誓い(4)
「まったく、あんなところで何も羽織らずに眠っていたら風邪を引いてしまうよ」
場所を再び部屋の中央に位置するソファへと移した裕紀は、水玉模様が散りばめられているピンクの可愛らしいパジャマを着たエリーから、腰に手を当ててそう言われてしまう。
「それについてはもうわかったから、何度も言わなくてもいいって」
そう言う裕紀の声は小さく震えていた。
別に、エリーに本気で怒られてしまっているとかそういうことが起きているのではない。そうではなく、お風呂上りの彼女の姿を視界に収めているとどうしても動揺してしまうのだ。
いつもは流している金髪を、一つに緩く結んでいるエリーの頬は、ゆっくり湯に浸かって来たのかほんのりと紅色に染まっている。それが化粧ではないことが、よりエリーが自分と歳の近い女性だということを意識させる。普段のエリーを大人の研究者と例えるなら、今のエリーは大学のお姉さんという印象があった。
だが、それだけでは裕紀も何とか己の理性を抑えていられる。それ以外の要因が、裕紀の理性の枷を外そうとしていた。
その要因とは実に単純な問題だ。
エリーはパジャマを着ているのだが、その格好が異性に対してはあまりにも効果が絶大過ぎた。パジャマの明るいピンク色だけでもエリーと組み合わせると理性の枷を外すに十分な気がするが、とにかくパジャマは寝間着なだけに生地が薄い。私服よりも体の線がくっきり表れており、よりエリー・カティという女性の肢体が見て取れる。
それに、ニットスカートの下からでもその大きさを強調していた嫋やかな胸部が、パジャマからではもはや自由にしてくれとでも言いたげに膨れている。
何とかしてそれらから視線を逸らそうと試みるが、あろうことにエリーはちょいちょい裕紀の視界へ入ってくる。エリーも人間だし身動き一つしないというのはあり得ないので悪気はないのだろうが、今はそれがとても迷惑極まりなかった。
それらの理由が総合され、少しばかりそっけなくなってしまった裕紀の返答をエリーは完璧に誤解した。
「む? なんかその言い方は気に障るな。気に障ってしまった私は、君に何か仕返しをしてもいいなかな?」
「へ? 仕返し?」
そう間の抜けた返答を返した瞬間、裕紀の視界がふっと薄暗くなった。そう思った直後にとても柔らかい感触が顔面を覆った。
はて何の感触だろう、クッションでも強引に押し付けられたのかと思い込んだ裕紀は、妙に生暖かい物体をどかすべく腕を伸ばした。触ってみれば裕紀の顔面を覆っているモノはクッションにしては弾力があり、どことなく張りがあった。触った途端、頭上から聞こえてくるエリーの呼吸音が少々荒くなる。
どうもおかしい。これがクッションならばもう少しふわふわしていても良いはず。それにエリーの呼吸も荒くなる道理がない。
そんな思考が脳内を駆け巡ると、遅まきながら裕紀の頭をあまり予想はしたくない事態が過る。
「あ、あの、エリーさん? あなたはいったい何を押し付けているんです?」
そう問い掛けながらも裕紀の伸ばされた手は顔面に押さえつけられているソレを離さない。混乱のあまり意思と体が分離しているかの如く、自身の両手は言うことを聞かない。視界が覆われているせいもあり、その手に握っている感触がより鮮明に伝わってくる。マシュマロのように柔らかいが、やはりどこか張りがあり肉質もある。
この感触をもうクッションなどとは言うまい。
そう言えば、裕紀が中学生の頃はたまにこんなような嫌がらせ(?)のようなことを受けていたことを、何の偶然か唐突に思い出す。
「ぅ、ん。まったく君は、昔より反応が鈍く、ん、なったかい?」
その何か別の快楽に耐えるようなエリーの甘い声に、
「な、ななにやってんですかーッ!?」
裕紀はもろに言葉を噛みながらそう叫んだ。
「なにって、私の胸を君の顔に当てているんだよ。昔は顔を真っ赤にして慌てふためいていたものだが、そうか。裕紀も大人になったということか」
(いや、俺まだ高校生だから! いきなりすぎて思考が追い付かなかっただけだから!!)
