迷いの森/試練(6)
迷いの森に足を踏み入れた怖いもの知らずの冒険者や旅人が無事に帰って来たという話を、アベルは物心が付いた頃から一度も聞いたことがなかった。もともとは何の名前もなかったらしいただの森が「迷いの森」という不気味な名称になったのは、単純にこのことが原因らしいが、当時からアベルはその名前の由来がどうにも理解し難かった。
なぜなら、森に足踏み入れて誰一人として帰還した例がない森など、普通ではないからだ。遭難が明らかになった頃には、王都や近隣の街などに滞在しているはずの衛生騎士や聖騎士に通報が行き渡り、捜索が開始されるからである。
全体的な能力が聖騎士よりも格段に下の衛生騎士が捜索担当ならば見つからない可能性もあるだろうが、この世界の守護者とまで言われてきた聖騎士は卓越した能力で確実に遭難者を捜し出すだろう。それが例え命尽きた屍であっても、その者の帰りを待つ家族たちの下へ還すはずだ。
だから、迷いの森で遭難してしまった冒険者たちもどのような形であれ聖騎士や衛生騎士の力を借りれば見つけ出すことがきっとできる。
そう思い他の村人や村長のヤムダ、終いには母親にまでそう言ったアベルに返ってきた答えは、十中八九首を横に振り、迷いの森から帰還できた者は誰一人としていないと村全体で決めたかのような台詞だった。
その答えに納得できなかったアベルは、頭ではその言い伝えを理解できたとしても心の中ではまだ半信半疑な自分が居座っていた。
だから決めたのだ。いつか自分で迷いの森の真相を確かめる、と。
村の伝承であるように本当に泉の女神が住んでいるのかとか、足を踏み入れた冒険者たちはいかなる理由で帰還することができなくなってしまったのかという謎を。
そして、十六年経った現在、アベルは幼い頃から抱き続けてきた大きな疑問があっさりと解決されてしまったことに唖然とするしかなかった。
そのきっかけはあまりにも唐突で、同じように疑問の答えもとても単純な答えだったので、戸惑いながらも自分でも驚くほどすぐに理解できてしまった。
迷いの森に足を踏み入れた者は永遠に森の中を彷徨い続けるのではない。
この森にだけ唯一生息しているのであろう、あの巨大蜘蛛とその配下の蜘蛛たちに襲われて命を奪われたのだ。この森全域があの蜘蛛たちの住処であり、それを知らずにのこのこと入ってきた身の程知らずの人間たちは、彼らの餌に過ぎないのだ。
餌にされた人間たちは当然、森に入ってからの消息が途絶え、彼らを待つ人たちはやがてこの森のことを知る。捜索を依頼された聖騎士や衛生騎士も死体や遺留物を見つけられなければどうにもできない。
帰らぬ人を待ち続けた人たちは、やがてその出来事を言い伝えとして広めていき、名もなき森は迷いの森と名付けられたのだろう。
これが、ラムル村に隣接する広大な森の真相だとアベルは考えている。
そんな森の中を、まさか焦燥に駆られながら幼馴染と一緒に疾駆しているなんて、つい数日前まではこの森に入ることすら考えていなかったアベルが想像するはずもない。
全ての発起人であるアースガルズの青年はこの場にはいないが、そんなことを考えている余裕はない。
アベルたちは、一分一秒でも早くこの森の最奥部に辿り着かなければならないのだ。
魔法使いとしては初心者だと言っていたが、剣技などの筋はなかなか良いアース族の青年を欠かしての探索は不安が伴ったが、魔獣討伐はアベルとユインは幾度となく経験している。
それに現在、王都で魔法の修練をしており、村長であるヤムダの孫娘でもあるリーナも一緒なのだ。
たとえあの巨大蜘蛛が再び襲って来ても簡単にやられる気はしなかった。
「できるだけ最奥部に近づけるようにこのまま走り続けるぞ! 俺たちは生きてこの森から抜け出す!」
エアリアルによって体を軽量化されているアベルは、同じ魔法の加護を受けて隣を走る弟と幼馴染にそう言う。
風を纏っているとはいえアベルの声量なら余裕で聞き取れたらしいユインが、走行速度をアベルに合わせると苦笑を浮かべながら答えた。
