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聖剣使いと契約魔女  作者: ふーみん
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襲撃(11)

 意識を失っていたのは、ほんの数秒の出来事だったらしい。相変わらずの雨雲から降り続ける雨粒に顔を打たれながら、裕紀は瞼を上げた。

 霞がかかった視界に誰か人の顔が映っているが、焦点が合わないせいで顔が認識できない。

 しばらく経てば戻るだろうと思った裕紀は、その間に状況の整理をする。


 ことの発端は学校への登校の途中、裕紀は全身を黒いローブで身を包んだ男に襲撃されたのだ。戦闘が始まってから付け焼き刃の魔法でやや優勢に立ったものの、裕紀は男の魔法と思われる力で吹き飛ばされてしまった。

 一時は絶望に呑まれそうになりながらも、諦めずに男の刃に抵抗し続けた裕紀に、待ちに待った救援が訪れたのだ。

 裕紀が魔法使いとなったことを知る者は彩香ぐらいなので、この場に駆けつけてくれたのは彩香本人か彼女の仲間、またはその両者だろう。


 そこまで思考(回想)が追いついてから、裕紀はがばっと身を起こした。

「ーーつッ!」

 勢いよく身を起こしたためか、裕紀の全身に激痛が電流のように走る。身を起こしてから感じるが、身体が鉛のように重たかった。

 傷のある右腕はもちろん、ボロ雑巾のように路上を転がったせいもあるのか、もはや裕紀の体は満身創痍だった。

「まだ身体を起こしては駄目。治癒魔法をかけているから、しばらくは安静にしてて」

 そのボロボロな身体を、女性が魔法を使って治療してくれているのだということに言われてから気づく。

「でも柳田さんが、ここに来てるなら俺も戦わないとッ!」

 顔も名前も知らない女性に支えられながらそう声を掛けられた裕紀は、治療中の身体を抑えながら必死にそう答える。

「いまあなたが戦闘に乱入したところで何もできはしません」

 ようやく焦点が合ってきた視界で、裕紀は言葉を放った女性の顔を認識した。

 髪は夜空のような黒髪を肩の辺りにまで伸ばしている。瞳は鮮血のように赤く染まり、顔に表情というものはなかった。

「だけど・・・ッ!」

 救援を望んだのは裕紀だが、それでも少しは力になりたい気持ちはある。

 あの男が四日前に襲ってきた男であるなら、その強さは前回のそれとは格が違うからだ。

 戦ってない裕紀が思うのもおかしな話だが、四日前の時点であの男はまだ全力を出してはいなかった。

 そのことを彩香が知らなかったとしたら、実際に戦った裕紀も参戦するべきなのではと思ったのだが。

「無力な者は何もできないとは言わないけど、こうして倒れている以上、あなたが力になれることはない」

 必死な形相で言葉を放った裕紀を突き放すように、女性は冷たい言葉を投げ掛けた。

 それはこの場では言い返す余地などないほどの正論で、裕紀は苦しい顔で俯いた。

 しかし、男の笑い声によって俯いていられる時間はそう長くはなかった。

