襲撃(6)
昼休みが終わり、午後の授業を受ける裕紀の頭は珍しく冴えていた。
自慢ではないが学生生活を送ってきて、午後の授業を裕紀は一度でも真面目に受けた試しがない。
まあ、授業に出席しないとかそんな肝の座ったことなどできるはずもないので、授業中の居眠りだとかそんな程度だ。
その都度教師から注意されたり、授業の担当が担任の場合に限っては何故かチョークを投擲されたりなど、先生方の対応のバリエーションも豊富だった。
だが、今日に限っては居眠をする気すら起きなかった。彩香の話を聞いて、まだ多少の警戒信号を脳が発しているらしい。
さすがに民衆の目がある教室内では仕掛けてくることは少ないと分かっていながらも、それでももしかしたらと警戒の鐘を鳴らす自分がいた。
そんな逡巡の末、こうして裕紀はしっかり授業を受ける羽目になっていた。
ただ、居眠りを妨げる要因となっているものが意識の半分以上を占めているので、授業を進めている教師の声も届いていなかった。
「えー、この問題は・・・新田解るか?」
いきなり名前を指名された裕紀は、すぐに授業へ意識を向けるが、まともに聞いていなかったせいか授業の前半よりも内容が進んでいることに今更気づく。
咄嗟に教科書やノートを探ってみるものの該当する事柄も検討も付くはずもない。
「えっと…すいません、わからないです」
教師のお小言は確実だろうと予想するも黙っていても仕方ないので、嫌々ながらもそう答えるしかなかった。
「ちゃんと聞いてろよ。テストできなくても知らないぞ」
案の定教師からお小言を頂戴する羽目になり、次の生徒が裕紀の代わりに餌食となる。
まあ、自業自得というものだと自分自身を戒めてから、裕紀はいまのうちに前の席の光からノートを写させてもらうことにした。
そんなこんなで、午後の授業とホームルームを無事に終えた裕紀は、部活もないので暗くなる前に帰宅することにした。
どうせならエリーに厄介になってもらおうと思ったが、不幸にもエリーとの研究も今日はないので、学校から家まで直通だ。エリー本人は気にしないだろうが、用事もないのにわざわざ研究室へプライベートな時間を邪魔するわけにもいかない。昼間の忠告もあるし今日は寄り道をせずに帰ろう。
そんなことを考えながら昇降口へ続く一階廊下を一人で歩いているときだった。
「お、裕紀じゃねぇか! 一緒に帰ろーぜ!」
軽快な足音の後に背後から何者かに肩に腕を回された裕紀は、いきなりの動作に全身を硬直させてしまった。
咄嗟に何かしらの対処を取ろうと身構えようとしたが、かけられた声に聞き覚えがあったので中途半端な姿勢で動きを止める。
そもそも、よく考えてみればここは学校内だ。声で判断する以前に、裕紀と同じように下校する生徒たちは大勢いるので、ここで事件は起こさないだろう。
「? どうした裕紀、いきなり固まってよ」
「い、いや何でもないよ。いきなり腕を回されれば誰だって驚くだろ、光?」
肩に回された腕をほどきながら、自分より身長も身体つきもいい親友へ言う。
少し迷惑そうに言われた光は、反省はしないとの意思表示か、にししっとやんちゃそうな笑みを浮かべた。
まあ、裕紀にはノートを見せてもらったという貸しがあるのでこれ以上は何も言わず、二人で並んで歩き出した。
「それより光。今日は部活はないのか? 大会近かったよな」
確か冬の登山部は冬季大会というものがあり、この時季は体力作りや実戦形式で近郊の山々を登ったりするらしい。
一年生の光も大会に出場するとのことなので本来ならば部活に参加しているはずだ。こんなところで裕紀を帰宅に誘うのはおかしい。
さぼり、というならこの状況を理解できたが彼がそんなずるいことをする生徒ではないことはこの半年間で十分に知っている。
裕紀の思った通り、光はやる気を溜め込みすぎてむしろ苛立っている表情で口を尖らせながら答えた。
「ホームルームにめぐみん話てたろ? なんか最近の夕方に不審者がよく出るらしくてよ。しばらくは部活は休みでさっさと帰れ、とのことだそうだ」
「確かに言ってたな、そんなこと」
つい先ほど終わったホームルームで、担任の萩原恵は連絡事項で生徒に向けて言った。
『ここ数日、全身黒ずくめの変質者が出ているらしいので、安全のため生徒は全員早く帰るようにね。大会が近い部員もいるだろうけど、身の安全が第一なので承知してね』
クラスの大半の生徒は早く帰れることに喜んでいたが、光のような部活熱心な生徒たちは不満を募らせているようだ。
「あり得ねーっつうの。大会まであと一週間とちょっとだぜ? いま休んでる暇はないってのにさ」
「ほんと、その通りよ!」
言葉を途切れさせた光に続くように、背後から賛同の声が上がった。
