アークエンジェル(1)
「ほんと、どうなってんだよ・・・」
温かい、どちらかと言えば少しだけ熱いシャワーを頭から被った裕紀は、困惑から心が落ち着いたせいかそう愚痴をこぼしていた。
彩香を連れて転送魔法を使った裕紀は、八王子市街地から離れた人気のない場所に建てられている研究施設にいた。
別の部屋にいたらしいエリーは、突如現れた知人を前に驚きを露わにしていたが、裕紀の腕に抱えられた血塗れの女子に気づいた途端すぐさま救護に当たってくれた。
さすがに同年代の女子が着ている服を全部脱がすところに男子が立ち会わせるのはどうかということで、全身びしょ濡れの裕紀はシャワーを浴びているということだ。
ところで、なぜ裕紀がエリーの研究施設へ転送されたのかは未だに分からない。
初めて魔法を扱ったときはエリーの研究所をイメージした結果、なぜか異世界へ転送された。が、今回は目的地が魔晶石に保存してあるらしいので異世界への転送は防がれている。
たが、転送先が研究所であっては、安全ではあるが魔法使いの裕紀としては本末転倒だった。
可能性としてはあの女性が思っていたよりも裕紀の魔力操作とやらが壊滅的だったのか。
それとも、エリーも魔法に関わりを持つ関係者であの女性たちとも何らかの関係があったのか。
もしも後者ならば、何となく納得できる気がする。
様々な研究に手を掛けているらしい彼女ならば、魔法という存在にも気づいているのかもしれない。
ぐるぐると考えながらもシャワーを浴び終わった裕紀は、バスルームでジャージへ着替えると転送された休憩室へ移動した。
部屋へ入った裕紀を出迎えたのは、パソコンのディスプレイを正面にして座るエリーだった。
パソコンに映されているのは心拍数、脈拍や体温などその他諸々の生体情報。
エリーはそれらが忙しなく動く画面へ目を離さずに向かい合っている。
次節、背後のガラス窓へ目を向けているのは隣の部屋で横たわる少女の容態を、肉眼で確かめているからだろう。
真剣な色を帯びたスカイブルーの瞳が、パソコンへ視線を移す途中で裕紀の立つ場所へ固定された。
「シャワーだけで済まないね。よく温まったかい?」
「お陰様でよく温まれたよ」
エリーの気を使った言葉に裕紀は率直な感想を述べる。
今日、まさか自分が雨に濡れて命懸けの戦いを繰り広げるなど誰が考えるだろうか。
エリーからしてみれば、ずぶ濡れの怪我人二人が突如訪問してくることなど予想すらしていなかっただろう。
そのことを考えると、やはりエリーの対応は迅速だった。あらかじめ連絡を受けているか否かは不明だったが、彼女の手際の良さはまるで経験者のようだった。
自分の対応に不満を抱いていないことが分かって安心したのか、エリーは椅子から立ち上がりダイニングへ向かった。
「そこに座っててくれ。いまココアを用意するよ」
「ああ。ありがとう」
口ではそう答えるものの、内心はあのガラス窓の向こう側のことで一杯だった。
エリーの言葉とは裏腹に、裕紀はソファには座らずガラス窓まで歩み寄った。
本来は実験対象である裕紀の容態がいつどのような変化を起こしても構わないようにするためのガラス窓らしいので、隣の部屋の様子は一目見れば分かる。
いつもは研究対象たる裕紀が横になるはずの大きなベッドに、いまは違う人が横になっている。
一応の治療等を施された彩香は、制服からパジャマへと着替えさせられて静かに瞳を閉ざしていた。
青白い顔の彩香は、すぐにでも息が途絶えてしまうのではと思ってしまうほどにか細い呼吸を繰り返している。
ひょっとしたら、このまま彼女が目を覚まさず最悪な方向へ物事が進んでしまうのかもしれない。
そんな思考が頭を過ぎり、裕紀は歯を食いしばりガラス窓に触れる手に力を入れた。
「私は彼女を心配している君の方が心配になってくるよ」
背後から笑みの含まれた声が届き裕紀はびくっと肩を震わせた。
