アークエンジェル(6)
クラス全員が一つの目的に向けて動き出したことで、朝よりどこか晴れやかになった教室で午前中の授業を受けた裕紀は、購買で昼食を買うと教室に戻った。
「あれ? 珍しいな、昼休みにお前がここにいるなんて」
椅子に座るやいなや購買で購入したパン三つを机に広げた裕紀に、前の席で友達と弁当を食べていた光が振り向いて言った。
「まあ、今日は雨が降ってるし、さすがに中庭は無理だと思ってさ」
普段は中庭の中央に植えられている木の下で昼食を摂ってから昼寝をするというのが裕紀の昼休みの慣習だ。
だが、濡れてまで外に出る必要性も感じないので雨が降っているときは周りと同じく教室で食べることにしている。
最近は天候も快晴が続いていたこともあり外で食べることが多かった。そのせいか、長い間教室に裕紀の姿を見なかった光は、てっきりいつでも中庭に出ているものだと勘違いしてしまっていたのかもしれない。
それに、今日のこのクラスの空気は裕紀にとっても悪いものではなかった。むしろ自分から入りたいと思えるほどに、明るく活気に満ちていた。
そんな理由もあってか、裕紀は久々の教室で食べる昼食に抵抗など感じるはずもなかった。
「だけど昼飯がパン三つとか、よく足りるよな」
購買で購入したパンのうちのカレーパンに手をつけた裕紀に、光は珍しいものでも見るように言う。
そう言う光は毎日大きめの弁当一箱に、購買で買ったのかパンが二つほど机に広げられている。
運動部だからだろうが、それにしても食べる量が裕紀とは比べものにならない。
そもそも、裕紀の場合は弁当が一箱あればそれで十分だ。
「これくらいが普通だろ? お前が異常なんだよ」
「運動部員はこれくらいは食べないとやっていけないんだよ」
そう言ってエビフライを口に頬張った光に、裕紀はカレーパンを一口齧って言った。
「その弁当、優香ちゃんお手製?」
真顔で放たれた裕紀の言葉に目を丸くした光は、咀嚼していたエビフライを喉に詰まらせてお茶のペットボトルを半分飲み干した。
呼吸を整えてから、慌てたように怒鳴り返す。
「ごほっ。おま、食事中にそれ言うの反則だろ!?」
「でも事実なんだろ?」
「・・・まあ、そうだよ。ったく、病人だってのに弁当だけは何故か作りたがるんだよなぁ」
そう悪態を吐くものの、光は二本目のエビフライを頬張る。
美味しそうに咀嚼するその表情は、妹に弁当を作ってもらえてどこか嬉しそうだった。
兄妹のいない裕紀には光のような経験はないので、羨ましいような微笑ましい光景だった。
自分も誰かに作ってもらいたいと、ふとそう心に思った裕紀だが、それが現状では到底成しえない夢の話であるとすぐに思い直す。
裕紀の知り合いで唯一料理を作ってもらえるような知人はエリーか親友の二人ぐらいだ。
ただ、光は以前胸を張って料理が苦手だと言われた記憶があるし、瑞希に関しては理由は不明だが一発殴られそうな予感がした。
残るエリーは、残念なことに驚くほど現実生活に対応していない。現在進行中の引きこもり生活のせいで、生きていくのに必要な家事スキルが一切合切抜け落ちているのだ。
そんな彼女に弁当を作らせてしまった日には、弁当箱の中身がどうなっているか想像もできない。
「購買のパンも美味いけど、お前もたまには手作りの昼飯を味わって食えよ」
そう言う光は、本当に美味しそうにポテトサラダを咀嚼していた。
「残念ながら、光と違ってそういう人もいないからな」
自分の妹の料理の腕を自分のように喜ぶ光に、裕紀は理由もなしにムッとしてしまい、しれっと言い返した。
「むっ。ごほっ、ち、違うぞ! 別にシスコンとかそういうことじゃないからな!?」
おかしな誤解を生まないための配慮の表れか、再び咽せかけた光は即座にそんな単語を口にした。
「え? ケンちゃんシスコンなん?」
「うわー、まじかー。欲求不満でもか弱い妹には手を出すなよ」
しかしその配慮の効果が裏目に出てしまったらしく、気道に詰まったおかずをお茶で流し込む光に、二人の会話を聞いていたらしい男子生徒二名がすかさず茶々を入れる。
「だから違うって!!」
顔を赤くしてそうきっぱり断言してから、赤の他人のふりをしてもごもごとパンを食べていた裕紀へ光は怖い顔で声を低くして言った。
「裕紀お前あとで覚えとけよ」
「あ、ははは。覚悟しとくよ・・・」