何が寂しいのか、しみじみとそう言うエリーに内心では全力で抗議する。声を出せないのは口元にまで胸を押し付けられてしまっているからだ。
ほのかに香るフルーティーな匂いも鼻孔を擽り、全身が沸騰してしまっているかと錯覚を起こすほど裕紀の体温は上昇し、顔は真っ赤に染まっていた。
当然と言えば当然。裕紀だってまだ若干十六歳の男子高校生。普段は第二の家族として接しているので姉のような立場のエリーでも、他人と意識すればその容姿には確かにドキンとくるときはある。
いまこの状況で理性を保てている自分自身へ賞賛の言葉を送ってやりたいくらいだ。
(・・・なんて思っている場合じゃない!)
そこで、ようやく裕紀の体と意思が正常にリンクし、自由に動かせるようになった両手を胸から肩へ迅速に移す。
「ひゃぅっ! ゆ、ゆうき!! いきなりそんなことは・・・ッ」
何を勘違いしているのか知らないが、慌てふためくエリーの胸を問答無用で顔から引き剥がす。
ぷはっと、ようやくまともな空気を吸い込んだ裕紀は、自分でやったことなのに頬を紅潮させているエリーの顔を直視して言った。その際に、大きく弾んだ彼女の二つの膨らみは見なかったことにする。
「未婚の女性が何やってんだ! 変態! 痴女! ビッチ! 少しは恥ってもんを知れよ!!」
「・・・ぷっ、くふふ。こんな風に君に怒られるのも久々な気がするな」
声を荒げてそう怒鳴る裕紀に、エリーはほんのりと紅潮させた顔で吹き出しながらそう言う。
どうやら完全に彼女の思惑に乗せられてしまったようだ。今度こそ溜息をつき、半目でエリーのにやにやした顔を睨み付ける。
そんな裕紀の視線は完全に無視したエリーは、よっと両肩を掴まれていた状態から立ち上がる。
立ち上がったエリーは、着崩れてしまったパジャマを着直すと何事もなかったかのようにディスプレイ正面の椅子に座り込んだ。
何が面白いのか、座ってから何度か肩を揺らすエリーにはもう何も言わない。
第二の家族であれば相当厄介な性格の姉である。ただ、そう思わざる負えない裕紀だった。
エリー曰く、久々のスキンシップに付き合わされた裕紀は、もう心身ともにへろへろな状態になりながらお風呂へ入ることにした。
浴場に入った途端、フルーツの甘い香りが鼻孔を突く。そう言えば、エリーの体から微かに同じような香りが漂っていたことを思い出した裕紀はなるほどと納得した。
この研究所は男女別々に浴場があるという豪華な造りはしていない。混浴、ではないが施設には浴室が一つしかないので、ここに一日寝泊りするときは必然的に二人で一つの浴室を共用することになる。
裕紀としてはそこそこ若い女性が入った直後の浴室を扱うのは精神衛生上あまりよろしくないと思うのだが、エリーはあまり気にしていないらしい。ただ単に鈍感なのか、これもスキンシップの一環なのか。どちらにせよ最後に入ることの多い裕紀としては常に心拍数が上昇してしまう。
まあそんなことは気にしなければどうということでもないのだが、なるべく裕紀は無心を心掛けて入浴を済ませた。
エリーより十分ほど早く湯から上がった裕紀は、部屋に戻るなり視界に飛び込んできた研究者の背中に声をかけた。
「今日の研究は終わりじゃないの?」
時刻はもう十時を回っている。一日中研究ずくめであろうエリーには、健康のためなるべく早く休眠をとって欲しいというのが裕紀の密かな想いだった。
上着の代わりか白衣を羽織ってキーボードを軽快に鳴らしていたエリーは、その声に反応すると肩の力を抜いてこちらへ振り向いた。
「まあ、ね。けどちょっとばかし気になることがあったから、それだけ終わらせておきたくてね」
「へえ。何かわかったことでもあるのか?」
