迷いの森/試練(4)
異世界に転移してからというもの幾度となく仰天な出来事に見舞われてきた裕紀は、もう想定外の展開には耐性が付いたと思っていたのだが、目の前に広がる光景に痛くもない頭を無性に抱えたくなった。
全方位、数えきれないほどの蜘蛛に囲まれたという末恐ろしい体験は、現実世界生まれの裕紀にはもちろん経験のないことで、内心ではこのメンバーの中で一番に動転していたに違いない。
むしろ動転を通り越して脳が冷静になり、こんなシーンをどこぞのファンタジー映画で観たことがあったようななかったような・・・、などと現実逃避気味に考え始めてしまう。
だが、事態の深刻さがそんな的外れな思考を一気に意識外へ押しやった。現実に引き戻された裕紀は刀身を構成させたままの魔光剣を構え直した。
苔に覆われた岩や倒れた大木などに群がる四対の脚を持った節足動物たちは、黒く輝く八つの目玉を一様に裕紀たちへ向けている。鎌状の上顎をゆっくり動かしている様子を見ると、裕紀たちを捕食しようと狙っているようにも伺えてしまう。
それらの姿をじっくり眺めていると精神的にきついものがあったが、相手に敵意があるかどうかがはっきりしない以上、裕紀はなるべく蜘蛛たちから視線を離さないように意識をする。
ふと、裕紀の意識が上方へ向けられた。頭上から強大な何かの気配を感じたが故に、反射的に上を振り仰いでしまったのだ。
「なん、だ・・・? あれ・・・」
上空を見上げた裕紀の口から震えた声が零れた。隣に立つアベルとユインも裕紀につられて上を見上げて同じように驚きの反応を示した。リーナからまたしても「ひいっ」という悲鳴が上がる。
そんな四人の頭上には、群がる蜘蛛たちより数倍も大きな巨体を、巨木の枝に頑丈そうな糸を絡めてぶら下がる巨大蜘蛛がいたのだ。
しかし、この状態で巨大蜘蛛にも意識を向けるというのは精神的に負荷がかかり過ぎてしまう。
なので、眠っているのか、ただこちらの様子を伺っているだけなのか、今のところは何の行動も起こしそうにない蜘蛛から無理やり意識を引き剥がした。
もう一度、中型の蜘蛛へ意識を向ける。裕紀たちを取り囲むようにして集まっている蜘蛛たちに、仲間と思しき蜘蛛たちが次々と群がってくる。逃げ道を探すのは難しそうに思えた。
上と下でかなりの精神的圧力のかかっている状況下に堪えられなくなったのか、沈黙を守っていた裕紀にアベルが密やかに話し掛けてきた。
「アラタ、こいつらの狙いは何だと思う?」
この場の誰もが知りたいであろうそんな質問に、裕紀は自分なりの回答を返す。
「多分だけど、もう魔女の試練は始まっているんだと思う。この蜘蛛たちは、試練に関わる何かなんだろうけど、狙いはまだはっきりしていない」
最低でもこの蜘蛛たちの意思のようなものを感じ取れれば状況も把握できるのだろうが、まだ裕紀はそれほどまでに生命力操作を利用することができない。
そう思っていた矢先のことだった。
何者かの乾いた声が裕紀の頭に直接鳴り響いた。
『オマエ、タチ。コノモリヲ、ウバイニキタカ?』
突然の声に戸惑う裕紀だったが、その声が上空でぶら下がっている巨大蜘蛛が思念を飛ばしてきたのだと気づく。蜘蛛が話したことに対する驚きもあったが、その前に警戒心丸出しな問いに裕紀は緊張感を抱いた。
恐らくこの蜘蛛たちは、自分たちの住処であるこの森に足を踏み入れた裕紀たちを、略奪者として見ているのだ。少しでも彼らを刺激すれば、もう何匹いるのかすら分からないほどに集結している蜘蛛たちに襲われかねない。
相手がこちらを警戒しているのならば、こちらは敵意がないことを示すことが最善の返答だろう。幸いにもあちらの蜘蛛たちにも知性があるらしいので、会話は成立するはずだ。
そう考えた裕紀は、糸にぶら下がる巨大蜘蛛へ慎重に話し掛けた。
「俺たちは君たちの住処を奪いに来たわけじゃない。この森の最深部に住まう魔女と契約を結ぶために、試練を受けに来ただけだ。決して、君たちに危害を加えはしない」