「最奥部と言っても詳しいことは何もわかってないよ。まずはそこから調べないとだけど」
「そんな余裕は俺らにはねえ。くそ、いなくなる前にアイツに聞いとけばよかったぜ」
自分よりもこの状況に対して落ち着いて対応している弟にそう悪態を吐く。
今更な話だが、アベルたちはこの迷いの森に足を踏み入れる際、地図という探索には必要不可欠なアイテムをヤムダから貰っていないのだ。坑道を抜けてから何となく道に沿って走っていたのだが、蜘蛛からの逃走のときにその道からは完全に外れてしまっている。
いまさら逃げてきた道を辿るという選択肢はもちろんない。逃げ道として作られた氷の道は綺麗さっぱり消滅しているし、仮に氷の道が残っておりそれを辿って戻ったとしても、そこには巨大蜘蛛とその取り巻きたちがうじゃうじゃいるはずだ。
あの蜘蛛たちの厄介さをさっきの戦いで思い知らされたアベルは、ただ拓かれた道へ戻るために、自分からそんな窮地へ突っ込んで行くようなことをするはずがなかった。
そう思いながらの発言に、隣を身軽に走っている金髪の幼馴染から鋭い叱責が飛んできた。
「バカッ、どうして今アラタの話をするの!? そんな場合じゃないでしょ!」
「別に名前までは出してねえだろ!」
むしろ名前言い出したのそっちだし! と、そんな意思を込めて言い返すと彼女も慌てて口を噤む。
こんな場面にアース族の青年が居合わせていたら苦笑なりして眺めているのだろうが、今はその当人はいない。
いない人のことを考えていても集中力が乱れるだけだと、余計な考えを風と一緒に押し流して走りに集中する。
あの空洞を三人で出てからもうどのくらいの時間が経つのか。風の加護を受けて走り続けているので時間的にはまだ十分も経っていないだろうが、距離はかなり進んだと思われる。
空を覆い隠してしまうほどに生い茂っている樹木や、やかましいほどに足元に生えている植物などは、森の入り口付近と何ら変わらない。
だが、森の奥へと足を進めている証拠なのか周囲の様子が段々と薄暗くなり、不気味さを増していっている。小川もちらほらと見受けられたので、魔法の効力が切れると同時に小川の水をリーナが浄化魔法で綺麗にしてから水分補給などを摂ったりもした。
そんなことをしながら、できるだけ長い距離を移動しようと意識しながら走っていたアベルたちは、この森にしてはやけに広々とした空間に出た。
子供の頃によく遊んだ空地よりも大きな空間は、地面が視えないほどの量の花が一面に咲いた花畑だった。黄色や白に彩られた地面は、今までそこに足を踏み入れた者などいないかのように美しかった。また、それらの美しさを更に際立たせるように木の枝の間から幾筋もの光が差し込むその光景は、まるで一枚の芸術品の中へと入り込んでしまったかのようだ。
今までに見たどんな景色よりも綺麗で神聖な雰囲気すら感じ取れる場所に辿り着いて、アベルは心臓が早鐘のように鳴りだすことを意識した。
この景色の美しさによる感嘆と、これから起きるであろう恐怖による緊張感が混ざり合い、これまで感じたことの無い感覚に息が詰まりそうになる。
他の二人もほぼ似たようなことを思っているのだろう。ごくり、と喉を鳴らしたのは果たしてユインかリーナか。もしかしたらアベル自身かもしれない。
花畑の中央には、それだけ人の手で造られた石板が佇んでいる。木の枝の間から差し込んでくる日光が、石板の存在を象徴しているかのようにちょうどそこを明るく照らしている。
恐らく、ここが迷いの森の最奥部なのだろう。結局あの戦い以来、巨大蜘蛛とは遭遇してはいないがアベルたちが気を抜くことはなかった。
なぜなら、三人はすぐにあの蜘蛛たちと再戦することを予期しているからだ。
空洞での話し合いのとき、アース族の青年アラタを含めて、アベルたちはあの巨大蜘蛛はまだ死んでいないという結論に至った。あの極寒の吹雪に晒され、多くの取り巻き蜘蛛たちは氷漬けにされてそこら中に転がっていたが、巨大蜘蛛だけはその場で身を縮めて留まり続けていた。
恐らく死までには至らなかったが、凍結による失神で行動不能になったのだろう、とアラタは言っていた。
