アークエンジェル(2)
裕紀を連れて研究所から外へ出たエリーは、研究所の裏側へと向かった。この研究所の敷地は広く、一つのマーケット分はあるだろう研究所に加えてもう二つほどの建物が建てられていた。
一つは研究所内には必要のない小物などをしまってある倉庫。もう一つの建物は裕紀も足を踏み入れたことがないので、木造建築ということ以外の詳細は不明だ。
おそらく彼女が向かっているのはその一つ、物置の役割を果たす倉庫だろう。
あれほど降っていた雨はこの短時間で降り止んだらしく、今は肌寒い空気に満たされていた。予備の制服の上に上着を羽織っただけの裕紀には少々きつい気温だった。
むしろ白衣の下にニットスカートを着込み、黒のストッキングのみを履いたエリーは寒くないのかと疑ってしまう。
「エリーは寒くないの?」
白い息を吐きながら震える声で金髪がなびく背中へ質問を投げかけると、研究者は手袋もしていない右手をはらはらと振った。
「ん? ああ、昔研究で寒い地方に一年以上滞在したこともあったからね。まあ、寒さには少しばかり耐性があるのさ」
「昔って、エリーまだ学生だったはずだけど!?」
現在彼女の年齢は二十六歳と聞いている裕紀の計算が間違っていなければ、来日する前の研究に携わっていたとしても当時の彼女の年齢からして大学生のはずなのだ。
いったいどんな立場だったのか、思わず尋ねた裕紀にエリーは歩きながら答えた。
「ま、天才大学生にも研究者であるからにはいろいろな依頼が来るものなのさ」
「へ、へえ~」
高卒からの就職という可能性もあったが、自分が大学生であったことを彼女は否定しなかった。
ただ、返答がまた曖昧なものだったので裕紀は要領を得ないような声を発した。
行き場のないもやを開放するために、ふと空を見上げてみると雨雲はまだ広がっていた。もう少し経てばまた降り出しそうな曇り空だった。
まったく天気というものはどうしてこうも気分屋なのか、愚痴をこぼしそうになるものの目的地であろう建物を視界に収めて飲み込んだ。
霜が砕かれる音を足裏に伝わる感覚とともに楽しみながら歩く裕紀の目の前に、少しばかり大きめな倉庫が現れた。
研究所よりは大きくないものの、並の倉庫よりは充分な大きさを誇っている。中に何が置いてあるかはさておき、歩み寄ったエリーが倉庫の隣に設置してあるボタンを一度押す。
シャッターが擦り合いながら上昇を始め、数秒後には倉庫の内部がすべて露わになった。
湿った空気とともに、物置の倉庫独特の匂いが鼻腔を突いた。
だが、数多の段ボールや用途の知れない物体が揃っている倉庫内に躊躇いなくエリーが足を踏み込んだので、裕紀もその背中を追う。
広々とした倉庫内の右側奥へと進んだエリーと裕紀は、ビニールシートが被さった何かの前で立ち止まった。
倉庫内には段ボールやビーカー、はたまた何かの装置が置いてあるが、ビニールシートの下にある物はそのどれとも違うようだ。
ビニールシートの形から乗り物のような雰囲気があった。
「買ったのは来日して一年目なんだけど、私にはあまり使う機会がなくてね。ちょうどいいから貸してあげるよ」
言いながら被さるビニールシートの留め具を外し、よっこらしょ、とシートを外した。
シートに被った埃が煙の如く舞い上がったが、裕紀は露わになったその存在に目を見開いた。
二つの車輪を前後に備え付け、いかにも空気抵抗を少なく考えられた構造のそれは一台の自転車だった。
それも、よく近所の知り合いが乗っているようなよく言うママチャリではなく、スポーティーな構造をしたロードバイクだ。
値段的にも普通の自転車より格段に上の代物を見て、裕紀の瞳に光が宿った。
だが、それは自分がそれに乗れるという先走った思考などではなく、他人の意思を察したが故の感激の光であった。
「エリー、もしかして・・・とうとう外に出る決意をっ!?」
