迷いの森/試練(3)
特訓で汗まみれになった身体を浴場の温かいお湯で綺麗に流す。水属性と火属性の魔法を用いたリーナによって洗濯されたアークエンジェルの戦闘服を着てから、裕紀はリビングでアベルたちと揃って朝食を頂いた。
朝は仕事前の下準備などで忙しいマリさんに代わってリーナが朝食を作ったみたいだ。目玉焼きやソーセージなど、朝食のメニューは現実世界のものと似通っていた。
昨晩の夕食に出されたパンと共にそれらの朝ごはんを頬張った裕紀はミルクを飲んで一息つく。
時刻はすでに七時半を回っている。
迷いの森に住まう魔女の試練に挑むまではあと三十分弱しかない。
四人で食器を洗い終えると、刻一刻と迫るその時に備えて各々の身支度に取り掛かった。
家に帰ってからアベルの部屋の服掛けにリーナが立て掛けてくれたのだろう。
丁寧に立て掛けられた黒いロングコートを黒いシャツの上から羽織り、必要最低限の道具を腰やポケットに仕舞い込む。
携帯端末を手に取った裕紀は、ふと、現実世界の時刻が表示されていないものかと思い携帯の電源を入れてみる。
だが、何となく予想していた通り、携帯に映された時間は午前六時のままだった。
ただ、この異世界と現実世界の時差がおよそ六時間という推測が正しければ、今頃は日付が変わっているはずだ。
裕紀がエレインと出会いゲートを潜ったのが現実世界で十二月二日だったので、日付が変わっているとなると三日となっているはず。ということは、あの男が指定した期限まであと一日しか猶予が残されていない。
期限を迎えると同時に男は裕紀たちの住まう八王子市に災厄をまき散らすために何かしらの行動を起こすはずだ。いったいどれほどの規模で何が起こるのかは不明だが、災厄と言うほどなのだから死者が出ないなどと、そんな生易しい事態にはならないのだろう。
だから、それまでには何としてでも迷いの森の最深部に住まう魔女と契約をしなければならない。最低でも今日一日でこの世界で果たすべきことを全て終わらせる必要があるのだ。
「大丈夫だ、焦るな。俺は一人じゃない。皆が助けてくれる」
どうしても焦燥感に見舞われてしまう裕紀は、そんな呟きを小さく口に出した。
やがて身支度を終えた裕紀は、グローブに包まれた両手で自身の頬を叩いて気合を入れ、アベルの部屋を後にした。
アベルたちも私服から金属鎧に着替え終えたらしく、丈夫そうな長剣を腰に下げて家の庭で待機していた。
青いドレス型の軽鎧を身に着けたリーナが、家から出て来た黒衣の姿の裕紀に気づくと元気よく手を振った。
「ん? リーナ、その箱は?」
その時、彼女が左手に持っていた籐かごが目に入った裕紀は思わずそう問い掛けていた。
「さて何でしょう? ま、そのうち分かるよ~」
「・・・?」
しかし、裕紀の問い掛けに微笑んでそう返されてしまえば、それ以上の追及はすることができなかった。
仕方なく質問を諦めた裕紀は、最後の確認として身の回りの装備の確認をする。
時刻はおおよそ七時四十五分頃だったが、集合時間前に全員の身支度が終わってしまったので、家事の合間だったマリさんに見送られて裕紀たちはヤムル村の最奥に位置する大滝へと歩みを進めた。
だんだんと人が姿を現してきた道を他愛もない会話を四人で繰り広げながら歩き、まだ屋台などの準備で忙しい中央広場を通過した裕紀たちは、そのまま商業区画のさらに奥へと歩みを進めた。
(相変わらずの大きさと騒々しさだな)
商業区画を抜けて徐々に森林らしさが現れ始めている大滝の麓まで歩いて来た裕紀は、鼓膜全体を大きく振るわせるほどの轟音と、圧倒されそうなほどの規模の滝を見上げてついそう思ってしまった。
この滝の麓まで来るのは、彩香と現実世界に帰還するためのゲートとして活用したとき以来になる。以前訪れた時と同じように、滝はその真下に広がる広い池のような場所に垂直落下している。
あの時の裕紀は、まさかこの池の水面を走ってゲートである滝へ突っ込むなどとは想像すらしていなかった。
しかし、今の裕紀の目的はゲートを使って現実世界に戻ることではない。
