襲撃(1)
二〇六七年、十一月二十九日。月曜日。
柳田彩香とともに異世界へ赴き、裕紀が魔法使いとして目覚めてから二日後の朝。
裕紀はエリーの研究所ではなく、ショッピングモールと複合施設であるマンションの一室、ベッドの上で眠りから覚めた。
寝室とリビングが備えられてある2LDKのこの部屋は、裕紀が中学生の頃に一人暮らしを始めるにあたってエリーから依頼を受けたマンションの管理人が提供してくれたものだ。家賃については、別居中である両親が入金してくれたのであろう貯金から差し引いて払われている。
学校への教育費もそこから引かれていることを考えると、裕紀の両親はかなりの大金を彼の貯金へ入れているので一度はお礼を言いたいのだが、しかし裕紀は両親ことを何一つ覚えていない。
裕紀の両親は彼を産んでからすぐに、とある出来事によって行方をくらませてしまっているらしい。曖昧な表現となってしまうのは、これも裕紀が幼い頃に彼の叔母から聞いた話だからだ。
小さい頃はそういうものだと、裕紀の親は忙しくてとても自分のもとへ帰って来れる余裕がないのだと思っていた。
だから裕紀は単純な考えから忙しい両親の邪魔をしてはならないと、それでも寂しくならないようにあまり考えないようにしてきていた。
最近ではエリーも第二の家族のような存在となっている。それに、年齢的な関係もあるのか両親がどうしているのかなどは考えなくなった。
ただ、自分がこうして生活できているのは紛れもなく両親のおかげなのだ。
やはり、いつか必ず両親と出会い面と向かって言いたかった。「ありがとう」そして「初めまして」と。
「ふぁ、ぁぁあ」
訳も分からず顔も知らない両親のことを思い出した裕紀は、掛け布団を膝にかけてだらしなく欠伸をしながら背伸びをした。
ふと、頭上の小窓に立て掛けてあるデジタル時計へ目を向け、
「あ、やばい、時間ッ!」
表示されている日時は、二〇六七年十一月二十九日、午前七時三十分とされていた。
学校の始業時刻は午前八時十五分。
家から学校までは徒歩で二十分の距離だ。
ちょっと、いや、かなり時間的余裕がない。いつもの二倍で支度を済ませなければ確実に遅刻してしまう。
遅刻をすれば成績にはもちろん響くが、担任のお小言は少しばかり面倒だった。
さっさと着替えを終わらせ、トーストと牛乳という軽すぎる朝食を済ませた裕紀は学生鞄を持って外へ出る。
外はさすがの寒さで身が震えるが、裕紀はマフラーを深々と首に巻くことで堪え、白い息を吐きながら廊下を早足で歩く。
このマンションの敷地はとても広く、同じ敷地内にマンションが四つほど建っている。
中心のショッピングモールとの複合高層マンションを三点で囲むように、十階建てのマンションが位置しているのだ。
中央のマンションは部屋の造りに伴い家賃が途轍もなく高いらしく、そんじょそこらの住民には住めるような環境ではないという話を聞いたことがある。
裕紀もその例に漏れず、北側に建てられているマンションの五階に部屋を借りていた。
また、各建物には必ずエレベーターが設置してあるので裕紀は毎回利用させてもらっていた。
今日もいつもと同じく、しかし気持ちは急いでエレベーターに乗り込もうと扉の前まで歩く。
ちょうどこの階を通過しかけたエレベーターを停めて、自動ドアが開き切る前に狭い空間に入り込んだ。
「うわっ!」
「きゃあっ。いったぁ・・・」
急いで飛び込んだ裕紀は完全に前方不注意だった。
案の定エレベーターから降りようとしていた一人の少女と正面衝突してしまう。勢いよく突っ込んできた裕紀の力に抗いきれず、少女はエレベーターの個室へ押し戻され尻餅をついてしまった。
学生鞄をお腹に抱えて打った体の一部を擦っていた少女は、部活か何かに使うのであろう大きめのスポーツバッグがクッションになり目立った外傷はなかった。