いったい何者かと後ろを振り向いた二人の視線の先には、学生鞄を右手に持った瑞希が駆け寄ってきたところだった。
肩には今朝エレベーターで見かけた黒色のスポーツバックが掛けられていた。
そのバッグのせいで今朝の裕紀本人しか知り得ない事故を思い出してしまい、裕紀は悟られないように視線を逸らした。
裕紀の些細な仕草には気づくことなく、光は瑞希に質問した。
「お前も部活休みなのかよ」
いっそのこと残ってやってけば良いのに、と言ってはないがそう言っているような雰囲気で話す光に、瑞希は眉をぴくっと動かした。
「あら? あんたこそこれから一人で山に行ってくればいいじゃない」
「言われなくてもそうしてぇ所だけど、あいつが心配するからな。大人しく帰らせてもらうぜ」
「あ、そういえば! 優香ちゃん元気?」
珍しく瑞希の挑発に乗らない光にも今回は理由が有るみたいだ。
その名前を聞いたとき、不機嫌そうだった顔をいつもの明るい表情に戻した瑞希がすかさずそう尋ねた。
その名前には裕紀も心当たりがあった。
光の家庭は父、母、兄、妹の五人家族で瑞希に『優香ちゃん』と呼ばれた少女は光の妹の名前だ。
一度だけ瑞希と一緒に光の家へ遊びに行ったときに出会ったことがある。
確か裕紀たちとは一歳歳下で、桜の花びらの髪飾りで結ばれたサイドテールが印象的な少女だった。
その質問に、光は苦虫を噛み潰したような表情になると顔を寄せて小声で言った。
「あんまりあいつのこと大声で話さないでくれよ」
「おっ、恥ずかしいの?」
「別に恥ずかしいわけじゃねぇっての!」
言いにくそうに裕紀と瑞希の二人に告げる光に、瑞希はここぞとばかりに親友をからかおうと迫る。
この二人のやり取りはもはや見慣れているので傍から静かに眺めているだけの裕紀だったが、今回はそれを阻む存在がいたようだ。
「ちょっと上原さん、出席簿返さないの?」
駆け寄ってきた瑞希の後ろから確認の意を込めて声をかける生徒は、柳田彩香だった。
どうやら瑞希と今日の日直を担当していた生徒は彩香だったらしい。他の生徒がだらしないというわけでは決してないが、彩香ならばどんな仕事でもきっちりやりそうだ。
実際、彼女は出席簿を左腕で抱えていた。出席簿を職員室に返して、今日一日の日直の仕事は完了するのだ。
「あはは、ごめんごめん。すっかり忘れてたよ〜」
「まったくもう。話したいことがあるなら私が返しに行くけど?」
腰に手を当てて出席簿をひらひら振りながら半目で言い返す彩香に、瑞希が慌てて腕を振って静止した。
「ああ! それはダメだよ。あやちゃんには朝も昼も休憩中も日直の仕事をやってもらったんだからっ!」
その言葉を聞いて呆れた様子の光が上から呟いた。
「おめぇ、今日まともな仕事してねぇな」
「さすがに黒板くらいは消せるだろ」
さしもの裕紀も今回については光と一緒にボソッと呟いてしまう。
親友二人からのお小言にうう〜、と頭を抱えてしまった瑞希に彩香は苦笑を浮かべて言った。
「だったら早くしてね。あと、あやちゃんはよしてって言ったばかりよ」
気づかぬうちに瑞希はその持ち前のフレンドリーさで彩香をニックネームで呼んでいたらしい。そこに本人の認可があるのかは不明だが、相当嫌がらない限りはこの呼び名で決まりだろう。
「いいじゃん、そっちの方が親しみやすいよ! あたしのことも瑞希でいいからさ!」
「そういう問題じゃ・・・って、ちょっと上原さん、じゃなくて瑞希! 人の話はちゃんと聞いてっ」
しゅばっと彩香の左腕から猫の如き素早さで出席簿をひったくった瑞希は、彩香の話を聞かずにそのまま数メートル先の職員室へ直行してしまった。
ご丁寧に裕紀と光の目の前にはスポーツバッグと学生鞄が置いてある。持って来てと言っているのは当然理解できるし、無視しても誰も得をしないことも分かりきっていた。
律儀にちゃんと瑞希のことを下の名前で読んだ彩香に微笑ましくなり口元を緩めていた裕紀は、微笑みをため息に変えて学生鞄を持った。
明らかに裕紀より力があるだろう光には、謎の重量を誇るスポーツバッグを持たせておけばいいだろう。
「とりあえず校門まで行こう。瑞希ともそこで合流すればいいよ」
「おう。そうだな」
「ええ。わかったわ」
同じようにため息をついていた光と、一人残された彩香にそう声をかけると、裕紀は荷物を持って二人で一緒に校門へ向かう。
裕紀の右側を光が歩いているので、自然と彩香は裕紀の左側を歩いていた。
つい最近までは彩香と裕紀が並んで歩く光景など見たこともなかったのだろう。
隣で光が好奇心旺盛な視線をちらちらと送って来ているが、そこは一切合切無視して裕紀は下駄箱から靴を取り出した。




