまう。
「てああああ!」
そんなアベルを助ける為に、再び跳躍したユインが蜘蛛の頭部に剣を振り下ろした。
しかし、二度も同じ攻撃は聞かないとでもいうのか、巨大蜘蛛は空いているもう片方の前足でそれを防いだ。剣と前足の接点で大きな爆発が起きるが、蜘蛛の前足にはさして効果はなかったようにまるで変化がない。
そのことに驚きを隠せない様子で着地したユインにも、もう片方の大鎌が上から振り下ろされた。
どうにかそれを回避したユインだったが、そのことを予期していたかのように再び巨大蜘蛛の口から何かが高速で放たれた。
回避した先に放たれた物体にユインが反応したときにはもう遅かった。着弾と同時に勢いよく後方へ飛ばされてしまう。
「ユインッ!!」
どうにか大鎌の猛撃に耐えたアベルはそう叫ぶと蜘蛛に向けて剣を構えた。
だが、魔法の加護もなくなり戦える武器もボロボロなアベルには絶望的と言っていいほどに反撃の手段がなかった。
アベルの出せる限りの生命力で武器の強度を上げたというのに、愛剣の刀身には十センチ以上もの斬り込みが入ってしまっている。恐らく、次の大鎌の一撃を受けたら確実に破壊されてしまうだろう。
だから、あまり得意ではないがアベルは少しでも相手の情報を取り込もうと思考を巡らせた。
あの巨大蜘蛛の最大の武器は、あの恐ろしく硬くて切れ味のある前足だ。鋼鉄をも紙切れのように容易く切り裂いてしまうあの鎌に捉えられたら即死は免れないだろう。
当初の予想通り相手の動きはさして気にすることもないが、あの前足のリーチが長すぎる。更には知性を有しているからか、大鎌での攻撃が有効になりやすいようにするための立ち回りも考えられている。
あの毒煙に翻弄されて大鎌に捉えられたアベルが良い証拠だ。
そして、蜘蛛の口から放たれた謎の物体。恐らくあれは粘着性の強い体液だろう。射出される速度は目で捉えられないほどに凄まじく、体液自体にもそれなりの質量があるのか直撃を受ければ勢いのまま押し飛ばされてしまう。
最初からあの粘液で二人を樹木に固定することが目的だったのか、リーナとユインはそれによって身動きが取れない様子だった。
残されたアベルも、戦える武器が半壊状態では戦えない。
反撃できたのは最初の一瞬だけで、あとの戦闘は全て目の前の巨大蜘蛛のペースに合わされてしまっていたのだ。
それでも・・・。
完全に追い詰められてしまった状態でも、しかしアベルは鋭い視線を蜘蛛に向け続けた。どうにかして蜘蛛の意識をアベルに向けさせなければならなかった。
幸い、蜘蛛自身にもアベルを放って置くという選択肢はなかったようだ。リーナとユインを拘束した巨大蜘蛛は、余裕があるようにゆっくりとした動作で身体を動かすと怪しく光る八つ目をこちらに向けてきた。
『ケッカハミエテイタ。アノ、オトコヲヌカシテ、オマエタチ二、カチメハナカッタ。コノモリノ、シュゴジュウデアルワレニハ、トオクオヨバヌ』
この絶望的な状況でも未だに瞳に闘志を宿すアベルに気付いたのか、蜘蛛は近寄りながらそう言った。
確かに、アラタを抜かしてこの巨大蜘蛛に勝てる見込みなどゼロに近かった。
それに、巨大蜘蛛のこの発言によってアベルの中で引っ掛かり続けていた疑問もようやく回答が出た。
「なるほどな。てめえ、守護獣だったか。通りで魔獣よりか思考が切れるわけだ」
『リセイヲナクシタケダモノト、イッショニスルナ』
「その割には、てめえらも俺たちに魔女を渡さないようにするためになりふり構わず、って感じだったが?」
『アノマジョハコノモリノスベテダ。アノカタヲウシナエバ、コノモリハホロンデシマウダロウ』
どうやら守護獣には感情というものも備わっているらしい。今までの抑揚のないノイズ混じりの思念とは違い、はっきりとした苛立ちの込められた思念にアベルは鼻で笑うだけに留めた。
守護獣は闇の魔力に侵された魔獣とは異なり、文字通りその場所を守護する役割を与えられている存在だ。
それゆえ、通常の生物とは異なる桁外れな力を行使することができる。しかも守護獣には簡単な知性まで与えられているので、倒すとなればそれなりの対策も必要なのだ。
まあそもそも、守護獣が護っている場所はどこもこの世界では神聖な場所であることが多いらしいので、倒そうとする人間はごく一部に過ぎないのだが。
そんな数少ない人間の一人になっていたことを自覚したアベルは構えていた剣をゆっくりと下した。
『ナンノツモリダ? ナカマヲノコシテ、コロサレルツモリカ?』
剣は下ろしても、まだアベルの闘志は燃え尽きていない。
「ああ? 何言ってんだ。最初っからあの二人の前で俺を殺すつもりだったんだろ? 神聖な守護獣さまのくせに趣味が悪いぜ」
