特訓と、二度目の異世界(3)
魔法の特訓に没頭しすぎてしまった結果、既に日付変更まで残り十分となってしまったからにはもう晩御飯を買ってくる余裕もない。
そのため、裕紀は今日の晩御飯は諦めることにして責めてシャワーだけは浴びるために、案内されたばかりの浴場へと向かう。
学校指定ののシャツで静かな廊下に出た裕紀は、冬の夜独特な静けさと寒さに身を震わせながら、玲奈から提供された寝巻きとバスタオルなどを片手に浴場の入り口あたりまで歩く。
昔は何をしていたのか、このお寺には何故か浴場が二つある。
しかもご丁寧に男風呂と女風呂まで分けられていた。一般家庭においてこんな豪華な家もそうそうないだろう。
どうやら時間の兼ね合いもあってかお風呂はないようだ。まあ、あまりゆったりもしていられない状況では安心して湯船に浸かることもできまい。
明日は早起きせねばならないし、今日はシャワーだけでいいだろう。
玲奈の通う大学のサークル仲間ということになってはいるが、この時間帯でしかも女子大生の家の中を勝手に歩かれでもしたらさすがに親が黙っていないだろう。
そんな考えを巡らせながら、物静かに浴場へと足を踏み入れた。
人が入ったことでセンサーでも作動したのか脱衣所に明かりが灯った。
(昔は銭湯でもやっていたのだろうか?)
この家の構造に合わせて目の前に広がった風景を見てしまえば、そう思えてくるのも仕方がなかった。
もはや本物の銭湯と比べても遜色のない脱衣所と、扉越しでもその奥には広い空間があることが想像できる浴室。
銭湯の浴場を一人で貸し切りで使えた経験がない裕紀は、開放感と僅かながらの淋しさを感じながら着替えを済ませて浴室の中へと入った。
幸いと言うか当たり前と言うか、広い浴室にはゲームやアニメなどでよくありがちな先客はいなかった。
代わりという事でもないのだろうが、男湯と女湯を隔てる壁が薄いという些細でも大きな問題が待ち受けていたのだが。
さらに、その壁の向こう側から突如何やらおかしな奇声が届いた。
それが誰の声なのかは分からなかったが、取り敢えず隣で誰か(十中八九女性だろう)が裕紀と同じように入浴しているということは判断できる。
まさか先客が隣の浴場を使用していたとは、予想外の展開に裕紀は少なからずあたふたする。
そんな彼の精神に追い打ちをかけるかのように、少ししてからお湯の流れる微かな音が聞こえてくる。
細々と分散したお湯が何かに当たることで弾ける柔らかな音。
隣では女性であろう何者かが無防備な姿でシャワーを浴びている。そうと意識した途端、無自覚に裕紀の鼓動が早くなった。
別に、普通の銭湯なら壁一つ隔てた浴室で異性の誰かが入浴なりシャワーを浴びていてもここまでにはならない。そもそも、こんなに壁が薄いこともそうそうないだろう。
しかし、こうも隣の浴室の音が聞こえていてはどうしても羞恥心が先行してしまう。
そう、これは決して裕紀にやましい気持ちがあるわけではなく、人には誰でも存在する感覚なのだろうと勝手に思い込むことにする。
すると、そのことに対してバチでも当たったかのように裕紀は背筋に寒気を感じた。
(なんだ、この寒気)
完全にシャワーの温度に満たされている浴室で寒気を感じるなど、体調が悪い以外には考えられない。
風邪でも引いてしまったかと思ったのだが、特に体の調子が悪いというわけでもない。
正体不明の悪寒に首を傾げながらも、万が一ということで背筋を走った寒気を追い払うようにやや設定温度を高めに変えてお湯を頭から被った。
唐突に裕紀を襲った寒気は水温を上げることで特に気にならなくなったが、身体を洗うときなどこちらの水音が途絶えることで浴室が静かになると聞こえてくる別の音はどうにも気にすることができない。
隣から微かに漏れ聞こえてくる音については気にするなと自身に言い聞かせるも、その暗示が逆に向こう側へ意識してしまう羽目になった。
結局、隣から聞こえてくる魅惑的な音に耐え切れなかった裕紀は、頭と身体を十分以内にしっかりと洗い流すとすぐさま浴室から出てた。
身体を拭きながら襲い掛かってきた羞恥心と緊張を治めてから、上下ジャージというラフな寝巻きに着替える。
眉までかかるやや長い黒髪を乾かし終えてから借り部屋へ移動した裕紀は、さっさと学校の支度を済ませて敷布団に寝転がった。
裕紀の住んでいるアパートやエリーの研究所にある寝床には当然のようにベットが備え付けられている。
