迷いの森/再会(3)
「いったい、何が・・・?」
荒い呼吸を繰り返しながら、荷車の床を這った裕紀は呆然と呟いた。自分のかすれた声が遠く聞こえるのは、早鐘のように鳴る心臓の鼓動と呼吸の音が大きく聞こえているからだろう。
ふとアベルを視線で伺うと、地竜のライドから降りたアベルも相当に疲れているようだ。着ていた鎧を胴体だけ外し、川の水で濡らした手拭いのようなもので顔や首を拭いている。
人間二人と荷車を引きながらもかなりの速度で走ってくれたライドも、アベルと並んで大きな口を開けて水を飲んでいた。
ようやく鼓動と呼吸が落ち着いてきた裕紀も、深く息を吐きながら戦闘服の上着を脱いだ。持っていた魔光剣を腰の留め具に固定してから荷車に降りて立ち上がる。
鼓動と同時に思考も落ち着いてきた裕紀は、ウェストウルフを吹き飛ばした謎の障壁について尋ねてみることにした。
「アベル・・・、あの障壁みたいなのは何だったんだ? 確かお前は魔法が使えなかったんじゃなかったのか?」
そうは言うものの、アベルは事前に結果の存在を裕紀に知らせていたので、アベル自身も言うように彼は魔法使いではないのだろう。
「お前の言う通り、俺は魔法は使えない。さっき奴らを吹き飛ばしたのは、ちょうどこの川に沿って張られている獣除けの結界の効果だ」
「獣除けの結界?」
まだ魔法に疎い裕紀が繰り返し言うと、アベルは懐を探りながら続けて話した。
「簡単に言ってしまえば森に棲んでいる肉食獣や魔獣から村を守るために張られた防壁魔法だ。ちょっとやそっとじゃ破壊することはできないから、他の街や村でも扱われている魔法だな」
そんなアベルの解説に、なるほど・・・、と深く頷く。この防壁魔法は、この世界の住民が魔獣などといった外敵から身を守るための対応策として扱われているらしい。魔獣がどれほどの強さを持った敵なのかはまだ想像ができていないが、少なくともこの結界の中から出なければ、これ以上恐ろしい敵に襲われることもないということだ。
「ま、暗黒騎士どもが扱う魔法でも耐え切れるどうかは分からねえがな」
「あ、暗黒騎士?」
完全に安心していた裕紀の隙を突くようにそう呟かれたアベルの一言に、緩んでいた気持ちを再び引き締め直して意味深な名詞を繰り返す。
しかし、アベルは裕紀の呟きに対して半信半疑といった態度で答えるだけだった。
「数百年も昔の伝説に出てくる、存在すらあやふやな奴らのことだ。そう深く気にする必要はねえよ」
「でも・・・」
そうは言っても暗黒騎士などというフレーズは、現実世界の年頃の男子には気になってしまう。詳しいことを聞きたいところだったが、その前にアベルが何かを裕紀に放り投げた。
「・・・っと!」
言葉を飲み込んだ裕紀は、放られた何かを落とさないように慌てて受け取る。裕紀が受け取った筒状のものは、俗に言う水筒だった。中身は入っているようで、掌から中身の重みが微かに伝わってくる。
「いいのか?」
反射的にそう訊いてしまった裕紀は、相当に腑抜けた顔をしていたのだろう。呆れた表情を作ったアベルは、一口水筒の中身を飲むと口を拭って言った。
「飲んでいいから渡したに決まってんだろ。あと、中身には何も入れていないから安心しろ」
真剣な表情で忠告も織り交ぜて言われた言葉を裕紀は信じることにした。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
いただきます、と一言言ってから水筒の蓋を外して中身を飲む。
あっさりとした酸味と甘味のある冷たい水が口内に広がると、暗黒騎士のことも忘れて裕紀は喉の乾きを潤すために水筒の中身を半分は飲み干した。
喉を潤し一息ついた裕紀に、にやにやと笑みを浮かべたアベルが今にも笑い出しそうな声で言った。
「そんなに気に入ったのか?」
「ああ。なんか、レモン風味のスポーツドリンクみたいだ」
