襲撃(9)
翌日、二〇六七年十一月三十日。火曜日。
昨日とは違い余裕を持って起床した裕紀は、意識に纏わりつく眠気を払うために部屋のカーテンをいっぱいに引き開けた。
そして清々しいほどの快晴に機嫌を良くして背伸びをする・・・、はずだったのだが、何たることか天候は曇りのようだった。
雨雲が空一面を覆い尽くしており、青空など一寸も伺うことができない。もうしばらくすれば、徐々に雨も降ってくるだろう。
そう思うと居座っていた眠気と代わるように、もやもやした気持ちが意識を覆い、裕紀は寝起きから少しばかり不機嫌だった。
曇りの日はまだしも、雨の日はどの天候よりも嫌いだった。雨が降っていると学校の昼休みに中庭で昼食と昼寝をすることができない。密かな楽しみにしていた裕紀にとっては、それらができない雨天の日は退屈だった。もちろん、光や瑞希を初めとするクラスメイトと話で盛り上がるのも楽しいが、気分転換というものも必要だろう。
今は雨を毛嫌いしている裕紀でも、昔は雨が降れば友達とわいわいはしゃぎ、ずぶ濡れになって帰ってきてエリーに怒られた記憶もある。
だが、悲しいかな人は大人になるにつれて余計なことまで知っていく生き物だ。
端的に言えば雨に濡れると衣服を干すのが面倒臭いし、放って置けば風邪を引く。付け加えて、じめじめして暮らしずらい、などだ。
雨の日が楽しかったのは小学生までで、中学に上がったころからはすっかり雨嫌いとなっていた。
登校中に学校の制服や靴下が濡れるなど、ついていないも良いところだった。
なので、雨が降り出すより速く学校へ着くために、いつもより早めに朝食と身支度を済ませた裕紀は自宅から出た。
冬の朝はいつでも寒いが、太陽が出ていない日はひときわ強く寒さを感じる。灰色がかった雲は今でもあの鬱陶しい水滴を降らせてきそうで、裕紀は白い息を吐きながら折り畳み傘を持ってエレベーターへ向かった。
エレベーターの扉が開くときに、思わず一歩後ろへ下がってしまったのは、単純に昨日のような出来事を思い出したからだ。
出勤や登校の時間帯だからか、瑞希に限らずこの時間は慌ただしい住民が多い。万が一にもぶつかってしまうことを考慮すれば、一歩下がっておいて損はないだろう。
しかし、さすがに今回はエレベーターからは誰も飛び出しては来ず、直方体の空間には誰も乗っていなかった。慌ただしい住民が多いとは言えど、エレベーターで鉢合わせることはあまりないので誰もいないということも決して驚くことではない。
たまたま昨日は瑞希が所属する部活の朝練がなく、(全くもって不本意だが)寝坊しているだろう裕紀を起こしに来た結果、互いに鉢合わせただけだ。今日は普段通り、朝早くから練習に出ていることだろう。
部活に参加せず、かと言ってそこまで早起きもしない裕紀からしてみればそんなことが続く瑞希や他の生徒たちは凄いと思う。
きっと、彼らには辛いことがあっても耐えられるほどの、何かをやり遂げたいという意志があるのだ。
意志のない者には何もできない。ただし、ほんの些細な意志でも強く持ち続けられる者なら、いずれは己の意志を叶えられるときが来るのだろう。
裕紀もそんな意志を抱いてみたかったが、何だかんだで手が回らなくなり、最後には諦めていそうだ。
そんなどうでもいい考えを朝一番のため息とともに押し流して、裕紀はエレベーターに乗り込んだ。
一階に到着してからエントランスを突き抜け、紺色のマフラーで首元をしっかり覆ってからマンションの外へ出た裕紀は全力の半分のスピードで走った。
全力で走れば学校まで十分程度だったが、朝から全力疾走となると今日一日の体力が危うかった。全力疾走の結果、午後の授業で居眠りなどしてしまえば確実にチョークを投擲されるだろう。
幸いまだ雨は降っていないが、雨雲の様子からして確実に降られるだろう。それも一時間後とかの話ではなく、すぐにでも降り出しそうだった。
さすがは商業施設も取り入れている複合マンションなだけあり、歩道に出るには徒歩で十分はかかるほどの広い敷地を駆け足で通り抜ける。
歩道に出て、そこから道なりに南下して行くと新八王子駅があり、更に先へ進めば萩下高校がある。
その道なりの道中、とうとう雨粒が走っている裕紀の鼻先に当たった。
