襲撃(12)
力尽きて倒れる彩香を、裕紀は慌てて抱き止めた。
大量の血を失ったことに加えて、雨に濡れて体温を奪われているせいもあるのだろう。直接触った彼女からは、温もりというものが感じられなかった。
彩香の背中に回した掌に滑りのある何かが触れる。
恐る恐る掌を伺いそれが彼女の血液だと認識したとき、ようやく裕紀は喋ることができた。
「そんな・・・こんなことが・・・ッ。目を開けてくれよ、柳田さん! 頼むよ・・・! お願いだから目を開けてくれッ!!」
たった数分前に決意したことすら守れないことも嫌だったが、それよりも裕紀の身代わりとなって彩香が死ぬことなどもっと最悪だ。
悲痛の叫び声を上げるが、彩香は青白い顔のまま瞳を伏せている。呼び掛けとともに必死に揺さぶる華奢な体も、だらりとしていてぴくりとも反応を示さない。
「クククッ、アッハハハハ! 無様なだなぁ、女ぁ。すぐに俺の誠実な従者にしてやるよぉ。まぁ死んでるから意識はねぇけどなぁ、ハハハッ!」
その様子を見ていたのか、勝ち誇ったかのように血だらけで倒れる男がそう掠れ声を上げる。
彼にとってのターゲットは裕紀だ。
ただし、裕紀抹殺の邪魔をする者は全員が殺戮の対象となってしまうのだ。
命の尊さなど、これっぽっちも思っていない。
「貴様・・・よくもッ!!」
そんな男に対して、裕紀の心を恐怖より怒りが覆い尽くした。
色彩をなくしていた灰色の世界に色が戻り、無音の世界に音が轟いた。
全身から黄金の光が溢れ、裕紀の周囲を暴風の如く風が吹き荒れる。裕紀の体内に巡っている生命力が、手に持つ魔晶石を媒介に魔力として放出されているのだ。
それらは路上に散らばる瓦礫や雨水、降り続ける雨粒を弾き飛ばした。
手に握っていたデバイス改め魔光剣フォトンセイバーから、群青色の刃が怒りに呼応したかのように勢いよく飛び出す。
怒りに身を任せている今の裕紀であれば、瀕死状態の男一人くらいはたった一振りで簡単に倒せる。
男の息の根を止めるために、抱いていた彩香を優しく地面へ降ろそうとしたその時だった。
暴風の中心にいた裕紀へ制止を促す女性の声が届いた。
「待ちなさい新田裕紀! あなたはその怒りを何のために振るうのです!? あの男への報復の代償に、大切なものを永遠に手放すつもりですか!?」
怒りで男しか頭になかった裕紀に見えなかったものが、女性には見えていた。
怒りに我を失いかけていた裕紀は、僅かに残された冷静な心でそんな女性の言葉を聞く。
そして、片腕で抱かれ土気色となった彩香の表情を見て裕紀は目を覚ました。
ここで瀕死の男を殺すことは、裕紀には容易いこと。
だが、そんなことをしている合間にも彩香の命は刻一刻と削られていく。
人殺しを楽しむような下衆な男への報復よりも、腕に抱いている少女の命の方が断然大切に決まっていた。
(俺はあと少しで、取り返しのつかないことをしてしまっていたのかもしれない)
ただ一時の怒りだけで守るべき存在を見失った、自分の無力さと愚かしさを深々と痛感する。
そして、裕紀は深く息を吸い込むと心を支配しようとしていた怒りの嵐を押し留めた。
吹き荒れていた魔力の奔流が裕紀の身体の中へ収まり、巻き起こっていた暴風がそよ風に変わる。
他人に言われなければ大切なことに気付けない自分でも、いまこの時点でやるべき事はあった。
「すみませんが、俺は彼女を連れてここから離脱します。あとのことは、お願いします」
申し訳なさそうに言う裕紀に、女性は無感情だった表情に初めて薄く笑みらしきものを浮かべた。
「迷惑などと考える必要はない。あなたを守ることは、彼女から頼まれた私の任務だから」
すくっと立ち上がり前に出た女性の背中はどこか頼もしく見える。裕紀とは違って多くの戦闘で、より多くの存在を救ってきたことだろう。
黒いスーツを着た力強い背中へ一秒ほど強い視線を送ってから、今度こそ裕紀は教えて貰った呪文を唱えた。
「テレポート」
呪文に反応し、二人の身体が魔晶石から溢れる純白の光に包まれる。
足元に二人を囲むように同色の複雑な円陣が現れ、それが徐々に上半身へ登ると通過部が粒子となって消えていく。
徐々に身体の重心が消えていくのを感じながら、裕紀は力無く抱かれる彩香の身体を強く抱き寄せて願った。
(頼む、まだ死なないでくれ)
(今度は俺が、君を守る!)
