特訓と、二度目の異世界(8)
「う・・・、ここは・・・?」
微かな機械の駆動音によって意識が醒めた裕紀はゆっくりと身体を起こす。
横になっていたのは人をダメにするソファらしく、上体を起こしただけで身体の重心が底に沈みかける。
やや不安定な体勢で裕紀は辺りを見回した。
横になっていたのは見覚えのある白を基調とした簡素な部屋だった。
プレハブ素材の部屋に様々な機材が所狭しと配置されており、なのに分かりやすく整理整頓がされているのでこの部屋の使用者は結構几帳面な性格なのだろう。そして、何らかの仕事で使われるであろう部屋の更に奥側にはリビングがあった。
本来ならリビングと裕紀のいる室内はスライド式の壁によって隔離される仕組みだが、いまは誰も使っていないためか解放されている。棚には数枚の皿やコップがあり、一般家庭に置かれる冷蔵庫も近くに設置されているはずだ。
こんなにもこの部屋のことを知っているのは、裕紀がこの建物にもう一つの家となるまで通い詰めて暮らしていたからだ。
どうやら何者かに背後から襲われ意識を失った裕紀を、誰かがこの部屋まで運んでくれたらしい。
「つッ!」
そこまで状況を整理した裕紀は、突然の頬の痛みに顔を歪ませた。
反射的に触れてみると、痛みの発生源である左頬にはガーゼが当てられていた。
軽く押さえると重く鈍い痛覚に、沁みるような痛みが襲う。
この痛みの原因は打撲と擦り傷によるものだと判断する。
背中に当たったのは弾力のある何かだったが、あれだけの勢いで顔面から押し倒されれば打撲となるのは当たり前だ。
むしろ打撲以上の怪我を負わずに済んだと思えば不幸中の幸いだろう。
しかし、いったい誰が裕紀を押し倒したのか全くもって心当たりがない。
気を失っている間に私物を取られた様子もないし、さらなる重傷を負わされたというわけでもない。
ソファの傍に掛けてある学生鞄の中身を探り、柄の部分だけが重みを含んでいる魔光剣が存在していることから魔法使いに襲われたというわけでもないようだ。
ガーゼの下からじんじんと痛みを感じながら解消不能な疑問を感じていると、研究室の扉が横にスライドした。
センサー式の扉なのでまさか一人でに開くような事もなく、入ってきたのは綺麗な金髪を後ろに結んだエリーだった。
赤い縁の眼鏡をかけた彼女の服装はグレーのニットスカートに黒色のタイツを履いているようだが、毎日着ている白衣が見当たらない。
研究所で白衣を着ていないエリーを見るのは就寝時を除けば初めてかもしれない。
それほど珍しい格好をしているエリーは、入ってくるなり上体を起こした裕紀に気付く。
何故か微かに身体を跳ねさせ、持っていた桶から水が僅かに溢れる。
「どうかしたの?」
「う、ううんっ。なんでもないよ!」
特に彼女が驚くようなことも起きていないのにそんな反応を見せたエリーに裕紀は何の気なしに問い掛ける。
「ん?」
明らかに動揺しながら首を振って答えるエリーの対応が気になった裕紀は、少しばかり彼女を問い詰めることにした。
「そう言えばエリー、今日は白衣を着ていないんだね」
「ま、まあ、そんな日もあるよ」
手始めに今日の珍しい格好について聞いてみるが、さすがにこの質問は軽くあしらわれてしまった。
ならば、と裕紀は問いを重ねる。
「そうだ。俺さ、今日研究所の前で誰かに後ろから襲われて気を失っちゃったんだけど、誰がこの部屋に入れてくれたのかわかる?」
「えっ!? いやー、私は知らないかなー」
もはや誰からも判るほどのあしらい方を露わにしたエリーを見て、裕紀は犯人が誰なのかを特定した上で話を続けた。
「おかしいよね? この研究所かなり厳重なセキュリティがあったような気がするけど」
呆れるほどの生体認証を繰り返し受けてようやく部屋に辿り着けるこの苦労をそう簡単に忘れはしない。
「あ、あはは。もしかしたら、私と親しい人が偶然にも研究所を訪れたのかもしれないなぁ」
完全に瞳を泳がせながら答えたエリーが手に持っている桶は微かに震えている。
明らかに何かを隠そうと焦っている証拠だ。
そして、それが裕紀の疑問の答えであることは確信的だった。
答えは分かったのでこれ以上言及する必要はない。
もう少しエリーをからかうという手もあったが、この後の予定もあるので手短にこの件は済ませることにした。
「もうエリーが俺を倒したことはバレてるから、どうしてそんなことをしたのか話してくれよ」
