異世界(5)
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全体的な高さは中型ビルほどはあるショッピングモールの一階通路で裕紀は目を見張っていた。
視線ではファミレスや喫茶店が多く軒並ぶこのフロアでは決して起こることのない出来事が繰り広げられていた。
二十一世紀も中盤を過ぎたこの年代、日本は昔のように平和な世間ではなくなっていた。
空間浸食が原因で勃発した資源争奪戦争の影響が、戦後から平和主義を掲げてきた日本にまで及んだのだ。
結局、資源争奪戦争が終結するまでに日本列島は戦域として予想されはしたものの、結局のところ戦場にはならなかった。だが、以前よりも都心を中心に暴力や殺傷事件が多発している報道も多くされている。
暴力事件や殺人事件などは、さすがに公共施設など人目に付くような場所では起こらないので普通に暮らしている人々にはそこまで危険と言うわけではない。
しかし、平和な表世間しか知らない裕紀の目前で、普通は目撃することはないであろう戦闘が起こっていた。
それも人目に付く空間で堂々と、だ。
戦闘に介入することなくそんなことを考えていた裕紀は、最早この戦闘に自分から入って行く気にはなれなかった。
取り敢えず、この戦いが周囲の店に被害を及ばさないように祈るだけだ。
とは言え、凶器を容赦なく振り回す男と戦っている彩香にとっては周りからの視線など気にしている暇はない。戦いながら、どうにかしてこの男を無力化する方法を見つけなければならない。
頭では方法を、しかし身体は隙を見せずに動かしている彩香は、振り下ろされたナイフを掻い潜り再び発砲した。
「ぎゃぁぁあ!」
裕紀の知っている拳銃の乾いた発砲音ではない、電子的な音が裕紀の聴覚を刺激する。右足を撃たれた男は奇声を上げて後ろに下がった。
(まだ倒れないのか!? あの人は、本当に人間なのか!?)
彩香と二人で新八王子駅構内にあるショッピングモールに入った途端、いきなり襲撃した黒服男と戦い始めてから五分が経つ。
その間に彩香は六回もの発砲をしている。直接的な攻撃をするつもりはないのか、はたまた攻撃手段がないためか彩香の攻撃は銃撃だけであとは男の攻撃を華麗に避け続けている。
拳銃は引き金を引かれるごとに、フロアに銃声を鳴り響かせている。
かなり遠くまで響いている銃声は、もう周囲の人々を引き付けるには充分過ぎた。
この調子だと、周りの店から事態を嗅ぎ付けた野次馬たちが寄って来てもおかしくはない。
それに加えて、彩香の遠慮と容赦のない動きも店の中にいる客の視線を引くだろうし、次節響く男の奇声も合わせれば気付かない方が違和感があった。
だが、店の中から人が出て来る気配はなかった。
それどころか、戦場となっているこの通路に人の気配はなかった。
(どうして誰も気付かないんだ? もしかして、気付いていない……?)
まだ決着が付きそうにないのか、戦闘中でもこの人気のなさに気付いたのか、彩香の動きが男を探るような動きになっていた。
戦いは彩香に任せて、同時に裕紀もこの異変を探るべく素早く周囲を見回した。
裕紀の両側には喫茶店やファミレス、その他諸々の飲食店が所狭しと並んでいる。もちろん、店内には大勢の客が入っており繁盛していることを感じさせた。
なので、これだけの騒音と大胆な行動に一人は気付いても良いはずだが、どういうことか誰一人としてこちらを見向きもしない。
店内でくつろいでいる客は、この戦闘に気付いていないと言うより、むしろこちら側の存在自体に気付いていないかのように会話や食事をしている。
まるで、裕紀たち三人だけが世界から別の世界に隔離されてしまったかのような状況だ。
そう考えが纏まったとき、裕紀の口は意識とは勝手に動いていた。
「この空間、何かおかしいぞ! 周りの人が俺たちに気付いていない!」
言い終わってから、彩香が命がけの戦いに身を投じていることを思い出す。
果たして戦闘中の彩香は裕紀の声を聞いてくれたのか不安になるも、生死をかけた戦いの最中でもしっかり聞いてくれていたようだった。
相変わらずナイフを振り回している男を上手く捌きながら、拳銃を持った手も使いながら学生鞄を漁りだす。
そんな彩香の戦いぶりを見て、彼女の技量が裕紀を遥かに上回っていることを強く意識させられた。
身体を使った近接戦闘では、一瞬の躊躇が決定打に繋がることはよくある話だ。また、無駄な思考も戦闘の妨げとなり自身の体の動きを鈍らせる。
戦闘が高速化していくにつれて余計な思考は大きな欠点となり、逆に相手は隙を見つけやすくなるのだ。
そのため、体術の修行などでは修行中に余計な考え事はするなと口うるさく言われている。