とはいえ、裕紀の完全な不注意で他人を押し倒してしまったのは事実だ。
エレベーターのドアが閉まらないよう片手でドアを抑えていた裕紀は、すぐさま尻餅状態の少女へ慌てて手を差し伸べた。
「大丈夫ですか? ・・・ってあれ、瑞希?」
手を差し伸ばし、必然的に少女の顔を見ることになった裕紀は思わず少女の名前を口から零す。
裕紀が勢い余って衝突し突き飛ばしてしまった相手は、裕紀の高校からの友達で、このマンションでは二階上に住む住人でもある上原瑞希だった。
やはり癖毛なのかスポーツ選手らしいミドルショートの髪は所々飛び跳ね、いつも元気そうな顔立ちの彼女の顔は、今は苦痛に歪められていた。
「い、いえ。だいじょうぶ、です。はい」
自分が突き飛ばされた相手が裕紀だとはまだ気づいていないのだろう。癖毛で跳ねている頭髪を掻きながら、愛想笑いを浮かべていた瑞希は差し伸ばされた裕紀の手に小さな手をのせた。
一瞬、相手が誰か確認をしない彼女のあまりの無防備さに戸惑ってしまった裕紀だったが、引き上げようと瑞希の体を引っ張った瞬間に加わった重さで戸惑いを上書きされてしまう。
瑞希一人なら簡単に引っ張り上げることは容易だろう。
彼女を支えているあのスポーツバッグの重量がやけに重く、最初の力では持ち上がらなかったのだ。
(あのバッグにはいったい何が入っているんだろ?)
何の意図もなくほとんど勝手にそんな疑問が浮上したが、突如視界に入り込んだイケナイモノのおかげで綺麗さっぱり撃沈された。
いきなり突き飛ばされて転んだ瑞希は、無防備にも両膝を半分ほど立てた状態で転んでいる。
そのせいか萩下高校の女子制服のスカートが膝につられ、やや上向きに捲り上がっていた。
スカートから露わになる筋肉質だがきりっと引き締まった真っ白な太もものさらに上、どんな異性にとってもある意味デリケートな位置にソレはあった。
要は瑞希の、普段の彼女からは想像できない黒い下着であった。
そしてその下着を見た裕紀は、ほぼ条件反射的なもので即座に視線を顔ごと真横へ振り向かせた。
「・・・あれ、誰かと思えば裕紀君じゃん」
手を掴まれた状態でなかなか動かない相手の態度をさすがに不審に思ったのだろうか。
不意に驚きと不審感が入り混じった声音が届いてきた。
ちらっと視線を向ければ、目を丸くしてこちらを見る瑞希の顔が映った。
これで手を差しのばした何者かが裕紀であることは瑞希にも分かっただろう。
そして裕紀が顔を赤くして、何らかの原因から視線を逸らすべく顔ごと明後日の方角へ向けているということも同時に理解したはずだ。
「どうしたの。顔赤いよ? しかもなんで真横向いてるし?」
案の定、瑞希は裕紀の所業に疑問を抱き、可愛らしく小首を傾げながら問いかけてきた。
その問いに、裕紀は自分が犯してしまったことを彼女に悟られないよう、瑞希に早く立つよう促した。
「いや、何でもないよ。それよりほら、早く立たないと他の人に迷惑だぞ」
瑞希にとっては全くもって理不尽であろう催促に、当然ながら彼女は目を細め頬を膨らませて反発した。
「何よ。普通突き飛ばした人が言うことなの、それ」
「いや、だって瑞希のスポーツバッグ重たいから、上手く持ち上がらないんだよ」
それは半分嘘で半分本当だ。エレベーターの自動ドアを片手で抑えている姿勢の裕紀はバランスが悪く、謎の重量を含んでいるスポーツバッグと一緒に瑞希を引き上げることはできないこともないが、正直つらい。
もう半分は下着を直に見てしまうということだが、それは言わなくていいことだ。
その事実を指摘された瑞希は、
「ああ、これね。まあ、色々入れてるからねぇ。ちょっと待ってて」
色々という言フレーズを妙に強調して言い放った瑞希は、どういう意味か肩に掛けていたバッグの柄を外して体から障害物を取り除いた。
