アークエンジェル(9)
今朝の事件で裕紀を助けてくれた女性の名前が月夜玲奈であると判明したところで、裕紀はまず最初にしなくてはならないことをした。
「今朝は本当にありがとうございました。おかげで俺はこうして生きることができています」
深々と頭を下げた裕紀に、玲奈は薄い表情のまま首を振った。
「礼を言う必要はない。私も自分の任務を遂行しただけだから。それに、」
「・・・・?」
途中で言葉を途切らせた玲奈は、ほんの微かに笑みを浮かべると言葉を続けた。
「あなたのおかげで大切な仲間を失わずに済んだ。礼を言うのはこちらの方。ありがとう」
そう言って頭を下げられた裕紀は、慌てて玲奈の頭を上げさせようと言葉を並べる。
「いえ、そんな! 俺はただ月夜さんの指示に従っただけだし、第一今回の事件は俺の不注意が招いたことですから。だから、えっと・・・」
だが、迷惑をかけていることに対する謝罪の気持ちと助けてくれたことへの感謝の気持ちをどう伝えればいいものか分からず、裕紀の声はそのままフェードアウトしてしまう。
そんな裕紀をフォローしてくれたのは、二人のやり取りを無言で聞いていた飛鳥だった。
「新田、ここは素直に礼を受けておけばいいのさ。彼女の指示通りに動いたとはいえ、その後の行動は君自身の意思によるものだ。玲奈は君のその判断に感心しているのだと思うよ」
「はぁ・・・」
そう言われても裕紀自身は特に礼を言われるようなことをしたという実感がない。
転送魔法でエリーの研究所に飛ばされてからは、すべての治療をエリーだけが行っていたのだ。裕紀が手伝う隙など、一秒たりとも存在しなかった。
納得していない裕紀を横目に、飛鳥はそろそろ呆れ果てたようにお冷を飲んだ。
「この事件においての君の自身へのマイナス思考は重症だな。細かいことは気にせず、礼を言われたら素直に胸を張れ! 気持ちを切り替えることも、強くなる秘訣の一つだぞ!」
確かに、過ぎてしまったことをいつまでも引きずっていては、男としてもみっともないような気がする。
不敵な笑みを浮かべて言い放つ飛鳥の勢いに圧されるように、前を向いた裕紀は苦笑を浮かべて頷いた。
まだ不安要素の多い裕紀の態度に、しかし飛鳥は満足気に笑みを濃くすると、パチンと指を鳴らした。
彼女はよく話題を変えるときなどに指を鳴らす癖がある。
ということは、飛鳥はこれから別の話をしようとしているのだ。
裕紀は彼女が何を話そうとしているのか、大体の予想はできた。
それは、裕紀が飛鳥とこの喫茶店に訪れた真の目的ということでもあった。
だが、一つだけ謎な点がある。
それは飛鳥が魔法によって呼び出した玲奈のことだ。所属するコミュニティの仲間としてただ単に紹介したかっただけなのか、それともこの事件の関係者として呼び出したのか。
恐らく、自分の身を犠牲にしてまでも魔法を使って呼び出したのだろうから何の関係もないなどと言うことはないだろう。
彩香とも繋がりのあるこの二人に関してあれこれ考えていた裕紀の前で、飛鳥は本題を切り出した。
「新田、何故君がここにいるのか、すまないが言ってくれないか?」
いきなりそう言う飛鳥の意図を考えようとして、裕紀はその思考を中断させた。
この質問に考えて答える必要はないと考えたのだ。
この場では裕紀の覚悟が問われ、それ故に、自分の思っていることを率直に相手に伝えるだけでいいのだ。
なので、裕紀は飛鳥の瞳を真っ直ぐに見て、迷わずに自分の考えを口にした。
「俺は、俺の身を自分で守れるように、そしてもう大事な存在を傷つけさせないために戦いたいんです。だから、俺に・・・魔法の扱い方を教えてください! 今の俺には、この力が必要なんです!」
あの黒いローブ男にただの護身術ではどうしようも勝ち目がないことを裕紀は知っている。いや、思い知らされてしまった。
