アークエンジェル(7)
今日はもう使用しないという生徒指導室の扉を施錠した女性教師と裕紀は、揃って生徒玄関へ向かった。
仕事終わりらしい女性教師は総務室で勤怠を打たなければならないので、途中で裕紀と別れて生徒玄関と壁を跨いで隣にある総務室へと姿を消す。
女性教師曰く、そこまで時間はかからないらしいので、先に下駄箱で靴を履き替えた裕紀は玄関から外に出る。
もともと不審者がうろついているということで早帰り組が多くなった部活動は、今朝の事件によって完全に全ての部活動が休みとなった。
そのせいか、いつもの放課後よりも校門前は帰宅の途に着く生徒たちで混雑していた。
場所は違うが先日に彩香と歩いた歩道の出来事を思い出して、しんみりしてしまう。
「おー、想定はしていたがこれは凄い。今日の帰りも混み合いそうだな」
しかし、そんなマイナス思考はすぐ後ろで発令された渋滞警報によって別の感情と入れ替わった。
端的に言えば「うへぇ」と面倒極まりない事態に顔を顰めたい気分だった。
まだ部活動が完全休部になってない頃の、あの人混みよりも更に混雑しているとなると、さしもの裕紀も人々の熱気と圧力で酔ってしまいそうだった。
(いつもの道はきっと人の波が出来上がってるだろうから、ここは裏道を通って駅前に出るか・・・)
エリーほどではないものの、なるべく人混みは避けたい裕紀は即座に緊急用の帰路を模索し始める。
「んー、ま、これくらいの人混みなら若者は耐えられるだろう。さ、行くぞ新田」
「世の中には人混み嫌いの若者もいますよ。ここは考え直して、快適かつ安全なルートで目的地に向かいましょうよ」
人のことをいっさら考えずに歩き出そうとしている女性教師に、そう細やかかつ確実なお願いをするも、もう彼女の答えは決まっていた。
「残念ながらそんな時間はない」
怖いほどの真顔で裕紀の提案をバッサリと両断すると、抵抗を認めない意思表示か制服の首根っこをガシッと掴む。
問答無用と言わんばかりの握力でそのままずるずると校門まで引き摺られ裕紀は、一般道に出る手前でなんとか自力で手を振りほどく。
引き摺られる裕紀を見た生徒たちにクスクス笑われてしまったうえに、一般市民ひしめく歩道でも引き摺られるのは勘弁だった。
ここで裕紀に逃げるという選択肢は一寸もないので、大人しく人の波が押し寄せる歩道へと足を踏み出したのであった。
新八王子駅と萩下高校は距離こそ離れているが、ほとんど道なりに進めば辿り着く。
決して入り組んだ道が多いわけでもないので道に迷う心配はないが、この帰宅ラッシュのときは話が全然違ってくる。
ただ真っ直ぐに進めばいいことは変わらないが、押し寄せる幾人ものサラリーマンや会社員、学生の妨害を受けて裕紀の少ない体力がガリガリと削られる。
帰宅ラッシュに苦戦している裕紀とは別に、女性教師は人と人の間をスルスルと身軽に歩いている。
彩香といい女性教師といい、同じ人間なのになぜこんなにも状況対応力に差がついているのか。
もう何回人にぶつかったのか、数えることすら諦めた裕紀は、おそらくノーダメージで進む女性教師の背中をひたすら追いかけた。
駅の近くの交差点に差し掛かり、目的地である駅前の公園手前に繋がる横断歩道に着く頃には、裕紀の制服は着崩れ黒髪は乱れていた。
赤信号の間に呼吸を整え、信号が変わると大勢の人に紛れて幾つもある歩道の一本を横断する。
公園内に入ると広い敷地内を一直線に歩く。すでに日は沈みかけているので人は少ないが、それでも散歩やデートコースに決めている人々とすれ違う。
ここ最近治安が悪くなっているにも関わらずいつもと変わらない景色を見て、安心する傍らなぜ自分だけ被害に合うのかというどうしようもない気持ちが芽生えないと言えば嘘になる。
