アークエンジェル(3)
市街地から離れた近郊にある研究所からおよそ十五分で学校の正門を通った裕紀は、普段は足を運ぶことのない駐輪場でロードバイクを停め、やや駆け足気味に校舎へ向かった。
事情を親代わりであるエリーから伝えてもらったが、だからと言って遅く行っていいわけでもない。
これ以上クラスメイトや教師陣に迷惑や心配を掛けるわけにもいかなかった。
そんなわけで、何とか一時限目が終了するタイミングで教室前に着いた裕紀は、教室の扉に手を掛けた。
昨日のように駆け込みセーフと言うわけにもいかないが、きっと担任の萩原先生なら許してくれることだろう。
そう思った裕紀が扉を引き開ける前に、教室内から何者かが扉を開けた。
教室から出てきたのは裕紀よりもやや背の低い女性教師だった。
生徒ではなく教師と裕紀が判断したのは、彼女の服装が学生服ではなくスーツ姿だったからだ。
そして何より茶色がかったミドルショートの髪型に、可愛らしい童顔であることを確認して女性が誰なのかも判断できた。
「うあっ! って、新田くん!? え、ちょっと、大丈夫なの!?」
教室から出るなり視界が塞がれたことで驚いていた担任の萩原恵は、突如として現れた障害物である裕紀を確認するとそれ以上の驚きを見せた。
エリーが連絡した相手が彼女だったのかどうかは定かではないが、どちらにせよこの学校の教師たちに連絡が回っていることは確かなようだ。
胸元に仕事道具を抱えながら裕紀の身体を隅から隅まで目視してくる萩原先生は、まるで先生から生徒に戻ってしまったかのようだった。
ただ、各クラス授業が終わったこともあり廊下には他の生徒たちが出てきている。これ以上は萩原先生だけでなく、裕紀も恥ずかしくなってきてしまう。
「俺は一応大丈夫っすから、先生、落ち着いてください」
担任の予想外の驚きように、事件の当事者であった裕紀が萩原先生を落ち着かせた。
「そ、そうね。こうして無事でいてくれたんだもの。まずは落ち着かないと」
そう自分に言い聞かせるように呟き、教科書を胸元に抱えて深呼吸をする先生を見て裕紀は苦笑した。
この先生は裕紀たちの入学と同時期に教師としてこの学校に赴任したらしい。
このクラスが人生初の担任であることもあり、他の先生より頑張っている印象が強い。生徒に決まりをしっかり守らせるところも新人らしさがあり、高校一年生の裕紀から見ても初々しかった。
そして、今回のように生徒の身が危険に晒されたときの慌てようも教師なりたてといった感じだ。
たぶん、長年教師という職種に就いた先生ならこんな反応はしないだろうし、ましてやこうも素直に生徒のことを心配してくれる先生も珍しいと思った。
自分を落ち着かせるように何度か深呼吸を繰り返した先生は、一度大きく息を吐いてから放たれた声は落ち着いた口調に戻っていた。
「この件については先生方にも連絡がいっているから、近いうちに集会で全校生徒に話されるわ。生徒指導の先生からも呼び出しがあるだろうけど、質問にはあまり無理しなくて答えなくても大丈夫よ。とにかく今は、自分の無事をクラスの皆に伝えなさい。みんな、あなたのこと心配してたんだからね」
安堵している雰囲気を滲ませながらそう言う先生に、裕紀は弱々しく頷く。
その様子がただ疲れているだけとは思えなかったらしい先生が、心配そうに尋ねてきた。
「どうかしたの? 言いたいことがあるなら何でも言って?」
形のいい小さな眉を潜めながらそう問いかける先生から顔を逸らし、裕紀は研究所で横になっているであろう女子生徒のことを話した。
「すみません。一緒だった柳田さんに酷い傷を負わせてしまいました。彼女は襲われた俺を庇って、自分を犠牲にしてまであいつと戦って。俺は何もできなかったのに」
再び負の感情に心が覆われそうになるものの、萩原先生はその童顔ににっこりと柔らかい笑みを浮かべて裕紀の肩を叩いた。
「彼女が倒れてしまったことは、あなたのせいじゃないわ。あなたは何も悪くない。自分を責める必要はどこにもないのだから、いつも通りでいいのよ」
「・・・はい」
一人の教師としてのその言葉に、裕紀は反論はしなかった。
その代わりしっかりとした返事を返した裕紀に、先生はもう一度肩を叩くとそのまま立ち去って行った。