寝るときは大体ベットに潜っている裕紀は、敷布団に寝転ぶというのは数少ない経験だった。
ただ、そんな経験に対して思う感情は、シャワーを浴びたことで押し寄せてきた今日の特訓の疲労によって押し流されていった。
正直、自分自身の生命力を操るなどという不明瞭な特訓は辛いか楽かで言えば楽とは言えない。
目に視えない、ほとんど感覚だけを掴むと言っても過言ではない特訓に何時間も励むことは精神的に辛いものがあった。
今日最後の特訓も自分では手応えを感じていたつもりでも、実際にあの石が動いた様子はなかった。
初日で簡単に動かせるほど今やっていることが簡単ではないことくらい分かっているつもりだった。
だが、過去の自分では体感したことがないくらいに集中していたあの時の裕紀の心には、成功してほしいという願望が僅かでも芽生えていた。
ただ、その願望は決して悪いことではないと裕紀は思う。
何事も上達するためには自らそれを望む強い意志が必要だと昔からよく言うだろう。
「ふぁあ」
寝転びながらそんなことをぼんやりと考えていた裕紀は、押し寄せてきた眠気により大きな欠伸を一つした。
どうやら、いよいよ思考よりも疲労と眠気が勝ってきたようで、欠伸をしたことがきっかけに瞼が重くなっていく。
『集中するのもいいですが、しすぎても良くない』
道場で玲奈が言った一言が脳裏を過ぎる。
あの言葉は生命力操作において必要な助言なのだろうが、考え方を変えれば日常でも言えることだ。
頑張りすぎは時に良いこともあれ、場合によっては自分に仇となって返ってくることもある。
まあ、明日は今日より過酷な特訓が待ち受けていることは間違いない。
夜更かしをせずに早寝を心がけたほうが、後々身体を壊さずに済むというものだ。
一番最悪なのは、身体を壊したことで決戦の日に戦えなくなることだ。
今日学んだことを、そしてこれから学ぶであろうことを無駄にしないためにもゆっくりと身体を休めるべし。
護身術の師匠たる飛鳥でも、魔法使いとしての師匠である玲奈もきっと同じことを言うだろう。
(とにかく疲れたしな。明日は早いし、疲労を少しでも軽減させるためにもう今日は寝よう)
そう考えて部屋の明かりを消した裕紀は瞳を閉じて睡魔へと身を委ねた。
しかし、何か一つやり忘れていることがあるようなそんな気がしてしまう。
数分ばかり目を閉じながら記憶の棚を探ってみても差して思い当たる事柄はなく、
(ま、大切なことならすぐに思い出せるだろうし別に大したことじゃないだろ)
そう結論付けた裕紀はそこで思考を打ち切り、今度こそ深い睡魔のまどろみへと意識を委ねたのであった。
月夜玲奈の弟子となってから二日目の朝。
裕紀は朝五時の特訓に間に合うよう、少し余裕を持って三十分早く起床した。
季節が冬なだけに外はまだ暗かったが、裕紀の目はいつも以上に冴えていた。
こんなに早く起きるのも珍しいが、ここで二度寝をしてしまえば恐らくもう起きれまい。
寝坊してしまえばどうなってしまうのかは容易に想像できたので、このまま布団から出て敷布団と毛布を綺麗に折りたたむ。
朝食に関しては特訓が終了次第全員で食べるらしいので、寝巻きのジャージから学校指定の体育着に着替えて洗面所へ向かう。
急いでいるとは言え、身だしなみを整えることは人として当たり前のことだ。
顔を洗い口を濯いでから、ぼさっと寝癖のついた頭髪を水だけで整える。
頭髪に関しては大雑把な裕紀は、やや跳ねている部分は気にせずに大体こんなものだろうと納得してから洗面所から出る。
洗面所から出た裕紀は、突然視界に現れた黒い影にぶつかりそうになり身を仰け反らせた。
驚き顔の裕紀の目の前には、同じように髪の乱れた女性が立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます、玲奈さ・・・ししょ・・・」
誰が見ても寝起きと分かるような気の抜けた声で挨拶された裕紀は、ばったりと会ってしまった師匠に挨拶を返した。
名前で呼ぶべきか、それとも師匠と呼ぶべきか中途半端に口ごもった裕紀の横を通り過ぎた玲奈は鏡と向かい合いながら眠そうな声を発した。
「別に玲奈でいいわ。名前呼びはあまり気にしていないから」
「は、はあ。えっと、では、玲奈さん」
「ん?」
さすがに呼び捨ては良いとは思えず、無意識にそう呼んでいた裕紀に玲奈は短い返事をする。
どうやら何か用事があると思われているらしいが、今この場でするべき質問を裕紀は思い浮かべられない。