どうやら気付かれたら素直に告白することは決めていたらしく、持っていた桶をテーブルに置くと後ろで手を組んで言う。
「ここ最近、君が連絡も無しに研究所へ顔を出さなくなっていたから心配だったんだ。だから、君の後ろ姿を見たときは安心してつい飛び付いてしまった」
反射的に飛び付くとか、あなたはご主人様大好きっ子な犬かっ。
などと突っ込みそうになるも、そこは自制する。
しかし話を聞くからに悪戯で倒したわけではなく、むしろ裕紀のことを心配しての行為だったらしい。
こんな時に限っていつも親しくしているエリーが綺麗なお姉さんのように見えてしまう自分の視覚に内心で溜息を付く。
余計なことは考え無いよう、裕紀は身の内に広がる気恥ずかしさを追い払って違うことを考えた。
「じゃあ俺の背中に当たったのって何だったんだろう。柔らかかったし鈍器ってことはないだろうしな・・・」
「ンッ!?」
背後からの襲撃者が誰かわかったことで、連鎖的に使った武器の正体が気になってしまう。背中に当たった感覚としては痛いというより柔らかかく気持ちが良かったような、ドンッではなくポヨンだった気がする。
気になることは考え込んでしまう性格のある裕紀に、頬を赤くしたエリーがもじもじした様子で話しかけてくる。
「裕紀。えと、それはその・・・」
「エリー?」
話しかけられて気づいた裕紀は、必死に自分の身体の一部を指差すエリーを見る。
エリーは綺麗な指先を何度も自分の胸元に指差している。
(? 胸、がどうかしたのかな)
何かに気づいて欲しそうに指を休みなく動かすので、裕紀は意図もなく胸元を凝視した。
だがどうしたことか、エリーの表情は次第に赤みを増していき、終いには指まで止まってしまった。
「む、むね・・・」
「むね?」
自分の女心に対する鈍さを余り自覚していない裕紀の問いにとうとう我慢の限界が来たらしい。
エリーは顔を最大限に赤くし、更には涙目になりながら叫び声に近い声で言った。
「裕紀の背中に当たったものは、わ、私の胸だっ!」
「・・・・・・・」
しばらく、プレハブ素材の部屋にエリーの声が残響した。
驚き半分動揺半分の裕紀は、気を失う前に背中に感じた感触を思い出す。
背中に当たったものは確かに柔らかく、鈍器や刃物であることはまず間違いない。感触としてもやはりポヨンに近かったかもしれない。
そして後ろからエリーが飛び付いて来たことも想定して、もう一度第三者の視点で想像してみる。
すると何たることか。裕紀の脳内で見事にあらぬ光景が映し出された。
「いや、まあ、なんだ。そんなこともある、のかな?」
今度はこちらが瞳を泳がしながら、終いにははにかみながらも笑みを浮かべてみる。
ま、まあいつもは積極的に恥ずかしいことをやってくる彼女だ。
この程度のことはきっと笑って水に流してくれることだろう。
そんな現実逃避気味な淡い期待は願ったそばから打ち砕かれた。
「〜〜〜ッ。裕紀の、バカ!」
顔をりんごのように赤くして泣き出しそうになったかと思えば、綺麗な柳眉を吊り上げながらそんなことを叫ぶエリーの平手打ちが右頬に炸裂した。
今度は部屋中に頬を打つ高い音が鳴り響いたのであった。
「女の人の胸に飛ばされて気を失うとか、はは」
魔法使いとして特訓を始める前からちょっとした体術の修行を受けていた裕紀は、そんな情けない自分を想像して弱々しく笑った。
「まったく、君は少し女心を理解する努力をした方がいいと思うよ!」
その呟きに答えるかのように、機嫌を悪くしてしまったエリーの声が部屋に設置されたスピーカーから届く。
「そのことに関しては悪かったよ」
その声に弱々しく答える裕紀は、ひりひりする右頬を摩っていた。
裕紀を平手打ちで一発殴った後、不機嫌丸出しの様子なエリーはちょうど定期検査の時間だった彩香の容体を確認している。
その間は裕紀は待機するしかないので、両頬の痛みに涙ぐみながらソファに座っていた。
およそ五分ほどの検査を終了して部屋から戻ったエリーは、まだ先ほどの恥ずかしさを引きずっているようだった。
「こんなに可愛いガールフレンドがいるというのに、まったく君は」
だとしても、エリーのこの発言は裕紀にとっては少しばかり見逃せなかった。
「ガールフレンド違うよ! 柳田さんは俺を助けてくれた人で、いろいろ教えてくれて・・・ともかくそういう関係ではないからな!」
友達になりたいと思ってはいるけど!