あえて挑発的な発言で巨大蜘蛛の意識をさらにアベルへ引き付ける。
そして、知性と感情を備えている目の前の守護獣は、狙い通り冷ややかになった思念をアベルに飛ばしてきた。
『ナラバイイダロウ。オマエヲコロシタアトニ、ノコルフタリモコロシテヤロウ。キエタモウヒトリノナカマニモ、イマノウチニワカレヲイウガイイ』
そう思念を送る巨大蜘蛛は、巨大な鎌型の前足を大きく広げた。蜘蛛の意識が完全にアベルに集まったのか全身に冷たい殺気が突き刺さる。
挙げられた大鎌がさらに引き絞られ、すぐにでも両側から鎌が振り下ろされる寸前。
蜘蛛の背中にこの場にいるはずのないもう一人の人影が舞い降りた。
黒いコートの外套をはためかせて無音で着地した人影を視認すると、アベルは頬の緩みを堪えなければならなかった。黒衣の人影は腰から小型の魔法道具を取り出すと、両手で握りながらゆっくりと頭上に持ち上げた。
背面に生じた異様な感覚に気が付いたのか、巨大蜘蛛の振り下ろされかけていた前足がぴくっと停止する。
しかし、巨大蜘蛛が背中に乗った何かを確認するより先に、突如降り立った人影が群青に輝く刀身を出現させて勢いよく真下へ突き下ろした。
「ギャイイイイイアアアアアッッッ!!!」
まったく予期していなかったであろう攻撃に背筋が凍るような悲鳴を上げた巨大蜘蛛が体を大きくのたうち回らせた。
背中に乗っている何者かを振り払うために暴れまわる蜘蛛からは、生命の危機すら感じさせる緊迫感が感じられる。
二メートルを超える大鎌の前足を予測不能な方向に振り回す蜘蛛から離れたアベルの視線は、常時背中で踏ん張っている黒衣の人影に向けられていた。
奇襲を受けた蜘蛛は相当な痛みに耐えながらも背中に乗る敵を振り払おうと手段を択ばない。
腹部後端から毒ガスを噴出したり、その巨体を跳ね回らせたり、適当に前足を振るったりしている。周囲で巨大蜘蛛とアベルたちの戦闘を傍観していた取り巻きの蜘蛛たちも、主の豹変ぶりに花畑からは退避していた。
あれを止める力はアベルにはないので、ここから先は奇襲を成功させた黒衣の人影を信じるしかない。
そして、そんなアベルの意志を感じたのか、蜘蛛の背中で深々と剣を突き立てて踏ん張っていた人影がとうとう動いた。
黒衣の人影から真紅の輝きが溢れ出し、蜘蛛の背中に同色の魔法陣が浮かび上がる。
人影が大きく息を吸い込んだように見えたアベルは、すぐに数メートル後方にバックステップした。
その直後、アベルの耳がやや低い黒衣の人影の声を確かに捉えた。
「ファイアッ!」
炎属性の魔法詠唱が唱えられると、蜘蛛の背中を轟音と共に大きな爆炎が襲った。
背中で起こった爆発に押されるように地面に胴体を倒した巨大蜘蛛は、燃え上がる炎を背負いながらも立ち上がろうと足を動かしていた。
しかし、予期せぬ奇襲と炎魔法による爆発でかなり体力を削られたのか、立ち上がろうにも思い通りに身体を持ち上げられないようだ。
そこまで把握したアベルは、次に巨大蜘蛛に大打撃を与えた黒衣の人影へ意識を向けた。
背中に剣を突き立てた状況で下位系統とはいえ火属性の魔法をおそらく最大出力で放ったのだ。
ゼロ距離で爆炎に身を晒したのだから火傷は避けられない。最悪、あの黒い上着に引火して火だるまに・・・。
「アラタ・・・ッ」
そこまで考えてしまったアベルは、炎の中にいるであろう黒衣の人影の名を呟いた。
と、そんな呟きが聞こえたわけではないだろうが。
蜘蛛の背中で燃え盛る炎の中から、突如一つの炎の塊が火の粉を引いて飛び出した。
それは空中で風魔法か何かで消火されると、黒いコートを羽織った人影がアベルの目の前に降り立った。
黒い外套を翻して着地した異世界の相棒は、やや長い黒髪を頭を振って荒く整えると肩越しにアベルへ振り返った。
黒い瞳には安堵と労いの光が宿り、口許にはどこか不敵な笑みが浮かべられている。
火炎に晒された為か火傷気味の顔を見た瞬間、アベルは心の底から安堵のため息を吐きたくなった。
しかしここで気を緩めてはならないと、そんな衝動に打ち勝ったアベルはため息を呑むと深い笑みに変えてアース族の青年に言った。
「遅いんだよ、お前は」
そんなアベルの言葉に、口許に異なる感情の笑みを浮かべた青年は、一言だけ穏やかな声音で返した
「悪いな。いままで戦っていてくれて、本当にありがとう」
言われた感謝の言葉に気恥ずかしさで鼻の下を拭ったアベルは、前に向き直った青年の隣に並ぶと主人と同じように満身創痍の愛剣を構える。
アベルが剣を構えると同時に、アース族の青年アラタも魔光剣と呼ばれる剣をしっかりと構え直した。




