アークエンジェル(5)
登校してきた時とは違い、授業中の教室に戻った裕紀は、教科担当の教師に遅れた事情を話すと自分の席に座った。
一応今日の授業の教科書は鞄に詰めてあるので、雨水で湿ってしまった教科書とノートを机の上に広げていつも通りに板書を始める。
・・・そのつもりだったのだが、右腕の麻痺が治らないからには利き手は使えない現状を考えると途方に暮れてしまう。
左手で授業に遅れないよう板書をするのにはどう考えても読める字でノートに書ける気がしない。
どうせなら後でしっかり見返せるように書きたかった裕紀は、結局板書は諦めて教科書と睨めっこをしているしかなかった。
(好きな教科なら見てても飽きないけど、苦手な教科はやっぱり退屈だな・・・)
得意科目である世界史などは他の科目よりそこそこ興味が湧くので、別冊の資料集などをぺらぺらと捲っていても苦にはならない。
ただ、それ以外は残念なことにそうはいかなかった。
ことに今は裕紀の苦手科目の中でも飛び抜けて苦手な数学だった。
数学の教科書を眺めていても、書いてあるのは数字に図形に公式と少しの文章だけ。
自分が理数向きではないと確信している裕紀は、教科書を見ていると頭が痛くなる。…というより、眠くなる。
睡魔の原因が苦手科目だけの問題ならまだ良いが、今日は眠気を払っても払っても押しが強い。
いつもよりも身体が疲れているみたいだ。
(あの戦闘以来身体が重いな。寒気はないから風邪ってことはないだろうけど、とにかく眠い。板書もできないし、ここはいっそのこともう寝ようかな)
『眠れ眠れ!』と全ての欲求を押し退いて襲い掛かる睡魔に裕紀の瞼が負けそうになったとき、ふと教室のどこからか視線を感じてこっそり視線の源へと目を向けた。
盗み見た視線の先には、席の近い男子生徒同士でひそひそと何かを話している。
次節こちらに向けられる視線の種類は、冷たく決して快いものではない。
そして裕紀は、今朝登校してきたときに向けられた幾つもの視線に似たような感情のものが混じっていたことに気が付いていた。
恐らく、クラスの中でも彩香に想いを馳せていた男子たちだろう。
無論、恋愛などではなく(そうであるなら、勢いで告白の一つはやっていそうな面子だった)彼女のステータスによる信仰心からくる愛なのだろうが。
彼らの認識では、裕紀は自分たちが想う相手を救えなかった悪なのだろう。
その考えは途方もない逆恨みのようなものでも、彼らには裕紀が彩香の傍にいながらも助けられなかったことが許せないのかもしれない。
だが正直、そんなことで何かをされるのは面倒だった。
授業が終わるなりそそくさと教室からの脱出を図ろうと提案する逃避的思考を、裕紀は強くもない精神で拒絶した。
いくら面倒でも、苦手であっても、今より前へ進む為にはそれらの障害も必ず乗り越えなければならない。
逃げることも一つの選択肢。
だが、ここで逃げてしまえば二度と彼らと分かり合うことはできないし、裕紀自身が決めた決意を自分で裏切ってしまうことになる。
それに、同じクラスメイト同士ということもあり気まずい関係にはなりたくなかった。
うとうとと睡魔に襲われながらも、そんな思考を巡らせていた二時限目も終了すると、裕紀は自ら席を立った。
「裕紀? どうした?」
同じく苦手科目の授業を終えた光が背伸びの姿勢で立ち上がった裕紀にそう問いかける。
「ちょっと用事を思い出してさ」
