特訓と、二度目の異世界(5)
汗を滝のように流し、息を荒げて朦朧とした意識のままの裕紀は、特訓の終了時刻たる午前六時を回る前に月夜家のお寺に帰ってくることができた。
これで朝食を食べることができる、そう安堵できるのは多分この特訓に慣れている魔法使いだけだろう。
ランニングを終えて帰ってきた魔法使いたちは苦もない表情でお寺へ入って行くが、正直裕紀にそんな体力はなかった。
皆がお寺へ入っていく光景を、裕紀は門の柱に背中を預けながら体感で十分近く眺めていた。
お寺に着いてすぐに鐘の音が鳴り響いたので、こうしてゆっくりしていると時間的な余裕も無くなってくる。
遅くとも八時には登校しなければならない裕紀としては、もう朝食を食べる準備をしなければならないのだが、いかんせん足が動かない。
仮に立って歩けたとしても数歩歩いたところで倒れそうな気がしてしまう。
こんな時こそ救護班の出番であろうと思えてくるが、どうやらそれはランニングの時のみらしくお寺から誰かが出てくる気配はなかった。
その代わり、少し意識に余裕が生まれたためか遠くない場所から荒い呼吸音が聞こえてくるのに気が付いた。
自分以外にもこの特訓について行くのが精一杯な魔法使いがいるのかと、少々興味本位で視線を向けてみる。
やや広めな砂利の上には裕紀以上に疲弊しているましろが、大の字になって寝転がっていた。
そこら辺にジャージを脱ぎ捨て、汗でぐっしょりと濡れたシャツのまま寝転がっていることから相当体力を消費しているらしい。
ぐしょぐしょに濡れたシャツが身体に張り付くことで、ましろの肢体の輪郭がはっきり見え、火照る顔がさらに熱くなる。
そんなことより疲弊している姿が心配になった裕紀は、汗で髪が額にくっついているましろを眺めながら疲れた声で尋ねた。
「ましろさん・・・大丈夫、ですか?」
もはや声を続けさせることさえ困難な裕紀の問い掛けに、ましろは空を見つながら途切れ途切れに言った。
「全然、大丈夫、だよ・・・。これっぽっちも、きつくなんかないから」
明らかに辛そうなのにそう言うのは、後輩への強がりだろうか。
だが、この疑問をましろに問い掛けたとしても本人が良い気持ちになることはないことを分かっていた裕紀は、薄っすらと苦笑を浮かべるだけにした。
十一月も終わりに近づき冬の朝独特の冷えた空気を肌で感じる。
火照った身体には冬の寒さもちょうど良く感じるが、もうしばらく時間が経てばすぐに寒くなるだろう。
汗だくの二人は汗が冷えて風邪をひく恐れがあったが、もう少しここで体を休めたいというのは二人とも同じようで一様に動こうとしない。
しばらく荒い呼吸を落ち着かせていたところに、ザクザクと砂利を踏む音が聞こえた。
おそらく、今日の特訓の参加者で二人だけ帰って来ていないことに気づいた誰かが様子を見に来てくれたのだろう。
音の方向へ視線を向けてみると、案の定一人の男性魔法使いがジャージのまま歩み寄って来た。
それは、男性にしては長く伸びた黒髪を後ろに結んだ昴だった。
昴はましろと裕紀へ順に視線を送り、裕紀へ微笑みを向けた昴はましろを見下ろすなり呆れた表情に変えた。
「後輩は座ってるだけなのに、先輩のお前がこんな所で寝転ぶな。それとさっさと立て。なかなか戻らないからみんな心配してるぞ」
大の字に転がるましろの頭の上でそう言う昴に、ましろは唇を尖らせて反論した。
「だって疲れたんだもん! もう体動かないし、もう少し休ませてくれたっていいじゃん」
なんだか子供のような言い分に、昴は呆れ果てたと言うように深々とため息を吐く。
「お前はガキか。そら、歩けないなら俺が連れてってやるから」
「え、ほんとっ!? て、なんで襟首? ちょ、ちょ引っ張るなー!」
ましろが何処となく嬉しそうな反応を見せたのも束の間、むんずとシャツの襟首を掴まれて引き摺られると喚き出した。立ち上がれずにジタバタと弱々しく暴れるところから、まだ立てるほどに体力が回復していないのだろう。暴れることで胸元がたゆたゆと揺れていたが、そこは気にしないことにした。