裕紀たちには敵意がないことを示すためにそう言った言葉に、群がる中型蜘蛛たちの動きは突如騒々しくなった。巨大蜘蛛の巨体が僅かに身じろぎしたように見えたのは、きっと気のせいだろう。
『マジョ、トノ、ケイヤク。ヤハリオマエタチ、コノモリ、ウバイニキタカ!?』
「なっ!?」
期待とは真逆の反応が返ってきたことに驚きを隠せなかった裕紀は思わず声を上げていた。
その反応を図星であると判断したのか、群がる蜘蛛たちは鎌状の上顎を大きく広げた。
多くの蜘蛛はあの上顎を獲物の身体に突き立て体内に毒を注入することで、餌となる獲物を仕留めるのだという。
現実世界の蜘蛛は主に同じ昆虫などを捕食したりするが、異世界における蜘蛛が現実世界の蜘蛛と同じ生態とは限らない。人を捕食する生物だっているはずだ。
「ち、違う! 俺たちはこの森を奪おうとしているわけじゃないッ! そもそも、魔女との契約がなぜ森を奪うことに繋がるんだ!?」
裕紀一人が蜘蛛の餌食となるならまだいい。だが、裕紀の都合でここまで付いて来てくれたアベルやユイン、そしてリーナまでもをこんな場所で殺させるわけにはいかなかった。
何とか詳しい動機を蜘蛛たちから探り出して、最低でも和解にまで成立させたいと思った裕紀は必死に質問を投げた。
その質問に対してノイズの入り混じった巨大蜘蛛の声がきっぱりと言い切った。
『マジョ、コノモリヲ、ヤシナム、ソンザイ。マジョ、ケイヤクハタセバ、コノモリカラ、スガタヲケスダロウ。ケッカ、コノモリ、ヒカリウシナイ、クチハテルダロウ』
そんな蜘蛛の返答に裕紀は奥歯をぎりっと噛み締めた。
それは怒りを嚙み殺すためのものではなく、身の内で荒れ狂う迷いを打ち払わんとしようとするためのものだった。
力を求める裕紀にとって魔女が必要なように、蜘蛛たちにも魔女の存在が必要不可欠なのだ。どういう理由かは解らないが、魔女はこの森を生かし続けるために必要な存在らしい。
互いの意見が完全に相容れない現状、もはや戦いは免れないのは誰にでも予想はできる。
もしも、これが試練の一環なら、裕紀はこの蜘蛛との戦闘も躊躇わずに戦わなければならない。そんなことの決意はもう迷いの森に足を踏み入れるずっと前からできているはずだったが、いざこうも敵を前に剣を構えるとその決意が揺らぐ。
言葉を口に出すことも、決意を固めることも、それを実現するための特訓ですら、それを実践するよりとても簡単なものだということを、この瞬間裕紀は痛感した。
目の前の敵にも意思があり命がある。これまで自分の手で誰かの命を奪った経験のない裕紀は、戦えば確実にどちらかが命を落とすであろう現状に足を竦ませた。
竦んだ足が僅かに後ろへ下がり、湿った地面を削った。
そんな裕紀の動作に蜘蛛たちは気がついたらしく、群衆の輪がやや内側に縮まった。
魔光剣によって体を両断される蜘蛛。裕紀自身が蜘蛛の毒に殺されてしまうシーンを想像させ、魔光剣を握る両手が震える。掌が汗ばみ、気を抜けば柄を零れ落としてしまいそうだった。
(また、俺は迷ってる。どうして? 自分自身に誓ったはずだ。どんなことがあっても大切な人は守ってみせるって)
頭を振りながらそう内心で自分に言い聞かせる裕紀の脳に、もう一人の自分の声が聞こえてくる。
(けど、それが相手の命を奪って良いということにはならないだろう? どんな相手であろうと、命を奪うことには少なからず罪がある)
「だったら、どうしたらいいんだ・・・」
こめかみに汗を流しながらそんな呟きを零した裕紀の右肩に、優しいが逞しい手がしっかりと置かれた。
完全に一人で考え込んでしまっていた裕紀は、肩に置かれた手の感触に大きく身体を跳ねさせた。
周囲の蜘蛛たちへの警戒心も忘れて後ろを振り返った裕紀の視線の先には、三人の異世界の友人たちが一様に元気づけるような笑みを浮かべていた。不安で表情を曇らせていたに違いない裕紀を元気づけるような笑みを、しばらく裕紀は視界に留め続けていた。