後味のすっきりさからすれば、身体を鍛えた後などに飲む飲料水としてはもしかしたらスポーツドリンクよりも最適かもしれない。
そんな感想を抱いて言った裕紀の答えに、アベルは訳が分からないといった表情と声音で返してきた。
「れもん? すぽーつどりんく? なんだそれ?」
完全に片言で単語を並べたアベルに、裕紀はようやく自分自身の失態に気付いた。
当たり前のことだが、ここは異世界だ。異世界の資源が現実世界にないと同じように、異世界にも現実世界にある資源が存在する可能性は低い。
今のアベルの反応から察するに、この異世界にはレモンも無ければスポーツドリンクというものも存在しないのだ。
「あ、いや、こっちの話。意味不明なことを言って悪かった」
険しい表情で二つの単語の意味を考えているアベルへ、慌てて裕紀は弁解する。
「ん、ああ。お前らの世界の話か。どうりで聞き慣れないと思ったぜ」
こういう間違いは過去にも経験したことがあるらしい。裕紀の弁解を聞いたアベルは、すんなりと納得してくれた。
「そのレモン? てのはどういう物なんだ?」
その代わりと、アベルはレモンについての疑問を裕紀に問い掛けてきたので、裕紀は自分の知るレモンの情報をとても簡潔に伝えた。
「食べると途轍もなく酸っぱい果実だよ」
それを聞いたアベルはといえば、酸味を想像したのか若干表情を歪めると呟いた。
「なるほどな。サジみたいなものか」
「さ、さじ?」
聞き慣れない語句を今度は裕紀が片言で繰り返す番だった。
現実世界ではサジといえば食器の匙を連想させるが、レモンと同義で言われているのだからそんなことはないのだろう。
もしかしたらレモンと似た風味のある果実なのかもしれない。
悶々とした気分の裕紀にアベルはにんまりと笑って言った。
「こっちの話だ。まあ、酸っぱさはそっちのレモンよりも格段に勝るだろうがな」
どうやら仕返しのつもりでこの話題を切り出したらしい。
しかし、妙に挑戦的なアベルの口調には、裕紀の心にも説明できない対抗心が芽生えてしまい、言うつもりのない言葉を口走ってしまう。
「いや、レモンのほうが酸っぱいな」
そう言い返した裕紀に、アベルは口の端を引き攣らせながら怒鳴り返した。
「サジだろ!」
「レモンだ!」
平和な森林の小河に、しばらく二つの世界の主張が響き渡った。
◆◆◆◆◆◆◆
森の中を一人の少女が歩いていた。
湿った土に革のブーツが沈み、地面に転がる木の枝の折れる音が鳴る。現在位置は村を守る結界内に当たるので、凶暴な外敵に襲われる心配のない薄暗い森の中を迷いのない足取りで少女は歩く。青と白のワンピースが汚れることを気にも留めない足取りで歩く少女は、人を探していた。
少女はこの森の近くにある、周囲が岩壁に囲まれた村の出身だった。そのため、幼い頃からことあるごとに同い年の幼馴染みと森を探索したりして遊んでいたのだ。
もはや少女にとってこの森は、自分の庭のような場所なのだ。
今日は近くの村へ荷物を運びに行った幼馴染みを村で待っていたのだが、予定の時間を遥かに越えていたために、待ちきれずにこうして探し歩いているのだ。
「まったく、どこにいるのよ・・・」
しかし予想以上に友人を見つけられないこの現状に思わず愚痴をこぼしてしまった少女の耳に、よく聞き慣れた幼馴染みの声と、もう一人初めて聞く男性の声が届く。
探し求めていた手懸りに少女は耳を澄ます。
声の届く方角から推測するに、声の主たちは少女たちの暮らす村の結界の境界線である小河にいるのだろう。
本来の道筋とは全く異なる場所にいる幼馴染みの身に何が起きたのかとても気になる。
そんな不安を解消するためにも急がねばならないと、少女はさっきまで早歩きだったものを小走りに変えて森を駆ける。
しばらく森を駆けた少女は、小河を見下ろせる十メートルほどの高さはある岩場でその足を止めた。生い茂った草木の間からそっと眼下で繰り広げられる言い争いを観察する。