しかし、詳しい事情を伝えることはせず、裕紀は授業中にこちらをずっと見てきた連中へと歩み寄った。
「な、なんだよ?」
ただ無言で歩み寄られた生徒のうちの一人が訝しむように裕紀を見上げた。
髪は染めたりワックスで固めたりしている様子もない。ただ自分の加わっているグループの雰囲気に溶け込んでいるだけの生徒だった。
この生徒は先ほどの視線の一人であっても、このグループの中心ではない。
そう決めると裕紀はその問いには答えず、五人ほどの男子生徒の中からそれらしい雰囲気を持つ生徒を探した。
裕紀の視界に映る生徒の身体の輪郭に、光る靄が漂い始める。
今までこんなことは起きたことがないが、一瞬の迷いの末、これが魔法に関わるものだと判断する。
五人を順に眺めていくと、周りとは雰囲気の違う生徒が一人腰を下ろしていた。
胸元を開かせ、茶色に染めた髪をセットしている。座り方も周りの生徒より堂々と胸を張り、自身に刃向かう外敵を警戒しているみたいだった。
その態度を裏付けるように、身に纏う光も他の五人より強かった。
確か名前は長谷川隼人。
このクラスの活気の源となっている男子生徒で、彩香とも何度か話をしているところを見かけたことがあった。
その瞳は、歩み寄って来た裕紀を真っ直ぐに射止めて逸らさない。
「さっきの授業でやけに俺のことを見てた気がするけど」
この男子生徒には、遠回しに質問をぶつけても時間の無駄だ。
そう思った裕紀は細かい詮索はせずに単刀直入に用件を言った。
質問を受けた長谷川は、鼻を鳴らしながら答える。
「はッ。いきなりこっちに歩いて来たと思えば・・・、何だよ、ちゃんとわかってるじゃねぇか」
「俺が長谷川たちに何かをしたなら素直に謝るよ。だけど、残念ながらそんな記憶はなくてさ。なのに授業中にそんなに睨まれてたら、気にしないほうが難しいよ」
なるべく穏やかに話そうとしたのだが、長谷川にその対応は逆効果だったらしい。
我慢の限界といったばかりに切り揃えられた鋭い柳眉を逆立てた長谷川は、椅子を鳴らして勢いよく立ち上がった。
有無を言わさず裕紀の胸ぐらを強く掴むと自分に引き寄せる。
突如起こった光景に、会話などで盛り上がっていた教室中に騒めきが走った。
「おい、長谷川ッ!」
「ちょっとあんた! 何やってんのよ!?」
遠くの席で立ち上がった光が怒鳴り、割と近い席でも瑞樹が怒りの声を上げる。
そんな親友二人の声を見事に無視した長谷川は、互いの顔を近づけると低い声で言った。
「今朝、お前と柳田が襲われてお前だけ無事だったことを聞いたとき同時に俺はある噂を聞いた。お前が、柳田を囮にして逃げたって噂だ。そうすることで自分だけ無傷で済んだってよ」
長谷川から放たれた言葉に、クラスに広まりつつあった困惑の騒めきが、動揺の騒めきへ変わった。
もちろん、彩香を囮にして逃げ延びるという卑怯極まりない行為など裕紀はしない。
「俺は、そんなこと絶対にしないッ」
突然突き付けられた裏切りを示す言葉に、裕紀は怒りの滲んだ声音でそう言い返す。
長谷川の言い放った情報は明らかに偽りのものだ。
だが、長谷川はその嘘を真実と受け入れてしまっている。恐らくそうすることで、自分の中でこの事件に終止符を打ったつもりなのだろう。
「そもそも、誰がそんなことを…」
不覚にもそう呟いた裕紀に、長谷川は胸ぐらを掴む腕を強く動かして裕紀の言葉を両断した。