生徒指導室ではまだ飛鳥が魔法使いであることを知らなかった故に、具体的に何を教えて欲しいのか言えなかった。
だが、こうして飛鳥自身が魔法使いであることを認めた以上、魔法のことやそれを使いこなせるようになりたいという願望を隠す必要もない。
そして、裕紀が具体的な目的を話さなかった理由を、彼よりも長く魔法使いとして生きている飛鳥も理解していた。
自分が魔法使いであることを明かせば、躊躇いなく裕紀は飛鳥に魔法の鍛錬を頼むことも解った。
そのために、わざわざ貴重な生命力を犠牲にしてまでもう一人の魔法使いを呼んだのだから。
テーブルの上で深く頭を下げた裕紀へ微笑みを浮かべた飛鳥は、視線だけ隣に座る玲奈へと向けて言った。
「そう言うわけなんだが、協力してくれるかな? 玲奈」
答えた飛鳥の矛先は魔法の教えを申し出た裕紀ではなく、その隣に座る表情を崩さない玲奈へ向いていた。
普通なら自分へ返ってくるであろう答えが返ってこずに、肩透かしを食らった気分になった裕紀は口を開けたまま玲奈の答えを待つ。
飛鳥の言葉を聞いた玲奈は、白いリボンで黒髪を結び直すと、赤い瞳で裕紀の瞳を射抜きながら答えを返した。
「さっきとは違って真っ直ぐな良い目をしている。本気で魔法を学びたいのですね」
「・・・はい!」
申し込んだ当人ではなく玲奈から返った答えに戸惑いながらも、裕紀ははっきりと頷いた。
その返事に、玲奈は表情の薄い顔に微かな笑みを浮かべてみせると、今度は飛鳥へと視線を向けた。
「わかりました。私の教えられる範囲で、彼に魔法を教えたいと思います」
裕紀の申し出を了承した玲奈に、飛鳥は自分のことのように嬉しそうに顔を輝かせた。
「そうか! 協力感謝するよ、玲奈」
言いながら両手を掴まれた玲奈は、何処と無く嫌そうな、鬱陶しそうな顔になった。ただ、その動機はきっと暑苦しいのが苦手なだけであり、飛鳥のことが苦手であるということではなさそうだった。
そんな玲奈に構うことなく手を放した飛鳥は、嬉しそうな表情のまま裕紀へ顔を向けると言った。
「そう言うわけだ、これから君は彼女から魔法を教わってくれっ!」
「いや、そう言われても月夜さんの事情もあるだろうし・・・やっぱり先生の方が良いと思うんですけど・・・」
飛鳥のコミュニティの仲間とはいえ、玲奈の都合もあるだろう。
それに裕紀自身、ほとんど初顔である玲奈よりも飛鳥の方が親しみやすいと思ったのも事実だった。
困惑を露わにそう発言した裕紀に、飛鳥は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「私も君に直接教えたい気持ちはある。だが、私自身が少しばかり厄介な事情を抱えていてな。魔法使いとしては半端者の私は、一度大きな魔法を使うだけで、体力はほぼなくなってしまうんだ。そうなると、先ほどのような有様となってしまうわけさ」
自身が役に立てないことに憤っているのか、テーブルの上で組まれた両手は強く握られていた。
しかし、その感情を表情に出すことはせずに飛鳥は玲奈と裕紀の二人の顔を見て言った。
「もしも、新田が玲奈の指導を拒絶するのであればそれはもう仕方がないことだ。半端者の私が出来る限りの手段を用いて君を強くしよう。だけど、彼女から教わることは決して無駄なことではないと思うよ」
何かしらの収穫があることは必ず約束すると言う飛鳥の言葉を聞き、裕紀は一度考えた。
最初は護身術のみを教わる為に飛鳥に指導を申し出た裕紀だったが、魔法に関する指導は彩香以外の知り合いがいなかったのでどうしようもなかった。
そんな時に舞い降りてきた、魔法と護身術を両方強化できる話を、丸投げするほど裕紀も愚かではない。
ただ、魔法使いとして半端者と自身を蔑んだ飛鳥の言葉を素直に受け入れるべきか、それとも同情すべきか悩んでいた。
いや、事情を知らぬ同情はこの際ただの侮辱でしかない。