そんな光景を苦笑いとともに眺めていた裕紀に、ましろの投げ捨てたジャージと本人を両手に持った昴が言った。
「初日でペナルティは褒められたことではないが、あの距離をよく走りきったな。ただ、もうそろそろ朝食の時間だからお前も早く戻れよ。汗だくのままメシなんか食いたくないだろ」
「あ、はい。わかりました」
少し疲労の薄まった裕紀の言葉に頷いた昴は、そのままましろを連れてお寺へ歩いて行った。
確かに、汗を流さないで朝食を頂くのは周りの人にも迷惑をかけてしまう。
そう思い立ち上がろうとするものの、この根性無しの両足はしばらく言うことを聞きそうにない。
(これじゃ学校で隠す以前に何かあったことバレバレだな)
しかもこの様子では朝食の時間すら間に合わないのではないだろうか。
走っている間、生命力を終始送り続けていた結果とはいえ自分の足腰の軟弱さに落ち込むしかない。
「はぁ」
白い息と一緒に深々とため息をついた裕紀は門の柱に頭を預けて空を見上げた。
さすがに六時過ぎともなれば冬の空も明るくなり、薄っすらと青空が広がっている。
一つの雲もないことから、空気がとても澄んでいることが分かる。
ただ、鳥の一羽でも飛んでいれば少しは賑やかになりそうだが、今は一羽も飛んでいない。
これでは綺麗な青空もやはり寂しい。
「こんなことで最後までやり通せるのかな」
そんな心細さに、裕紀は思わず一人呟いていた。
昴からは褒められたものの、裕紀としては初日でこれではまだまだだ。
自分でももう少し走れると思っていたのだが予想以上に厳しいものだった。
彩香もこの特訓をやってきたのだと思うと、体育の時間での化け物じみた成績も頷ける。
そして、そのことも知らずに勝負意識を持っていた自分が恥ずかしくなり、彩香には申し訳なく思ってしまった。
「私は、あなたには才能があると思いますよ」
沈んだ気分で空を見上げていた裕紀に、透き通った綺麗な声が届く。
視線を空から声の主へ向けると、玲奈がこちらへ歩いて来た。
走っていたときに結んでいた黒髪は解いてあり、髪を結んでいた白いリボンは手首に巻いてある。
独り呟いた言葉を聞かれていた恥ずかしさを隠すためについ本音が漏れてしまう。
「才能なんてありませんよ。こんなザマなのに」
とことん自分自身を蔑んだ裕紀の言葉に、玲奈は素直な表情で首を傾げた。まるで裕紀の言っていることを理解できない、とでも言うように。
「そうでしょうか? 初回から難易度を引き伸ばしたこの特訓で最後まで走れる初心者はそういませんよ? 体力に自信のある人でも、常に体力を削られている状態ではまともに走れないはずなのに、あなたはそれでも走り抜いてみせた」
「俺はただ、諦めたい自分に負けたくなかったから。その結果残ったのは、歩けないほどに疲弊した俺なんですよ」
決戦まで時間がないことと、早く魔法使いとして戦いたい気持ちが入り混じり裕紀の中で焦りとなっていた。
このままではいけない。もっとやれる。周りよりもできるようにならなければならない。
大切な存在を守れるほど、強くならなけらばならない。
そんな裕紀の焦りを鋭く感じ取っていた玲奈は、正面でしゃがむと裕紀と同じ視線で話した。
「大切なことは体力を付けなければならないことでも、早く魔法を習得することでもないです。こうして物事を最後までやり通す、その覚悟が重要なのです。まだ実感はないかもしれませんが、魔法使いに最も必要な要素をあなたはもう持っていることを私は確信している」
(だとしても、こうして力にできなかったら意味なんて・・・)
要領を得ない表情の裕紀に玲奈はため息は吐かなかった。
その代わり、裕紀の黒髪を白く華奢な手で一度撫でると赤い瞳を黒い瞳に合わせて言った。
「大きな力だけが強さの証ではありません。私は、あなたの内に眠る才能を信じる。だから、あなたは魔法使い新田裕紀を信じられるようになってください」
絶対に視線を離さないという意志を感じ、この言葉が偽りのない言葉であることを裕紀は信じることにした。
「ともあれ、今は朝ごはんです。早く戻って身支度を整えて下さい」
そう言い、肩で裕紀を支えてお寺へ向かう玲奈に裕紀は頼もしさを感じていた。