「噂とか、真実とか、誰が流しただとかは関係ないんだよ! 俺が知りたいのは、お前が柳田を裏切るような奴かってことだ!!」
自分のことのように怒鳴り散らす長谷川を見て、裕紀は授業中に思っていた彼らの印象が間違いだということを知る。
少なくとも、長谷川は彩香のことを人気による信仰心ではなく本当に好きなのかもしれない。
そして、このクラスに所属する生徒全員を仲間だと本気で思っている。
そう思っているからこそ、噂であれ仲間を裏切るような行為が許せないのだろう。
だから、裕紀には長谷川のその心を真摯に受け止めて答える義務があった。
親友を除く、クラス全員の疑惑の視線を一身に浴びながら裕紀は言葉を選ばず本心のままに答えた。
「確かに、俺は柳田さんに庇ってもらうことしかできなかった。俺の実力では、柳田さんの手助けなんてできるはずもなかったんだ。ただ目の前で傷を負う柳田さんを、見ていることしかできなかった」
裕紀から語られる言葉を聞いてか、クラス中から集まる視線が徐々に冷たくなる。
彼らも長谷川と同じく噂は耳にしていたのであろう。しかし、信憑性のない噂だけで人を貶すわけにもいかないという善良な心が、裕紀を責めることを抑えていたのだ。
だが、当事者である裕紀の言葉を聞き、噂とは違うものの裕紀が何もできていないことを知ったことで、負の心を抑える枷が外れつつある。
しかし、ずっと裕紀の顔を睨みつける長谷川の瞳は少しも変わらない。怒りの中に、微かな信頼の色が滲んでいるようだった。
「だけど、彼女を傷つけてしまったいまでは凄く後悔してる。無力でも抗えば、きっと柳田さんを助けられたかもしれないのだから」
「じゃあ、逃げたっていうあの噂は本当なんだな?」
確信の色を帯びかけている長谷川の瞳を見つめ返して、裕紀は否定でも肯定でもない返答をした。
「今の話を聞いて、それでも俺が逃げたと思うならそれでも構わない。でも、俺はその噂のように誰かを盾にして自分だけ助かるような逃げ方は絶対にしないし、やりたくもないんだ!」
そんな裕紀の返答に長谷川は迷うように瞳を泳がせたが、やがて裕紀の胸ぐらから乱暴に手を放した。
その様子を静かに伺うクラスメイトたちの中心で、長谷川はワックスで固められた髪を乱雑に掻き乱した。
「これ以上クラスメイトを疑うのは失礼ってやつかっ。悪りぃな新田、被害者だっつうのに嫌な質問しちまってよ」
裕紀の言葉を信じることにしたらしい長谷川は、詫びれたように頭を掻きながらそう言う。
長谷川の対応に裕紀は困ったように周囲を見回した。
「いや、俺はいいんだけど教室の雰囲気が・・・」
二人のこのやりとりのせいで教室内はなんとも微妙な空気に包まれている。
先ほどまでは裕紀を責めるような空気だったのだが、長谷川が噂を嘘だと告白したことでどちらを信じればいいのか分からないといった様子だ。
裕紀に言われてから教室の空気に気が付いたのか、長谷川はしばし思考を巡らせたのち素早く対応をした。
「みんなごめん! 今のやり取りは俺の誤解だった。噂は嘘だ。新田はそんな酷いことはしない男だった!」
「でもソイツなにもできなかったんだろ? 腰抜けじゃねぇか?」
長谷川の呼び掛けにそう野次を飛ばした生徒の一人に、彼は眼光鋭くして言い返す。
「じゃあお前は殺人犯相手に戦えんのか? はっきり言うが俺はムリ! 絶対にムリだ。てか誰だって怖くてちびるぜ」
(だったら俺を責めた意味がないような・・・?)