しかし、今の彩香の戦闘には無駄な思考による動きの低下は見られない。むしろ、余計なことを考えているからこそ隙を見せぬように動きを俊敏にしていた。
裕紀だってある人に戦闘に役立つ様々な技術を教わっているし、実際に戦えばある程度の敵は抑えることが出来るだろう。この戦いが始まるまでは、例え彩香に体術の教えが備わっていても勝てると思っていたほどなのだ。
だが、認識上不可能なことを可能にした彩香はすでに裕紀の上を行っていた。恐らくあの技術は裕紀に体術を教えてくれている人をも感心させるに違いなかった。
目の前で戦う柳田彩香という一人の女子高生は、正真正銘このような戦闘に慣れている。学生ではなく、戦闘こそが彼女の本職だとでも表現しているみたいだった。
そんなことを考えている間に、彩香は探しているものを鞄から見つけ出した。
襲い来る男の攻撃を鮮やかに躱しながら鞄から目的のものを銃と交換で取り出す。
切迫とは程遠い状況ではあったが、予想外のアイテムを鞄から取り出したことに裕紀は呆気にとられてしまった。
鞄から取り出されたアイテムは、底まで深紅に輝く手のひらサイズの石だった。ただ、小石と言うよりは宝石のように光沢を放っており、形も水晶のように滑らかな丸さをしていた。
ルビーのように深紅に染まる石を握った彩香は、左から迫るナイフを屈んで回避し、大きく後退しながら背後に立つ裕紀へ放り投げた。
「えッ!?」
綺麗な放物線を描いて裕紀のもとへ落下してくる深紅の石へ慌てながら手を伸ばす。
なんとか落とさずに手に取ることが出来たその石は、間近で見ると本物の宝石のようだった。
慎重に両手を開いた裕紀は手の中で転がる深紅の石へ視線を投げ、次いでそれを放り投げてきた彩香へその意図を問いかけた。
「お、おい。この石どうすれば良いんだ!?」
精神的な焦りが伴っているせいかそう叫ぶ裕紀の声はやや震え気味だった。
その声に、戦っている彩香は一瞬だけ裕紀へ視線を向けるとすぐに前を向いて言った。
「わたしが男を引き付けるから、その石に今すぐに行きたい場所をイメージで送り込んで! そうすればきっとこの戦いから逃げ切れるわ!」
「え、ええッ!? そんな、いきなり言われても!!」
突然そんな難題を押し付けられた裕紀は困惑しながらそう言い返す事しかできない。
だが、そんな困惑に彩香が答える暇は残念ながらなかった。
肉薄した近接戦闘中に裕紀へ指示を出したことが彼女の唯一の隙になったのか、男が一気に彩香との間合いを詰めて来たのだ。
足を重点的に攻撃されていたにも関わらず、この戦闘でも一番のスピードで迫った男は鋭利な刃を彩香の胸元目掛けて突き出した。
彩香も持ち前の反射神経と俊敏力で右側へ体を逸らし突き出されたナイフを躱す。が、隙を付いて仕掛けられた男の攻撃速度が彩香の反応速度を上回ったため、上着共々制服の裾部分を引き裂いた。
ナイフは結構深くまで届いたらしく、離れて見ていた裕紀の視界にも袖を裂かれたことで露わになった白い肌が視えた。
掠っても初めて攻撃が当たった男は口元を狂気に歪ませた。
不意を突かれた彩香は、ここで初めて焦りと動揺の雰囲気を漂わせた。
ただ単純な戦闘力なら彩香はこの場にいる誰よりも強い。
だが、こうして敵の目の前で隙を見せれば、そこを突かれるのは当然のこと。
隙を突かれたことで反応が遅れて攻撃を受けてしまうのもまた然りだ。
彩香の場合は服を引き裂かれただけで済んだが、普通の人間ならば心臓を一刺しされていてもおかしくないタイミングだった。
戦闘中に安堵のため息が出そうになった彩香はすぐにその息を呑み込んだ。生命の危機は回避したとはいえ、今の不意打ちで戦いの流れは男へ傾きつつある。
しかし、この戦闘を長引かせるということは、後ろで立つ同級生の命を危険に晒す時間も長引くということだ。
(ぎりぎりだけど、ちょっと使おうかな)
心の内でそう決心した彩香は、両手の手袋をはずし首元に巻かれていた栗色のマフラーを掴んだ。
いきなりの戦いで手袋とマフラーの存在などすっかり忘れていたが、少しでも全力で行くとすれば集中するには邪魔な存在だった。
丁寧に畳む時間はないので急いで手袋とマフラーを邪魔にならない範囲まで放る。
鬱陶しそうにマフラーを振り解いた勢いで彩香の長髪も宙で舞った。舞い上がった長髪が通路の蛍光灯の光を反射させて美しく輝く。
その美しい姿に思わず目を奪われていた裕紀は、指示された内容すら忘れてしまっていた。
「この男は私が抑えてるから、なるべく早くイメージを石へ送って!」
「あ、ああ。わかった!」