(いや、でもこの人に聞きたいことは沢山あるよな。コミュニティのことや後藤先生との関係も知りたい。このお寺についても聞きたいし、何より・・・)
次から次へと思い浮かぶ疑問の数々から、裕紀が言葉として声に変えた疑問は一つだった。
「どうして、俺の協力に応じてくれたんですか? あなたたちならすぐにでもあの男を倒して、柳田さんを救えるはずなのに?」
魔法使いとして目覚めた裕紀に一から魔法を教えるのは、今更ながらに時間が掛かることだ。
そんな時間があれば男への対策を立てて、彩香とどのような関係なのかは不明だが玲奈たちのコミュニティ≪アークエンジェル≫が男を倒せるはずだ。
「確かに、私たちが本気で動けばあの男を早急に始末することは可能ね。でも、あなたはそれを望むの? あなたは何がしたくて、どんな気持ちでここにいるの? 決して、他人が自分の犯した過ちを正すことを待っているわけではないはずよ。ましてや、自分の宿敵を倒すこともね」
しかし、玲奈はその事実を肯定したのちに裕紀へそう問いかけた。
彼女の言う通り、誰よりもあの男を倒したいのは目の前で守るべき存在を傷付けられた裕紀だった。
「まあ、急がなければならないのは事実だけど」
「え?」
そう再認識させられた裕紀には聞こえないほどの声音で玲奈が何か言ったようだが、残念ながら上手く聞き取ることは出来なかった。
言及を逃れるためかそのまま鏡に向き直ってしまったので聞き直しても無駄だろう。
「いつまでそこにいるの? あまり見られると恥ずかしいのだけど」
「あっ! いや、すみません! すぐにここから消えますのでッ」
それよりも玲奈からそんな指摘が飛んできたので、裕紀は慌てながらやや大袈裟気味にそう言って洗面所のドアを閉める。
誰でも自分の身だしなみを整える場面を他人に目撃されては恥ずかしいのも当たり前だ。
しかも相手は異性で、数秒とはいえ注視されればどんな忍耐力を身につけた者でも耐えかねないだろう。
玲奈はどうかは分からないが、実際に裕紀は動揺してしまっている。
(こんなところを瑞希たちにでも見られたら一生からかわれるだろうな・・・)
光に関しては男の仲ということもあり手加減をしてくれるだろうが、瑞希はどの程度で済むのか予想がつかない。
それ以前に、見知らぬ女性の家に一度でも寝止まりをしてしまった裕紀の現状を知れば、からかうよりも二人からど突かれそうな予感がする。
この件に関しては如何なる相手にも知られてはならない。
これは裕紀の人生でも一位、二位を争うほどの秘密事項であることは間違いないのだ。
(責めてこれから始まる特訓の疲れは隠さないとな)
普段は遅寝遅起きが日常茶番時で(そのせいでたまにお呼びが来るくらいだ)疲れなどあまり見せない裕紀が、突然疲労困憊の様子で登校してきては違和感がある。
適当に走ってきたと言い訳すればそれだけの話なのだが、少しでも捻られた質問が飛んできた場合に何と答えるのか困ってしまう。
早朝特訓のメニューを知らされていないのでこれから何をするのか分からないが、体力には少々自信があるので何とかなるだろう。
玄関で運動靴に履き替えてまだ薄暗い外へ出た裕紀は、そう思った数十分後に悲鳴をあげることになるとはまだ知らなかった。
午前五時を回る頃には、月夜家のお寺の門には十人くらいの魔法使いたちが集まっていた。
そこには昨日の夕方に顔を出していた面々や昨日はいなかった魔法使いも参加していた。
どうやら特訓に参加する魔法使いたちは早朝と夕方に別れているらしく、どちらも参加できる方に参加する決まりらしい。
コミュニティと呼ばれるほどだから服装も統一されていると思ったのだが、見てみれば全員がばらばらなので一人学校指定のジャージだった裕紀は安堵する。
また、魔法使いとしてではなく一般人としての知り合いも多いのか、準備運動をしながらも日常的な談笑をしている人々も多くいた。
そんな中、昨日加入したばかりで一人立ち尽くしていた新米魔法使いである裕紀に話しかける人がいた。
「よぉ~新人! 昨日加入したばかりなんだって?? 調子はどうよ?」
言いながら裕紀の肩に腕を回してくる魔法使いは女性だった。
髪を短く切ったショートボブな髪型に似合う気さくな口調の女性は、ぐいぐいと容赦なく腕で裕紀を引っ張ってくる。
唐突な襲撃に対応できなかった裕紀は、ふっくらと膨らみのある胸元にいつの間にか顔を押し付けられていた。
「ちょ、やめてください! 苦しいっすから、死にますマジで!」