そんな裕紀に、三人を代表して肩に手を置いたアベルが黒く鋭い瞳に強い光を宿して言った。
「アラタ、お前が何に悩んでんのかは触れないことにしておくが、一つだけ言っとくぞ。お前は一人じゃねえ。アースガルズにもお前を支えてくれている人はたくさんいただろうが、何より、この世界には俺たちがいる。うじうじ考えるような悩み事だったら、ドンと俺たちに預けろ。お前一人じゃ耐えられねえことでも、俺たち四人なら耐えられるかもしれないだろ。いや、それを乗り越えるために、俺たちが一緒にいるんだろうが」
「アベル・・・」
まるで裕紀の抱えている迷いそのものを打ち払うように言った青年の名前を裕紀は呟いた。
そんな兄の発言に続くように、ユインも自信のある声音で言い放った。
「心配はいりませんよ。こう見えても兄さんと僕は魔獣と戦った経験もあるんです。この程度の蜘蛛たちなんて苦でもないですよ」
「そうよ。ここで死ぬつもりなんて、この場にいる一人も思ってないんだから。アラタは自分のために、必要な分だけ戦えばいいのよ」
アベルに続いてユインとリーナも裕紀を支える言葉を掛けてくれる。
出会ってから一日しか経っていないというのに、ここまで裕紀を支え、戦ってくれる友人もそうはいないだろう。
そんな仲間の心強さに背中を押されたように、後ろへ下がりかけていた足を裕紀は一歩前へ踏み出した。
「ありがとう」
後ろに立つ仲間たちへ、そっと裕紀は呟いた。
魔光剣を持った手の震えを振り払うように、いつまでも悩み続ける自分自身を斬り払うように、裕紀は鋭く剣を振り払った。
電子的な音に混じり薄い金属が空を切る高い音が鳴った。
その音をしっかりと鼓膜に焼き付けた裕紀は、ゆっくりと確かな動作で上を向いた。息を吐きだし、深々と森の甘い空気を吸い込んだ裕紀は、自分の答えを放つべく大きく口を開いた。
全方位に群がっている蜘蛛たちと未だに微動だにしない巨大蜘蛛に向けて、裕紀は森全体を震わせるほどの声音で言い放った。
「お前たちが何と言おうが、俺の意志は変わらない! 目的はただ一つ、この森の最深部に住まう魔女と契約をすることだけだ。邪魔をするなら、こっちも本気で行くぞ!!」
森を震わせた裕紀の宣戦布告に、中型の蜘蛛たちは怯んだように動きを鈍らせた。
しかし、その次の瞬間から彼らの動きが怒りによって過激なものへ変化する様を、裕紀は両目でしっかりと確認していた。
今まで行動を起こさなかった巨大蜘蛛がとうとう動いた。
糸を鋭い後ろ足で千切った巨大雲は、重々しい着地音を鳴らすとこれも巨大な上顎と鎌状にするどい前足を地面に突き立てた。八つの瞳が怪しい輝きを帯び、完全に戦闘態勢に入ったことを報せる。
裕紀の脳裏にこれまでで一番巨大な怒りの声が轟いた。
『コウショウハケツレツシタ! ミナ、ヤツラヲクラエ! コロセ! コノモリヲ、マモルノダッ!!!』
体の芯を震わせるほどの意志を感じ取った裕紀が身構えると、その動作を予期していたかのように三人の仲間も戦闘態勢へ移行した。
裕紀、アベル、ユインはそれぞれの剣を構え、リーナはいつでも魔法が発動できるように両手を胸の前で軽く合わせる姿勢を取った。
それぞれの体勢が整った一秒後。全方位を取り囲んでいた幾匹もの蜘蛛たちが、四人へ一斉に襲い掛かる。
蜘蛛の濁流が迫ってくる迫力感は、今までに観たどんなフィクション映画よりも壮大だった。
それでいて、少しでも気を抜けば死と直結するこの状況に対する恐怖心が裕紀の意識を研ぎ澄ませた。
蜘蛛単体の素早さはやはり相当高いらしく、丈夫な八本の脚で岩や大木を蹴った数匹が頭上から上顎を広げて降ってくる。頭に取り付かれたらそれこそ取り返しのつかないことになると思い、背後の二人の門番と魔法使いを一瞥する。
どうやら裕紀の思案は三人も共通して考えていたらしく、アベルとユインは頭上を、リーナは全方位を警戒しているようだ。地面に下りた巨大蜘蛛はまだ動かないつもりなのか、群衆の外側で待機している。