本当に何があったのか、破損箇所が多い荷車の隣で二人の男性が水筒を片手に論争していた。
上半身だけ鎧を外した背の低い男子は少女のよく知る幼馴染みだ。相変わらず気性が荒そうな雰囲気を醸し出しているが、本当はとても優しいことを知っている少女は、やれやれと小さく息を吐く。
そんな幼馴染みと言い争っているのは、全身を黒い服で身を包んだ見慣れない少年だった。やや癖毛のある黒髪が印象的な少年の姿から、歳も自分達とそう遠くないように感じられた。
彼も上着を脱いでいるのか、荷車に綺麗に畳まれた黒い衣服が置いてある。この辺りでは見かけない服装だったので、別の地方の住民である可能性を半分。もしくはアース族である可能性を半分ずつ頭に置いておく。
眉まで垂れるやや長い黒髪の持ち主は、しかし、決して嫌そうな顔で幼馴染みと言い争いをしているわけではないようだ。
整えられた黒い眉は吊り上がっているものの、言葉を連ねるその口元は何やら楽しげだった。
ふと、幼馴染みの表情を遠目から伺ってみると、彼の表情も黒衣の少年と似通った感情を現していた。
ところで、彼ら二人は何をそこまで論争しているのか。
こっそり耳を澄ませてみると、聴こえてくるのは二つの単語だった。
「サジは身体にも良いんだよ!」
「それを言うならレモンだってそうだぞ!」
特に緊迫した内容ではないようだが、少女は耳に入ってくる単語についてしばし唸る。
(サジがどうかしたのかしら? それに、レモンって・・・)
サジというのはこの世界で一番に酸っぱい果実のことだ。薄いが堅い殻の下にある厚い果肉は様々な料理に扱われる。また果汁そのものも身体に良く、炎天下での作業が続く夏場にはサジの果汁を砂糖で味付けしたジュースが重宝されていたり、果実そのものを摘まむ人も少なくない。
そんな果実と同じ土俵に立たされたレモンという単語を少女は知っていた。実物を見たわけではないが、アース族の人々の住まう世界に存在する黄色くて酸っぱい果実、ということを聞いたことがあった。
ということは、レモンを主張するあの黒衣の少年はやはりアース族なのだろう。
少女もその幼馴染みも、アース族に対して決して良い印象は抱いていない。幼い頃は、傲慢で卑劣な彼らには憎しみすら抱いた時期もあった。
少女は昔ほどアース族に強い負の感情は抱いていないが、幼馴染みのそれは特に強いのでアース族とは馴れ合えないと思っていたのだ。
だが、どういうわけかあの少年とは相性が良いのかもしれない。
(こんなこともあるものね)
しみじみと幼馴染みの成長を眺めていた少女だったが、はっと我に返る。村ではもう一人の幼馴染みが少女たちの帰りを待っているのだ。
サジとレモンの論争の結末は気になるところだが、今は村のために幼馴染みを連れ戻さなければ。
ワンピースを叩きながら、少女は草木から身を乗り出した。
◆◆◆◆◆◆
「そこの二人! いつまでそんな言い争いを続けているつもり?」
レモンとサジ、どちらが一番酸味のある果実であるか言い争いを繰り広げていた裕紀とアベルの頭上から、突如そんな声が降ってくる。
先のウェストウルフからの逃亡の直前ということもあり神経が敏感となっていた裕紀は、安全地帯と知っていながらいきなりの声に肩を数センチほど飛び上がらせた。
アベルも同様な反応を示していたが、声の主が誰なのか心当たりがあるらしく、頭を掻きながら声のした方角へ視線を向けた。
裕紀もつられてアベルの視線を追うと、十メートルほどの岩場に青と白のワンピース姿の少女が立っていた。
金色の長髪に青い瞳の少女は、綺麗に整えられた眉を逆立てながら腰に手を当ててこちらを見下ろしている。容姿も可愛い分類に分けられるのだろう。歳も裕紀とそう遠くないように思えた。
外見とその容姿から、裕紀は思わず海外の童話「不思議の国のアリス」に登場する主人公のアリスを連想させた。
そんな少女を見たアベルは面倒そうに明後日の方向を向いて答えた。