そう呼び掛けられてようやく自分の役割を思い出した裕紀は、慌てながらも何とかそう答えることができた。
あやふやだが確かな裕紀の答えに彩香は微笑むと男へ駆け出した。
さっきまで回避を全般的に用いるスタイルだった彩香は、初めて攻撃的なスタイルに変更して男の注意を引き付けている。
その背中を見続けるも、裕紀の思考回路は未だに混乱していた。
いきなり高価そうな石を放り投げられ、唐突にどこか行きたい場所のイメージを石へ送れと言われてもさっぱりだった。
そもそも、行きたい場所をイメージするだけでそこに移動できるなどという便利な道具の存在を裕紀は知らない。
そんな便利な道具が開発されたなら、もうとっくに世間に知られていても良いはずだ。
詳しい説明を省いたことから、彩香にとっても簡単には話せない事情があるのだろう。
早急に彩香の指示に従わなければならないのだが、呑気にそんなことを考え始めてしまった裕紀は首を振った。
裕紀の役割を言い終えた彩香は、さらに注意を引き付けるべく男への攻撃を激しくしているようだった。例え彼女の本職が戦闘だとしても体力と言うものがあるのだから、こちらも早急に行き場所を決めなければならない。
「だけど、行きたい場所って言われても……」
いきなり考えても思い浮かぶ場所など数が知れている。一時的な逃走のために選ぶ場所ならば駅前にある広場や学校などだろう。
だが、どちらもこの場所からそう遠くはない場所なので逃走途中に遭遇してしまう可能性はある。
同じ八王子市内に居る者同士、近い内にまた出くわすことは否定できないが、別れた直後よりも少し時間を空けた方が狙われる確率も低くなるし対策もできる。
そう思い、裕紀はこの状況下で一番都合の良い避難場所を思い付いて期待の笑みを浮かべた。
裕紀には長年お世話になっている知り合いの研究者がいる。その研究者は現在八王子市に在住しており、研究施設も新八王子駅よりも遠く、ちょうど八王子市内に建てられていた。
研究者という人種はあまり得意としていない裕紀は貸しを作りたくなかったが、この際適当に理由を付けて匿ってもらえば良い。
ようやく転送先を決定した裕紀は、さっそく放り投げられた深紅の石に施設のイメージを送り込んだ。
送り込むと言ってもその感覚すら裕紀には不可解だったので、これもまたイメージではあるのだが。
果たして深紅の石は、送られたイメージを受け取ったかのように深部から淡い輝きを放ち始める。恐らく成功しているのだろうことを感じた裕紀は内心でガッツポーズを決めた。
まだまだ輝きが増すのだろうか、裕紀はさらに強いイメージを石へ送り続ける。
「あっ、まずっ!」
しかしそこで何かをやらかした時のような切迫した口調が、成功したことによって舞い上がっていた裕紀の聴覚を刺激した。
何事かと視線を声の方向へ向けた裕紀は両眼を大きく見開いた。
見開かれた裕紀の視界に映ったのは、小さな右拳を前方へ突き出した姿勢の彩香と、なんと裕紀の立っている所へ正確に転がって来る黒服男だった。
彩香の格好と課題を忘れたときに見せるような表情(課題を忘れたことがないらしいので分からないが)から、大まかな状況は察することができた。
つまり、男を引き付けていたはずの彩香が力加減と殴り飛ばす方向を間違えてしまったということだ。
それの何がまずいのかというと、戦う準備など微塵もしていなかった裕紀へ殺気を放ち、人を殺す気満々の男が近付いてしまったということだ。
そして、これまでの彩香との戦闘から推測するに裕紀が男に勝てる確率は低いだろう。
大体、彩香のあの細い身体のどこに男性一人をここまで吹き飛ばす力があるのだろうか、などと現実逃避気味にそんなことを考えてしまう。
残念ながら現実は変わることはなく、ごろごろと転がってきた男は普通の人間ではほぼ不可能な動きで床に足をつけると上体を起こした。
振り子のように起こされた上体の他に、男の右腕に裕紀の視線は釘付けになっていた。
握られているものは何本も隠し持っていたサバイバルナイフだ。ギラリと不気味に輝いた鋭利な刃は、生き物の血を求めて首筋へ向けられていた。
全く予想していなかった動きに、脳では回避を命じているのだが裕紀の身体は完全に硬直してしまっていた。
せめて一刻も早く転送を完了するべく石へ強いイメージを送るが、混乱している思考ではしっかりとした場所を思い浮かべることは困難だった。
「くっ」
硬直した体では瞬く間に首元へ迫るナイフを躱すことは難しい。下手をすれば動脈を傷つけかねないが、反射的な行動もあり裕紀は頭を右へ寄せた。
着実に迫るナイフを視界に留めながら、裕紀は奥歯を食いしばって限界まで頭を逸らすもナイフの方が確実に速い。
(避け切れないッ!!)