そこからは枷が外れたかのように徐々に細かな雨が降り出した。
予想通り雨を降らせてきた雨雲へ盛大に鬱陶しい視線を向けた裕紀は、走るのをやめて傘を開いた。
早めに家を出たことが幸いしてか、時間的に学校に遅刻するということもない。降ってきてしまったからには、傘を差して焦らずに登校するのが一番だ。
降り出した雨はものの数分で小雨から大雨となった。このことを予測していた人は皆傘を開き始め、降り始めの時点なら大丈夫だろうと油断していた社会人や学生が慌ただしく走って行く。
雨粒が路上のコンクリートを打つ音を聞きながら、裕紀は極力濡れないように周囲の人にも気を配りながら歩いていた。
やがて、新八王子駅が近づいてきたころ、裕紀は世界が自分から遠ざかっていくような感覚と共に、ある違和感に気が付いた。
雨が路上を止めどなく打ち付ける音は相変わらず続いている。この様子では、まだまだ雨は降り止みそうにない。
そして、その雨の音と同期するように騒がしく音を立てていた車の走行音がいつの間にか消えていた。
渋滞しているのだろうかと何の気なしに傘の下から道路を伺い、裕紀は我が目を疑った。
路上に張られた雨水を飛ばしながら走っていた自動車が、いつの間にか影も形もなくなっていたのだ。
この辺りには駅などの交通機関もあるので道が空いているにしても、通勤の時間帯であれば一台も車が見当たらないということはない。
きょろきょろと辺りを見回してみると、傘が当たらないようずっと気を使い続けてきた周囲の人影もなくなっていた。
「この感覚、心当たりが大ありなんだけど・・・」
またまた面倒くさいことに巻き込まれたことを察し、裕紀は一人弱々しく呟いていた。
人も物も存在しない、裕紀だけが世界から隔離されたような気味の悪い感覚も、三度も経験すれば判断がつく。
まずこれは魔法で間違いないだろう。誰かが裕紀に勘付かれないように密かに展開させていた、人払いの魔法だ。
三度の人払いを経験した裕紀は、この魔法の用途は状況に左右されることも分かっていた。
彩香のように誰かに聞かれてはならないような会話をするときなどに、明らかに聞かれてしまうであろう場所で発動すれば周囲の人にはその話を聞かれることはない。安心して機密事項の多い話ができる。
一方で、もう四日前になる男の襲撃では、戦闘がしやすいように邪魔な一般市民を排除するためにこの魔法を発動していた。あの時は彩香が一緒に居たので無事でいられたが、裕紀一人だったら生きて帰って来れたかも危うかったと思う。
そんなわけで裕紀が体験した人払いの用途は今のところこの二種類しかないが、それ故に裕紀は相手の意図を素早く察知できた。
敵の狙いは恐らく裕紀を襲うことだ。もし交渉だったとしても、何の前触れもコンタクトもせずに交渉相手へ魔法を発動させたりなどしないだろう。
ただ、裕紀を襲撃するのだとしても前回のように真正面に姿を露わにしていないことから、相手は物陰から奇襲を仕掛ける作戦だろうか。
しかし、裕紀がそれ以上深く考えることはできなかった。
突如、背後から背中を撫でられるような冷たい視線を感じた裕紀は、生命の危機を感じて反射的に振り返っていた。
「ッ!!」
振り向いた視界の中に鈍く輝く刃が映り、裕紀は息を飲んで全力で身体を倒した。
間一髪のタイミングで躱すことには成功したが、手に持っていた傘のシャフトが見事に両断されコンクリートに飛来物が突き刺さった。それは、四日前に裕紀が投げられたナイフと同じものだった。
広げていた傘が雨に濡れた路上に落ちるのも気にすることなく、ナイフを視認した裕紀は敵がいるであろう方角へ即座に視線を向けた。
灰色に染まる空の下、歩道に並ぶ白い電灯の一つに全身を黒いローブで身を包んだ何者かが立っていた。
ローブを目深に被っているせいか地上に立つ裕紀からは性別や表情が判断できない。
だが、あの人物がこの空間を作り出し奇襲の実行犯であることは間違いないだろう。
雨に濡れながらも鋭い眼光で睨みつけた裕紀に、ローブの下で何者かは口を歪めた。
「ほぅ。気配を消し、音を立てずに投擲したはずだが、なぜ躱せた?」
その声は男性のものだった。
そして、四日前にも黒ずくめの男にナイフを投げられている裕紀は、すぐにこの男と四日前の襲撃者が同一人物だと判断した。
