魔法(2)
白い湯気を立てている茶褐色の液体を飲むと、口の中を暖かくて甘い、ほっとする味が満たした。
自身の好物を摂取したおかげか、魔法という未知の力に混乱していた気持ちが少しばかり落ち着いた。
しかしながら、勝手に記憶に植え付けられている魔法に関する規約については、気持ちを落ち着かせてもさすがに不気味さを感じざる負えない。
また、初めて異性に手を触れさせた彩香も、この喫茶店のオリジナルブレンドコーヒーを一口飲み裕紀とはまた違った意味の動揺を静めていた。
双方ざわついていた心を落ち着かせること数秒、何の偶然か揃って口を開いた。
「えっと・・・」
「あの・・・」
思いがけず声が重なり、二人して苦笑を浮かべる。裕紀はレディファーストの精神を忘れず彩香に先を話すよう視線で促した。
対して、質問を受け付ける側だと思っていた彩香も裕紀と同じように視線で話すよう促したが、先に裕紀に促されてしまったので自分から話すことにした。
「・・・その、色々と混乱してしまったりしているかもだけど、魔法と異世界について説明を続けさせてもらってもいい?」
「あ、ああ。そうだったな。いいよ、話してくれ」
この数分で衝撃的なことが起き過ぎていた裕紀は、もはやその数分前に彩香が言っていた言葉をすっかり忘れてしまっていた。
いよいよ、真に知りたかった魔法と異世界の存在について説明を聞けることに裕紀は小さく身震いした。この二つの存在を知れれば、自ずと記憶に植え付けられた規制にもいくつか納得できるのかもしれない。
これから話すことが重要なことだと言い表すかのように、彩香の声音もどこか静かだった。
「まず魔法についてだけど、この能力は魔法使いと呼ばれるこの世界でも限られた人にしか扱うことのできない、とても希少な能力なの。発動に必要な魔力と呼ばれるエネルギーは術者の生命力。人の力ではなせない業を可能にできる力を持っているわ。そして、この世界で最初に魔法の存在を確認されたのは二〇二五年一二月二七日。今から四二年前だと言われているわ」
人知を超えた力。言葉だけを聞けば年頃の若者が目を輝かせそうなフレーズに、実は裕紀も興奮してしまった。
人の力ではどうしようもないことを、自身の生命力を代償に魔法は可能にするわけだ。雷や火を具現化させたりとファンタジックなことを実現できるのだろう。だとしたら、人類が空を飛ぶことも不可能ではないということになる。
自分の命を代償に魔法を使うなどということは恐ろしい話だが。
それでも魔法という能力に興奮しながら彩香の話を聞いていた裕紀は、ふと今日の世界史の授業で習った内容を奇跡的に思い出した。
裕紀のクラス担任兼世界史の教師でもある萩原先生は言っていた。南極大陸の物質を半分以上消滅させ世界中を恐怖に包んだ現象、空間浸食。それが起きたのは二〇二五年一二月二五日。
そして彩香の言うこの世界における魔法の起源は二〇二五年一二月二七日。空間浸食発生日の二日後だ。
もしかしたら偶然が重ねて起こっただけなのかもしれないが、気になってしまっては後の話は上の空で聞いてしまう裕紀は一応聞いてみることにした。
「あのさ、違ってたらでいいんだけど、空間浸食と魔法は何か繋がりがあるのか?」
会話の途中での質問にしっかり者の彩香は機嫌を悪くするかと思ったのだが、彼女はむしろ目を見開いてから感嘆の声を漏らした。
「あなたって意外と感が良い方なのかしら? まあ、私たちの間ではその様な推測も立っているわ。この魔晶石も、空間浸食が起こってから採掘された新資源だし」
意外と感が良いと、褒め言葉として受けてもいいのか微妙なフレーズに眉を寄せたい気分を抑えて、裕紀は質問を続けた。
「じゃあ授業に魔法なんて言葉が出ていなかったり、魔晶石のことを新資源という言葉であやふやにしているのは、魔法とそれに関わる情報を秘密にしたいからか。でも、どうして?」
人の成せる領域を遥かに超えた力がある魔法は、これからの日本や世界の進歩に欠かせないものになるはずだ。
科学以外に人類が進歩するための能力と資源を知っていながら、それを隠すような真似をするなど裕紀には考え難かった。魔法によって自分たちの暮らしがさらに安定したものになるのなら、それは人類にとって不利益にはならないはずだ。
しかし、裕紀が放ったその発言は初心者ならではの盲点であり、それに彩香が返した答えは魔法使いになら誰でも気がつく当たり前の事実だった。
「君の考えももっともだけど、まず魔法は、魔法使いとして目覚めていない人には使えないのよ。教えたとしても互いの隔壁を生み出すだけなの。魔晶石も魔法が使えなければ、一般人にしてみればただの石ころみたいなものだし。それに、魔法や魔法使いを戦争の兵器として扱う連中も現れかねない。そういう不確定要素があるから、魔法はそれに関わる者たちにしか知ることが許されないのよ」
「戦争の兵器。人間をそんな風に扱う奴らもいるのか」