またおかしな誤解を招きかけてしまったので今度こそきっぱりと訂正しておく。目覚めたら好きでもない人が彼氏になっていましたなんて、彩香が可哀想だ。
「おや、そうなのか。まあともあれ、彼女が君の支えになっているのは間違いなさそうだがな」
他人事のように誤解だと認識してくれたエリーは検査で使ったものを片付けるとガラス窓へ歩み寄る。
まるで一本一本が金糸のように綺麗な髪を緩やかになびかせてガラス窓に歩み寄ったエリーは、その向こうで横たわっている彩香を見つめてそう言った。
「なんにせよ、彼女が目覚めたときに君が傷ついていたら可哀想だから、無事に完治するまでは無理はしないでくれよ」
「うん。わかってる」
守りたい存在が傷つけられたときの悲しみは裕紀も知っている。
この先何があろうと、あんな思いを彩香にはさせたくはない。
だからこそ、玲奈や飛鳥に魔法の特訓を受けているのだ。誰にも負けることの無い強さを手にするために。
そこで裕紀は、今日エリーに伝えるべき案件を思い出して忘れる前に伝えるべく口を開いた。
「そうだ。ちょっと用事があって、エリーには申し訳ないんだけどしばらく研究所には来れそうにないんだ」
横たわる彩香の様子を眺めていたエリーが勢い良くこちらを振り向く。
唐突な裕紀の発言にたっぷり五秒ほど沈黙を保っていたエリーは、ようやく意味を理解したのかとても分かりやすく顔色が青くなった。
「そ、そんなぁ。やっと、やっとまともなご飯を食べれると思ったのに」
絶望の淵に叩き落とされた人のような声を弱々しく漏らす。
まあそんなときもあるさ、と何となくエリーに同情してみる。
裕紀と一緒に暮らす前がどのような生活だったのかは話してくれないので不明だが、少なくとも自炊をやらない環境だったことは容易に想像できる。
そんな彼女が、ここ数日一人暮らしをできているのはある意味奇跡ではあるが、待ちに待った人物に数日間放置を宣告されれば顔色も悪くなるだろう。
そんなことを考える裕紀の目の前で、エリーはとうとう膝からガクッと崩れ落ちてしまった。
精神的に相当ダメージが大きいらしいが、そもそも今日まで自炊ができないことに危機感を覚えないことがおかしいのだ。
今回のことを機に少しでも現状を認識して改善に取り組んで貰わねばならない。
ただ、落ち込むエリーの肩からは薄暗いオーラが視えそうで、ご飯だけでも作りに来ようかなという気になってしまう。
「まあ、長期間来ないって訳でもないからさ。用事が落ち着いたらまた来るよ」
それに、裕紀の身体に関する研究についてもまだ終わっていない。長期間、研究所を訪れないというのは研究対象の立場として研究者に申し訳ない。
「せっかく今日はひもじい思いをせずに済むと思ってたのにな~。私が作る料理はいつも焦げるし、食べれるのはインスタントな味噌汁にインスタントなご飯だけなのに」
(ひもじい・・・というか、それはもう自炊と呼んでいいものだろうか? 結局は作り物になってないか?)