だとすれば、やはりこの男の目的は裕紀を襲うことだろう。
そうと分かった裕紀は、襲われる恐怖を押し隠すためになるべく余裕そうな笑みを口元に浮かべて電灯に立つ男に言い放った。
「さあね。いきなり襲ってきた相手に、俺の詳しい情報なんて教えるとでも?」
強気で答える裕紀だったが、実のところなぜあのナイフを躱せたかは自分でも分からない。
ただ、背後から何者かに狙われていると感じたとき、裕紀はその感覚が正しいと確信しその直感に従っただけなのだ。
裕紀の言葉を聞いた男は、高らかに笑いながら笑みを浮かべたまま言った。
「ハハッ。そりゃそうだわな。だが、新米の魔法使いでもあの攻撃を予測なしで躱すことは至難の技なんだぜ? やっぱあの方が言った通り、お前は危険な存在なのかもな。今後の計画のためにも、お前にはここで死んでもらうしかなさそうだ」
裕紀が新米魔法使いというのは紛れもない事実なのだが、男性にとっては関係のないことらしい。
裕紀の持つ力がどれほど大きなものなのかは想像もできない。≪あの方≫や≪計画≫という言葉も気になったが、それについても深く考える余裕はなさそうだった。
それより、これから起こることを容易に想像できた裕紀は男から視線を外さずに鞄に手を入れていた。
目的の感触を手に感じた裕紀は、芽生えたある一つの感情を生唾とともに飲み込んだ。
鞄に詰め込んでいた得物の存在をしっかり認識するように、裕紀は慎重にそれを取り出した。
裕紀の手に握られた小型のスティックのようなデバイスを確認したのか、男はローブの下で殺気の籠った笑みを浮かべる。
「ほぉ〜。ただ大人しく殺されるつもりはないようだな」
「当たり前だろ。俺があんたに殺される道義なんてないし、そもそもこんなところで死にたくないからな」
「なるほど威勢はいいな。だが、産まれてまだ一度も殺し合いなんざやったことのないガキが、人殺しを幾度となく繰り返してきた魔法使い相手に今更何の抵抗ができる?」
男の言う通り、裕紀は殺し合いと言うものを経験したことがない。それは普通の人たちなら当たり前のことで、むしろ経験している方が異常だった。
たが、今まさに自分の命が狙われている状況で殺し合いではなく話し合いで解決しようなどと、そんなことを考えている余裕もない。死にたくなければ、何かしらの抵抗をしなければならないのだ。
黙り込んだ裕紀を一瞥した男は、ふわりと電灯から空中へ身を投じた。
まるで男に何らかの浮力が生じているかのように落下と着地を成功させた男は、ローブで隠れた懐から裕紀の持つデバイスと同型のデバイスを取り出した。
昨日彩香から受け取ったこの武器の詳細は時間がなかったために教えてもらっていないが、大体の扱い方は見当がついていた。
この小型スティック状のデバイスは上端に窪みがあり、更にはその窪みの下にスライド式のスイッチがある。
このスイッチを押し込めば、上端の窪みに何か変化が起きるのだろう。そしてその変化こそが、この武器の扱い方を表わす形となるだろう。
邪魔になるだろうと鞄を路面に落とし、ぐっとデバイスを握りしめた裕紀に、男はデバイスを持った右手を動かして言った。
「さあ、殺し合いの時間だ。せいぜい俺を楽しませてくれ」
狂気とすら例えられるだろう笑みを作り、男は手に持つデバイスのスイッチを押し込んだ。
次の瞬間、デバイスから闇色に濁る光の刃が真っ直ぐに伸びた。
長さは目測で一メートルと少し、幅は三センチくらいか。出現した光の刃を見て裕紀はそう憶測を立て、頭の隅で確信していた。
やはりあのデバイスは剣の柄の部分だったのだ。ならば裕紀の持っているものも、アレと同じ仕組みで用途も確実に把握できる。
そんな思考を巡らせた裕紀をよそに、闇色の刀身を空中で弧を描くようにぐるりと回した男は、もう何も言わずに静かに路面を蹴った。
一瞬だけ見えた男性の瞳には冷たい殺意だけが宿り、鋭い眼光は獲物を仕留める獣のようだった。
軽いダッシュだけで雨粒を霧吹きのように散らしていつの間にか懐まで接近していた男は、虚を突かれた裕紀の胴目掛けて、右下から容赦のない斬り上げを放った。
尋常ならざるその速度に目を見開く裕紀だったが、それでも男をしっかりと視界に収めてデバイスのスイッチを押し込んだ。