叩かれた肩に残る感触をしっかりと確かめるように、左手を翳した裕紀は、半開きになっている教室の扉を開けた。
次の授業の準備をする生徒や、短い時間でも友人たちと話をする生徒で騒めく教室が、裕紀が足を踏み入れた途端一斉に静まりかえった。
いっそ綺麗と言えるほどに静まり返った教室にいるクラスメイトたち全員の視線が、裕紀に向けられた。
その視線に裕紀は後退りそうになるが、ぐっと堪えてその場に踏み止まる。
しかし、何と皆に声を掛けたらいいのか分からず裕紀は沈黙を続けた。
そして、教室に突然現れた仲間に何と声をかければいいのか分からないようにクラスメイト全員も黙っている。
解消しがたい居心地の悪い沈黙がしばらく続いた。
そんな沈黙を破ったのは、窓際の机に腰を掛けていた長身の男子生徒だった。
「裕紀? 間違いねぇ、裕紀じゃねぇか!!」
張りのある大きな声で名前を呼ばれて、裕紀ははにかみながらも男子生徒へ笑みをつくった。
そんな裕紀のもとに駆け寄った男子生徒、剣山光は、裕紀の肩をガシッと掴むと幽霊でも見ているかのような表情で迫った。
「お、おまっ生きてるよな!? 幽霊でも影武者でも別人でもないんだよな!?」
「ちゃんと生きてるって。だからあまり乱暴にしないでくれ。少し、疲れててさ」
とんでもない怪力で身体をブンブンと揺さぶられた裕紀は、やや目を回しながらそう言った。
「あ・・・わ、わりぃ」
疲労を溜めた口調で話す裕紀に気づいて冷静さを取り戻した光が、ばっと肩から手を離してそう謝る。
さっきとは打って変わって控えめな声で謝る光に裕紀は苦笑を返した。
「まったく、光は心配性なんだから。裕紀くんなら心配ないよって、あたしの言う通りだったでしょ?」
後ろからそう光に声を掛けるのは、相変わらず癖っ毛の目立つ女子生徒、上原瑞希だった。
呆れたように腰に手を当ててそう言う親友に、光は落ち込みかけていた声音を引き上げて言い返した。
「うっせ! お前だって朝っぱらから裕紀が心配でたまらない様子だっただろうが。授業中もずっとそわそわしてたくせによ!」
「なっ!? あんた授業中ずっとこっち見てたわけ!? あたしよりも黒板見なさいよこの変態!!」
「そうやってすぐに人を変態呼ばわりすんなアホ! てか、板書ぐらいしてるっての!!」
「いつも寝てるとこしか見たことないんですけど!?」
「お前も人のこと言えなくないか!?」
「あたしはアンタなんか眼中にないわよ! 自意識過剰なんじゃないの、へ・ん・た・い」
「てめ、いい加減にしやがれッ!」
「なによやる気ッ!?」
と、いつものようにぎゃあぎゃあと言い合う親友を見て、ようやく裕紀は心の底から落ち着くことができた。
それと同時に、本来ならこの教室にいなくてはならない生徒がいないことで、これが夢でもなんでもない現実であることを認識する。
親友二人以外のクラスメイトは、いまは仲間の無事に安心しているようで彩香のことを聞こうとする生徒はいなかった。光と瑞希のおかげで、教室に広まっていた居心地の悪い沈黙もすっかり解消されている。
とりあえず自分の席に着こうと考えた裕紀は、すっかり睨み合っている親友二人に声を掛けてから教壇から降りて机へ向かった。
鞄を取っ手に掛けて一息吐いた裕紀であったが、まるでその瞬間を狙うようかのように校内放送が教室中に流れた。
『一年C組の新田裕紀くん。生徒指導室まで来てください』
呼び出しの放送が繰り返し流れたあと、裕紀は静かに席を立った。
光と瑞希から心配そうな視線が注がれ、他の一部の生徒からも様々な視線が集まる。
「裕紀くん・・・」
それらの視線を感じたのか、瑞希から心配の色が濃くなった声音で言葉を掛けられる。
同じマンションの瑞希とは、何だかんだで光よりも付き合いは長いので彼女が本気で心配していることは分かった。
そんな瑞希に裕紀は安心させるように微笑むと、表情を引き締めて教室から出るべくドアへ向かった。
教室から廊下へ出た裕紀は、しかしすぐに生徒指導室へは向かうことはしなかった。
裕紀が教室から出るのを待っていたかのように、壁に背を預けている男がいたためだ。
「神宮寺先輩。いえ、生徒会長」
そして、その男が誰なのかも裕紀はすぐに分かった。