それから「早く引っ張って」という意志がありありと伝わってくる程のジェスチャーで、裕紀に向かって再び手を伸ばす。
一応、万が一にもスカートが下着を覆い隠しているという可能性を信じて横目で確認。
残念ながら下着は隠れておらず、何たることか先ほどの瑞希の行動でさらにスカートが捲れ、もはや下着そのものがさっきより露わになっていた。
あれに気がつかない瑞希も相当なものだろう。
ともあれ、ここで本人に真っ向から下着が見えている旨を伝えてしまえばどうなるかが分からないほど裕紀も馬鹿ではないし、わざわざ言ってやるほど紳士的でも人間しっかりできてはいない。
ただ、見てしまったものは事実なので、裕紀は内心では全力で土下座を実行しながら極力下は見ないように瑞希の体を引っ張り上げた。
スポーツバッグがなくなり、今度はひょいと瑞希の体は軽々持ち上がった。
「えへへ。ありがと。これに免じてぶつかったことは許してあげよう」
スカートを叩き、はにかみながらそういう瑞希に、裕紀は背中に大量の冷や汗を流しながらも微笑みを作って応えた。
「ははは。ありがとう」
こんな太陽のような笑顔を振りまく瑞希でも、多分下着を見てしまったことがバレてしまえば半殺しは免れないだろう。
とりあえず今日一日は慎重に学校生活を送ろうと密かに決意するのだった。
「そうじゃなくて、やばいぞ瑞希遅刻する!」
「あーッ! そうだよ、遅刻するだろうと思って裕紀君を呼びに行くつもりだったのに!」
「なんか俺、遅刻が日常茶番時のぐうたら高校生だと思われてないか?」
自分のことより他人のことを考えているなんて、随分と余裕でいらっしゃる。
ともあれ遅刻する現状はどうにもならず、忘れかけていた裕紀と、彼に言われて思い出したらしい瑞希は随分と停めていたエレベーターに二人して乗り込んだ。
いつもより早く目的の階のボタンを押した裕紀たちを乗せて、エレベーターは五階から一階へと下降を始めた。
五階から一階まで到着するのに時間は然程かからない。だからか二人の間で会話は生まれなかった。
ただ、隣に立つ瑞希が妙にそわそわしていることが気になり、一階のロビーへ着くなり裕紀は尋ねた。
「なあ、瑞希。今日はいつも以上に落ち着きがないけど、どうかしたのか?」
エレベーターから降りるなり走り出そうとした現役陸上選手殿を止めるように切り出された問に、瑞希は踵でブレーキをかけて振り向きざまに言い放った。
「ごめん! 今日日直だったこと忘れてたから先行くね!!」
「あ、ああ、気を付けろよ!?」
戸惑いつつも納得した裕紀は、言うなり再び走り出した瑞希の背中にそう声を掛けた。
その言葉を受けた瑞希は片手をひらひらと振り、そのままマンションの外へ走り去ってしまった。
(そっか。日直だったのか、あいつ)
簡単に説明してしまえば日直とは、朝礼前に黒板を綺麗にしたり掲示物の点検や掲示をする係りだ。放課後になると教室の鍵締めや、出席簿を職員室に返却したりなど、面倒な仕事が結構ある。
基本は毎週二人一組が決まりなので、この時間では相方の生徒が先に来てやってくれていることだろう。
それでも急いで行くのは、瑞希の善良な心あっての行いだ。
そんなことを考えている間にも、時間は無情にも過ぎ去って行く。
裕紀も急がなければ遅刻が確定的になってしまう。
(面倒だけど、走るか)
朝一のランニングは趣味でもなんでもなかったが、裕紀ならここから全力で走れば学校まで十分とかからない。
ただ、体力はかなり使う羽目になるので自分から進んで走ろうとは思はない。
しかし状況も状況なので、裕紀は冬にも関わらず学生服の袖を捲ると心の中で三つ数えて走り出した。
ロビーから冬の寒気に包まれた外の世界へ出た裕紀は、雲一つない青く澄み切った空の下を全力で駆け抜けた。