「ハハッ! 誰が助けに入ってきたかと思えば、あの時の女じゃねぇか。それも、今回はお仲間付きか?」

 反射的に男の声がした方向へ顔を向けた裕紀は、黒いローブを纏った男の前に立つ栗色の髪の持ち主に目を見開いた。

 甘栗色のマフラーは首に巻いていないが、萩下高校の制服を着こなした栗色の長髪の持ち主を見紛うはずもなかった。

 裕紀に背を向けた女子生徒は、彼に振り向くことはせずに毅然とした語調で男に返答をする。

「彼は私が助けるって言ったばかりだもの。これで助けられなかったら笑い者よ。それに、あなたにも仲間くらいはいるでしょう?」

「生憎、俺のマスターはそういう意識はないんだよな。自分のケツは自分で拭けってな」

「そう。でも、だからと言って容赦はしないわよ。あなたは私の大切な人を殺そうとしたんだから」

「ククッ。ならばお前が先に死ぬか女。その後にそこにいる仲間と、死に損ないもゆっくり殺してやるよ」

 男と彩香の会話はそこで終わった。

 次の瞬間、男の全身から闇色のオーラが溢れ出し、男は手に持つデバイスから闇色の刀身を露わにする。

 その様子を目撃した裕紀は、背筋が凍る感覚を味わい身震いをしてしまった。

 やはり、男は本当の力を出していなかったのだ。四日前だけでなく、この裕紀の戦いですらまだ力を出していなかった。

「大丈夫」

 恐怖で震える裕紀に付き添っている女性が静かだが自信を持って言う。

 その声に応えるように、彩香の全身からも澄んだ赤色のオーラが漂い始めた。

 闇のオーラに負けない明るい赤色のオーラに目を細めながらも、裕紀は彩香がデバイスを取り出すところを見た。

 裕紀や男のデバイスとは違い、彩香の取り出したものは両端に窪みがある。

 その外見から、両端から刀身が出ることを予想した裕紀の目の前で、彩香は予想通り真紅の刀身を両端から出現させた。

「ほぅ、両サイドの魔光剣フォトンセイバーか。珍しいタイプだ」

「このタイプとの戦闘経験がないのかしら? もしかして怖じ気付いちゃった?」

 珍しい品を見定めるような目付きで呟いた男に、彩香はそう挑発を口にする。

 男も魔法使いとしては経験が豊富なのかその挑発には乗らずに、剣を弄びながら平然と返した。

「まさか。殺りごたえのある奴はいいと、そう思っただけだ!」

 言い終わる前に路面を蹴った男の速さは、明らかに裕紀と戦ったときの速度より断然に速い。

 しかし、そんな男が視えているのか彩香もゆったりと身体を倒しながら足を踏み込んだ。

 途端、路上に小さなクレーターを残し、裕紀の視界から彩香の姿が掻き消えた。

 彩香を目視する前に、闇と真紅の剣戟の光が空間で幾つも瞬き、それが人の動体視力では捉えられないほどの速さで戦う二人の魔法使いのものだと知る。

 電灯や建物の壁などを利用する、三次元戦闘に裕紀は圧倒されてしまっていた。

 この女性の言う通り、あの戦闘に裕紀が介入しても何も変わることはなさそうだった。

(やっぱり、俺は何もできないのか・・・)

