特訓と、二度目の異世界(2)
(遅い、遅すぎる)
お寺に存在する幾つかの部屋のうちの、自室として与えられている部屋で大学のレポートに励んでいた玲奈は、待ち時間の長さに我慢が限界を迎えた。
夕方、玲奈はコミュニティの上官である後藤飛鳥から魔法使いになったばかりの少年の魔法の指導を頼まれた。
少年が関わっている事件が玲奈の所属するコミュニティ、アークエンジェルにも関係することから指導を引き受けた玲奈は、さっそく喫茶店から魔法の道場がある実家に帰った。
月夜家は代々剣道の道場を開いており、このお寺の道場も普段は剣術の教えを受けに多くの人が通いに来る。
もちろん、通ってくるのは魔法使いではない一般の大人たちだ。
だから昼の間は、霧の門は閉ざして普通の道場へ繋がるようにしている。
だが、夕方近くになると剣道場は使用できなくなりほとんど無人となる。
そんなお寺の道場はあまり人目に付くことはなく、同時に他のコミュニティの魔法使いに目を付けられることもないという利点を活かして、夜間だけこっそりとアークエンジェルメンバー限定の魔法使いたちの特訓の場となっていた。
だだし、お寺の関係者が見回りをする頃にはすべての特訓をやめなければならないので、全員十二時前には終わるよう規則があった。
もちろん、そのことは魔法使いではない玲奈の両親は知らない。
親には隠し事をしない玲奈の、最初の隠し事でもあった。
「何をしているのら」
ちょうど難問で手が止まっていたということもあり、持っていたシャーペンを机に置くと立ち上がって自室を後にする。
向かう先はもちろん道場だ。
時計の分針はすでに十一時を回っており、魔法の特訓で騒がしい道場もそろそろ静まる頃だろう時間だった。
実際に、部屋で勉強中だった玲奈に向けて特訓を終えた弟子たちが帰り際に挨拶をして帰って行くのを確認している。
だが、ただ一人まだ挨拶に来ていない弟子がいた。
わざわざ弟子たちの顔と名前を脳内で展開する必要もなく浮上してきたのは、今日弟子入りしたばかりのあの少年だった。
しっかり規則についても話したはずだが、集中したらきりがない性格なのかなかなか戻って来ない。
これは初日から厳しく注意が必要だと考えながら、玲奈は薄暗い廊下を歩いて道場へ続く廊下を歩く。
そんな玲奈の目の前を冬だというのに薄手の寝巻き姿の男性が歩いていた。
男性の名は月夜元蔵。
玲奈の父であり月夜流剣術の師範でもあった。
彼は魔法使いではないため魔法に関して教わる経験はないが、剣道の師範の娘という関係で剣を教わったことはある。
そして、玲奈はそれを魔法と組み合わせることで剣を用いた魔法戦闘を十八番としていた。
ただ、彼の厳格な性格は玲奈とはどうも相性が悪いらしく、剣の修行以外では必要最低限の会話をした覚えがなかった。
剣を極める者は魔法使いで言う生命力の操作を無自覚で習得するのか、道場へ歩いていた元蔵は足を止めると後ろを振り返った。
「玲奈か。こんな時間にどうした? 大学の課題は終わったのか?」
鬼のように強い瞳で、厳しい口調でそう放たれた声に玲奈は特に何も考えることなく返答していた。
「課題が少し難しかったから気晴らしに歩いていただけ」
「そうか。明日も大学だろう。早く戻って終わらせなさい」
娯楽より勉強が優先。
友達と遊ぶよりも将来のための努力をしろ。
それが元蔵の考え方だ。
自分が仕事熱心な男であり職場でも結構位の高い役職の人間だからか、元蔵の口からはそんな言葉しか溢れない。
良く言えば娘のことを考えてのことだと捉えられるが、これは厳しすぎるというものだ。