「いまは大事な話し合いの最中なんだ。ちょっと待っててくれ」
アベルのいかにも適当なあしらい方が気に食わなかったようで、柳眉を更に逆立てた少女は可愛らしく白い頬を膨らませた。
「もういいわ! いまからそっちに行く!」
そう言い放った次の瞬間、何を思ったのか少女は十メートルはある岩場から身を乗り出した。
「危ない!!」
少女が岩場から身を乗り出したところで、裕紀は叫び身体強化を発動させた。全身に黄金の光が宿り、身体感覚が軽減される。
重心を沈めて助走なしのダッシュをするが、反応が遅れたことが仇となったのか、少女と地上の距離はもう二メートルくらいしかなかった。
対して裕紀と少女の距離もやや離れている。
さすがに身体強化を用いたダッシュでも、少女の落下速度に追い付けるはずがない。
幸い頭部ではなく足から落ちているので、砂利の多い河原に落ちても死ぬことはないはずだ。良くて打撲、最悪でも骨折だろう。
だが、それでも裕紀は地面を蹴った。助けられる可能性があって助けないというのは、居心地が悪い。
それに、この世界に来る前に自分の助けられる人は救ってみせると覚悟を固めたばかりなのだ。
その意志が力となったのか。裕紀の両足により濃い光が宿ると、さらに脚力が強化される。
より強く地面を蹴った裕紀は、疾風になったかのように黒衣の姿を霞ませた。
到達は不可能だろうと思えた距離を一息で駆け抜け、少女を受け止められる位置まで移動した裕紀は、落下してくる少女に向けて両腕を広げた。
しかし、ワンピースの裾を片手で押さえながら落ちてくる少女は、地上に向けてもう片方の手を伸ばして何かを呟くように口を動かした。
瞬間、彼女の身体に黄緑色の光が宿り足元には同色の魔法陣が浮かび上がった。
(魔法か!?)
そう思った裕紀の目の前で、少女は重力を無視してゆっくりと舞い降りてくる。
天空から舞い降りてきた妖精のように落ちてくる少女は、ふわっと裕紀の目の前に降り立った。
「あら、えっと、ごめんね?」
「あ、いや・・・」
そう言って少女は裕紀の隣をするりと歩いて行ってしまう。
猛烈な肩透かしを食らった気分になり、中途半端に腕を広げていた裕紀は、そんな少女の謝罪に気まずくなりながら少女の背中に言葉にならない受け答えをする。
アベルからこの世界にも魔法を使えない人がいるということを教わったが、現実世界と比べれば格段に魔法を扱える人は存在しているに決まっている。現実世界の魔法使いのように魔法を使用する規制などもなさそうなので、魔法を扱える人間は誰でも自由に扱えるのだ。
なので、ここで少女が何の保証もなく飛び降りたりするという裕紀の考えはただの早とちりだったわけだ。
そうと理解すると徐々に羞恥心が沸き上がり、裕紀はしゅばっと姿勢を正して後ろを振り向いた。
美しい金髪を後ろに流した少女は、脱いだ鎧を着直していたアベルに腕を組みながら訴えた。
「まったく、村でみんな待ってるよ! それにあの人たちも来てるし、早く荷物を届けないと・・・」
どうやらアベルとは付き合いが長いのか、呆れた口調でそう言った少女は荷車へと視線を移した。そして、荷車の中にあるはずの木箱が存在しないことに気づき少女は言葉を失ってしまった。
たっぷり五秒も黙り込んでいた少女は、組んでいた腕をふらふらと持ち上げ、金属鎧に包まれたアベルの肩を両手で掴んだ。
「ど、どうして荷物がないのよ!? 村の人がどんな思いで荷物をあんたに預けたと思ってるの!? そもそも、どうしてこんな森を通ってこんな場所にいるのよ!?」
「ちょっと待てリーナ、落ち着けって!」
「これが落ち着いていられるわけないじゃない! あの人たち黙ってないわよ!」
「それはわかってるけど、他人が見てるから!」
アベルの鎧は軽量なものなのか、リーナと呼ばれた少女は軽々とアベルの身体を揺さぶっていた。
どうやら裕紀が落とした木箱の中身はアベルたちの村にとってとても貴重なだった資源らしい。