 自分の無力感に肩を落とす裕紀だったが、直後、双方の刃が衝突し強烈な衝撃波に顔を腕で覆った。

 腕で覆われた視界の隅で両者が鍔迫り合いをしている様子が伺えた。

 この激しい戦闘の最中でも、彩香の髪は乱れておらず息も上がっていない。

 だが、制服の所々が傷付き汚れていたことが戦闘の激しさを物語っていた。

 そしてそれは男も同じく、黒いローブも裕紀が戦った時よりも解れていた。

 両者の実力はほとんど互角。

 そう思っていると、鍔迫り合いから男が仕掛ける。高速で振られる闇色の斬撃の嵐を、彩香は柄の両端から出現している剣で器用に全ての斬撃を弾いた。

 やがて、男に隙が現れると間髪入れずに蹴り技を放ちその反動で距離をとる。

「はぁ・・・、女お前見掛けによらず熟練者か」

 裕紀が相手だったとは言え、連戦で体力を消耗しているのか、男は彩香とは違って息が荒い。

 肩を上下させながらそう問い掛ける男に、一方で彩香は整った呼吸で返す。

「あなた、魔力の使い方が乱雑過ぎて攻撃を読みやすいわ」

 余裕そうにデバイスを横持ちで構える彩香に男は舌打ちをしながら、被っていたローブを初めて脱いだ。

「言ってくれるじゃねぇか。だが、お前が本気を出していないように俺もまだ本気は出しちゃいないぜ?」

 顔を露わにしてそう言った男は、ぱちんと指を鳴らす。

 まるでその音に反応するように、男の胸元が闇色の光を放ち、足元には同色の円形が出現した。

「リリース・ソウル」

 その呪文が男の口から放たれると、男を中心に足元の円状が三つの円陣となり、禍々しい光を放ちながら何かを構築する。

 円陣から構築されたそれは人の形を成していき、やがて三人の人間が男を囲むように現れた。

 現れた三人からは普通の人間とは違い、生気のようなものが感じられない。魂が身体から抜けているような、ゾンビのようだった。

 だが、三人とも黒色のローブを羽織っているので顔は判別できず正確な情報は掴めない。

 ただ、裕紀はその三人の雰囲気から肌寒い気味の悪さを感じていた。

「これは俺の固有魔法でな。過去に術者が殺した相手であれば、誰であろうと蘇らせて従わせることができるのさ」

 男のサービスとも取れるネタ明かしを聞いた裕紀は、顔から血の気が引いていくのを感じる。

 つまるところ、男が生み出したこの三人はもうこの世に魂を置いていない死者なのだ。

 その全てが、この男によって命を奪われた者たちということにもなる。

 その言葉に、彩香は納得したように言った。

「なるほどね。じゃあ、四日前に私たちを襲ったのはあなた本人ではなく、あなたの魔法で造られた人ってわけね」

 よくよく考えてみれば、彩香たちを襲った四日前の襲撃者や、今回の魔法使いから感じられる魔力はほぼ同一だ。

 術者の魔力で発動された魔法の効果が襲撃者ならば、この二人から感じられる魔力が同じであることに説明がつく。

「そういうことだ。そんなわけで、第二ラウンドといこうか!!」

 冷静に魔法の特性を理解した彩香へ賞賛の笑みを浮かべた男は、そう叫びながら新たに乱入した三人とともに動き出した。

「・・・どうして、こんな酷いことを」

「それが魔法使いだから」

 死んでからずっとああやって男に魂を束縛されている者たちのことを思って悪態をついた裕紀に、すぐ近くから冷静な声が届く。

 裕紀を助けてくれた赤目の女性からは、同情も哀れみすら感じられなかった。

「あなたは何も思わないのかよ?」

 四人に増えても怖気付くことをせずに、再び戦闘を開始した彩香から目を離して女性へ問い掛けた。

 仮にも助けてもらったのだから言葉使いには気をつけるべきなのだろうが、命を何とも思っていないような彼女にはつい責めるように語調が強くなってしまう。

 強い語調でそう問われても、女性は態度を改めることはなく無感情に言った。

「別にあの人たちの命がどうでもいいわけじゃない。他人の命を束縛し利用する魔法が彼の魔法だから、それ自体を悪くは言えないだけ」

「言ってる意味がわかりません。やってることは人のやることじゃない」

「そう? 簡単なことよ。つまりは《死者を蘇らせて従わせる》というあの力が彼の魔法だから、死んでいった者たちは可哀想だけど、利用されるのは仕方がないことなのよ」