「おーおー、女の胸で死ねるなんてある意味幸せ者だね~。ん? でも君には想いを馳せてる女の子がいるんだっけ?」
「残念ですがいませんよ! ていうか、いても答えませんからね!?」
「先輩に逆らうとは、なかなかいい度胸してるじゃあないかぁ!」
あはははぁ! と愉快に笑い飛ばしながらさらに腕の力を強めてくる謎の魔法使い。
正直、洒落にならない力の強さに身体的な限界を感じていた裕紀は降参の合図に女性の腕を叩くも、何故か熱くなっている女性はそれに気付かない。
このままでは訓練どうこう以前に準備体操をやる前に力尽きてしまう。
「・・・何やってんだお前は」
しかし、周囲の人はその異常な光景に気付いてくれたらしい。
そう言いながら歩いてきた男性の魔法使いがヒートアップしていた女性魔法使いの頭に軽くチョップを入れた。
「あたっ!」
叩かれた女性の拘束が緩み、その隙を見逃さずに男性が裕紀の腕を引っ張った。
腕と胸の圧力から解放された裕紀は、大きく呼吸を繰り返しながら女性と男性を交互に見た。
乱入してきた男性は、長い黒髪を後ろで結んでいた。女性に何かを言っているその横顔は逞しく、発せられる言葉もテノール調の響きを持っていた。
「まったく。いつも言っているだろう。新人は丁重に扱ってやれと」
「だ、だって新米くんが一人孤立してたから可哀想だったんだもん!」
「だからと言ってお前のスキンシップは度が過ぎているんだよ。見てみろ。現にこうして距離が開いてしまっているだろう!」
そう言って指をさされた裕紀と二人の魔法使いの間には、僅かながらに距離があった。
まあ、女性から引き剥がされた裕紀がその場から動いていないだけなのだが、男が女性を戒めるために言っているということが分からないほど裕紀も鈍くはない。
案の定、裕紀との距離を認識したらしい女性はやや落ち込み気味に頭を下げた。
「うう、さっきはごめん! わたし、盛り上がると止まらない性格でさ~。君が苦しんでることを気付けなかった」
「いや、別に怪我をしたわけでもないですから。頭を上げてください」
反省している女性魔法使いにハタハタと手を振ってそう弁解する裕紀。
そんな裕紀の言葉を聞いた女性が、顔を明るくして頭を上げた。
「ほんとっ!? じゃあ、これからもよろしくしてくれるのね?」
ばびゅんっ、と猛烈な勢いで距離を詰めた女性が瞳を輝かせながら両手を掴みそう言う。
「あ、はは。はい。よろしくお願いします」
女性の勢いにやや押され気味だった裕紀だったが、純粋過ぎる女性の態度にそう言葉を発していた。
対する女性は何とも嬉しそうに、やった! と一度跳ねてから姿勢を正して名を名乗った。
「わたしの名前は赤城ましろ。得意な魔法は身体強化魔法全般ですっ! これからよろしく!」
bそう言って手を差し伸べるましろに裕紀も自己紹介をしながら手を握った。
「新田裕紀です。得意な魔法はまだありませんが、これから頑張りたいと思います。よろしくお願いします」
「うん! よろしくっ!」
にぱっと笑いながらそう返したましろの後ろから、先ほどの男性魔法使いも合流して話し始めた。
「オレは蘭城 昴だ。得意な魔法はモノを斬る魔法全般だ。よろしく頼む」
「新田裕紀です。こちらこそよろしくお願いします」
裕紀より頭ひとつ背の高い昴から手を差し伸べられ、会釈をしてからその大きな手を握る。
玲奈と握手を交わしたときも、柔らかい手に竹刀だこを幾つも感じられたが、昴の掌は男性のそれでありとても逞しかった。
「あと、コイツで困ったことがあったら遠慮なく言ってくれよ」
太いというよりは逞しい笑みを浮かべた昴は、その大きな手をましろの頭に乗せるとそう言ってくれた。
「もーっ。わたしはそんなに暴れたりしないし、迷惑もかけないわよっ!」
乗せられた手を鬱陶しそうに両手で払ってそう反論するましろの発言のあとに、裕紀は思わず一言放ってしまった。
「いえ、あれは結構キツかったですよ」
「ほらな。言わんこっちゃねぇ」
予想外の砲撃に便乗したのはもちろん昴だった。
「裕紀くん、それはアカンよー」
二人からの十字砲火に直撃したましろは、額に手を当ててそう言いながらふらふらと崩れてしまう。
その様子が妙に可笑しくなってしまった裕紀は思わず笑ってしまい、それが伝染したかのように昴とましろも二人して笑った。
なんだか不思議な二人だが、とりあえずこのコミュニティに加入してから初めて魔法使いの知り合いができたことに、内心では安堵する裕紀であった。