事情が事情なだけにこの話については裕紀も一緒に話したほうが良いだろう。
「あの、リーナさん? そろそろやめないとアベルが目を回しますけど」
弁解をするためにリーナのパニックを治めさせるべく、裕紀から彼女の背中に声を掛ける。
強く頭を揺さぶられたためか、すでにアベルは抗う気力もなくなっていた。
後ろから声を掛けられたリーナはアベルの肩を掴んだままこちらに振り返った。
人形のように青い瞳にぷっくりしたピンクの唇。ふっくらとしているが顔の線は細くくっきりとしている少女は、裕紀を見るなりアベルの肩を手放す。
拘束から解放され身体をほぐしていたアベルを見ずにリーナは問いかける。
「アベル、この人は?」
やや頬が赤いのは取り乱した姿を他人に見られたことを恥じているせいだろう。本人がその事に触れないので裕紀も敢えて触れないが。
そんな彼女の後ろで伸びをしていたアベルはややだるそうに答えた。
「そいつはラムル村で拾ったアース族のアラタだ。迷いの森を探してたみてぇだから、荷物運びと引き換えに連れてきた」
若干引っ掛かるフレーズが混じっていたが、大体の事情は合っているので、アベルの説明を肯定するように裕紀はこくこくと首を縦に振る。
アベル同様、迷いの森という名称を聞いて一瞬目を見開いたリーナは、裕紀の瞳に視線を合わせる。
「迷いの森を探していたのは本当です。荷物運びの報酬としてアベルから所在地を教えてもらう予定だったんだけど、途中でウェストウルフと遭遇してしまって」
裕紀からも何か言うべきだろうと思い、目を逸らさずに自分の行った行為を簡潔に説明する。
「・・・追ってきた奴らを俺が木箱で迎撃させたってわけだ」
裕紀の説明に続けて肩を竦めてそう言ったアベルの言葉を聞きリーナは肩の力を抜いた。
それから荷物のない荷車とアベルへ視線を往復させ、最後に裕紀へ視線を戻す。
再び人形のように可愛らしい瞳で凝視された裕紀は密かに身じろぎする。
たっぷり十秒は裕紀の顔を凝視し続けた少女は大きくため息を吐くと、肩を竦めてようやく小さな唇を動かした。
「大体の事情はわかったわ。私の幼馴染みを助けてくれてありがとう。私はリーナ。アベルとは幼馴染みみたいなものね」
「正真正銘の幼馴染みだろうが」
「はいはい、そうだね~」
幼馴染みであることを適当に言われたことが気に食わなかったようで、アベルがリーナに向けて言い寄った。
その言葉をリーナは笑みを浮かべてあしらってみせる。これが幼馴染み同士の余裕というものだろう。
裕紀に幼馴染みはいなかったが、それでも瑞希や光といった親友と呼べる人たちがいる。
家族、幼馴染み、親友といった己を支えてくれる大切な存在は誰にでも必要なものなのだ。
裕紀と彩夏を襲った男性には、そのような存在は居なかったのだろうか。もし存在していたのであれば、彼は殺人など犯すこともなかったのかもしれない。
ふと、理由もなくあの男性魔法使いのことを考えていた裕紀の目の前に、白く華奢な手が差し出された。
傷一つない手が視界に入った裕紀は、その手を追ってリーナの顔を見た。
手を差し出した意図は容易に分かることだったが、別のことを気にしていた裕紀はリーナの意図を察することができなかった。
呆然と顔を眺める裕紀の顔を見たリーナは、目を細めるとぷっと息を吹き出した。
「ぷっ、ふふ。あははっ」
それから両手でお腹を押さえて笑いだしたリーナに、裕紀は懐疑的な視線を向けた。側に立つアベルもリーナと似たような目をしていたが、こちらは笑いを我慢しているように見える。
「えっと、俺、何かしたかな?」
手を差し出された意図よりも、二人が笑っている理由が分からず、裕紀は苦笑を浮かべて問い掛けた。
「ごめんなさい。ちょっと、君の呆け顔が可笑しくて」
裕紀の質問を笑いながらリーナは答える。
「そんなに可笑しかったかな」