そう言うエリーからはじわじわとここに残って欲しいという意思が伝わってくる。
家族、家族とは言うものの、これではエリーが裕紀の妹のようだ。妹でも兄に弁当を作ってくれる優秀な人に心当たりがある手前、年下よりも自炊スキルのないエリーがなんだか可哀想になってくる。
ただ、さすがに毎日インスタント食品だけを食べ続けているとなれば健康問題にも関わってくるだろう。
話を聞く限りだとご飯と味噌汁くらいしか食べていないようだ。別にダイエットということでもないのに食べたい物が食べられないのは単純に可哀想だった。
調理する端から全て焦がしてしまうのはエリーの料理スキルが酷すぎるせいだろうが、裕紀がいない間は彼女なりに一応の努力をしていたことも伺える。
部屋の奥にある台所へ目を向ければ、今日の夕飯の食材らしき物が詰まった袋も置かれていた。どうやら商店街まで買い物に出ていたらしい。
外出を躊躇う彼女を知る裕紀はそれだけでも胸を打たれた気分になってしまう。
(まあ特訓は八時からだし、それまでは自由にしていて構わないって玲奈さんも言ってたしな)
研究所の床に膝と手を付いて項垂れるエリーを再度見てから時間を確認する。
学校が終わるのが早かったこともあるのか、現在時刻は五時半ほど。八時までに月夜家のお寺に向かわねばならない事を考慮するとここに居られる時間は少ない。
いや。
今朝、町内のランニングを一時間で走り終える事ができたのなら、ここから市街地へは三十分も掛からないかもしれない。
あの時の、スフィアキューブに生命力を送り込む感覚を応用すれば、ランニングの時のような速さを出せるのではないか。
まだ実証したこともないので確証もないが、もしも成功した時のことを考えると予定より三十分も短縮できる。
それくらいの時間があればそこそこの夕飯を振舞う事は可能なので、裕紀は先刻とは異なったやる気の満ちた声音で了承の返事をした。
「仕方ないな。じゃあ、久々ってほどでもないけど今日は俺が夕食を作るよ。ただあんまり手の込んだ料理は作れないけど、それは勘弁してくれよ」
急ごしらえで豪華なものを作れるほど裕紀の料理スキルも高くはない。
作れるとしても、せいぜいオムレツのようなシンプルなメニューに副菜くらいだろう。
しかし、エリーはそれでも充分過ぎるとでも言いたげな表情で、両手を胸の前で組むと蒼色の瞳を輝かせていた。
「神様、仏様、裕紀様! もう作って下さるだけでも光栄です。何でも召し上がります!」
予想もしていなかったほどに感極まった言葉が立て続けに溢れる様子から、本人が相当まともな食事というものを欲していたらしいことが切に感じられる。
生き倒れた旅人が山盛りの白米を目の当たりにしたら、きっとこんな反応をするのだろうか。
彼女の場合は自分の失敗作に埋もれている中に舞い降りた、食の神様を拝んでいるかのようだ。
これはもう手を抜く事は許されないことを知らされた裕紀は、少しばかり緊張感を得ながらもソファから立ち上がり身支度を整えた。
(あれぐらい期待された方が、作る方も気合が入って楽しいんだけどね)
そんなことを考えながら台所へ向かった裕紀は、買い物袋の中身を覗いてから作る料理を決めたのだった。
「ふ~、満腹満腹! ご馳走様でした」
そう言いながらエリーは調理時間およそ三十分程度のひき肉オムレツ定食を、見事に十五分で平らげてみせた。
よほどお腹が減っていたために食欲が勝っていたのか、自分のお腹をさすりながら実に幸せそうな顔をしている。
喜んでくれただけでも嬉しかった裕紀は、しばらくはその場から動かなさそうなエリーを横目に立ち上がる。
二人分の食器をまとめていると、椅子の背もたれに背中を預けていたエリーが慌てて腰を浮かした。
「自分の食器くらいは洗えるぞ!」
裕紀が研究所にいるときは食器の片付けもやっていたのだが、どうやら自分の家事スキルをこれ以上過小評価されたくないらしい。