なら、裕紀は飛鳥の言葉を受け入れ玲奈を師匠として鍛錬に励むべきだ。
自分をここまで強くしてくれた師匠へ、裕紀は詫びることなく確かな覚悟を秘めた瞳で飛鳥を見た。
「わかりました。今後は玲奈さんに魔法の指導を受けることにします」
「・・・そうか。うむ、それがいい」
感情が読み取れやすいと言えば良いのか、やはり何処と無く残念そうな雰囲気を醸し出してきた飛鳥に、本当にこの返答が正解だったのかどうか不安になってしまう。
それでも、ここで答えを変えることを裕紀はしなかった。
代わりに強気な笑みを浮かべてみせた裕紀に、飛鳥も安堵と期待の入り混じった笑みを浮かべた。
「よし。修行の予定は二人に任せるが、あまり敵には知られたくない。可能なら情報漏洩の可能性がないこの店で決めてしまいたいのだが・・・」
そう言われて裕紀は即座に最近のスケジュールを脳内展開させる。
今週の土曜はクラス総出で彩香のお見舞い会を開催する予定になっている。
となると、今週で空いている日は今日を入れれば可能でも四日。そのうちエリーとの研究の予定も鑑みると、あまり日は少ない。
どうにか予定を厳選しようと悩む裕紀を完璧に無視して、顔合わせおよそ半日ぶりの玲奈が言葉を放った。
「彼が魔法を実戦で扱えるようになるまで、休みなど取る必要もないでしょう」
「ぇ・・・・」
唐突に放たれたトンデモナイ発言に裕紀は固まりながら玲奈へ視線を向けた。
え、今なんて? という視線を真正面から受け止めた玲奈は、微笑みの消えた冴えた表情で裕紀に答えた。
「当然です。魔法使いが完全に魔法を我が物として習得するためには、普通は数年かかります。それを短期間に縮めるのですから、尋常の厳しさではないことくらい分かっていたでしょう?」
「は、ハイ」
反論すれば即座に首と胴が離れていそうなほどに冷たい光を宿した瞳に、裕紀はコクリと頷く他なかった。
飛鳥も反論はないのか口を閉ざしているが、鬼のような師匠の発言に恐怖しているのは同じなようだ。
裕紀からしてみれば飛鳥の特訓もレベルとしては地獄に達しているので、そんな彼女でさえも慄いている玲奈の修行など想像などできるわけがなかった。
玲奈から放たれる威圧感に師弟揃って座っていると、カウンターの奥で仕事をしていたマスターがいつの間にか携帯端末を片手に声を上げた。
「お取込み中申し訳ないが、ここで一つ情報が入った」
「なんだ? 朗報か? それとも悲報か?」
マスターの声に鋭く反応したのは椅子の上で固まっていた飛鳥だ。
怯えている気配は完全に払拭させた彼女のぴしゃりとした問いかけに、マスターは日焼けした頭を掻きながら微妙な口調で言う。
「今のお前さんたちの現状からしてみたら恐らく朗報。一般人からしてみりゃ、悲報、というか不安しか残らない情報だな。この街の住宅街で留守中の自宅が突如発火、炎上したらしい。家が完全に燃えちまってからみんな気が付いたみたいだから対応が遅すぎる」
八王子市にはいくつかの住宅街が存在しており、そこには当然多くの住民が生活している。
そんな中で家一軒から火災が発生して、誰一人として気が付かないなど異常だろう。
端末を眺めていたマスターは、感心したような口調で言葉を続けた。
「だが、まあ流石だな。近隣の家も貰い火を受けて火災が広がりつつあるが、火災を認識した住宅街の消火システムが良い働きをしているみたいだ。消防隊が到着しているころにはほとんど鎮火されてるかもな」
近年、災害による被害者を出さないための対策として住宅街やショッピングモール、テーマパークなど人が多く密集する地域には必ず災害システムが設置されている。
今回はそのシステムの内の火災に対応するものが作動したようだ。火災が起きた住宅街は今頃ずぶ濡れだろうが、そのおかげで通報の遅れをしっかりリカバリーできているようだった。
そんなマスターの現状報告の含まれた回答に、飛鳥はもうおおよその検討を付けたようだ。