魔法使いにならなければ、それ以前に彩香の誘いを受けなければ誰も傷つかずに今日という日を過ごせていたのかもしれないと思ってしまうのも仕方のないことだ。
だが、彩香の誘いを受けたことも魔法使いになったことも後悔しようとは思わなかった。もしも後悔してしまったら、今まで起こったこと全てを否定することになる。
自分の無力さには悔やみきれないところもある。もう一人の裕紀が目の前にいたのなら、気が済むまで殴り倒してしまいそうなほどに怒ってもいる。
だがそれ以上に、クラスの皆と団結できたこと、入学してからいがみ合っていたために知ることのできなかった彩香の優しさをを知ることができたことを後悔はしたくなかった。
(そのために、俺は強くなるんだ。これ以上大切な存在を傷つけたくないから)
そう思い見上げた空は、大半は雲で覆われていたが所々の隙間から夜空が伺え見えた。
ようやく喫茶店の前に到着した裕紀は、もう息切れを起こしている自分の現状を受け入れないために思わず女性教師の様子を伺った。
女性教師は息一つ上がっておらず、髪も服装もきっちりとしていた。服装が乱れきっている裕紀とは全く正反対なために、傷の舐め合いどころか一方的な返り討ちに合ってしまったのだが。
「はぁ、なんで、こういうときは服装が乱れないんですかっ!?」
「ん? なんだ、期待してたのかい?」
今朝に消耗した分も含めて、体力が残り少ない裕紀はやや息を上げながらそんなことを口走る。
普段からもっとしっかりしてほしいことを言いたかったのだが、その言葉に冗談を返した女性教師へ、裕紀は乱れた服と髪を適当に整えてから言い返す。
「そういう意味じゃないです! それだけの集中力があるなら、仕事もさっさと終わらせてくださいってことですよ」
「はは。コツは相手の動作を細かく観察し、呼吸を掴むことだぞ。まあ、これだけは経験の差だからな。慣れれば上手くなるぞ」
書類集めを手伝わされた裕紀の苦情を華麗にスルーして微笑みながらそう指摘を加えた女性教師に、裕紀はこの状況下での勝算なしと考え愚痴りを中断する。
裕紀の沈黙を白旗と受け止めたのか、女性教師は不敵な笑みを浮かべると慰めるように裕紀の頭を一度触った。
「安心しろ。そう長くない間に君もこの技術を習得できる」
「え? それってどういう・・・」
意味深な女性教師の言葉に左手で撫でられた箇所を触りながら裕紀は聞き返した。
「言葉通りだよ。さ、早く店に入ろう。外は寒くて凍え死にそうだ」
しかし女性教師はその問いには答えず、二の腕をさすりながら喫茶店へ足を進める。
凍え死にそうというのは裕紀も同意見だったので、女性教師の後を大人しく歩く。
相変わらず強化ガラスと鉄骨のみで構成されている喫茶店は、まだ営業時間内らしく仄かに暖かい光が灯っていた。特徴的ではあるものの、やはりどこにでもある喫茶店だ。
ただ、裕紀は知っている。あの喫茶店の外見は言葉通りのものであるが、内装は外見の印象とは全く異なるものになっていることを。
そして、その内装の根本的な原因が魔法の力によるものだということも裕紀は知っていた。
そもそも、この女性教師にはあの喫茶店の内装がどう見えるのだろうか。
そんなことを疑問に思いながらも、前を歩く女性教師に続いて喫茶店の扉まで歩く。
そのままガラス製の取っ手に手を掛けた女性教師は躊躇いなく店の扉を引き開けた。
店内に足を踏み入れた女性教師に続いて裕紀も入ると、前回と同様に視界に映る景色が全て木造のものに変化する。
机も椅子も、床や壁や柱などの景色だけでなく材質までもが変化し、足裏に柔軟な木材の感覚が伝わってくる。
さて、この現象に我が師匠である女性教師はどういう反応を見せるのか。
こっそり後ろから注がれる好奇心の視線に女性教師は気付く様子もなく、そのままカウンターに立った。
精算機やら店の雰囲気を盛り上げるための置物が置いてあるテーブルの向こう側には、スキンヘッドをバンダナで巻いた外国人風のマスターが立っていた。