その仮説が合っているなら、あの巨大蜘蛛を気を失っている状態で放置してきてしまったので、とっくに魔法の効果時間も切れて氷も解けているだろう現時点では、覚醒したあの蜘蛛は行動を開始しているかもしれない。
それに、あの蜘蛛たちはこの森に魔女を必要としている。契約によって魔女をこの森から連れ去っていく存在となるアラタの行動は、蜘蛛たちにとっては必ず止めねばならないことになるのだ。
そんな絶対的な敵に協力して、同胞たちを何匹も葬ってきたアベルたちも彼らからしてみれば倒すべき敵なのだ。
そして、この森を住処としているあの蜘蛛が魔女の居場所を知らないはずがない。長時間、森の中を疾駆していて一度も襲ってこなかったということは、あの巨大蜘蛛が仕掛けてくるタイミングはもうこの瞬間しかないはずなのだ。
もちろんアベルたちも巨大蜘蛛がそう出ると想定した上であえて蜘蛛の策略にはまった。
これはほとんど偶然だったが、迷いの森の最奥部の花畑はとても広くその範囲にだけ木々が一本も生えていない。さきほどの戦闘は森のなかで、巨大蜘蛛たちとしては機動力を活かせる絶好のエリアだったはずだが、この空間にはその長所を十分に活かせる木々が存在していない。
平坦な地上に降りていさえすれば、同条件では魔法で俊敏性を高めることのできるアベルたちが優位に立ち回れる。
もし本当にあの巨大蜘蛛が死んでいるとするなら、これらの作戦は全て杞憂ということになるのだが、アベルとしてはあんな魔獣のような巨躯を持つ蜘蛛とは極力戦いたくなかったのでそうであることを切に願いたい。
(だが、あの蜘蛛は魔獣じゃねえ、のか?)
張り詰めた緊張感から逃れるためか、アベルは無意識にそんなことを内心で思う。
アベルが戦ったことのある魔獣という生物は、少なくともあの蜘蛛のように言葉を話せるような精神的状態ではない。そもそも、多くの魔獣は知性というものを持ち合わせていないというのがこれまで魔獣と戦ってきたアベルの意識に定着した認識だった。
魔獣とは、もともと人界に生息するはずのない生物だという。
数百年前の戦争で人界が魔王率いる魔界軍に支配されている時代があった。当時の記述はほんの少ししか残されていないらしいが、魔獣はその頃から爆発的に人界に姿を現すようになったらしい。
なぜなら、魔獣の正体は闇の魔力に汚染されてしまったこの世界の動物たちだからだ。人間には己の感情を制御する強い意志力が備わっているが、動物たちのその力はあまりにも弱い。闇の魔力は意志力の弱い生き物に強く作用すると言われ、その生物に取り憑くと今まで保っていた性格を狂気へと変えてしまう。
人々の苦しみや悲しみといった負の感情、そして一時は人界を支配した魔王の強大な闇の魔力が人界全体を包んだときは、闇の魔力はまるで伝染病のように動物たちに浸食していった。
魔王が封印された現在では、世界の中心で光の魔力を生成し続けている世界樹の効能で闇の魔力は激減したが、それでも人々の強い負の感情や大地に浸み付いた闇の魔力が完全に消え去るはずがない。
なので、平和になった今の人界にも魔獣というものは存在しているのだ。
あの巨大蜘蛛と取り巻き蜘蛛が魔獣ということになるのなら、それはこの森が何らかの形で闇の魔力で汚染されてしまっているせいだろう。
しかし、あの巨大蜘蛛には知性があった。そして、魔獣化してしまっていたら失っていて当然の理性が備わっているようにも思える。
もしかしたら新種の魔獣でも現れたのだろうかと、どんどん悪い方向へ流れていく思考をアベルは髪を搔き乱して振り払った。
(こんなこと今考えても仕方ねえ! いまは目の前のことだ。あの蜘蛛たちは・・・)
いきなりの動作に隣でぎょっと目を見開いていた弟と幼馴染のことは気にせずに、アベルは花畑に足を踏み入れた。
躊躇っていたことなどすっかり忘れて歩いて行くアベルの後ろを、周囲を警戒しながら二人もついて来る。
鳥のさえずりすら聞こえない静かな花畑をゆっくりと歩いていると、そんな雰囲気に耐えかねたかのようにリーナが言葉を発した。