迷いの森に住まう魔女の試練に挑むために、ヤムダの指定したこの場所に赴いたのだ。
そして、裕紀たち四人をこの場所に集めたこの村の長であるヤムダは、裕紀たちに背を向けて滝を真っすぐに見つめていた。
あの・・・、と裕紀が集合場所に全員揃ったことを伝えるために口を開きかけた時だった。
まるでこの轟音の中で四人の足音を聞き取ったかのように、横一列に並ぶ四人にヤムダは振り返った。
「来たか。迷いの森の最深部で魔女と契約を結ぶ覚悟はできたか?」
どこからそんな大声が出てくるのか。滝が鳴らす轟音など気にならないほどの大音声でヤムダは言った。
まるで試練を開始する前の最終確認とでも言いたげなヤムダの声に、同じようにこの轟音に負けじと大きな声でアベルが答えた。
「そんなもん、とっくに出来てるさ!」
そう威勢良く言い放ったアベルより一歩前に出た裕紀は、ヤムダへ視線を送りながら言った。
「準備はできています。いつでも試練を始められます」
緊張で口の中がカラカラだったが何とか意思表示をすることのできた裕紀へ、ヤムダは低く唸ると試練の説明を始めた。
「アース族の魔法使い、新田裕紀よ。今宵、お主には魔女と契約を結ぶための試練を受けてもらう。この試練はお主の覚悟を魔女に示す、契約前の儀式のようなものじゃ。護衛は何人でもよい。ただし、与えられた試練は必ずやり通せ。逃げることは許されん。逃亡者に待つのは、永遠にこの森を彷徨う運命か、それか死だけじゃ。その覚悟があるのなら」
言葉を途切れさせ裕紀たちに背中を向けたヤムダは、老いて細々とした右腕をゆっくりと持ち上げて大滝を指差す。
「・・・試練を受けよ。そして、お主の求める力を手に入れるのじゃ」
そういうヤムダの言葉に、四人は無言でただ頷くだけだった。
ヤムダが指し示した方向に大滝があることから、裕紀は内心でまさかと思ってしまった。
まさか、迷いの森へ入るためにはまたあの大滝に向けて走らなければならないのかと、そう思ってしまったのだ。
だが、裕紀のその推測は半ば正解しており、半分は間違いだった。
「安心して。迷いの森への入り口はあの滝の裏にある坑道を抜けた先にあるのよ」
そう隣からリーナが教えてくれて、裕紀は胸に抱いた不穏な予感を安堵の息に変えた。
坑道の手前まで案内をすることが村長であり迷いの森の管理者でもあるヤムダの役目らしく、老人は裕紀たち四人を引き連れて大きな池の縁を歩き始めた。
距離的な感覚では一キロあるかどうかという距離を、誰一人として会話をせずに歩き続けると、やがて大滝の裏側にまで到達する。
滝から流れる水が池の水面に打ち付けるせいで、盛大に水飛沫が跳ね上がり一行の装備や髪を濡らすが、四人はそんなことすら気にする余裕もなかった。
大滝の裏側にある坑道の入り口に到着した裕紀は、薄暗い坑道から神聖な空気に混じって伝わる怪しい気配に、耐寒装備越しでも不気味な肌寒さを感じていた。
「アベル・・・」
そんな気配をリーナたちも感じたのだろう。
不安そうに幼馴染の名前を呟いたリーナへ、アベルも些かに緊張の度合いが高まった声で答えた。
「心配すんな。何かあったら俺たちが援護する」
そんなやり取りを傍らで聞きながら、裕紀もシャツの下にあるエリーから授かったお守りに手を添えた。
この先で何が待ち受けていようと、どんな試練があろうとも、必ず魔女と契約を結んで帰ってくる。
そんな決意を胸に、裕紀は雫の水晶のようなお守りを一度握ると三人に振り返った。
「みんな、よろしく頼む! 必ず試練を突破してみせよう!!」
坑道から伝わる圧倒的な威圧感に気圧されかけていたこの場の雰囲気を吹き飛ばすように、裕紀は出せる限りの元気な声でそう言った。
そんな裕紀の心意気が皆に通じたのか、三人の異世界人は一様に薄い笑みを浮かべると強く頷いた。
四人の覚悟が固まるまで待っていたのか、互いに頷き合った直後、ヤムダが微笑みを浮かべながら言った。
「お主らならばきっとやり遂げられる。己の力と、仲間の力を信じるのじゃ」
「「「「はい!」」」」」
村長からのたった一つのアドバイスを胸に刻み、裕紀は大きく息を吸うといよいよ坑道へと足を踏み出した。