さすがに悪口が過ぎたと自覚していた裕紀は、そんな大事になるようなことはしないと分かっていながらも、苦笑を浮かべるしかなかった。
昼食を食べ終え、光たちのグループと話をしているうちに昼休みが終わり、午後の授業を睡魔と戦いながら裕紀は受けた。
昼食を食べたからか、はたまた今朝の戦闘から時間が空いて少しリラックスできたからなのか、午前中よりも身体の調子はずっと楽だった。
ただ、相変わらず利き腕は動かないままで、どんな偶然か筆記教科が集中していた今日に限ってはどの教科のノートも空白だった。
利き腕が使えないという慣れない一日に、またもや疲労を蓄積している気がしてならない。
そう思わざる得なかったが、一応今日の授業をすべて出席した裕紀は、ホームルームが終わると認証カードを取りに総務室へ立ち寄ってから生徒指導室へと足を運んだ。
約束通りならば、放課後に生徒指導兼裕紀の師匠たるあの女性教師が、再び彼に訓練をしてくれるはずだ。
誰が相手でも容赦のない扱き方に冷や汗がこめかみを伝うが、恐怖心を心の底に押し込めて認証装置へカードを翳した。
開錠を知らせる電子音を聞きながら扉を開けた裕紀の目の前に、忙しなく自分の机を整理する女性教師の姿があった。
普段から器用に仕事を進めることができないタイプの人だからか、机に乗せきれない書類が何枚か床に舞い落ちていた。
仕方がないと溜息を付きながら無言で生徒指導室に足を踏み入れた裕紀は、床に落ちている書類を拾うことにした。
「すまないあと三十秒だけ待っててくれ! そうすれば書類の整理が・・・」
床に散らばった書類を何も言わずに拾い集める裕紀にそう慌てた声を掛けるものの、その言葉は最後まで言い切ることができなかった。
バサバサバサ・・・ッ、と苦労して山積みにしたのであろう書類がすべて机から崩れ落ちてしまったのだ。
呆然を通り越して唖然としている二人の前で資料は無情にも散乱した。
「・・・すまん、あと五分くらい待ってくれ」
「いや、俺も手伝いますよ」
今にも膝から崩れ落ちそうなほどに絶望的な表情でそう時間延長を進言した女性教師に、裕紀は苦笑を浮かべながら協力を申し出た。
協力と言っても片腕しか扱えない裕紀では散らばった書類を集めることしかできないので、跼みながら資料を集めては女性教師に渡す。
女性教師は気持ちを切り替えたのか先ほどの慌ただしい姿から一変、落ち着いた様子で裕紀から資料の束を受け取っては整理して机に置いていく。
拾い集めている書類はどれも裕紀には難しそうなものばかりだったが、床に広がる資料が減っていくにつれて裕紀でも理解できる内容のものが少なからず目に入った。
『当校の生徒が襲われた現場の状況』『今事件の目撃者証言』『被害を受けた当校生徒二人の容態』
などと、今朝裕紀と彩香が関わった事件についての詳細が記されていた。
しかし、細かく項目が並んでいる割には情報があまりにも不足していた。まるで事件現場に証拠となる痕跡が一つも発見できていないような、不気味な違和感を放っていた。
そして、その違和感に裕紀は一人納得していた。
それもそのはずだ。裕紀たちが巻き込まれた事件は、現実で起きていながらも非現実な力が介入している。
人払いという魔法の効果圏内で繰り広げられた魔法の戦闘は、一般人には当然見ることも感じることもできない。
ただ、ひとつ疑問に感じるのはあの戦闘において生じた破壊の痕跡だ。
歩道や車道のみならず街の建物にも損害が生じていたはずなのだが、書類を見る限りそれすらも気付かれた様子がなかった。さすがに戦闘によって生じた建造物等の傷は魔法が解けても一般人には認識されるであろうと、裕紀は考えていた。
他に考えられるとすれば、彩香とともに救援に来てくれたあの黒髪赤眼の女性。裕紀たちが離脱したあとに破損箇所を彼女が修復してくれたのかもしれない。
銃火器を使用した小規模な戦場のような有様だった街道を一瞬で直してしまうことを考えると、やはり魔法はこの世界の理を超越している存在ということになる。
そんな常識はずれもいいところの能力に目覚めてしまった自分を哀れむべきか、むしろ開き直って喜ぶべきなのか。
今更な疑問に眉を顰めながら書類を一枚一枚拾っていた裕紀の背中に、女性教師が独り言のように言葉を話した。