「何も起きない? というか、誰もいない感じね」
「もしかしたら本当に死んじゃった、とかだったりして」
「それは考えにくいだろ。確かにリーナのあの魔法は強力だったが、あの巨体が何の抵抗もせずにあっさり死ぬとは、俺には思えないけどな」
ユインは普段から冷静な判断力を持ち、三人の中ではどちらかというと暴走しやすいリーナやアベルを宥める役割にあるのだが、今回ばかりはらしくない言葉にアベルはきっぱりと言い切った。
弟にとっても兄の言葉は納得できることだったらしく、長身の相棒はそうだねと答え頷いた。
「でも、だとしたらどうして蜘蛛たちはまだ現れないんだろう? 僕たちは、着実に魔女のもとに辿り着いているというのに」
「そこがわからねえんだよなあ。単純に俺たちがもうここに辿り着いていることを知らないだけなのか、それともまだ攻撃を仕掛けるタイミングじゃねえのか」
歩きながらぶつぶつと呟いていると、いきなりグイッと鎧ごと引っ張られてしまう。
ぐえっ、と少々情けない声を上げるアベルの後ろで、鎧を引っ張ったらしい張本人が呆れた声で警告した。
「そんなこと考えている間に、もう石板に到着しちゃったわよ」
男に生まれておいてとても不本意だが、自分よりも身長の高いリーナにそう言われて目の前に視線を向ける。
確かにアベルの目の前には古びた石板がひっそりと佇んでいる。リーナが警告してくれなかったら石板の角に脛をぶつけていたか、もしかしたら躓き倒れていたかもしれない。
そんな自分の姿を想像して、それが身長差など気にならないほどに無様であることに思い至り、今回は内心で彼女に感謝を示す。
結構な年月が経っているのか墓石のような形をした石板は所々が欠損していた。
石板の上部には何かが嵌め込まれていたかのような窪みがあり、そのすぐ下に一列の文字が綴られていた。
「なんだこれ?」
そう呟きながら、屈むと擦れて消えかけている文字列を目を凝らして確認する。
曰く『光を継ぎし者。汝の力を此処に示し閉ざされし扉を開け』
「光を継ぎし者? これってアラタのこと?」
後ろから同じように石板を確認したのだろう、リーナの声がすぐ後ろで聞こえてくる。
アラタがここに来た目的も踏まえてそう予想したのだろう。首を傾げる気配を感じさせながらそう言うリーナに、アベルは頷きで肯定してから自身の推測を交えながら言う。
「汝の力を此処に示せってのは、多分、試練のことだろうな。閉ざされし扉っていうのがイマイチ良く分からねえが・・・、って、おいおい。これだけ読むと、まるでアラタがここに来ることを前提に書かれているみたいじゃねえか」
「まあ、アラタが光を継し者だったら本当にそう読み取れるわね」
アベルの言葉にリーナも納得したかのようにしみじみと呟いた。
昔からこのような中途半端にヒントが散りばめられているクイズなどは大の苦手なアベルは、内心に広がりかけたもやもやを、ことの発起人にぶつけようとした。
「おい、アラタ! これどういう意味だ・・・」
しかし、言葉の途中でアベルは口を噤んだ。いまこの場にアラタがいないことに気づいたアベルは、勢いよく言い放った自分の声をぼそぼそとしたものに変えた。
「・・・そういや、アラタはいないんだったな」
出会ってまだ一日しか経っていないというのに、アラタがいないことにこうも違和感を持ってしまうようになるとは。
今までアース族とは仲良くするつもりがなかったアベル本人にしては、自分でも驚くべき心変わりようだ。
たった一日で激変した自身の心情に軽く戸惑っていたアベルの傍らで、口元に手を当てていたユインが何かに確信したように言った。
「でも、これでわかったことが一つだけあるよ」
「ん? それってなんだ?」
振り返ったアベルの視線の先で、ユインは周囲に警戒しながら三人に聞こえるほどの小さな声で言った。
「まだ試練は終わっていないってこと。此処で力を示せっていうのはきっとそういうことだと思う」