「行くぞ!」
「「「おおっ!」」」
強気に言い放った裕紀の号令に、後ろに続く三人の仲間の声が支えた。
あまりもたもたしていられない裕紀たち一行は、坑道に入るなり一斉に走り始めた。
幸い、よくゲームなどで登場するゴブリンのような類とは遭遇せずに、再び体感で一キロ以上を走り抜けた裕紀は薄暗く湿った坑道を抜ける。
視界が開けると同時に飛び込んできた緑色の景色に一瞬息を呑むが足は止めない。
何者かの導きによるものか、迷いの森がもともと人によって拓けられていた森だったのか、親切に作られた道に沿って走り続ける。
しばらく、無言でただひたすらに走り続けた一行だったが、時間を掛けるにつれて積もっていく不気味さにとうとうリーナから停止の声が掛かった。
「待って、アラタ! なんかこの森、変だよ」
その声に男子三人も揃って足を止める。続けてユインが何かを考えるように口を開いた。
「確かに、森だっていうのに動物を一匹も見かけない。ウェストウルフとかジャイアント・ボアくらいは襲ってくるかと思ったけど」
弟の言葉に顔を顰めたアベルも同意するように頷く。
「ああ。俺は最悪、魔獣と遭遇する可能性も頭に入れていたんだが、どういうことがそんな気配すらしねえな」
彼らの言う通り、裕紀たちがただひたすらに森を走り続けている間、一匹たりとも動物と呼べる存在と遭遇しなかったのだ。それどころか動物の影を見ることも、気配すら感じられなかった。。
リーナの言う森の異変というのはきっとこのことを示しているのだろう。
もともと動物の少ない森だったための違和感なのか、それとも既に魔女の試練が開始されているのか。
後者である可能性を頭に控えておきながら裕紀は辺りを見回した。
迷いの森は、由来は違うだろうが道がなければ本当に迷ってしまいそうなほどに木々が生い茂っている。
一つ一つの木の枝もかなり広く広がっており、太陽の光は葉に遮られて微かに届く程度だ。
そのためか倒れた木々などには苔やキノコなどが蔓延っていた。足元も見たことの無い植物が生い茂っているため、これまで森の中が走りずらかったことは否めない。
そんな森林の中を改めて見回していると、ふと、裕紀の視界に黒く小さな影が動いた。
(なんだ? 周りに何かいるのか?)
そんな疑問が頭の中を過るが、しかし、ほんの一瞬だったので見間違いという可能性もある。やや警戒心を高めながら、裕紀は辺りを注意深く見渡し直す。
なるべく地面に近い場所へ視線を送り続けていた裕紀の耳に、今度は何者かの移動する音が届いた。
カサカサ・・・、カサカサ・・・。
決して大きくはない、どちらかというと羽虫が這うような音に耳を澄ませる。
せめて裕紀の捉えている状況を共有するために、周囲に視線を巡らしているアベルの腕を肘で突いた。
「どうした? 何かわかったのか?」
まだ謎の音に気付いていないらしいアベルの問いに、裕紀は極力小さな声音で短く答えた。
「小さいけど何か聞こえないか? 虫が這っている時のような、そんな音が」
「む、ムシッ!?」
そんな裕紀の小声に隣からリーナが小さな悲鳴を上げる。
カサカサと、またしても虫の這うような音が裕紀の聴覚を刺激する。先ほどよりも意識を聴覚へ向けていた裕紀は、即座に視線を音のした方向周辺へと向けた。
そして、裕紀の高い動体視力が高速で動く物体を遂に捉えた。
「見つけたッ!」
半ば条件反射で右腕を上げた裕紀は、動く黒い影に向かって下位系統火属性魔法、ファイアを発動させる。
伸ばした右腕に真紅の魔法陣が浮かび上がり、一つの火球が生成される。
「いけッ、ファイア!」
裕紀の詠唱に応えるように火球は放たれた。炎を引きながら影の進行方向へ飛来した火球は、直後、動く謎の影に直撃した。
ギイッ、とこれまた奇怪な音が鳴ったと思うと、黒い影は炎に身を包まれた。しばらく苔に覆われた岩の上で悶えていた様子のそれは、やがて力尽きたように固まってからその場に落下した。
ボトッと生々しい落下音を鳴らして地面に落ちたそれに、四人は一斉に視線を向けた。
「やったのか?」
「た、たぶん・・・」