幼い頃から父の優しさというものを見てこなかった玲奈は、その言葉に何の感情も見出せなかった。
「・・・・・」
「・・・・・」
二人の間に漂う気まずい雰囲気を表わすかのように、雲に月が隠れて廊下が夜の闇に染められた。
しばらく居心地の悪い沈黙が廊下を満たした。
両者の間で発せられる緊張感か、元蔵が少し体重を移動させたのか、木製の床がミシッと軋んだ。少なくとも玲奈は一歩も動いていないし体重移動もさせてはいない。
再び月明かりが廊下を照らしたタイミングでそれまで身動き一つしなかった玲奈は、道場へ向けて歩き始めた。
「どこへ行くつもりだ?」
「道場よ」
投げ掛けられる質問にいっそ気持ちがいいほど素っ気なく簡潔に答える。
「見回りなら俺がやっておく。お前は部屋へ戻りなさい」
時間帯からこのあと玲奈の取る行動を予想したのだろう。
まあ玲奈自身、元蔵に見回りを任せたいことは山々だが、そういうわけにもいかない事情がある。
それに、いくら道場が元蔵の責任下に有ろうとも、普段は遅くに帰宅して見回りを母親に任せっきりな人に重要な役割を任せるわけにはいかなかった。
ただ単に、素人だから魔法の存在に勘付かれてしまうリスクを恐れているということもあったが。
「道場は私が見ておくわ。父さんは他の場所をお願い」
「そうか、ならば頼もう。長らく母さんに任せていたから、正直時間がかかっていてな」
父親に対しては冷たく感じられる声音すら気にしない元蔵は、仕事で疲れているせいか頼んだとでも言うように竹刀だこのある右手で玲奈の肩を軽く叩きその場を後にした。
玲奈は父親のその行動にすら反応を示すことはなく、そのまま道場へ歩みを進めた。
ただ、玲奈の握る手にいつも以上の力が入っていたことは、彼女も気付かない無意識のものであった。
案の定、魔法使い専用の広いホール型の道場の隅で特訓のメニューに取り組んでいた少年に最後まで特訓させた玲奈は、調子に乗って続けてやろうとする少年を問答無用で道場の外まで連れ出した。
ちょこっと生命力を操り遠くから襟首を掴んで歩く玲奈に最初は何か言っていた少年も、道場から出ると場所が場所だけに終いには口を閉ざしてしまった。
歳の近い女性の家で、しかもこんな時間帯に騒ぐ愚かな性格ではないことにほっとしながら、玲奈は今日少年の寝る部屋の前に立った。
向かった先が玄関でないことに少なからず疑問を抱いたのだろう。
とっくに襟首掴みから解放され後ろに立っていた少年が、怪訝そうな声音で玲奈に尋ねてきた。
「あの・・・もう帰らないとまともに眠れないんですけど」
「今日はここで泊まってもらうわ」
背後で目を見開く少年の顔を思い浮かべながら玲奈はそう言った。
「はあ・・・、・・・はっ!?」
結構大きい声で予想通りの反応を示してくれた少年だったが、玲奈は反射的に人差し指を自分の口に当てて振り向いた。
少年が家に泊まることは父親にはもちろん母親にも告げてはいない。
別に一緒の部屋で一夜を明かすということではないので両親には言ってもいいのだが、母親はともかく父親である元蔵は黙っていないだろう。
元蔵の苛立ちの矛先は確実に少年へ向くことは間違いない。
家の都合に他人を巻き込みたくはないので、結局玲奈は家族に秘密にするしかなかった。
「すみません。でも師匠は女子大生なわけですし、知り合ったばかりの男性を気軽に家に泊めたりしたら・・・」
慌てて口を噤み小声でそう意見した少年へ、部屋の障子戸を開けながら玲奈は言った。
「別に一緒に寝るわけでもないんだから私は気にしない。それに、家族には大学のサークル仲間ということで説明してあるから大丈夫」
「そうですか」
小さな嘘を織り交ぜて言った言葉に、一応少年は了解したようだ。