裕紀を責め立てた動機を綺麗さっぱり台無しにして生徒を黙らせた長谷川は、ごほん、と大袈裟に咳払いをすると教室中に言い放った。
「いいか!? 今日、俺たちのクラスメイトが二人も傷付けられた。一人は重症、もう一人は軽症だが危険な目にあった。俺はこの事態を絶対に許せない!」
演説のように言葉を述べる長谷川にクラスの誰もが賛同の声を上げる。
今にも教室を飛び出して行きそうな雰囲気に裕紀の脳裏に嫌な予感が過ぎり、そうなる前に制止の声を上げる。
「おい、長谷川よせ」
しかし、裕紀の声は呆気なく長谷川の声に掻き消された。
「だけど俺たちは学生だ。学生の俺たちにやれることなんざたかが知れてる」
現実を認めている長谷川の意見に、士気が高まりつつあったクラスメイトたちが今度は落ち込むように肩を落とす。
裕紀も内心で馬鹿なことをする心配がなくなり肩を下ろしたが、それは早とちりだった。
続けて放たれた長谷川の言葉に、別の意味で裕紀の背筋に緊張が走った。
「だから、そういうのは大人にやらせて、俺たちは俺たちのできることをしようぜ。そう…近いうちに柳田を見舞いに行くぞ!!!」
「は、はぁ!? ちょ、待て長谷川…っ!?」
再び咄嗟に制止の声を上げた裕紀だが、
「おおーっ、いい考えだね!」
「お見舞い何買って行こうか? 彩香ちゃん何が好きなのかな〜?」
「俺たちの愛の力で柳田さんを元気つけようぜ!!」
「変態さんたちは退出願いまーす!!!」
「お見舞い会いつにするー?」
歓声のごとく湧き上がった生徒たちの声でまたしても掻き消されてしまった。
「ということで、後で柳田の入院先教えてくれよ」
「そんなこと言われても…」
戸惑う裕紀だが、さすがはクラスの中心となっている人物であると、長谷川を評価せざる得ない。
彼の一言で、揺らいでいたクラスがすでに一つの目的に向かおうと動き出している。
そのことについては素直に感心するしかないが、それよりも彩香の入院先をクラス全員に知られることは厄介だった。
単純に、金髪碧眼のスタイル抜群研究者と裕紀が知り合いだったなら、またおかしな噂が教室中に広まることは間違いないからだ。
「光、なんとかしてくれよ!」
「俺も柳田のことが心配なのは確かだからな。ここは見舞いに行くのが漢ってもんだ」
そそくさと離れた席に座る光に助けを求めるも、非情にも親友はあっさりと裕紀を裏切った。
「瑞樹頼む! お前からみんなになんとか言ってくれ!」
薄々返答は予想できていたが、それでも最後の望みともう一人の親友に頼み込む。
「そう言えばあやちゃん、プリンが好きだって言ってたよー」
「へぇ〜。じゃああそこがいいんじゃない? 駅の構内に新しくできたスイーツ屋さん」
「お、いいねぇ〜。早速帰りに行ってみよー」
完全にお見舞いの品のことで他の女子生徒と盛り上がっていたために、返答すら聞くことができなかった。
(エリーにはその日だけは外に出て貰うか? いや、絶対に断るだろうなぁ)
土下座をしながらあの魔法の武器《魔光剣》を献上すれば聞き入れてくれる可能性は上がるだろう。
ただ、それをすることで得られる利益よりも失う損失のほうがずっと大きい。
「はぁ・・・・・・」
何の前触れもなく立ちはだかった試練を前に、思わず重苦しいため息を吐いてしまう。
半ば絶望に浸りかけて白くなっていた裕紀の肩に手を置いたのは、学内掲示板のことを教えてくれた佐伯だった。
「まあ、みんないい奴で良かったな。柳田も喜ぶと思うよ」
「あ、はは。まあ、そうだな」
このクラスの団結力に素直に関心している佐伯と同じく、また一つクラスの絆が深まったことを思うと裕紀も嬉しいのだが、少々複雑な心情によるものかその頷きは弱々しかった。
結局、突発的な長谷川の提案による彩香のお見舞いは今週の土曜ということになった。
そして、それまでに様々な実験機器を隠しておくようにエリーへ念を押しておくことを、裕紀は心の底から固く決意するのであった。
一週投稿が遅れてしまいすみませんでした。
最近、投稿のペースが崩れ気味だったので、ここでどうにかペースを戻していきたいです。
目標としては毎週月曜日の投稿を目指していきたいと思っています。
・・・とはいえ、仕事と身体に支障がない程度に投稿していきたいので、守れなかったときはすみません。
下手くそなりにも頑張っていきたいので、これからも『聖剣使いと契約魔女』をよろしくお願いします。