「やぁ、新田君。数日ぶりだね。それと、僕のことは普通に先輩と呼んでくれて構わないよ」
相変わらず茶髪をワックスで固めている生徒会長は、裕紀にそう呼ばれるといままで気づいていなかったかのようにそう応対した。
先日、この男が教室に乗り込んできたときは課題のことで手がいっぱいだったために思い出せなかったが、思考が落ち着いている今なら知っていた。
神宮寺拓海。
先の資源戦争においては軍事産業による支援で戦いに貢献し、戦後となった今日では日本の技術力向上のため様々な業界に関わっている財閥の一人息子だ。
戦時中に神宮寺家が残した功績は幾つもあるらしく、そのおかげか現在ではこの世界の平和を維持するために創設された国際特務機関とも関係を持っているとの話だ。
思い出してかなりの大物であることに慄いた裕紀だったが、さすがに偉そうな態度には少しばかり癪に障る。
だが、そんな愚痴を飲み込み裕紀は要件を尋ねた。
「俺に何か用事ですか?」
ただ、まだ十六歳の高校生が胸の内の感情を完全にコントロールできるわけでもない。
やや口調に棘のある喋り方でそう質問した裕紀に、生徒会長は軽く肩を竦めて返答した。
「いやなに、今日学校に来てみれば嫌な噂を耳にしてね」
生徒会長の言葉を聞いて心臓がどくんと軽く跳ねるが、裕紀はそれを表情に出さない。
口を噤む裕紀に、探りを入れるような目付きの生徒会長はゆっくりと言う。
「うちの部の後輩が登校中に犯罪者に襲われて、しかも怪我をしたらしいね。現場には確か君もいたらしいじゃないか? この学校の生徒の立場を知る者として、詳しく聞かせてもらえないかと思ってね」
そう言う生徒会長の言葉に裕紀はなかなか口を開けなかった。
この男が彩香に対して先輩以上の感情を持っているのは、先日の一件で明らかだ。ここで彩香が自分を庇って重傷を負い、自分は何の外傷もなく学校に来ているなどと言いでもすれば、穏やかな未来は確実に来ない。
だが、例え相手が誰であろうと嘘を言うことだけは裕紀はしたくなかった。
自分を庇った彩香のためにも裕紀には現実をしっかり受け止め、前に進むための努力をする義務がある。
だから、どんなにこの男に罵倒されようが殴られようが、結局裕紀は全てを話さなければならないのだ。
覚悟を固めた裕紀ははっきりとした声でありのままを語った。
「先輩の言う通り、俺は柳田さんに助けられました。犯罪者に襲われているところを、柳田さんが助けてくれたんです。俺の力不足のせいで、彼女は意識不明の重傷を負って、いまも苦しんでいる」
無言で聞いている生徒会長からどんな罵りの言葉が放たれるのか、それら全てを受けようと裕紀は奥歯を噛み締めた。
「そうか。犯罪者に殺されかけたとは、君も大変な目にあったんだね。しかし、二人とも本当に無事で良かったよ」
たが生徒会長から放たれた、罵倒とは程遠い言葉に裕紀は目を瞬かせた。
「怒らないんですか?」
しかし、すぐに裕紀は不審な声音で聞き返していた。
あれだけ敵意を向けてきていた生徒会長から、こんなにあっさりとした言葉を送られるなど到底考えられなかったのだ。
疑心を含んだその言葉に、生徒会長は整った顔立ちを苦笑に歪ませた。
「まさか。君たちは僕にとっては大切な後輩でこの学校の生徒だ。生徒会長という役職からしても、二人に何もなくて良かったと心から思っているよ」
嘘を付いているようには思えない安堵しきったその声に、裕紀は先日と今日のどちらが神宮寺拓海の本心なのか分からなくなっていた。
そんな裕紀に生徒会長は話は済んだかのように微笑みながら言った。
「話が長引いても悪いね。ま、僕が聞きたかったのはそれだけだから。困ったことがあったら何でも言ってくれ」
言いながら裕紀の隣を歩いて行く生徒会長は、ただしすれ違いざまに耳元にこう囁いた。
「・・・ただし、君が彼女に何かしたら、その時は容赦しないから」
「—――――ッ」
その低い囁き声に背筋を張り詰めさせた裕紀は、鋭く息を呑み緩みかけていた気持ちを引き締め直した。
しばらくして緊張が解れた裕紀はすぐに背後を振り返ったがもう遅かった。
生徒会長の姿は生徒たちに紛れて消えてしまっていた。
(やっぱりあの人には注意しないとな)
内心そう思いながら、裕紀は生徒指導室へ早足に向かった。