慌てて食器を奪おうとするエリーの手から、ひょいっと軽々しく食器を挙げる。
「どうせだから最後までやらせてくれよ。いつもはこれが普通でしょ?」
「う・・・」
テーブルにあった残りの食器を全て手に取った裕紀にそう言われ、返す言葉が見つからないのかエリーはぎこちなく黙った。
とはいえ、裕紀一人で全てをやるには少しばかり時間も足りなかったので、残りの時間を有意義に過ごすべくエリーに一つだけお願いをした。
「じゃあ、俺が食器を洗い終わるまでにアップルティーでも用意しといてくれないかな? この間のすごく美味しかったから」
「わかった! すぐに準備するよ」
そう言われたエリーは、しょんぼりとした表情を子供のように笑顔へ変えて了承した。
すぐさま椅子から立ち上がると、鼻歌混じりに食器棚へと向かった。
その後ろ姿を眺めていた裕紀は、腕を捲ると流し台と向き合った。
さすがに冷水で洗うことは躊躇われたので、温かいお湯で洗うことにする。
背後から聞こえるエリーの鼻歌をBGMに、洗剤とスポンジでゴシゴシと食器を洗いお湯で流し終えた頃には、テーブルの上に二つの白いティーカップが湯気を上げて置かれていた。テーブル中央にはちょっとした茶菓子も置かれている。
二つあるうちの椅子の一つには既にエリーが腰を掛けている。今回も満足な出来栄えらしくさっぱりした表情をしている。
流し台と台所の後片付けを終えた裕紀も椅子へ腰を降ろす。
一息ついてから黄金色の液体の入ったティーカップを口元に運ぶ。
ちょうどいい熱さのアップルティーが流れ込み、口の中を瞬く間にりんごの香りで埋め尽くす。それでいて後味がさっぱりしているので、このまま一気に飲み干したい衝動を抑えなければならなかった。
用意された市販のクッキーとも相性が良く、久々の談話をしているとあっという間に時間が経ってしまった。
エリーのことを家族とは言っているが、目を引くほどの美貌と体格を持った天才研究者。しかしながら家事スキルゼロな残念お姉さんということ以外の詳細を裕紀は知らない。
なので、エリーの母国のことや通っていた大学の話などはどれも聴いていて飽きない。世界中を旅していたという話が出てきたときは夢中になって聞き入ってしまった。
もっと沢山の話を聴きたかったが時間が待ってくれるはずもなく、ふと視界に入った時計はもう七時を回っていた。
玲奈の指定した時間まで、もう一時間くらいしかない。
そろそろこのお茶会もお開きにしようと、カップの中に留まるアップルティーを飲み干そうとしたときだった。
「そろそろ時間ではないかい?」
クッキーを細い指で一つ摘んだエリーが、不意にそう裕紀に告げた。
時計を見るまで時間に気付かなかった裕紀とは違い、エリーは談笑をしながらもちゃんと時間のことも気に掛けてくれていたらしい。
「うん。そろそろ向かわないと間に合わないかな」
この時間はすぐに終わるものだと解ってはいたものの、いざその時が来るとどうにも口調が沈んでしまう。
そんな裕紀を見たエリーは、アップルティーを飲み干すと無言で立ち上がった。
「エリー?」
「少し待っててくれ」
不思議そうにそう名を呟いた裕紀に微笑みを浮かべた彼女は、すぐに自室へと繋がる扉の向こうへ姿を消してしまう。
エリーの行動の意図が読めなかった裕紀は、残り少ないティーカップの中身をちびちびと飲みながら帰ってくるのを待つ。
数分後、目的を果たしたらしいエリーは青色の小さなケースを持って戻って来た。よく装飾品などが入った長方形のケースだ。
再び椅子に座り、テーブルの上に置いたその入れ物を裕紀は興味深げに見る。
その視線を察知したエリーは、小さく微笑むとそれを裕紀の目の前へ差し出した。
「開けてみて」
そう促すエリーの言葉に従い、貴重なものを扱うようにゆっくりとケースの蓋を開く。
蓋の下から姿を見せたものは綺麗に折り畳まれた布の上に乗せられた、純白をそのまま形にしたかのような宝石のネックレスが入っていた。