女性に肩を貸して貰わねば歩けないほどに裕紀の体力は少ない。魔法使いとしても、今の時点ではコミュニティの足手まといにしかならない。
それが今の新田裕紀だった。
(そんな自分を信じる、か)
玲奈に支えられながら、ただ裕紀は玲奈に言われた言葉を噛み締めていた。
特訓から戻りシャワーで汗を流してから制服に着替えた裕紀は、小さな食堂のような場所へ向かった。
既に食堂には何人もの魔法使いたちが集まっており、様々な職場の制服に着替えて待っていた。
微かに鼻をくすぐるのは香ばしい味噌の香りだ。チラッと机を見ると、椅子に座る魔法使いたちの眼の前には既に幾つかの食事が並べられていた。
一人の魔法使いがようやく最後の一人が来たことに気づいて手を挙げた。
「おーっ。ようやく来たか! 待ちくたびれちまったよ」
遅くなってしまったことを責められると思い身構えてしまったが、そういうこともなく寧ろ歓迎されたような声掛けにぽかんと口を開く。
声を掛けても反応が返ってこないことを不審に思ったのか、手を挙げた男性が眉を潜める。
その反応を見てようやく裕紀の脳が正常に稼働を始め、どういう反応をするべきかあたふたする。
そんな裕紀の背後で穏やかな声が掛けられた。
「そんなに硬くなる必要はないでしょう? ここは月夜家の敷地内であり、アークエンジェルの施設の一部でもある。ここにいる魔法使いは仲間であり、家族として扱ってもらって構いませんよ」
「そうだぜ! お嬢の言う通りだ!」
そしてそんな玲奈に賛同する者は、ここにいる魔法使い全員だった。
ここにいる全員が、このアークエンジェルという組織を家族のように大切にしていることが、入ったばかりでも分かるほどだった。
「さあ、あなたも早く座って。朝ごはんはゆっくり落ち着いて食べましょう」
「はい」
自分の所属するコミュニティが仲間を大切にする場所であることに安堵しながら、席を勧めてくれた昴の横へと腰をかけた。
昴の目の前に座る私服姿のましろの隣の席に玲奈も静かに腰をかける。
体力は回復したのか、ましろはもう目の前の朝食のことで頭がいっぱいのようだ。
朝食を前に瞳を輝かせるましろは、端から見たらお預けを食っている子犬のようで何だか微笑ましい。
月夜家もといアークエンジェルメンバーの今日の朝食は、目玉焼きに白米と味噌汁というものだ。
好き嫌いの少ない裕紀はもちろん食べることもできるし、目玉焼きに関してはエリーとの朝食で幾度となく作っている。
だだ、気になる点が一つあった。
特訓が厳しく朝食が用意されてから時間が経ってしまったためか、美味しそうな見栄えの朝食は冷めてしまっているようだ。
今日一日の最初に口にする食べ物と言っていい物が冷めていては、元気の出るものも出ないだろう。
これは温め直してもいいのだろうか?
「あの、これって温めても」
そう思い、号令を言う前に目の前に座る玲奈へ尋ねてみる。
しかし、その質問は最後まで続くことはなかった。
「では皆さん、今日も一日、社会人として学生として精進して下さい。いただきます!」
「いただきます!」
裕紀の質問を完全に無視した玲奈が手を合わせて号令をかけたのだ。
それに続いて手を合わせ号令をしたメンバーの流れにつられて、裕紀もいただきますを言った。
号令が食堂を満たした次の瞬間、裕紀は普通では信じられない光景を目の当たりにしていた。
目の前の朝食に手を付ける前に、魔法使いたちが一斉に冷めたご飯へと腕を伸ばしたのだ。
いったい何をするのだろうか。
そう思った裕紀の目の前で、魔法使いたちは揃って同じ言葉を口にした。
「ヒート!」
食堂に集う魔法使い全員がそんな言葉を発声すると、それぞれが持つ魔晶石から文字でつくられた真紅の帯が朝食に纏う。
ここにいる魔法使いと同じくらいの数はある帯に裕紀も見覚えがあった。
異世界で動けなくなってしまった裕紀へ彩香が魔法をかけたとき、色合いは違うが同じように魔晶石から現れた文字の帯が裕紀に纏っていた。
「これも魔法? でも、どうして今こんなことを?」