来日してからはや六年。現在進行形で引きこもりの研究者へ感嘆の声を掛けた。
どういう心境の変化なのかは知らないが、もしそうであるならば喜ばしいことだ。
・・・単に個人的な労働量が減るという意味であるのだが。
そんな期待に満ちた裕紀の声に、エリーは心外そうに唇を尖らせて言った。
「失礼だな! 私が研究所に引きこもってるだけの女性だと思っていたならそれは大きな勘違いだよ。来日一年と二ヶ月頃までは、しっかり市街地に出て、年頃の女性らしい買い物をしていたさ」
来日してから一年と二ヶ月ということは、今から五年と少しになる。
あの頃は裕紀も小学生だったので、女性の綺麗可愛いは曖昧だったが、初めて出会ったエリーを見たときの感想は美人なお姉さんだった。
それは裕紀だけでなく周囲の人たちの認識もそうだったらしい。
彼女の言う通り、市街地への買い出しなどに付いて行くと幾つもの視線が集まるのを感じていた。男性のものは多かったが、女性からの視線もなかなかだったと思う。
当時まだ子供だった裕紀は、迷惑そうな表情をしているエリーの心情など気にもかけず、『お姉ちゃんって人気者だねっ』などと言っていた記憶も薄っすらとだがある。
「もしかして、街に出るたびにエリーへ集まる視線が嫌だったの?」
記憶を辿りそんな結論へ至った裕紀は何の気なしに言った。
言われたエリーは大袈裟に肯定を示した。
あたかも当時から思っていた自分の気持ちを裕紀が知ったことを喜ぶように。
「その通りだよ。街に出るたびに知らぬ人からの視線を浴び、酷いときなんてナンパもされた。そんな毎日を過ごすくらいなら、いっそこの敷地から出なければ万事解決というものだろう!?」
その結果が、いまも続く彼女の家事能力ゼロへと繋がっていることを自覚しているのは、多分裕紀ぐらいだろう。
当時のことを思い出してかもっと語らせろとても言いたそうなエリーの様子から、放って置けばこの口が小一時間は動き続けるだろうと判断する。
そんな時間はもちろん両者にはないので、裕紀は苦笑を滲ませながら思考を現実へと引き戻した。
「と、ところでこの自転車は俺が使ってもいいの?」
「ああ。一応のメンテナンスは済ませてあるから是非使ってくれ。もうしばらくすればまた雨も降ってきそうだし、早く行ってきなさい」
半ば強引に現実へ引き戻されたエリーは、すぐに辛い過去から立ち直るとそう言ってくれた。
ずっとしまいっぱなしだったロードバイクを倉庫から出す。久々の外出が持ち主ではない裕紀でいいものなのか、一瞬だけ考えなくもなかったが、当の本人があの様子ではもうしばらくは倉庫に放置が続いただろう。
そういうことも踏まえると、まあこのロードバイクにとってはようやく役割を果たせる絶好の機会なわけだ。
(整備不良以外の問題で壊さないようにしないとな)
そう思いながらも裕紀はサドルに跨った。
使わずともしっかりとメンテナンスはしていたというその言葉に嘘はなく、空気も抜けている様子はなかった。チェーンにもしっかり油が差してあり、気持ちよく漕げそうだ。
「なあ、今度一緒に買い物に行こうか?」
漕ぎ始める前にふと振り向いてエリーへそう問い掛ける。
一人ならともかく、この歳の男性を連れて歩けば細やかなナンパ対策にはなるだろう。
そう思ったのだが、白衣の両ポケットに手を入れていたエリーは、煌びやかな笑顔ではっきりと返答した。
「うむ、断るよ!」
どうやら裕紀の思っている以上に、エリーは外界に恐怖(?)しているらしい。
彼女の家事能力を上げるには、研究所の敷地から出ることから克服しなければならないようだ。
エリーの返答に内心苦悩していた裕紀は、前へ向き直るとロードバイクを漕ぎ始める。
欠かさずメンテナンスをされていたおかげか、久しぶりの外出によるためか、ロードバイクは何一つ悲鳴をあげることなく前へ進み始めた。