アベルのその問いかけに、裕紀は落下した何かを上から覗き込みながら曖昧に答えた。
「結局、それは何だったんですか?」
続けて放たれたユインの疑問に、裕紀は身を屈めて焼死体を見た。
焼け焦げたことも原因なのだろうが、全体的な色合いは黒い。前は平たく後ろの部分がやけに膨らんでおり、胴体の両側からは八本もの太くてもさもさした脚が内側に縮こまっていた。
ぷすぷすと煙を上げているにも関わらずピクピク動く脚をみると精神的な嫌悪感が体中を駆け巡るが、別に悲鳴を上げるほどでもなかった裕紀は身体を起こすとその生物の名を言った。
「クモ、だな。それもなかなかに大きめの」
そう言って体をどかした裕紀に代わってユインとアベルが二人揃って覗き込んだ。
しかし、リーナだけは蜘蛛の焼死体から三メートル以上離れた場所で立っていた。
どうやらこの手の生き物は得意ではない様子の彼女は顔を青ざめさせている。
「なんだよリーナ。これくらい平気だって」
そんな彼女にアベルが呆れたようにそう言った。デリカシーのないその言葉に、リーナはやや怒りを滲ませた声で言った。
「無理だから! 絶対にこっちに持ってこないでよねッ」
さすがに嫌だと言っていることをしない性格のアベルは溜息を吐くと同時に蜘蛛へ振り返る。
「しかし、こいつのおかげでようやく森って感じがするな」
「ああ。今までは生き物の気配すら感じられなかったからな。どちらかと言えば監獄のような感じだった」
「では、この森はこの蜘蛛の生息地となっているのでしょうか?」
「その可能性は高いと思う。もしかしたらこの先にも似たような生物は多くいるのかもしれない。この蜘蛛が最初で最後ってわけでもないだろうし」
アベル、ユインとそんな会話をしていた裕紀は頭の片隅で一つの可能性を考えていた。
もし、この蜘蛛の出現が魔女の試練の始まりだとすれば、この先にも何かしらの試練が待ち構えているに違いない。
少なくともこの蜘蛛一匹だけの対処が試練というわけでもあるまい。もしかしたら、この蜘蛛の倍以上の大きさの生物と戦わされる可能性だってあるのだ。
今、この蜘蛛を仕留めたことで裕紀を含める四人はこの森の現状が少しはまともであることに安堵しているが、ここで緊張の糸を切らせてしまってはダメだ。
「けど、まだ試練が終わったわけじゃない。引き続き、気を引き締めていこう」
「ああ、わかってる」
裕紀の言葉に表情を引き締めたアベルがそう答えた。
そろそろ移動を開始するために、裕紀たちから距離を取っているリーナへ声を掛けようと裕紀は後ろを振り向いた。
しかし、振り向いた先に立つリーナの表情が、先ほどよりも恐怖に彩られていることに気づく。
白い肌をいっそう青白くさせ、悲鳴を抑えるためか両手で口を押える彼女の碧眼の両目は大きく見開かれていた。明らかに様子がおかしい。
「リーナ? どうしたんだ?」
体調でも悪いのかと思い気を使って声を掛けた裕紀に、リーナは右手をゆっくりと持ち上げて裕紀の頭上を指差した。
「く、クモっ。蜘蛛が、たくさんッ」
「クモ?」
蜘蛛ならさっき裕紀が仕留めた一匹以外はいなかったはず・・・。
そう思いながらリーナが指差す方向へ視線を向けて、裕紀は瞳を大きく見開いた。蜘蛛には耐性のある裕紀でも悲鳴を上げそうになるが奥歯を喰いしばって何とか堪える。
「アベル! ユイン! 後ろだ!!」
代わりに二人の兄弟にそう警告を飛ばす。
緊迫した裕紀の声を聞いた二人は、急な警告にも即座に反応してくれた。
揃って背後を伺ったアベルとユインは、一瞬の驚きの後にほぼ同時に剣の柄に手を掛けた。
すぐに後退した二人に続いて裕紀も後ろに下がり魔光剣の柄を腰から取る。
裕紀が魔光剣を起動させ群青色の刀身を出現させると、アベルとユインも鋼の剣を抜き放つ。電子的な音と鋼の剣が鞘から抜き放たれる澄んだ音が森に共鳴する。
驚きから立ち直ったのか、背後ではリーナの身構える気配を感じる。
迎撃態勢へと移行した四人の正面、否、周囲には数えきれないほどの黒い生命体が蠢いていた。
それらは見紛うことなく、さっき裕紀が仕留めた蜘蛛だった。