自分の表情は自分自身では分からないので、頭を掻きながらそんな呟きを溢す。ただ気の抜けた顔を他人に見られるというのはちょっとばかり恥ずかしい。
恥じらいを隠すために、視線を下へ向いていた裕紀の目の前に再び手が差し出された。
「ごほん。改めまして、よろしくねアラタ!」
咳払いをしてそう言ったリーナの意図を、今更察せられないほど裕紀は鈍くはない。
小さな白い手を、裕紀はグローブを外した手で控えめに握った。
「こちらこそ、よろしくリーナ」
幼馴染みと他人が気安く握手をする光景を見て、アベルの気分を悪くしてしまうのではと思ったが、本人は腕を組んで優しく微笑んでいる。
その笑みの前で、金髪の少女は真夏の太陽のような輝かしい笑顔を浮かべるのだった。
あれほどの荒い運転をしても壊れなかった荷車にリーナと裕紀が乗り、ライドには相棒であるアベルが跨がって、迷いの森の近くに開拓されたエトナ村を目指す。
リーナ自身の知るアース族の印象と裕紀の印象が食い違っていたらしい。道中、もっと裕紀のことを知りたいと目を輝かせて現実世界のことを聞いてくるリーナに、裕紀は自分の知る現実の話をしていた。
それを目にしたアベルに裕紀は鋭く睨まれてしまったが。
薄暗い森の中を進むこと数分。周囲が明るくなると同時に、リーナと話していた裕紀の耳にアベルの声が届いた。
「森を抜けたぜ。少しだけ坂を下るから転がらないようにしろよ」
そんな忠告が届くと同時に重心が後ろに傾いた。裕紀は荷車から外を伺うと、広い草原の向こうに周囲を岩壁に覆われた、円を三つ繋げたような形をした村を視認する。
アベルやリーナの暮らす村。エトナ村だろう。
「あれ? この村って」
初めて見るはずのエトナ村の全景に裕紀は見覚えがあった。確か、彩夏と異世界に転移したときもこんなような村を訪れたはずだ。
人生初の異世界転移の出来事は裕紀の記憶の中でも新しい。
あの時は早急に現実世界へ還るべく、彩夏が最寄りの村のゲートを使わせて貰おうと提案したのだ。
しかし、村の事情か二人の門番に村への立ち入りを断られ、それに対して抗議する彩夏の様子を眼下に広がる草原に腰を下ろして傍観していたのだ。
この村の門番は一人が高身長でもう一人が低身長の男組だったはず。
高身長の門番は物静かであまり好戦的な性格ではなかったので話しやすい印象だったが、問題は低身長の門番が無駄に短気な性格をしていることだろう。
抗議の終盤、苛立ちに任せて彩夏へ剣を降り下ろした光景は思い出せば脳裏に鮮明に映し出せる。
あの門番は背が低くて髪も雑に整えられていて、口調も悪かった。こんなことは口が裂けても本人の前では言えないが、性格はアベルに少し近いかもしれない。
そんなことを考えながら地竜に跨がるアベルの後ろ姿を見て、なんたることかアベルの後ろ姿が例の門番と重なった。
途端、裕紀は自分自身の記憶の棚が大きく開かれたことを自覚した。
あまりの驚きにこめかみに汗が伝うのも気づかない。隣で話していたリーナが心配そうな視線を向けてくるが、その視線に答えることはせずに裕紀は口を開いた。
「なあ、アベル。ついさっきまでお前と俺は今日が初対面だと思ってたんだけど、訂正させてくれ」
未だに信じられずに上手く動かない口を懸命に動かし、地竜に跨がるアベルに裕紀は話し掛けた。
しかしアベルからは反応がない。思ったよりも言葉が届かなかったのかと思ったが、周囲から聞こえてくるのはライドの足音や地面を転がる車輪の音くらいで大きな雑音はない。裕紀とアベルの距離感から考えても、裕紀の声が聞こえていない訳がないはずだ。
なので、裕紀はアベルの沈黙を了承と受け止めて言葉を続けた。
「俺は、つい数日前にもこの村でお前と会っているよな」
今まで忘れていたことの謝罪の意思も込めてそう言った裕紀に、前を向いたままアベルが答えた。
「ようやく思い出したのかよ。村に着いても思い出せなかったら怒鳴ってやろうかと思ってたところだぞ」