あまり人の事情に深入りしてこない図々しい性格でもないことに、内心安堵していた玲奈は無音の笑みを微かに浮かべていた。
「安心して。こういう生活の方が楽と思えるほどに、きっちり鍛えてあなたを一人前の魔法使いにする」
「あ、はは。お手柔らかにお願いします」
困ったような苦笑を浮かべながらも素直に言葉を受け入れた少年に、玲奈は興味を抱いていた。
まだこの特訓の本当の辛さを知らないからなのだろうが、これほどまでに一つのことに取り組める意志を持った人間も珍しい。
クラスメイトの女子を救うためだけに、少年がどこまでこの試練と向き合うのか興味があった。
そして、この少年が自分の指導だけで魔法使いとしてどこまで成長してくれるのか、玲奈は密かに楽しみにしていた。
明日の早朝特訓開始時刻ならびに浴場などの場所を口頭で説明した玲奈は、少年の部屋から自室へと戻っていた。
歩いたことで少しばかり頭がリフレッシュされたのだろう。
手が止まっていた課題も参考書片手にものの十分程度で片付け、寝る前にシャワーを浴びに行こうと部屋を出た。
このお寺には豪華なことにお風呂が二つある。
詳しい話は知らないが、昔からここのお寺には二つあるらしい。
正直な話、一軒のお寺に二つのお風呂など必要性が感じられないが、昔は昔で何か用途があったのだろう。
実際、(今回限りだろうが)あの少年にお風呂場を提供しているので、玲奈は迷うことなくもう一つの風呂場へと向かった。
入浴中の札を立てて、誰も入ってこないよう鍵もしっかりとする。
するすると私服を脱いでいき、白く細いが鍛えられたしなやかな肢体に純白のタオルを巻いた格好で浴場へ入って行く。
夜はもう寒いの一言に尽きるこの時期にシャワーだけでは心許ないが、夜更かしするのも女性としては良くはない。
そういうわけで、設定の温度を少し高めに変えてから蛇口を捻ってお湯を頭から被った。
「はぁ〜〜」
身体の芯からとは言わずとも、頭頂部から身体が温まり思わずため息が溢れてしまう。
やはり、こうして温かなお湯を全身に浴びていると生きているという実感が湧いてくる。
こうして静かに穏やかな気持ちで今日一日を締めくくるのも悪くない・・・。
『おや、ひょっとして入浴中だったかな』
「はぅっ!!?」
そう思っていた傍ら、そんな声が意識に響き渡り、玲奈の口から自分でも意外なほどに高い裏声が出た。
ついでにびくんっと体を跳ねさせ鳥肌の立つ姿は、誰にも見られなくて幸いであったと思う。
だが、目視ではなくイメージとして覗くことが可能な人物は存在する。
もちろん魔法使いであったが、今回に関しては恐らくもう一人の魔法使いと手を組んでの行為だろう。
『おや、今度は驚きの余り体を跳ねさせていたね。普段の玲奈からは想像もできない姿を観られて、私は幸せ者だなぁ』
ちょうどそんな事を考えていたところに、例のもう一人の魔法使いが再び反応をしてみせる。
どうやらこちらの様子を伺っているのは間違いないようだ。
「・・・観ていたのがあなたでなければ今すぐにでも斬り殺しに行きますよ、飛鳥さん」
せめて赤面している顔を観せないよう下を向きながら、怒りを全身で押さえ込みながらぷるぷると身体を震わせてそう呟く。
『あはは! まあいいじゃないか。昔は裸の付き合いだってあったんだし!』
覗き魔・・・否、後藤飛鳥は充分な反応を観れたためか余計な事を口にして満足したように笑い声を響かせた。
余計な記憶を掘り返された玲奈はもう言い返すことはせず、用件だけを聞くことにした。
「それで、こんな時間に何か用ですか? 明日も早いので手短に頼みたいのですけど」