(あいつらなら大丈夫だ)
視線を戻し頭上を襲ってくる敵に集中した裕紀は、群青の魔光剣を構え直した。
「はあ!」
そんな気合を放ち、裕紀の頭に蜘蛛の上顎が突き刺さる前に軽量な魔光剣を連続して振るう。
裕紀の頭目掛けて飛来してきた三匹の蜘蛛の軌道が僅かばかり左右に逸れると、すれ違いざまにその体が両断された。紫色の体液が遅れて吹き出し、計六つに分断された胴体は地面に転がった。
相変わらずの凄まじい切れ味に使用者ながらぞっとするが、直後その戦慄は別の大きな驚愕によって上書きされた。
足元に転がる蜘蛛の死体から何かが溶ける音が聞こえたのだ。すぐに視界の隅に薄紫の煙が昇る。
その紫煙から僅かな酸っぱさと焼け焦げた草の入り混じった独特な臭いが裕紀の嗅覚を刺激する。その異様な臭いに、まだまだ襲い掛かる敵から目を離して足元へ視線を移す。
分かたれた蜘蛛の死体から溢れ出る毒々しい紫の体液が、死体や地面に生える植物を溶かしていたのだ。
その様子に目を見開いた裕紀は全力で一歩後ろへ退避した。
「アベル、ユイン、リーナ! この蜘蛛の体液は物を溶かすぞ。気を付けてくれ」
「おうよ!」
「わかりました!」
「りょうかい!」
そう言う裕紀に、三人は威勢よく応対した。すでに数匹の蜘蛛を斬り倒しているのか、彼らの足元からも幾つもの紫煙が昇っている。しかし、どういうことなのかアベルとユインの剣や鎧は溶けていないようだ。
金属には効果がないのだろうか・・・? と一瞬そんな疑問が浮かび思わず検証してみたくなるが、現在進行形で蜘蛛たちを迎撃し続けている裕紀にはもちろんそんな余裕はない。
また、強力な酸性の性質を持った体液を避けつつ素早い蜘蛛を斬り続けるのは精神的にも体力的にもきつい。まるでライトキューブの特訓のようだが、命を懸けた状況では感じるものも蓄積される疲労も全然違う。
そんな裕紀の内心を嘲笑うかのように、森からは蜘蛛たちが絶えることなく出現してくる。死体が増えるたびに異様な臭いの紫煙の濃度も濃くなっていき、そろそろ鼻を何かで覆わないと臭いでやられてしまいかねない。
「くそっ、きりがねえぞ! 早くこの状況をなんとかしねえと!!」
空いている左手で鼻と口を覆っているのだろう。悪態を吐いたアベルの声はくぐもっていた。
アベルの言う通りだと裕紀も思考を巡らせる。
蜘蛛単体の戦闘力は裕紀たちが一人で数匹も担当できることからさほど高くはない。あの上顎に潜んでいると思われる毒の脅威がまだはっきりしていないが、それは当たらなければ問題にはならない。
そして、持っている武器のリーチからして裕紀たちが有利なことは変わらない。
しかし、そんなアドバンテージを上回る脅威が裕紀たちに襲い掛かっていた。
それは次第に濃度と臭いを増していく紫煙の刺激臭だ。この臭いが以外にも四人の集中力を大幅に削いでいた。
このまま蜘蛛たちを四人で倒していても埒が明かないが、倒せば倒すほど悪臭の原因を作っているとなるともう長時間の戦闘は厳しいだろう。しかもこの蜘蛛の集団の相手が終わる頃には、後ろで控えている巨大蜘蛛も参戦してくる可能性が高い。そうなってしまえば、四人の力ではもうどうにもならないだろう。
(せめてこの悪臭だけでもなんとかできれば・・・)
戦いの最中、そんな考えを巡らせていたことが仇となったのか。裕紀の魔光剣を振るう腕が一瞬だけ鈍った。
「ギュシャアアッ」
裕紀の剣戟を掻い潜り、そんな奇声を上げた蜘蛛が上顎をいっぱいに広げて迫った。後退をしようにもすぐ後ろにアベルたちが戦っているためにこれ以上下がることができない。
「・・・ッ!」
鋭く息を呑んだ裕紀はただ目を強く閉じることしかできなかった。
だが、いつまで経っても訪れない痛覚と毒の苦しみに裕紀は閉じていた瞳を持ち上げた。
どうやら自分は無傷らしく、そして裕紀を襲った蜘蛛は足元で氷漬けになっていた。
「なん、だ、これ?」
