黒化
二〇六七年、十一月三十日、午後五時二十九分。
黒いローブを目深に被った男性はとある家の前で立っていた。
今朝、魔法使いのターゲット暗殺任務に赴いた際に両刀の魔光剣を使う女子高生に致命傷を負わされた魔法使いだった。
どうして誰が見ても瀕死の状態だった男が、こうしてすぐに復帰できたのか。
それは男が仮に契約している魔女のおかげだった。
ただ、自分と同じほどの致命傷を負わせた女子高生が退避したあと、何が起こっていたのかは男は知らない。二箇所の傷による激痛と大量の出血により、文字通り生命の危機に陥っていたのだ。
憶えているのは、ターゲットである男子高校生の救援として現れた女子高生の他に、もう一人の黒髪の女性が剣を手に歩み寄ってくるところまでだ。
固いコンクリートの床の上で目を覚ました状況を察するに、あれから魔女に助けられたことは容易に考えられた。
男の傍に座っていた魔女は、男が覚醒したことに気づくと相変わらず心の読めない妖艶な笑みを浮かべながら男の傷口に魔法をかけた。
彼女のかけた治癒魔法により、完全ではないものの十分魔法が使えるまでに男は回復していた。
それがつい半日前の出来事なのだから、つくづく男が仮契約している魔女の実力は底が知れない。
だが、失われた右腕は肌が黒く変色し血管が赤く浮き出でいるし、腹部の傷も塞がれてはいるが腕と同じように黒く変色してしまっている。
どちらにせよ男の寿命はもう長くはないことは分かっていた。
だが、男にも成さねばならぬことがあり、そう簡単には死ぬわけにもいかなかった。
そして、今は男の成すべきことの手段の一つを達成すべく、とある家の前に来ているということだ。
ただ、訪れたはいいがこの家の住人に用事はないので、門に付属されているインターホンに指を運ぶことはしない。
ただただその家の前で、その時が訪れるまで男は瞼を閉じていた。
そんな男へ不快な視線を送る住民たちに文句を言うこともしない。言ったところで非があるのは男なので、無駄な言い争いは避けるべきだ。
ここで騒ぎを大きくしても、面倒ごとが増えるだけでメリットは何もない。
ところで、男の前に建てられている家は、二階建てで4LDKというそこそこ広い家だった。
庭の右側には小さな花壇があり、春にはチューリップやパンジーなど、色とりどりの花が咲いている。
その付近で何かを覆うように被さるビニールシートの下には、小さな子供が数人遊べるほどの砂場がある。さらに奥にはおもちゃや道具を保管するための小さな倉庫があったはずだ。
そして、家のすぐ左隣には乗用車一台分は入る程度の車庫があった。だが、車庫の中に車は無い。
まるで主人の帰りを待つかのように、そこだけぽっかりと空間を空けていた。
なぜ、詳しく見てもないのに男はこの家の構造とその用途をこんなにも把握しているのか。
その答えは簡単だった。
目の前の家は、かつて男と彼が愛した二人の家族が暮らしていた、世界で一番幸せな場所だったからだ。
だが、今はもうこの家は男にとっては呪いの場所でしかない。
ところで、あの男子高校生のターゲットを最初の任務で仕留めきれなかった男は、あの魔女に最後の切り札としてある暗黒魔法を教わっている。
魔法の特徴、魔法陣の構造、必要とされる力など、発動をするにあたって必要不可欠な情報は既に魔女から与えられていた。
しかし、それだけでは男に暗黒魔法は使えないと魔女はくすくす笑いながら言った。
普通、魔法使いは固有魔法と呼ばれる『一人が一つだけ扱える魔法』以外の魔法は大体が発動可能だ。
魔法使いの中での実力は中の下辺りだろう男でも、雷や炎を出すことは勿論、人払いや転送魔法も発動は容易かった。
だから、魔女から教わっている暗黒魔法も条件さえ揃えば発動できると思っていた。
そんな男の意見を聞いた魔女は、珍しく肩を揺らしながら長々と笑った後に、やがて心臓を覆うような冷たく凍えた声で言った。
『暗黒魔法は文字通り暗黒の魔法よ。善ある者も下級魔法程度なら扱うことはできるだろうけど、上級魔法を扱うことは不可能なのよ。この魔法は上級暗黒魔法に属しているために、あなたの心も完全に闇で覆われなければならない』
『心を、闇で?』
少しでも反論すればこの場から跡形も残さずに消滅させられそうなほどのオーラを放つ魔女に、男は怯えた声で尋ねた。
『すなわち黒化。光を闇に、希望を絶望へ、光の魔法使いを闇の魔法使いに変える魔法のこと。あなたはまず、それを成し遂げなくてはならないのですよ』
『・・・・それは、どのようにすれば良いのですか?』
答えるのに少しの間が空いたのは、男の中に黒化を望まぬもう一人の自分が抵抗していた証か。
恐らく黒化を果たせば、もう光に引き返すことができないことを本能は知っていたのかもしれない。
それでも、強い願望と惨劇による絶望を知る男は、その抵抗を跳ね除けて魔女にそう尋ねた。
問われた魔女は、男を闇の世界へと誘う悪魔のような笑みを色の薄い唇に浮かべて、続く言葉を言い放った。
『それは・・・』