「本当に今日の事件に関しては謎が多い。なんせ通報を受けて現場に急行した警察でさえ掴めた証拠は僅かだと聞いている。君の話だと柳田が重傷を負うほどの傷を負ったというのに、現場には血痕ひとつ残っていないらしい。同時刻その場にいた目撃者に尋ねても誰一人として首を横に振るのさ。自分は見ていない、悪戯の通報なのではと真に受けない人もいたね」
お手上げというような口調で書類を整理整頓する女性教師へ、裕紀は用紙を拾いながら言う。
「でも、必ず現場には証拠があるはずです。例え完璧な犯罪者でも、その行為そのものの痕跡を完璧に隠すことは不可能だと俺は思います」
「ああ。私もそれを信じて捜索を頼んでいる。いや、私の教え子が一人殺されかけたんだ。例え我々の力が及ばなくとも、必ず犯人は特定してみせる。警察も最後まで協力してくれるみたいだからね。すまないが、君にも情報を求めることもあるかもしれないが、その時は何か一つでも話してくれるとありがたいよ」
女性教師のまっすぐで前向きな声音を聞いた裕紀は、後ろめたさを感じずにいられなかった。
事件に直接かかわっていた裕紀は、話そうと思えばすぐにでも話すことはできる。だがそれをした時、裕紀は男を倒せる唯一の方法である魔法という力を失う。
それをしてしまえば今度こそ裕紀は何もできなくなり、ただ迷走するばかりの捜査報告を指をくわえて待っている羽目になる。
いまにして思えば、敵は生き延びた裕紀が事件の詳細を安易に話すことができないように魔法を使っての犯行に及んだのかも知れない。
敵の思惑通りの行動をとっていると考えてしまうと腸が煮えくり返りそうだったが、その悔しさと苛立ちを胸の内に抑え込んだ。
現時点で裕紀が話せることは、男性の容姿や事件当時の格好だけだ。
少ない情報だが、それだけでも有益な力にはなるだろうと思った裕紀は女性教師へ言った。
「俺たちを襲ったのは、黒髪に茶色い瞳の男性です。体型は多分痩せ気味、歳は二十歳を超えていると思いますよ」
捜査が進む一言を何の前置きなしに言い放った裕紀を、女性教師はたっぷり数秒凝視していた。
被害者である裕紀からは情報を引き出すことは難しいと考えていたのか、思わぬ収穫に驚いているようだ。
やがて、驚きから覚めた女性教師は穏やかな表情に変えてから、裕紀から受け取った最後の書類を纏めてから言った。
「そうか。情けないことだがこの事件においては情報が不足し過ぎているからね。正直、犯罪者の容姿だけでも、教えてくれるのは助かるよ」
それでも、胸の内に秘める欲は抑えられないようで、ちらっと視線を向けてきた女性教師に立ち上がりながら言った。
「すみませんけど、俺から話せることはこれが限界です」
「わかっている。辛い思いをしてまで、協力してくれてありがとう」
裕紀の心情を察してか右手を軽く上げてそう返した女性教師は、仕上げとばかりにせっかく纏め上げた書類を適当に棚の中へと突っ込むと晴れ晴れとした表情になって言った。
「よっし、ようやく関係資料の整頓が終わった。新田も先生の仕事を手伝ってくれてありがとうね」
お礼にしては軽い言葉に、気にせず小さく頭を動かした裕紀に女性教師は腕組みをしながら言った。
「それじゃ、新田。これからもう一仕事手伝ってくれるかい?」
「まだあるんですか? て言うか、生徒に先生の仕事を手伝わせていいんですか?」
書類集めだけならまだしも、他にも仕事をさせられるとなるとさすがに面倒くさくなってくる。
自分の仕事くらい自分でやれと言外で伝える裕紀に、生徒を指導する立場のはずの女性教師は胸元を軽く開けると誘惑してきた。
「もしも手伝ってくれるというなら、先生がイイことしてあげるけど?」
「いえ結構です。もう二度と手伝いませんし、俺がここに来たのは先生にご指導をしていただくためなので」
どこぞの研究者を彷彿とさせるその行動に、きっぱりと否定の返答を突き返した裕紀に女性教師は詫びれた様子もなく笑った。
「ごめんごめん冗談だよ。それに仕事と言うのは君も無関係ではないからね」
どうやら訓練と仕事は何かしらの関係があるようで、意味深な笑みを浮かべた女性教師はいつの間にか手に持っていた鞄を肩に担ぐと裕紀を先導するように部屋から出た。
「ちょっと場所を変えよう。大丈夫、今日の分の仕事は全て済ませてあるよ」
裕紀から訴えらえるような視線を向けられるが、女性教師は心配無用とウィンクを決めてみせた。