「ん。わかった、というか更にわからなくなったというか・・・」
どこか歯切れの悪いエリーは、しばらく足を組んで黙り込んでしまう。おそらく、これから言うことを頭の中で整理しているのだろう。
しばらくしてから、エリーはパソコンを操作すると巨大なスクリーンにとあるパラメーターを映し出した。
おそらく、いや十中八九裕紀の身体能力を数値化したものだ。
全てが全て正確な数字ではないだろうが、それでも事細かに表示されている文字を見ると、この研究者がいかに自分のことについて真剣に調べてくれているのかが分かり訳もなく胸が熱くなる。
しみじみと感慨にふけっていた裕紀をちらと見たエリーは、研究者らしい真面目な声音で話した。
「画面左側の数値は以前までの君の身体能力データ。中央は前回の計測で採った君のデータ。右側は今回採った君のデータだ」
どこからか取り出したレーザーポインターで画面を示しながら話すエリー。その誘導に従って視線を画面左、中央、右側へ順に移しそれぞれを比べる。
画面左側の数値と中央の数値には、違いがはっきりと見て取れた。左側より中央の数値のほうが明らかに上昇しているのだ。
「見てわかる通りだが、以前までの君の身体能力は順調に上昇を続けていた。だが、今回計測してみると前回のデータとあまり違いがないんだよ」
確かに、画面中央と右側。前回までの裕紀の身体能力と今回の能力の値はほとんど大差がなかった。
「これは私が研究を始めてから初めて起こったことだから、ちょっと引っ掛かってね。裕紀自身、何か心当たりはあるかい?」
そう問われ、思い出してみるが裕紀の身体に起きた異変については魔法以外に特にこれといった記憶がない。
新しい発見があったことについては好奇心が揺さぶられなくはなかったが、どうやらこの事柄で裕紀ができることはほとんどないらしい。
「ごめん。俺も特に心当たりはないや。やっぱり、また力にはなれなかったみたいだ」
心底残念そうにそう言う裕紀に、エリーはふふっと微笑むと赤い縁の眼鏡を外して言った。
「そう気にするな。またまた研究のやりがいが出てきたというものだ」
にっと笑う、どこまでも研究者な彼女に裕紀もつられて苦笑を浮かべてしまう。
今はまだ無理かもしれないが、いつか、必ずエリーの研究について力になれることをしよう。
そもそもこれは裕紀自身の問題なのだ。いつまでもエリーばかりに任せっきりと言うわけにもいかない。
(よし)
裕紀は内心で気合を入れると、
「エリー!」
「はいっ!?」
大声で目の前の研究者の名を呼んだ。
その声にびくっと全身を飛び跳ねさせたエリーは、目を丸くして反射的に大きな声でそう返事をする。
そんな態度に微笑ましくなりながらも、裕紀は口を開いた。
「今更なんだけどさ、小五の頃から俺のことを真剣に見てくれてありがとう。きっとエリーはこれからも研究を続けるんだろうけど、俺に何かできることがあったら何でも言ってくれよ。やれることなら何でもやるからさ」
いきなりの言葉にエリーからは何の返答も返ってこない。ただただ彼女は目を丸くして呆けているだけだ。
一方、勢いで言い切った裕紀は遅れてきた羞恥心により、訳もなく恥ずかしくなり顔を赤くしながら早口でまくし立てた。
「そ、そういうことだから! じゃあ、俺はもう寝るよ。おやすみ!」
自分で言ったことなのに・・・、と内心では己を叩きたい気分だったが、あの空気であの場所に長居していたら何となく居心地が悪くなる気がしたのだ。
「こちらこそ、今までありがとう。家族として、愛しているよ裕紀」
だから背中を向けて颯爽と来客室を出て言った裕紀は、そう言ってくすっと微笑んだエリーには気がつかなかった。