両手にはカップと布巾を持ち、洗い終わったカップに付着する水滴を丁寧に拭き取っている。
目の前に立つ女性教師と裕紀に目を向けると、マスターは太い唇を吊り上げて言った。
「これは珍しい客だな・・・と、あの時の坊主か。どうやら、ただ茶を飲みに来ただけではなさそうだ」
自分の淹れるお茶が目当てではないことを察してか、マスターはやや残念そうにそう言葉を零す。
その反応を見て、マスターは外見に反して心は傷つきやすいのかもしれないと裕紀は感じた。
しかし、女性教師はそんなマスターの内心を知ってか知らずか笑って受け答えた。
「まあ、そんなところさ。ちょっと人と待ち合わせていてね。人目につくのも良くないし、ここを待ち合わせ場所にしてもらった」
「せ、先生・・・!」
容赦のない言いように堪らず制止の声を掛けようとするも、その声は直後に放たれたマスターの太い声に遮られた。
「がははっ。いやはや、相変わらず食えん女だ。確かに、この時間の飲食店は一般の学生や家族が占めているからな。重要な用語一つ聞かれても厄介だろうさ。ここを待ち合わせに使うのは結構。ただ、コーヒーの一つは飲んでってもらうぜ?」
「マスターが淹れるコーヒーは嫌いじゃない。ありがたく飲ませてもらうよ」
そう言葉を交わし合った女性教師は、マスターに背を向けて店の奥の席に歩み寄ると丁寧に腰を掛けた。
裕紀も彼女の前に座るなり、さっそくメニューを眺める女性教師に尋ねた。
「えっと、いいんですか? なんか、迷惑かけてないですかね?」
質問は当然、女性教師とマスターの会話についてだ。
内装変化の感想も聞いてみたかったが、どうにも裕紀は、お茶を飲むより待ち合わせに利用されているというこの喫茶店の現状に対するマスターの心情が気になっていた。
遠慮しているようなひそひそとした口調の裕紀に、女性教師はメニューから目を離さずに口を動かした。
「心配するな。ここは喫茶店としても繁盛しているが、魔法使いたちの情報共有の場でもある。それに、あのマスターのメンタルは外見と同じかそれ以上の頑丈さを持っている。ちょっとやそっとの悪口は通用しないぞ」
「へ、へぇ〜。そうなんですか」
裕紀の感じていた感覚はどうやら余計な心配だったようだ。
言われてみれば確かに、先日も彩香とともにこの店に訪れているが、その時もただお茶をするだけではなく魔法に関する会話が中心だった・・・・・・。
「ハアッ!?!?」
そう結論付けた裕紀だったが、それによってもたらされたもう一つの事実に五秒ほど膠着してから驚きの声を上げた。
ガタンッ、とテーブルを叩いて立ち上がった裕紀にメニューを見終わったところらしい女性教師がビクンッと肩を震わせた。
「な・・・、ど、どうしたいきなり? 事件のことで何か心当たりでも思い出したのかい?」
すっとぼけた表情の女性教師に、裕紀は目を丸くしてもう一つの事実を確認した。
「まさか、あなたも魔法使い?」
肯定すれば女性教師は裕紀が知らないもう一人の自分を露わにすることになる。
それは今後の関係を左右するであろうある意味重要な質問だったが、女性教師はとぼけた表情を崩さずに聞き返した。
「あれ、言っていなかったかな?」
コクン、と頷く裕紀。
その反応を見るなり苦笑を浮かべ、頬を掻く女性教師。
遠くのカウンターでは、マスターがため息を吐くが、背中向きの裕紀はもちろん気づかない。
「そうか。ではよく聞くんだ新田。実は私は・・・魔法使いなんだ!」
漫画ならばドーンッという吹き出しが出てきそうな雰囲気で言い放たれた言葉に、一瞬たじろいだ裕紀はすぐに冷静になる。
重要な質問をしたつもりでいた裕紀は、聞き返されたその言葉を聞くなり、心から湧いて出た感情に任せてただ一言怒鳴った。
「言ってませんッ!!」