まだ裕紀の頭には男との戦闘の余韻が残っていた。頭ではここが安全だと分かっていても、少しでも背後から何かをされると身体が勝手に反応してしまう。
「仕方ないだろ。俺が、柳田さんをこうしたも同然なんだから」
彩香から視線を外し、俯きながら震える声でそう言い返す裕紀の肩にエリーは白くて綺麗な手を置いた。
「どんな事情かは知らないけど、きっと彼女は君のために戦ったのだろう? だったら、君が弱気になっては駄目だよ。彼女の行動を無駄にしないためにもね」
研究所に転送されてからドタバタしていたせいもあり、彩香がこうなってしまった経緯はまだエリーには話していない。
ただ彼女の言う通り、裕紀に下を向いていられる時間はない。彩香を守ると、二度とこんな事は起こさせないと決意を固めたばかりなのだ。
だけど、裕紀の実力ではあの男には手も足も及ばないことも事実。
いまの裕紀はたった一人の同級生に庇われてしまうほどに無力だ。
それは誰に言われるまでもなく、自分自身が一番よく理解していた。
「分かってる、分かってるけどさ。俺にやれる事なんてたかが知れてるよ」
この際知っていることを洗いざらい吐き出したい衝動もあった。吐き出してしまえばきっと楽になれると。
だがその衝動を抑えて、裕紀は随分と弱気にそう返答した。
ここで全てを話してしまえば、たった一つの決まりごとが裕紀にそうさせなかった。
魔法使いのための規約。
魔法という存在を公に晒させないために、何者かが全ての魔法使いたちに定めた絶対のルール。
あれが存在する限り、一般人に魔法のことは迂闊に喋れない。今回の事件に魔法が絡んでいるとなると、警察や学校には当然通報することもできないのだ。
万が一にも魔法とは無関係の人物に、魔法についての情報を漏洩でもすれば、その時点で話した者から魔法とそれに纏わる記憶は失われる。
あの男たちから彩香を守るためには、裕紀に魔法は必要不可欠な存在だった。
更に言えば、彩香が倒れている現状、裕紀には魔法の指南をしてくれる身近な人もいなかった。魔法のことを話さなくても、魔法を上手く使いこなせるかは別の話。
助けに来てくれた女性から魔力の扱いが乱雑過ぎると言われた傍、裕紀は魔法の扱いに少しばかり苦手意識を持ちつつあった。
「なんか俺、いろいろ追い込まれてんなぁ」
思ってた以上に厳しい現実につい本音が出てしまった裕紀に、エリーはこの件には深く関わらない方向にしたようだ。
「何をそこまで思い詰めてるのかは知らないけど、一度ソファに座ってココアでも飲むといいよ」
こうして自分には関係のない事柄には深く首を突っ込まないのは、エリーの良いところだと思う。
本人からしてみれば触らぬ神に祟りなし主義なだけだろうけど、こういう不安定な場合ではその方がありがたかった。
そんなわけで、エリーに促されるまま裕紀はソファに座り、差し出された淹れたてのココアを一口啜る。
好物ということもあり、赤褐色の液体を口に流し込むと緊張していた身体の力が抜け、裕紀は大きく息を吐いた。
ようやく一息ついた様子の裕紀に、コーヒーを飲んでいたエリーがふと尋ねてきた。
「そういえば、学校には行かないのかい?」
「あ・・・」
言われてから、裕紀はまだ自分が登校途中であったことを思い出す。
命を懸けた戦闘を繰り広げたせいか、学校のことなどすっかり忘れてしまっていた。
試しに時間を見てみれば、朝早く家を出たのにも関わらずもう八時を回っている。街の外れにあるこの研究所から学校までは電車一本分の距離はあるので、最低でもあと十五分以上は掛かる。まず遅刻は免れないだろう。
彩香のこともあるし、今日一日くらいなら休んでも構わないだろう。幸い出席に関しては欠かさずに学校に来ているので心配なしだ。
「休む、などというのはなしだよ? 大変だったのはわかるけど、それとこれとは話が別だからね」