獲物を狙う獣のように瞳を細くし、唇を鋭く釣り上げた。
「つまるところは魔法による事件か。このタイミングからして、犯人は新田を襲った奴の仲間か、もしかすると本人ということになるな」
「でも、俺を襲った奴は柳田さんとの戦闘で重傷を負っているはずです。そう簡単に動けるはずはありませんよ」
自身の生命力を魔力に変換し過ぎたために倒れていた裕紀の代わりに戦った彩香によって、男は右腕と腹部に攻撃を受け大量に血を流していた。
あれだけの血を流していれば、例え治癒魔法を扱える魔法使いであってももはや手遅れだろう。
飛鳥もそう思っていたから、男の仲間である可能性も疑っていたが、玲奈の緊迫した顔を見て一つの可能性に辿り着いた。
「玲奈、何か知っているみたいだが?」
だが、現場に居なかった飛鳥ではこの答えはただの推測となってしまうため、あの時現場に駆け付けていたもう一人の魔法使いに尋ねる。
聞かれた玲奈は飛鳥の問いに迷わず答えた。
「新田君と柳田を退避させたあと、私はとある魔法使いと遭遇して一度戦闘になりました。あの魔法使いなら、この短期間で右腕欠損と腹部損傷の重傷は難なく治癒できるかと」
玲奈の報告にマスターはひゅうっと口笛を吹き、裕紀は唖然として口を開くしかなかった。
せっかく彩香が与えた傷を、一日も経たないうちに治癒してしまうなど、裕紀とは住んでいる世界が違う。
いや、そんな常識外れの人間たちが存在する世界を今まで裕紀が知らなかっただけだ。
一般の学生であったならこんなことは夢でも妄想でも何でも言えるが、実際に魔法を目にして更には使っている裕紀は無関係ではなくなってしまった。同じ魔法を使う者として、一般の人を襲う魔法使いと戦わなければならない。
ふと、裕紀の脳裏に濃霧に覆われた深い森と少女の影がフラッシュバックしたが、それが何を示すものなのか考える前に飛鳥が席を立った。
玲奈も無言で席を立ったので裕紀も二人の師匠につられて立ち上がった。
「どうやらこの一件に関わっている組織は彼女の言う通りで間違いないわけだ。我がコミュニティも久々に表舞台に出るとしますかね」
「もう猶予はありませんね。私は至急新田君を施設に連れて行きます」
「うむ。では私は火災があったという住宅街へ向かうとしよう。他の連中への連絡は任せたよ」
「了解」
玲奈に指示を出した飛鳥は、鞄を持つとすぐに会計を済ませると店から出て行ってしまう。
飛鳥を見送った玲奈も手早くコートとマフラーを身に着けてから、遅れて身支度を済ませた裕紀とともに会計へと向かう。
こんな時でもしっかりお金を払い終わると、玲奈はついでに先ほどの情報料もマスターに支払ってからドアを開く。
急かす玲奈の背中を負いながら、貴重な情報を差し出したマスターに頭を下げた裕紀の上から声が掛かる。
「彩香ちゃんとは、情報料を払ってもらう約束をしているんだ。必ず、元気な彼女をここに連れてきてくれ。頼んだぜ、坊主」
丸太のように逞しい腕を組みながらそう言うマスターに、裕紀は心を引き絞めて言った。
「はいっ!」
緩みのない張りのある声でそう返事をした裕紀は、もう一度頭を下げてから外で待つ玲奈の下へ駆けよった。
太陽が隠れた暗い外の世界で、新八王子駅付近の十字路をサイレンを鳴らした消防車や救急車が何台も右折し東側へ走って行くのが伺えた。
それらの向かう先では、きっと多くの人が悲しい思いをしているだろう。家を失うことは、そこで暮らしたたくさんの思い出を失うに等しい。
そんな絶望に染まる人々のことを考え、裕紀は両拳を握りしめた。
「早く! もう少しの時間も無駄にはできません」
いつまでも火災のあった方角へ視線を向ける裕紀にそう声が掛かり、裕紀は先を行く玲奈を追いかけた。
(・・・待っているよ・・・)
ふと、頭に少女の声が響いたが、裕紀はその声を気にすることなく歩き続けた。