最後に魔女が放った言葉を思い返す前に、男の腕時計からアラームが鳴った。
閉じていた瞼を開き、左腕に付けてあるデジタル式の腕時計を眺める。
時刻は五時二十九分三十秒。
あの魔女から与えられた試練を始める時刻よりは少し早いが、準備時間として男は周囲の人の目を避けるために人払いの魔法を家を覆うように発動した。
男が生命力をペンダントへ送ると、胸元に吊るす紫の魔晶石で造られたペンダントが発光し、男の足元に魔法陣が展開する。
それは男だけでなく、家の敷地全てを覆う魔法陣となる。
家と男に魔法陣が通過すると、男の視界の景色が灰色に変わり世界が静まり返った。
これでもうこの住宅街の住民からは、男の存在を察知することはできない。また、この家に何が起きても気付くことはできないということになる。
魔法を発動した男は顔を見られる心配がなくなったおかげで、被っていたフードを躊躇いなく外した。
線の細い、やや痩せ気味の顔が露わになる。
足音を立てず静かに家の門へ歩み寄り、お洒落なデザインの門を穢れてはいない左手で押し開く。
男が他人ならばこの時点でこの家の警備システムが作動しアラームが鳴り響くが、男はこの家の主人なので当然警備機器は反応しない。
もっとも、数年間誰も住んでいなかった家だ。
そろそろ警備会社や敷地管理人から通達が来てもおかしくはない時期だった。
だから、男にとって魔女から与えられた試練はある意味都合が良かった。
まあ、まだ人としての良心というものが残っている男は事前に自身の貯金から家のローンなどは全て支払い切っている。
おかげさまで貯金残高はひもじ過ぎるが、近々死ぬであろうこの身には関係の無いことだ。
家のドアまで足を運んだ男は、試練の一つに挑むべく、魔法を発動させようと右腕を前に伸ばした。
「フレイム」
魔女がついでと言って教えてくれた炎属性の魔法を発動しようとした時だった。
男の目の前に、今はいないはずの家族が立っていた。
この地域では外見や人間性で評判の高かった妻と、可愛らしい五歳の娘が手を握りながら微笑んでいる。
その二人の笑みを見ると、これから自身のすることが本当に正解なのか分からなくなる。
(よせよ。今更、もう戻れないんだよ。俺はもう、あの魔女の理想に縋るしかないんだ)
心の中で自身の弱音を吐くが、もちろん目の前の家族は何も答えない。
そう。この二人はただの幻影、この家に残る記憶の一つに過ぎない。
この記憶を振り払わなければ男の欲する力は手に入らない。
それは男の良心を支える唯一の存在を自らの手で斬り捨てるということだった。
黒化。
それは己の良心を捨て、心を暗黒に置き換えることで強大な力を得ることができる魔法使いの変化。
魔女が男に与えた試練は、それを成すためのものだった。
男の願いはただ一つ。
自身の大切なものを奪ったとあるコミュニティをこの世から完全に消し去ること。
それによって世界がどうなろうが、何人犠牲になろうが関係ない。
目の前に立つ大切な記憶を、躊躇う気持ちを男は完全に振り払うために絶叫した。
「フレイム・バーストッ!」
悲痛な魔法発動の声に呼応し、男のペンダントが紫の光を強く放った。
伸ばした右腕から小さな火花が家に放たれ、幻影をすり抜けるとドアへ接触し大きな炎を生み出した。
ドアから発火した炎は瞬く間に家全体を包み込む。
思い出が消える。大切にしてきたものが、今度こそ男の心から溶けていく。
男の心に灯っていた微かな炎が、復讐という闇に覆い尽くされる瞬間だった。
燃え盛る炎をただ無言で眺め続けた男は、やがてフードを被ると自身の思い出から背中を背けた。
最初の試練を終えた男は、もうこの住宅街には用はないと家の門から出ようとした。
『例えあなたが変わってしまっても、この家で生まれた大切な記憶は忘れないで。いつまでも、私たちはあなたの味方だから』
家の敷地から出ようとした瞬間、そんな優しい囁き声を聞いた男は、その言葉に答えることはせずに敷地から出て転送魔法を発動させた。
空間に小さな歪みを生み出してその場から消えた男は、自身の頬に涙が伝うことを最後まで気付くことはなかった。
男の存在が住宅街から消えたことで、彼の発動した人払いの魔法も効力を失い自動的に解ける。
突然、住宅街の一軒家が全焼状態で姿を露わにしたことで住民たちはパニック状態に陥っていた。
消火システムが即座に作動し大量な水が燃え盛る家に浴びせられるが、システムが作動する数秒の間に火が植木に燃え移り炎が広がった。
幸いにも家の消火は完了し、近隣の住宅にも被害は出なかったが、今回の火災によって怪我人も出ていた。
この火災により住民たちの感じた強い恐怖は瞬く間に住宅街へ浸透し、住宅街の全住民が怯えながら外へ出てきた。
唐突な事態に困惑状態が続いている住民たちの元に救急隊が到着したのは、火災発生から三十分後だった。
そして、喫茶店で生徒一人に魔法の指導者を紹介していた一人の魔法使いが現場に到着したのは、救急隊到着よりも数分ほど早かった。