「これは?」
今まで見たどの宝石よりも美しく、それでいて自分に馴染むような妙な親近感を持ってしまうその石のことを裕紀は聞いた。
不思議そうにそう尋ねられたエリーは昔のことを思い出しながらか、人差し指を顎先に触れさせながら答えた。
「これは私の宝物さ。研究者として世界中を渡り歩いていたころ、ある国の小さな村で貰ったんだ。これを君に受け取って欲しい」
懐かしそうにネックレスを眺めながらエリーは裕紀にそう告げた。
出会ってからエリーがアクセサリーを身に付けていた記憶がない裕紀は、随分長い間こうして保管されていたことを知る。
彼女がずっと身に付けずに保管していたのは、何かあったときに傷付くのが嫌だったからか。
それでも、目の前の綺麗なネックレスがエリーにとってとても大切なものであることは裕紀に伝わっていた。
「そんなに大切なものを俺が受け取るわけにはいかないよ。俺が持ってたらきっと傷付くだろうし」
だから、手に取ってみたい気持ちを抑えて裕紀はエリーの申し出を断った。
しかし、持ち主のエリーは微笑みながら首を振った。
「そんな危険な今だからこそ、これを君に受け取って欲しいんだ。私が最も愛している君に、最も大切にしているものを授けたい」
エリーには裕紀が魔法使いとして危険な道を歩んでいることは話していない。
だが重傷者を匿って貰ったりしていることから、裕紀が何者かに襲われたことは知っているのだ。
これはエリーの裕紀に対する心配の表れだ。それでいて裕紀が挑んでいるであろう大きな障害を打ち破れるよう願ってくれている。
それらすべての感情が、目の前のネックレスに込められているのかもしれない。
「わかった。これは御守りとして貰うよ」
そう応えケースの中のネックレスを受け取ると自身の首元に付ける。
ネックレスを始めとする装飾品を身に付けるのはこれが初めてだったので似合うか不安に思うが、エリーが満足そうに微笑むのを見てそんなことは気にならなくなった。
「さぁ、長く引き留めてしまったね。時間は大丈夫かい?」
満足そうに微笑んでいたエリーだったが、やはり時間には厳しい。
だが、午後七時半を回りそうともなれば裕紀も焦らなければならなかった。
「まあ全力で走ればぎりぎり間に合うかな」
「うむ。カップは私が洗っておくから、早く行くといいよ」
モノレールで二十分の距離を三十分で走るのは些か無理があったが、この二人にそんな心配は無用だ。
なにせエリーは、そんな変わった身体の裕紀を研究するために日本へ来ているのだから。
机の上に広げられたティーカップと茶菓子の入った器を持ったエリーにそう言われ、裕紀は信頼の頷きを返した。
それともう一つ。
「あ~、あと柳田さんのことなんだけど」
半ば成り行きで匿ってもらい、治療までしてくれているエリーに申し訳なさそうに言う。
だが、そんなことなどとっくに承知しているとでも言いたげにエリーは言い返した。
「彼女のことは任せるといいよ。私のやれることは尽くすつもりだ。絶対に目覚めさせてみせるから安心してくれ」
「・・・ありがとう」
柄にもなく頭を下げた裕紀に、エリーは胸を張って答えた。
「それを言うのはまだ早い気もするが、ここはドウイタシマシテと言っておこう」
なぜか片言の日本語でそういったエリーに見送られて、裕紀は研究所から外へ出た。
夕方から夜にかけて天候が崩れかけていたのか、研究所から出た裕紀を出迎えたのは星々が瞬く夜空というわけではなかった。
こんな時くらい綺麗な夜空を見上げたかったが、そんなことを愚痴っても仕方がないだろう。
制服の下に隠れているネックレスの、純白の宝石を服の上から軽く触れる。
(ありがとう、エリー)
熱はないが不思議と暖かな気持ちになった裕紀は、研究所にいるエリーに向けてそんな気持ちを込めた。
それから遠くに見える八王子市街地の光を強く眺めると、裕紀は再び特訓を受けるために、月夜家のお寺へと向かった。