 あの男の魔法は自分が殺した人間の魂を操ることができる。

 男はこの魔法を使ってこれまで戦ってきたのだろう。

 死者が可哀想だから、哀れだから。ただそれだけの理由で他人からその魔法を使うのをやめろと言われる道理など、男にあるはずもなかった。

 またしても何も言い返せない裕紀を横目で一瞥し、女性は口を開いた。

「それより、じきに傷口の治癒が終わる。これから君の取るべき行動を教えるから、その通りにして」

 この会話をしている最中も女性は裕紀が全身に負った傷を一つ残らず治してくれている。

 気づいた頃には、残る傷は右腕に負った斬撃の痕だけだった。

 目の前では、敵の人数が増えてもリズムを崩さずに戦い続けている彩香がいる。

 だが、やはり相手をする人数が増えたせいか多少の疲れは伺い始めていた。

 裕紀と同じ方向へ視線を向けていた女性は、すぐに視線を移して喋り始める。

「この戦いもそう長くは続かない。君にはこの傷の治療が終了した時点で、この空間から脱出してもらうわ。脱出の方法は・・・」

「ちょ、ちょっと待ってください! あいつのことを見捨てるつもりですか!?」

 彩香のことを気にする様子もなく話を進める女性を、慌てて裕紀は止める。

 そんな裕紀へ鬱陶しそうな視線を送った女性は、そんなつもりは全うないと言うように言い返した。

「別に見捨てるとは言ってません。それに、彼女ならあの程度の魔法使いに劣ることはないので」

 よほど彩香のことを信頼しているのか、そう言い切った女性は裕紀へ「何か異論でも?」と言うように視線を向ける。

 ここで何か反論をする勇気はないので、裕紀はふるふると首を振って続きを聞くことにした。

「話を戻します。脱出の方法ですが、あなたも一度経験している方法でいきましょう」

 そう告げてから真珠色の小さな石、即ち魔晶石を裕紀に差し出した。

 その方法に嫌な予感しか感じられない裕紀は自然と表情が暗くなる。

 突発的緊急事態だったとはいえ、何の準備もなしに異世界へ飛ばされることだけは勘弁だった。

 そんな裕紀の内心を察してか、女性は安心させるように続ける。

「今回は魔晶石に転送場所をあらかじめ保存してあります。あなたの雑過ぎる魔力操作でも、あらぬ場所へ飛ばされることはありません」

「雑過ぎてすみません・・・」

 しれっと責められた裕紀は肩を下ろして一言謝ってから石を受け取る。

 なぜこの女性に謝る必要があるのかと問われれば答えようがなかったが。


 そんな会話をしている合間にも、治癒はしっかり完了したらしく、女性は息を吐くと最後に告げた。

「あなたの転送が確認された時点で私たちもこの場から退避します。呪文はテレポート。心を落ち着ければ、魔法使いなら誰でもやれます」

「わかりました、やってみます!」

 裕紀の返事に頷いた女性は、戦況を確認するためだろう、視線を戦う彩香へ向ける。

 つられて見た裕紀は、繰り広げられる戦闘の激しさと、彩香の戦闘力の高さに改めて驚愕した。

 男が魔法で呼び出した三人のうち、この短時間で二人はすでに無力化していた。

 今の彩香は、男と男の呼び出した黒いローブの人間の相手をしている。

 男が近接戦闘で彩香と戦い、呼び出された人間が遠距離武器で援護をする形だ。

 だが、彩香は男の繰り出す剣戟を軽い身のこなして躱し続け、援護射撃を真紅の剣で弾いている。

 そんな彩香を相手にしている男は、優勢に見えながらも実際は劣勢になりつつあることがわかる。

 その戦況を確信した女性の唇が何かを呟くように動いた。小さ過ぎて聞き取ることができなかったが、おそらく女性が彩香へ何らかの合図を出したのだろう。

 その証拠に、これまで受けの過程で二人を無力化していた彩香が、自ら積極的に攻めに入った。

 あまりの力が加わったためか、右足で踏み込んだ路面がひび割れる。

 次の瞬間にはその場から彩香の姿は掻き消えていた。

 ほんの一瞬の隙に、男の援護をしている黒いローブ人間の銃を持つ両腕を切断。

「ギャァアアッ!」

 金切り声に耳を貸すことなく、華奢な右足で蹴りを放ち、従者を数十メートルは吹き飛ばした。

 何回も路面でバウンドしながら転がった従者は、やがて止まるとぐったりと動かなくなってしまう。