「・・・悪いな」
手綱を握りながらどこか嬉しそうな口調で言うアベルへ、苦笑を浮かべながら謝った裕紀の声も僅かに明るかった。
アベルが彩夏に斬りかかった門番であることについては少しばかり気まずい心境だが、この数時間でアベルの人柄を知ることでそんな気持ちよりもこの少年と再会できたことの喜びが勝っていたのだ。
そんな二人の会話を裕紀の隣で聞いていたリーナが、興味津々と言った様子で尋ねてきた。
「なになに? 二人って前にも会ったことがあったの?」
青い瞳をぱちぱちと瞬かせながら聞いたリーナの問いにはアベルが答えた。
「ほら、昨日お前が帰ってきたときにユインが言ってたろ? 二人組のアース族が村に来たって。その片割れだよ」
「あー、言ってたわね、そんなこと。アベルが斬りかけた女の子を、男の子がヤムじいの技で助けたんだよね~」
人差し指を細い顎に沿えて昔の事でも思い出すようにリーナが言う。
対するアベルは傷口を塩で塗られたかのように渋い口調で応答する。
「あれは俺も悪かったと思ってるし、今度会ったときに謝るって言ったろ!」
「あはは、そんなことも言ってたわね。それよりも男の子・・・、アラタってヤムじいの技使えるのね」
アベルの抗議を笑い一つで凌いだリーナは、裕紀に向き直るとそう尋ねてきた。
ヤムじいというのはエトナ村の村長ヤムダのことだろう。
どういった経緯で生命力とは無縁の異世界で生命力操作のことを知ったのかは不明だ。だが、相手の攻撃を完全に受け止められるほどの強い生命力操作は、才能の有無を除けば習得するのに少なくとも三年はかかると昴が言っていた。
あの時の裕紀は、まだ自分が魔法使いということを自覚していなかったので、剣を弾いた力も偶然だ。
その力の正体が裕紀の生命力であることを知った今でも、生命力だけで物体に干渉することはほとんどできていない。
「あの時のは偶然だよ。実は、まだ石ころすら動かせないんだ」
そんな理由もあってか自信のない口調の裕紀に、むしろリーナは納得したような表情を作った。
「やっぱりそうよね。岩場から飛び降りた私を見た君の反応は、まだ魔法に馴染めていないような感じだったし」
確かに、リーナが岩場から飛び降りたとき裕紀は焦った。彼女が魔法を使えない人間であることを前提で考えていたが故に、落下するリーナを受け止めようと身体が反射的に動いたのだ
ただ、リーナとアベルの会話の流れから彼女が何も考えずに飛び降りることはしない。リーナには高所から飛び降りても無事でいられる何かがあると思うべきだったのだろう。
魔法使いの経験は裕紀より長いだろうリーナは、たったその瞬間だけで裕紀が魔法に素人であることを見抜いたのだ。
ただ、リーナが魔法を使えることを知っていてもきっと裕紀は動いていた。何もせずに、ただ見ているだけしかできない自分自身を変えなければいけないからだ。
「ま、アラタなら魔法に精通していても駆け付けそうだけどな」
そう思っていた裕紀の心を読んだかのように、アベルからそんな声が届く。
「どうしてそう思うんだ?」
まだまともに会話をしてから半日も経っていないアベルへそう問うと、傍らからリーナが半目でニヤリと笑って言う。
「そんな目をしてるから、かな~」
根拠のない言葉を隣から放たれ、裕紀は思わず吹き出してしまった。
しばらく控えめに笑った裕紀は、視線を澄んだ青空へ向けると誰に言うでもなく呟いた。
「適当だな~」
そんな呟きにリーナとアベルから微かな笑みの気配を感じた。
坂を下り終えた裕紀たちは、温な草原を荷車に乗って進む。
百メートルほど前方には古びた社が立てられ、社の手前には一人の長身の門番が立っていた。
門番は裕紀たちの存在に気が付くと大きく手を振る。
人界歴二〇六七年、十月十日。正午。
新田裕紀は異世界マイソロジアにて、ウェストランドと呼ばれる大陸の南部に存在するエトナ村に到着した。