その願いを抱いたまま、裕紀と彩香は隔離された世界から現実世界へ離脱した。
(二人の魔力が消えた。この空間には、もう私と男だけ)
新田裕紀という名の少年が彩香を連れてこの空間から離脱したことを確認した女性は、腰に納めていた魔光剣フォトンセイバーを右手に持った。
起動スイッチが押し込まれ、デバイスから青空の色をした刀身が音もなく現れる。
女性は興味のない冷たい視線を男へ向けた。
男の状態は言葉通り瀕死だった。彩香によって右肩と腹を斬り裂かれ、とめどなく溢れる出血のせいで助かる見込みはないだろう。
そもそも、この女性に哀れみで男を助ける気など微塵もないが。
この男もあの少年を抹殺するという任務に臨み、その結果こうして地に這い蹲り最期の時を迎えている。相手を殺しにかかるのだから、自分も殺される覚悟ぐらいは備えているだろう。
女性も同じだった。彼女も任務に就くとき、これが自分の最期になる覚悟を常に固めている。
そして、今日もそうだ。
昨日、コミュニティの仲間同士でも滅多に協力を申し出ない魔法使いが、血相を変えてある少年の防衛を依頼したあの瞬間から。
「あなたも、ここで死ぬ覚悟はあるのでしょう?」
少し離れた場所からそう問い掛ける女性に、男は横たわりながら苦しそうに言った。
「ハ、ハハ・・・。死ぬつもりなんざ、ないね。俺はまだ生きないとならないんでなぁ」
正直に言って女性には男の発言に興味はなかった。
殺した相手の遺言ぐらいは聞いてやるくらいの、どうでもいい気持ちだった。
だが、散々人を痛めつけておいてまだ自分が助かる気でいる男に、とうとう女性は何の感情も抱かなくなった。
「私に斬られなくても、どちらにせよあなたは出血多量で死ぬ」
斬られて痛みも何も感じずに殺されるか、傷の痛みと大量出血によって苦しみながら死ぬか。
その二者選択を与えたつもりだったのだが、男は渇いた声でカラカラと笑った。
「そういうわけにも、いかねぇのさ。俺たち闇の魔法使いの世界ってのはよぉ」
その表情が、面白いから笑っているのではなく恐怖を隠すための笑みだと女性は気づいた。
何に怖がっているのかは知らないが、女性はさっさと男を殺すことにした。
雨に濡れた髪を一振りして男の元へ歩み寄ろうとした女性は、突如これまで感じたことのない強い魔力を察知して足を止めた。
「そこで歩みを止めたのは正解ね」
脳の警戒レベルを最大まで引き上げた女性の耳に透き通った声が届いた。
直後、倒れる男のすぐ側に影ができたと思えば、その中からローブを羽織った何者かが現れる。
声音からして恐らく女性の魔法使い。立場は男の師か、はたまたコミュニティ内部における幹部のような存在か。
それよりも、この魔法使いが姿を露わにしたことではっきりと感じられる得体の知れない魔力により、女性は意識を警戒から戦闘へと切り替えた。
女性が気配を切り替えたことを感じ取ったのか、現れた魔法使いはくつくつと笑う。
「あら? もしかして私と戦うつもりなのかしら」
目元までローブで隠れているので、伺えるのは血の気のない唇のみだった。その唇から漏れる冷たい声音に不気味になりながらも、女性は声音を変えずに要求と回答を同時に口に出した。
「その男をこちらに渡して。それができないなら戦うしかない」
「そう、・・・フフ。残念だけれどそうはいかないわ。彼にはまだ、戦ってもらわねばならないから」
「ならば話は早い。あなたを倒し、その男を殺すまで」
魔法使いの返答に、今度こそ魔光剣フォトンセイバーの剣先を目の前に構えた。
女性の鮮血のような瞳の両眼に殺意の光が宿る。
仲間の少女から伝えられた情報によれば、襲撃者の所属するコミュニティは、血で染められた交錯する悪魔の双翼のエンブレムで知られる組織。名をネメシス。
構成メンバーもその目的も一切明らかにされていない、しかし魔法による犯罪コミュニティということだけが知られている。
女性の所属するコミュニティの役割上、悪質なコミュニティに所属する魔法使いとの戦闘は多い。
たが、今回のように謎多きコミュニティの幹部と思われる魔法使いとの戦闘は未経験だった。
「なかなかの手練れのようだけど、あなたが私の相手をするには力不足ね。たぶん、一分も満たずに殺られるのではないかしら」
女性と対峙しただけで彼女のことをそう評した魔法使いから放たれる言葉に、女性は短く答えるだけに留めた。
「そんなもの、やってみなければわからない」
そう呟き、女性はそよ風のように静かに地面を蹴ると雷光の如き速さで魔法使いに肉迫した。
十メートルは離れていた距離をたった半秒でゼロ距離まで接近し、刀身が目視できぬほどの速度で横薙ぎに振るう。
尋常の人間では出すことのできない速度で振られた剣は、魔法使いの胴を呆気なく横断した。