しかし、そんな裕紀の内心を察してか半目で腕組みをしたエリーにそう先手を取られてしまう。裕紀の成績に関しては、親代わりであるエリーはもちろん知っていた。
「でも、柳田さんのことだってあるし」
「彩香ちゃんね。彼女のことも心配はいらないよ。治療は終わってるし、面倒見るくらいなら私にだってできる」
いつの間に彼女の個人名を特定したのかは気にすることなく、裕紀は的外れな質問をした。
「ちなみに今日の朝ごはんは?」
「カロリーメイト一本とコーヒー」
「・・・・・・」
いまこの瞬間に、目の前の研究者へちゃんとした栄養のある食事を摂らせてやりたい。
そんな思考が裕紀の頭を過る。
何も自慢できないことを、何故か自慢げに椅子の上で胸を張って言うエリーに、彼女の家事をすべてこなしている裕紀は内心頭を抱えた。
(不安しかない・・・)
これからは、もう少しエリーの研究所へ寝泊りをする回数を増やした方がいいのかもしれない。
ただ、まあよく考えてもみれば医療など無縁の裕紀に彩香の容態が急変してもどうこうできるはずがない。
結局は誰かの力を借りて、自分は部屋の隅でただ無事を祈っていることしかできないだろう。
そんなことしかできないなら、学校へ行って授業を受けて少しでも自分の将来を広げる努力をした方がいい。
「そう、だな。ここにいても俺は何もできないし、学校行った方がまだマシかな」
やや現実逃避気味に思えた考えに、自嘲気味の笑みを浮かべる裕紀に何を思ったのか、エリーは持っていたカップをテーブルに置くと立ち上がった。
きっと学校へ連絡をするために別部屋にある電話機へと向かうのだろう。
そう思い白い床へ視線を落とした裕紀は、直後暖かくも優しい抱擁に包まれた。
別部屋ではなく裕紀の隣に移動したエリーがいきなり彼を抱き寄せたのだ。
全身を彼女の存在が覆い尽くすような感覚にどぎまぎする裕紀に構わずに、エリーは抱擁の力を強めて言った。
「君が何もできないだって? そんなことはないさ。現にこうして一人の人間を助けているじゃないか」
その言葉を受けた裕紀は抱擁の中で身体を固まらせた。
発作的に自分の行為を罵る言葉が、裕紀の口から放たれる。
「こんなの助けたなんて言わないッ。柳田さんを傷つけたことに変わりはないんだ!」
「いいかい裕紀。この世界に完璧な人間なんて存在しないよ。世界中の誰もが強くて何でも守れるヒーローではないんだ」
幼子を癒すように背中を摩りながら語りかけるエリーを、裕紀は振り解こうとはしなかった。
むしろ傷ついた裕紀の心を癒すように、エリーの言葉は心の傷口に染み込んでいった。
「だけど君は守ったじゃないか。傷つき何もできなかったとしても、こうして彼女は生きてここにいる。それは君が勇気を出し、逃げずに大きな敵へと立ち向かった証拠だ。私から言わせれば、君はどんな偉い人にも負けることのない心を持つ立派な人間だよ」
別に裕紀は、ヒロインや世界を救う英雄などとそんな大層な存在になりたいのではない。
そんなものは、おとぎ話しや伝説に出てくる登場人物だけで十分だ。
誰かそういうことをやりたい人にでもその役割を押し付けてしまえばいい。
それでも、彩香だけは守りたかった。
魔法という存在がなければクラスメイトとしても仲の悪い関係でしかなかった裕紀を、身を挺して守ってくれた彼女を傷つけたくはなかった。
そのせいか、守れなかった弱さと、固めたはずの意志すら貫けない己の愚かさを裕紀は許せなかった。
そんな思考で自分を追い詰め、腕の中で何度も首を振る裕紀に、エリーは柔らかい声音でたった一言だけ言った。
「よく頑張ったね」
しかしその言葉を聞いて、裕紀は見開いた瞳から二粒の涙が溢れた。
裕紀はそれを拭おうとせず、ただただ涙を流し続けた。まるで、心に積もった感情をすべて押し流してしまうかのように。
およそ五分ほど涙を流した裕紀は、もう大丈夫とでも言うようにエリーの抱擁から抜け出した。
「おや、もういいのかい?」