「そうね。アラタはあの蜘蛛との戦いから試練は始まっていると言ってた。空洞を出てから私たちを襲う隙はいくらでもあったはずなのに、巨大蜘蛛が私たちを襲わなかったのは、別に私たちの行動に気づいていなかったわけじゃない。むしろその逆で」
ユインと同じように話しながらも辺りへピリピリとした意識を向けているリーナの言葉を、さすがに察したアベルも愛剣の柄に右手を添えながら立ち上がった。
「この瞬間を狙っていたってわけだ。てことは、俺たちが気がついていないだけで、この周りにはもう蜘蛛がうじゃうじゃと待機中ってことだな」
ヤムダのように生命力を使って相手の心理や居場所を突き止めることはできなくとも、伊達に村の門番を任されていないアベルとユインの目と耳は良い。五感全てに意識を集中させ、眼光を鋭くして暗い茂みの奥へと視線を向け続けていると、木と木の間に黒い影が蠢くのを視認した。
それが蜘蛛であるかどうかなど、その独特な外見を視れば容易に分かった。自分で口にした言葉が現実であることにアベルは口元を引き締める。こめかみに嫌な汗が一筋流れるが、それを拭うことも忘れてアベルは鞘から剣を抜いた。
革と鋼が擦れ合う澄んだ音を軽快に鳴らして抜剣された愛剣の刀身が、差し込んだ日光の光をきらりと反射する。頼もしい存在感を放つ剣の剣先をアベルは中段に構えて迎撃態勢を取る。
兄に続いてユインも腰の鞘から剣を引き抜くと下段に構えた。
そんな二人と背中を合わせるようにしたリーナも、すぐに魔法を使えるように構えている。
揃って迎撃の体勢に入った三人を包囲するかのように、木々の間から花畑へ黒色の身体を持った蜘蛛たちが溢れてきた。
もうウンザリするほどの量に慣れてしまったのか、リーナからもう悲鳴は上がってこない。
「結局囲まれちまったが、地形的にはこっちが有利だ。絶対に生き残るぞ」
「当たり前よ。ここまで辿り着いたんだもの。アラタの分まで頑張らないと」
「大丈夫。僕らならやれるさ」
三人でそう言い合ってから、互いの意志を確かめたかのように同時に頷く。
そんな三人がやり取りを終えることを待っていたかのように、包囲していた取り巻きの蜘蛛が一斉に動き始めた。
やはり、樹木などの障害物がなければ機動力は大幅に落ちるのか、何もない花畑を八本の脚を持つ蜘蛛たちがじわじわと迫る。
そんな蜘蛛の一団に向けて、胸元に両手を構えていたリーナが右手をさっと正面に持ち上げた。
彼女の右手に水色の魔法陣が展開された後、凛とした詠唱が花畑を響かせた。
「フリーズ!」
氷属性魔法の詠唱を唱えたリーナの右手に十粒もの魔力が生成される。それらはすぐにリーナの手元から一斉に放たれる。
かなり拡散性の強い魔法なのか多くの魔力は迫る蜘蛛たちに命中したが、二つの魔力は花畑を取り囲む樹木に直撃するなりその表面を凍らせた。
それでも八個の魔力は蜘蛛の集団へ直撃し、一つにつきおよそ二匹の蜘蛛が氷漬けとなって転がった。
仲間の死に怒りを抱いたのか、ギイイイッ! と耳障りな音を立てて蜘蛛たちは走行速度上げる。
「エレメンタル・エンチャント! ファイア!」
見事に先制攻撃を仕掛けてみせたリーナは、即座に振り向くとアベルとリーナの剣に向けてそんな魔法を使った。
緋色の魔法陣が彼女の左手に展開されると、アベルとユインの剣に薄く炎が纏う。
中段に構えていたアベルは、目の前にある剣から熱を感じると鋭い笑みを浮かべながら愛剣を構え直した。ユインも自身の愛剣に起きた現象を確認すると下段に構え直す。
エアリアル同様、対象にその属性の効果を付与することのできる魔法によって炎属性を付与された愛剣の柄をアベルは強く握った。
続いて二人にお馴染みの風魔法による加護を受けたアベルは、大きく息を吸い込むと風を纏って地面を蹴った。兄の行動に続いて、ユインも蜘蛛の集団に向けて突撃する。
「お、らあああッ!!」
背後からリーナの氷魔法の援護を受けながら蜘蛛の集団へと突っ込んだアベルは、炎を纏った愛剣を飛び掛かってきた一匹の蜘蛛目掛けて気合を迸らせながら振り下ろした。
神聖にすら思えるほどの静寂に包まれていた花畑は、この瞬間から三人の一身を賭けた戦いの舞台へと一変した。