魔法を使っているということは理解できても、その用途を知らなかった裕紀の呟きは仕方がないだろう。
そんな裕紀を見た昴が、この行動に説明をすることは当然の処置だった。
「この魔法は熱に関係する特性を備えていてな。物体そのものに熱を放出させることで、熱がない物に熱を与えたりできる。ただ」
「そうなんですか!?」
昴の言葉を最後まで聞かずに、裕紀は辺りの朝食を見回した。
見れば魔法がかけられた朝食たちは冷めたことで失っていた白い湯気を上げていた。
それを見るだけでも、昴の解説が本当なのだと判断できる。
いちいち電子レンジを使わずとも詠唱一つで冷めた食べ物を温め直せるとは便利な魔法だ。
早速、食堂に入る前に玲奈から手渡された群青色の魔晶石を手に持って詠唱を唱える。
「ヒート!」
スフィアキューブに生命力を送る感覚で魔晶石へと意識を集中させた途端、裕紀の詠唱に応えるように魔晶石から真紅の帯が現れる。
それは裕紀の期待通り冷め切った朝食を包むように纏うと、仄かに真紅の輝きを放つ。
しかし、直後。
ブジョアアア! と奇怪な音を発した目の前の朝食たちは、光が四散するとともに大量の蒸気を生み出して食堂を満たした。
「うおっ!」
「あの新人やりやがった!」
などと白煙の中でそんな言葉が次々と耳を突き刺し、裕紀は遅まきながら自分がしてはならないことをやらかしたことを自覚する。
しかし、この事態における対処の仕方を知らない裕紀は目を点にして座っているしかない。
そんなとき、誰かが魔法で風を起こしたのだろう。
食堂に霧のように立ち込めていた蒸気が、風により外へ押し出された。
ようやく状況が認識できる状態となった裕紀は、自分の朝食を恐る恐る見下ろす。
裕紀の視線の先には、見るも無残な姿へと変貌を遂げた朝食がそこにあった。
「あああっ!」
皿の上でぷすぷすと音を立てている朝食へ悲惨な声を上げた裕紀に、なぜか周りと比べて被害の少ない玲奈が静かに言った。
「その魔法は加減を間違えると対象を丸焦げにできるまでの熱を生み出します。魔力制御ができないあなたが何も考えずに魔法を使えばこうなるのは当然です」
「ま、人の話は最後まで聞けってことだな」
「すいませんでした・・・」
はっはっは、と笑いながら言った昴はそのまま白米を口に運んだ。
せっかく作ってもらった食事を台無しにしてしまったことへの申し訳なさに、肩を落としていた裕紀に玲奈の静かな声が届く。
「黒焦げになったご飯は勿体無いですが、朝食を食べないのは良くはないですね。確か今日、臨時で休みとなった人の分が残っているのでそれを食べるといいですよ」
先ほどの騒ぎからずっと平然と朝食を食べ続ける玲奈のことが気になるも、周りの魔法使いも朝食を食べ始めている。
いい加減、裕紀自身も朝食に手をつけなければ学校に間に合わなくなるだろう。
お言葉に甘えて食事を取りに、裕紀は席を立つ。
「最初は気楽にやりなよ。魔法使いなんて、皆最初は同じなんだから」
厨房まで歩んできた裕紀に、まだ二十代後半の女性が微笑みながら温めた朝食を渡した。ボブショートに切られた髪は、玲奈の黒髪に劣らないほどに艶やかだった。
渡されたお盆の上で湯気を立てる朝食を一瞥すると、裕紀は一度頭を下げた。
「せっかく作ってくれたご飯、無駄にしてしまってすみません。早くこの魔法を覚えて、美味しいご飯を無駄にせずにいただきたいです」
裕紀に魔法一つ失敗したところで気を落としている暇などない。
目的を果たす為には、こんな自分も受け入れ前を向いて愚直に取り組むしかないのだ。
焦っていても何も変わりはしないことを玲奈の言葉から少しだけ理解することができた。
そのまっすぐな誠意を感じてくれたのか、厨房に立つ女性は腕を捲ってみせた。
「ふふっ。私の腕もまだまだだけど、そうやって頑張ってくれるのなら作り甲斐があるわ。焦らずに特訓頑張ってね」
「はい!」
はっきりとそう返事をしてから、裕紀は自分の席へ戻ってようやく朝食に口を付けた。
他人の作る朝食を食べた記憶がほとんどない裕紀は、心が安らぐ温かな味に、皿が空になるまで箸を動かし続けた。
一日遅れのハッピーハロウィン