しかし、女性の腕に伝わってくる感触は肉と骨を断つ重い感覚ではなく、霧を凪いだかのように軽かった。
切り裂かれた魔法使いの身体が闇の粒子となってその場から霧散する。
「殺してしまうには勿体無いほどの、素晴らしい剣速の持ち主なのね」
剣撃を外した女性に動揺はなく、背後から掛けられた声に女性は瞳を閉じて答えた。
「そういうあなたも、やはり只者ではない」
言いながら閉じていた瞳を開けて足元を盗み見るも、血溜まりには男の姿はなくなっていた。
身体を半分だけ相手に戻し、剣先を向けた先には男を抱える黒いローブの魔法使いが立っていた。
魔法使いのローブに傷すら付いていないことから、剣撃は完全に躱されたのだと悟る。
腕に抱えられている男の欠損部位からは止血されているのか血は流れていない。腕の中でぐったりとしているのは、あの魔法使いによって意識を奪われているからだろう。
どちらが先に動くのか数秒の沈黙が続いたが、やがて女性は剣を下ろした。
「この場であなたと戦うには、少しリスクが大き過ぎる」
戦いから背を向ける女性の言葉に、魔法使いは軽く肩を竦めてみせた。
「状況判断力も申し分ないわ。戦闘能力も加味して、是非私たちのコミュニティに誘いたいのだけど、あなたとは殺し合った方が楽しそうね」
あっさりと休戦の提案に乗った魔法使いに女性は肩の力を抜いた。
今この状況で女性が取るべき行動は男の息を完全に止めることだが、それが原因で長引くような戦闘はするべきではない。
それに、目の前に立つ魔法使いは他の魔法使いよりも格が違うことも分かっていた。
分かっていながら戦って殺られてしまってはそれは無駄死にというものだ。
仮に女性が死ねば、一人残されたあの少年を守れる人間がいなくなってしまう。
それに、今は重傷を負ってしまった仲間の安否も心配だった。
こういう一つ格が上の相手との戦闘は、心身ともに最高のコンディションでなければ負ける確率の方が遥かに高い。
瀕死の男の保護という目的を果たした魔法使いは、薄く紫がかった唇に小さな笑みを浮かべ女性に忠告した。
「一応、あなたたちのコミュニティに伝えておくわ。今後、私わたくしたちの妨害をするのは構わないけれど、その代償は関係のない命で支払われることになるでしょう」
「あの少年を殺させるわけにはいかない。それが、私たちの仲間が望むことだから」
揺るがない意志を滾らせる瞳で見詰められた魔法使いは、唇の笑みを深くするともう何も言わずに黒い影となってその場から立ち去った。
発動者である男までもがこの空間からいなくなってしまったためか、隔離された世界と現実世界の同調が始まる。
関係のない人々を巻き込まないように発動するのが目的の人払いではあるが、解除と同時に戦闘で生じた建物などの損害を元に戻す力はない。
女性も早くこの空間から出て、仲間の元へ駆けつけたかった。
しかし、魔法の存在を一般人やマスコミなどに勘付かれないためにも、この戦闘の痕跡は消さねばならない。
この空間が現実世界と完全に同調するまでおよそ五分ぐらいと考え、その間に損害の激しい(主に路面にできたひび割れや窪みなど)箇所の修復を始めるのであった。
仲間の心配は、少々頼りないがあの少年に任せておけば大丈夫だろうと、頭の隅へ追いやった。
テレポートという転送魔法を発動し、重力という感覚を一瞬だけ失くしていた裕紀は、いきなり身体に重力が戻ったことで抱えていた彩香ごと床に倒れ込んだ。
視界に白い床が入り、咄嗟に自分が下になるように身体の向きを変える。
「ぐへぇっ!げほっ」
硬い床に背中をぶつけ、更には彩香の全体重が腹に加わった裕紀は喘ぐと同時に咳き込んだ。
床と人に挟まれた裕紀はしばらく事態を忘れて放心していたが、転送された場所に居合わせた人は驚いた声をかけてきた。
「だ、大丈夫!? えっと、こういう時は警察と病院に・・・。ん? まてまて・・・君、裕紀じゃないか」
慌てたようすから素っ頓狂な声音に変えた人の声に、裕紀も聞き覚えがあった。
それと同時に、途轍もなく大きな困惑と緊張も裕紀の思考を占領した。
彩香を抱いて仰向けに転がった裕紀の視界に、金髪碧眼の白衣を着た研究者の驚き顔が映り込んだ。
「えっと、え? なぜに?」
考察すべき様々な困惑に埋め尽くされた思考の中で、ただそれだけを口にする。
そんな裕紀に、研究者は赤縁眼鏡の奥にある瞳をすっと細めた。
それから腰に手を当て、深く溜息をついてから呆れた声音で言う。
「それはこっちのセリフなんだけどね?」
二〇六七年十一月三十一日、火曜日。雨の日の朝。
魔法使いとなってから二度目の転送魔法による転送先は、裕紀が毎日のように通っている研究者エリー・カーティが所有する研究施設だった。