『そんなに時間はとらないよ。せいぜい五分程度だ。身体でも洗いながら受け答えしてくれて構わないぞ』
そう飛鳥に告げられ、思わずボディソープを手に取ってから鋭く言い放った。
「では話す前にこの魔法を解いてください。さすがに自分の身体を洗う姿を観せるほどオープンではないです」
『ははは、それもそうだ。では』
飛鳥は浴室に笑い声を響かせて承知の返答をする。
そして、もう一人の魔法使いに指示を出しているのか数秒の沈黙のうち再び声が響いた。
『さてさて、取り敢えず新田の様子でも聞いておこうかな。どうだい? 素質はありそうかな?』
そう聞かれ、玲奈はつい数分前に少年が最後に行った特訓の様子を思い浮かべた。
特訓の過程をじっくり見るのも指導者としては当然の義務だが、魔法についての特訓はあまりその必要はない。
なぜなら、自分自身の生命力と直接に関係する魔法は嘘をつかないからだ。
サボればその腕は未熟のままであり、特訓を重ねれば初めてでも僅かながら成果は伺える。
石を動かすことに必死になっていた少年は気付かなかっただろうが、玲奈はあの大石がほんの僅かに動いた事を知っていた。
と言っても実戦で使えるようになるにはまだまだだが、初回で大石に干渉できる魔法使いはかなり珍しい。
そのことも含めて、玲奈はこれからの特訓が楽しみだった。
「今日初めての特訓で素質があるかどうかなど、見極めるのは難しいですが・・・」
玲奈は温かなお湯で身体の泡を流しながら、口元を吊り上げて答えた。
「これから期待はできそうです」
普段は感情が伺えないほどに平坦な声音の玲奈から、珍しく楽しそうな声音を聞き取った飛鳥は小さく笑いながら応答した。
『ふっ。その様子では今のところ大丈夫そうだな。まあ、無意識にも身体強化の魔法を扱ってしまうほどの奴だ。素質はあると言えるだろうな』
身体強化魔法は文字通り魔法使いの身体能力を高める魔法だ。
そしてそれは、ある程度の強化ならば生命力操作だけでも発動は可能だった。
もっとも、それも日々しっかり特訓を積んでいればの話だ。余程の素質がない限り、偶然で起こせることではない。
(しかし身体強化魔法と言えど意識せずに発動するなんて、もしかして彼は・・・)
くすくすと脳内で笑い声を広げる飛鳥に玲奈も密かに笑みをこぼしながら髪を洗う。
髪を傷つけないように優しくシャンプーを泡立てている玲奈の意識に、さっきの可笑しそうな声とは裏腹に沈んだ玲奈の声が響いた。
『話は変わるが、今日の夕方に起きた件についてなんだが』
「何かあったんですか?」
玲奈の話そうとしている内容が悪い事態であることは声音からも前振りからも想定できた。
ある可能性に辿り着こうとしていた玲奈はその思考を中断させ、髪を洗いながら鋭くそう問い詰めた。
もう言わなくても言おうとしていることは理解しているというような玲奈に、飛鳥はさらに声音を深くして言った。
『今日の夕方、ある住宅街で起きた火災の数時間後にまた一件の事件が起きた』
新八王子駅より東側にある住宅街で魔法による火災が起きたことは、喫茶店のマスターからすでに聞いていた。
だがそれ以降にこの街で起きたことは玲奈は把握できていない。
(また事件が? 今度は一体・・・)
髪に纏う泡を洗い流しながら考えていた玲奈の意識に続けて放たれた飛鳥の言葉は、最悪と言うには充分過ぎていた。
『八王子市の北側に位置する住宅街で、とある魔法使いの男が殺された。魔法使いによる殺人だ』
飛鳥の言葉を聞いた玲奈は、思っていたよりも早く少年を魔法使いとして育てなければならないのかもしれないと、張り詰めた緊張感の中でそう思ったのだった。