つい先刻、巨大蜘蛛に放った言葉を繰り返し呟く。
いったい誰が? という疑問が浮かぶと同時にこの場では魔法使いが二人しかいないことに思い至る。
裕紀に関しては基本魔法でもまだ下位系統の炎魔法しか扱えないので、この蜘蛛の氷漬けを作れるのはこの場ではたった一人だけだった。
「大丈夫、アラタ!?」
呆然と足元を眺めていた裕紀に後方からそんな掛け声が飛んでくる。
はっと我に返った裕紀は、再び迫ろうとしていた蜘蛛を迎撃してから礼を言った。
「あ、ああ。すまない、リーナ。って、えええ!?」
礼を言う際に後ろを振り向いて、裕紀は仰天した。
水色のスカートの上に白銀のブレストアーマーを身に着けた金髪の魔法使いの少女の足元には、裕紀を襲った蜘蛛と同じ末路を辿った同志たちが無数に転がっていたのだ。しかも完全に冷凍されたそれらからは薄い冷気が漂ってすらいる。
アベルの家に泊まった際、リーナの魔法使いとしての才能は村でも飛び抜けて優秀らしく、その力を認められて王都にある学校へ通っていると本人の口から聞いたばかりだ。
なので、今回の試練でもその実力を頼りにしていたのだが、まさかここまでとは思わなかった。
村や街以外で魔法を使うと魔力に反応して魔獣が寄って来るらしいので魔法の使用は極力抑えていたみたいだが、この迷いの森に住まう生物がこの蜘蛛と魔女くらいと完全に見切ったらしく、口を開けて眺める裕紀の視線の先では蜘蛛たちが次々と氷漬けにされていく。
魔法を放つ際に彼女から発せられる《フリーズ》なる単語が彼女の使っている魔法なのだろうが、基本魔法くらいしか頭に修めていない裕紀には、その魔法がどのような部類になるのかは分からなかった。
魔法としては聞いたことの無い語句からして基本魔法ではないだろう。単語の意味や性質から氷属性の、しかも相手を凍結させる魔法なのだろう、ということまでは推測できるのだが・・・。
そこまで考えて、裕紀の脳にとある案が浮かび上がった。
もしもこの案が採用できれば、この状況の打破のみならずこの場からの脱出も可能だ。そう考え、蜘蛛の迎撃に戻りながらリーナへ呼び掛ける。
「リーナ。今君が使える魔法の中で一番射程が長くて、しかもできるだけ多くの敵を即無力化できる魔法ってある!?」
突拍子もなく放たれた質問にしばし考えるように間が空いたが、すぐに風鈴のように澄んだはっきりとした声が返った。
「氷属性の魔法であるよ! でも、どうして!?」
狙い通りの返答に裕紀は口元を綻ばせた。
しかし、裕紀の狙いが分からないのか肯定と質問を同時に投げてきたリーナに、裕紀は真剣な声音で三人の仲間に言った。
「みんな、これからリーナの氷魔法でこの状況の突破口を切り開く。リーナにはできるだけ長距離で敵を無力化できる魔法で道を作ってもらいたい。その道を使ってここから離脱する!」
そんな裕紀の提案に否定の意を挙げる者はいなかった。皆、この芳しくない状況に対して何かしらの突破口を探っていたのだろう。
だが、その後のことを考慮したのだろう意見をユインが言った。
「でも、ここで逃げてもいずれ奴らに追い付かれまよ!? あの巨大蜘蛛だっていますし!」
「それでも、敵の分析ができていない状況で戦うよりはまだましだと思う。それに、敵の数が分からないのにこの場に留まり続けて戦うのは危険だ」
事実、蜘蛛の体液が毒性と刺激臭を含んでいるという事態に裕紀たちは悩まされているのだ。
「ま、そうだな。この悪臭で集中力も途切れてきちまってるし、ここらで一度退散ってのも悪くはないだろ」
裕紀の意見に、片手だけで縦横無尽に鋼の剣を振るって賛同したアベルに、裕紀は力強い頷きを返した。
「そうと決まればさっそく始めるわよ! 三人とも、私の後ろに!」
そう言うリーナの指示に従い、蜘蛛を迎撃しながらリーナと背中合わせに後ろへ移動する。
左右、後ろと彼女を護衛する陣形を取ると、リーナは右腕を高々と天へ掲げる。