内心で何かしらの負傷を予期し、せめて軽傷で済むように突き出された右腕を同じ利き腕で掴もうと持ち上げた。
だが、男のナイフが裕紀の首を剃ることはなかった。
どういう手段を用いたのか、離れた場所にいたはずの彩香が男と裕紀の間に割って入り、迫り来るナイフを両の手首で受け止めたのだ。
「せあああ!」
男と裕紀が驚きで動きが止まっている間に、彩香は左足を軸に右足で勢い良く回し蹴りを男の顔面に放った。
とても痛そうな打撃音を響かせながら、頭を蹴り飛ばされた男は左へ数メートル以上は転がった。相当なダメージだったようで、男は失速したのちその場で停止して動かなくなってしまう。
男の無残な姿に命を救われた裕紀までもが背筋に悪寒が走り密かに背筋を震わせた。
そんな裕紀の内心を知らないだろう彩香は、蹴りを入れた姿勢からしゅばっと反転すると石を握っていた裕紀の手を握り締めた。
「転送場所は決まった!?」
「あ、いや、まあ、うん」
もの凄い剣幕で詰め寄られた裕紀は僅かに後退しながら頷いた。女子に手を握られていることなど意識する暇もない。
だが、その応答は彩香にとっては遅すぎた。蹴りの感覚からしてしばらく男は動かないだろうが、完全に失神している可能性はない。
一刻も早くここから立ち去らなければならない状況は今も尚続いていた。
「君の様子だとイメージは完全に固められていないみたいね。リスクはあるけど、あやふやなままで転送を始めるわよ」
彩香の剣幕に押されていた裕紀は、いきなりの指令に慌てて手を引っ込めようとした。だが、彼女の手を握る力が思ったより強かったため、結局握られている状態で反論を始める。
「あやふやは危険じゃないのか!? あの男ならまだ動けなさそうだし、その間にしっかりイメージを固めた方が安全だろ!」
「安全なんてこんな状況では建前でしかないわ! 私が与えた攻撃だってそんなにダメージは通っていないの。あと数秒もすれば起き上がってしまうわよ」
あの蹴りをまともに受けた男がすぐに起き上がるとは裕紀には到底信じ難い。
しかし、彩夏がこの状況で冗談を言うような性格ではないことは普段から分かることでもある。それ以外に、裕紀に転送を早急する表情も真剣なものだった。
そうでなくても、命を狙われているというのに冗談を言う人間は相当お気楽な楽天家だろう。
だが、安全性を無視してまで早く転送を促すほど事態は緊迫していないようにも裕紀には感じられた。
裕紀がイメージした場所は昔から通っているよく知っている場所なのだ。まだあやふやなイメージでも、五秒もあれば完全に思い浮かべることができた。
そういう理由で選択を決めあぐねている裕紀に我慢しきれなくなったのか、とうとう彩香が細く綺麗な柳眉を釣り上げて掴んだ両手を持ち上げた。
「ええい、もういいわ! 悩む暇があるなら行動するだけよっ!」
「えっ!? ちょっと待って、まだ心の準備がッ」
そんな些細な裕紀の抵抗は、次の瞬間予想もしていなかった現象に呑み込まれた。
「テレポート!!」
そう言い放った彩香に包まれた両手が、内側から深紅に輝き始めたのだ。正確には裕紀が握っていた淡い光を放つルビーのような石が、二人をここから別の場所へ転送させるために先刻よりも強い輝きを放っているのだ。
突然の現象に驚きの声を上げる暇もなく、裕紀と彩香の体は瞬く間に広がる深紅の光に包まれた。
裕紀の視界が純白の光に染められると、踏みしめていた通路の感覚が消えると同時に不思議な浮遊感が裕紀の身体を襲った。