「俺はそこまで子供じゃない」
どうしてかほんわかとした顔のエリーに裕紀は涙を拭いながらむすっと返した。
やはりこの歳で知り合いの女性に抱かれて泣いたことは恥ずかしい。恥じらいからか、頬の辺りが微かに熱を持っているのが感じられた。
対してそう返答を受けたエリーはすんなりと諦め、部屋に添え置いてある電話機へ歩み寄った。
裕紀に背を向けて受話器を取ったエリーは番号を慣れた動作で押す。
どこかへ電話を掛けているらしいエリーは、数分ばかり受話器へ言葉を送るとやがてこちらへ戻ってきた。
ソファではなく自身の椅子に腰を下ろしたエリーは、裕紀の訝しむような視線に微笑みながら答えた。
「学校には事情を話して遅れることを伝えておいたよ。クラスの皆も心配しているみたいだし、早いとこ行ってやりなさい」
研究者と研究対象という関係を除けば、エリーと裕紀の関係はほぼ他人に近い。なのにこうも優しくしてくれるのは、もはや二人が家族同然の関係となっているからだ。
両親がいない裕紀にとってはエリーの存在はとても大きなものだったし、子供を持たないエリーにも裕紀は大切な存在だった。
「ごめんエリー。何から何まで、迷惑かけて…」
「迷惑だなんて思わなくていいさ。私たちはもう家族だろう?」
まあ、彼女にとっては裕紀は自分の息子も同然ということだ。
ただ、それでもエリーは根っからの研究者らしく赤縁の眼鏡の奥にある碧眼を子供のようにキラキラと輝かせながら言った。
「ただ、一つ条件があるんだ。今日限りでいい、コレの研究をさせてくれないか?」
そう言って取り出されたのは柄形状のデバイスだった。男や彩香が魔光剣と呼称していた剣型の武器だ。
おそらく裕紀がシャワーを浴びている間に発見してしまったのだろう。
どういう仕組みかは不明だが確実に魔法と繋がりのあるソレは、もっともエリーに渡してはならない物でもある。
多分、いや確実に凄腕研究者たるエリー・カティならあの武器の真相に辿り着くだろう。
「いや、そんなの調べても何の得にもならならないって。ただのおもちゃだよ」
高校生にもなっておもちゃはないだろ、と内心で突っ込みを入れた裕紀にエリーはじとっと目を細めた。
「おもちゃにしては構造がやけに繊細だよ。特にここのスイッチとか…」
「そこは押しちゃダメだ!」
エリーが試しにスイッチを押し込もうとするので裕紀は慌てて制止の声を張り上げた。
万が一でもデバイスが起動しあの群青の刀身が現れでもしたら、さすがに危険すぎる。
それよりも、もう彼女が手中にあるデバイスが普通ではないことに気づき始めている時点で色々と危険ではあるのだが。
一方、滅多に出さない裕紀の本気の大声に目を丸くしていたエリーに、慌てて弁解する。
「ほ、ほら! 昨日演劇部の友達に演技を手伝うよう言われてさ。借りたまま返すの忘れてたんだよ。変なとこ弄って壊したら困るだろ?」
そんな突拍子もない作り話を信じてくれたのかは分からない。
ただ、エリーはひとまずこの件に関しては諦めてくれたようで、手に持っていたデバイスをテーブルに戻すと言った。
「それもそうだね。借り物であるなら部外者の私が勝手に弄るわけにもいかないな。壊しても責任は取れないしな」
(ふぅ・・・、危なかったな)
こんなことで魔法の存在がバレでもしたら笑おうにも笑えない。彼女が魔法と関係があるのであるなら話は別だが、今は関係性が不明なことに変わりはない。
張り詰めていた肩の力を抜いた裕紀に、エリーは可笑しそうに微笑を浮かべた。
「さ、そろそろ学校へ行かないとだね。いいものを貸してあげるからついておいで」
安堵しきっていた裕紀へそう声をかけると、エリーはすたすたと部屋の外へ出て行ってしまう。
しばらく彩香を部屋に放置することになるが、ああ見えて用心深いエリーのことだし大丈夫だろうと考え、裕紀も部屋を出た研究者の後を追った。
エリー・カーティー⇨エリー・カティ