彼女の身体から澄んだ水色の魔力が溢れ、掲げられた右の掌へ魔力が集約する。それに伴い、リーナから耐寒コート越しでも感じられるほどの冷気が漂い始める。彼女の足元の植物には霜が降り、リーナを中心に漂う冷気によるものか蜘蛛たちの攻撃の勢いが弱まった。
やがて、彼女の右手に集約した魔力の塊が、魔法陣を幾重にも重ねたような複雑な魔法陣へと変化した。
中規模の魔法陣を頭上で展開させたリーナは、右腕を前方に向けると凛とした声でその魔法の詠唱句を口にした。
「エターナル・ブリザード!!」
その詠唱に反応した魔法陣が眩い閃光を解き放った瞬間。
リーナの右手から絶対零度の光線が放たれた。その光線は岩を砕き、彼女から前方数百メートルもの距離を瞬く間に氷漬けにしてしまう。
その射程と威力も驚きだが、リーナの放った魔法の効果範囲にも驚愕した。なんと、射線上から目測で五十メートル以上の範囲が同時に吹雪に見舞われたのだ。
湿っぽかった草木がみるみるうちに凍結していき、吹雪いた雪が積もっていく。その範囲での環境が一瞬で秋から真冬の雪山にでもなったかのようだ。
そして、そんなトンデモナイ魔法を受けた蜘蛛たちは、裕紀の狙い通り次々と氷漬けにされては倒れていく。光線は軽々しい動作で躱した巨大蜘蛛も、吹き荒れる吹雪に捕らわれてしまっている。さしもの巨大蜘蛛も若干の抵抗をするが、脚の関節が凍り付かされると、ギギギイ・・・と軋んだ音を響かせて動作を停止させた。
最初の光線の影響で吹き飛ばされた蜘蛛たちの数も相当なものらしく、リーナの背後に陣取っていた蜘蛛たちも冷気に近づくことができないでいるらしい。結果、今この現状で裕紀たち四人を襲える敵は存在しなくなった。
規格外すぎるその魔法に寒さも忘れて呆然としていた裕紀に、素早く振り返ったリーナが叫んだ。
「魔法の効力は大体一分弱よ。その間に走り抜けましょう!」
「ああ。でも、三人はどうやって・・・」
作戦通り、裕紀たちの目の前から数百メートルの距離を氷の道がまっすぐに伸びている。
裕紀は生命力操作で脚力を強化することで高速ダッシュが可能になるが、生命力という力そのものに慣れていない三人(アベル、ユインは少し教えを受けていると言ったが)はどうやって百メートル以上の距離を駆け抜けるのか。
そう思い尋ねた裕紀の問いに、金髪の少女は仄かに笑ってみせると右手と左手をユインとアベルに向けた。
「エアリアル」
そんな魔法詠唱の後に、三人の身体に薄緑色の魔法陣が浮かび上がる。同時に、三人の身体に風が纏ったことを確認した裕紀は、リーナの使った魔法の属性を言い当てた。
「風、魔法?」
「そう。身体に風を纏わせることで敏捷力、攻撃力、防御力を疑似的に上げることができる魔法よ。あと、武器とかには風の属性を付与したりとかできるわね」
頷きと共に解説を挟んでくれたリーナになるほど、と呟きながらエアリアル・風魔法・特殊効果付与と頭に記憶しておく。
そんなやり取りをしている間にも、すでに三十秒は経過していたらしく、吹雪いていた雪も徐々に落ち着きを取り戻している。
せっかくの突破口を無駄話で潰してしまっては笑いごとにならないと本気で思っていた裕紀は、気を引き締めると疾走の準備が完了した三人に声を掛けた。
「さて、時間も迫ってる。早くここから立ち去ろう」
そんな裕紀の提案に、風を纏った三人は同時に頷いた。
意識を集中させ生命力を脚部に集中させた裕紀は、もう一度三人と頷き合うと絶対零度の光線によって作られた氷の道を蹴った。
黒いコートをはためかせて姿を掻き消した裕紀の後にアベルたちも続く。
どこまでも続く氷の道を四人が疾駆する中、氷漬けにされて固まる巨大蜘蛛へ一瞬視線を向けた裕紀は、さきほどまで八つの瞳に宿っていた怪しい光が完全に消えていることを確認する。
他の蜘蛛同様に凍死したのか、または気を失っているだけなのか。
そんなことを考えながら、四人は蜘蛛たちが視えなくなるまで全力で走り続けた。