「ちっ、この女!!」

 見事に呼び出した従者を全員無力化された男は歯を剥き出してそう叫ぶ。

 男を無力化するべく懐へ飛び込んだ彩香に闇色の刀身を振り下ろすが、寸でのタイミングで剣を躱される。

「せぁぁあっ!」

 上手く剣を回避した彩香は、容赦なく左手に握る真紅の剣を下から斬り上げた。

 刀身が霞むほどの速さで振られた剣は、男の右肩をスッパリと斬り飛ばした。

「アアアッ!!! 腕がぁ、俺の腕がぁッ!」

「はぁぁあ!」

 切断部から大量の血飛沫を撒き散らす男は絶叫し、彩香は頬に飛散した血を付着させながらも右手に剣を持ち替えて男の腹部を水平に斬り裂いた。

「ごふっ!」

 この攻撃が決定的な一撃となったのか、口と腹から血を噴き出させた男はそのまま倒れてしまった。

 ドシャッと、雨水と自身の血溜まりに身を落とした男はもう動く気配はなかった。

「今よ! 新田君!」

 振り向き必死の形相で叫ぶ彩香の声を聞いた裕紀は、とにかく成功することだけを願って呪文を唱えた。

「テレポートッ!!」

 真珠色の魔晶石から文字の帯が現れ裕紀を純白の光で包み込む。

 これが、魔法が発動している状態だということは素人の裕紀でも分かった。

・・・これでこの戦場から離脱できる。

 裕紀がそう思ったその時だった。

「ーーッ!? 痛ッ!」

 治癒をしてもらったばかりの右腕に焼き付くような痛みが電撃の如く走り、裕紀の集中が途切れてしまった。

 意識が乱れたことで魔法が不安定となり、裕紀を包んでいた光が分散を始める。

 咄嗟にその原因を伺えば、右腕には収納型のナイフが深々と突き刺さり、傷口から赤い鮮血が止めどなく滲み出ていた。

 痛みのショックからか意識が遠ざかるのを必死に堪え、裕紀は元凶であろう男を睨み付けた。

 視線の先で倒れる男は、彩香により重傷を負わされたのにも関わらず口元にあの笑みを浮かべている。

 狂気的なまでに殺戮を求める笑みを。

(くそっ! あと少しなのに・・・)

「すぐにナイフを抜きます! 少し痛いですが我慢して下さい」

 この緊急事態に即座に対応した女性が、裕紀を男から隠すように正面に位置を取る。

 だが、女性の肩越しから裕紀は見ていた。

 男へ背を向けた女性を狙うかのように宙に浮遊する、一振りのナイフを。

 そして、男が笑みを深くした瞬間、宙に浮くナイフが空気を裂いて放たれたことを。

「危ないっ!」

 ナイフを腕から抜こうとしていた女性を咄嗟の判断で裕紀は真横へ突き飛ばした。

 魔法で強化された腕ではないが、無理やり突き飛ばされた女性はバランスを崩して裕紀の正面から体が動いた。

 女性が動いたことで視野が広くなった裕紀の視界では、鈍く光る刃が迫っていた。

 ナイフと裕紀の距離はもはや一メートルを切ろうとしている。飛来するナイフの速さからして、今から回避行動を起こしても間に合わないだろう。

(でも、あの人を助けられたんだ。それで十分だろ・・・)

 遠くで裕紀に手を伸ばす彩香のことは見ないよう、せめて自分を殺した相手を穴が開くほど睨み付けた。

 しかし、何者かが突如裕紀の視界に割り込みそれをさせなかった。


「ぅぐっ」

 次に、ズブッととても嫌な響きを含んだ音と、痛みに堪える少女の声が届いた。

 嫌な予感が脳裏を過った裕紀は、これまでにないほど速く頭を上げる。

 絶望に染まりかけている表情の裕紀の目の前には、さっきまで手の届かない場所にいたはずの彩香が、小さな唇の間から血を流しながら立っていた。

「ぁ・・・、嘘、だろ・・・」

 目の前の光景が信じられず、裕紀の口から小さな声が溢れる。

 その声を聞いたのか、彩香は痛みと苦しみに歪む表情を、無理に薄い微笑みへ変えながら言った。

「良かった・・・。君だけは・・・生きて・・・必ず・・・」

 だが、彩香は途切れ途切れの言葉すらも喋り終えることができなかった。

 世界から周囲の全ての情報が遠ざかったような意識の中で、彩香は力尽きるようにその場で倒れた。

 彼女が倒れた音だけが、静かになった聴覚に鳴り響いた。



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