人を含めるあらゆる生き物の命を道具のようにしか思っていない人々に対する怒りを噛みしめて言う裕紀に、彩香は同じ思いなのかやりきれない表情で喋り続けた。
「世界中の誰もが善人じゃないのよ。むしろ悪人のほうが多いと思う。そのことを考えた上で、魔法の存在を知った最初の魔法使いたちはこの規制を作り、自分たちを含めた世界中の魔法使いへ規制による呪縛をかけた。・・・というのが多くの人々の考えね」
再度、自身の頭を人差し指で突きながらそう言う彩香の言葉で、裕紀も少し納得がいった。
現実に、魔法の存在を知らない昨日までの裕紀はその言葉やもたらす現象がフィクション上の出来事だと信じて疑わなかったのだ。ニュースや新聞、様々なメディア雑誌にもそれらしき記事が載っていないことから、この規制の呪縛も役割は十分に果たしている。
「? でも待ってくれ。魔法は使うのに自分の生命力が必要で、しかも魔晶石がないと上手く使えないんだろ。だったら、その魔法使いたちはどうやって四十年間ものあいだ魔法を発動し続けているんだよ」
魔晶石があっても、さすがに初心者でも四十年分の魔力がどのくらいの規模なのか想像くらいできる。
恐らく、普通に瀕死レベルだろう。
その問いに、彩香は以外にもお手上げというように肩を竦めながら、椅子の背もたれに体を寄り掛からせて言った。
「んー、それについては私たちもさっぱりなのよね。一番考えやすいのは、超巨大な魔晶石の中に魔法を記憶させて常時発動状態を保っているか、だけど。それほど大きい魔晶石があったらとっくに知れ渡っているから、可能性は限りなく低いわね。だとしたら、超大量の魔力を常時作り出している魔法使いがいるのか云々・・・」
「へ、へぇ・・・」
魔法に関しては初心者の裕紀を置いてきぼりにしてそう喋り始める彩香に、裕紀は引き攣り気味の笑みを浮かべて合鎚を打つしかない。
こうも人に対して熱弁する彩香もかなり稀少だが、それより考察を口にする彩香の楽しそうな表情を見て、引き攣り気味だった笑みを裕紀は優しいものに変えた。
何を言っているのかはさっぱりだが、微笑みながら彩香の考察を聞いていると、ようやく彼女は自分に向けられている暖かい視線に気づいたのかむんずと口を噤み顔を紅く染めた。
「え、えっと、何だか私とても熱く語っちゃった?」
「まあ、柳田さんの魔法に対する想いが強いことはわかったよ」
何かを悟ったかのような裕紀の微笑みとその言葉を聞いて、彩香は紅潮させていた顔をさらに紅くさせてしまった。まるで熟したりんごのようだ。
「べ、別に、私は魔法のことをそんな風に思っているわけではなくてッ。ただ、魔法は私にとって・・・だから・・・」
「え? ごめん。最後のほう、よく聞き取れなかったんだけど」
「な、何でもないわよ!」
語尾をもごもごと口の中で呟いた彩香に、正直に聞き取りずらかった裕紀はそう言うが、彼女はわなわなと唇を震わせてそう怒鳴ってしまう。恥隠しのためかオリジナルブレンドコーヒーの注がれたカップの縁に唇を付けた。
そのまま肝心な解説すら放棄してすっかり黙り込んでしまったので、裕紀は自分から話題を切り出すしかなかった。
「そう言えば、この世界で魔法を使うには魔晶石が必要なんだろ?」
「え、ええ。その通りよ。魔法使いの生命力を魔力に変換してくれるのが魔晶石だから」
突然の質問にまだ紅潮している顔を持ち上げた彩香は、さすがの優等生ぶりを発揮しさらっとそう答えた。
人の生きる源を魔法を使うために魔力へ変換させるという魔晶石の理屈は少しばかり受け入れがたかったが、それ故に彩香の説明とは大きな矛盾があることに裕紀は気が付いた。
「だったら、異世界で俺が魔晶石を使わずに不思議な力が使えたのはどうしてなんだ?」
異世界の記憶を復元された裕紀は、もはやあの世界で自分が行った行動を全て覚えている。その記憶の中に、彩香が斬られる寸前に無我夢中で彼女を救おうと裕紀は強く思い、結果剣は空中で弾かれたのだ。
あれも魔法による現象なのだとすれば、生命力を魔力に変換するという魔晶石の性質に大きく矛盾が生じてしまう。
そのことを指摘された彩香は、決して慌てることはなく静かな声で答えてくれた。
「そうね。本来なら魔法使いになったばかりの人には教えるのは良くないのだけど、君はあの世界に行ってしまったのだから仕方がない、ということにしときましょう」
「・・・柳田さんて思ったより大胆なんだな」
魔法の規制にはこのようなことは記されていないので、この決まりは彩香の関わっている魔法使い同士の取り決めなのだろう。その決まりをあっさり破ってしまった彼女に思わずそう呟いてしまった。
当の彩香本人はそんなことまるで気にしていないように、ただ微笑むだけで説明を始める。
「まあ、答えは単純なのよね。この世界にはないものが異世界にはあるとしか言いようがない。簡単に言ってしまえば、異世界にはこの世界とは違い大気の中に魔力が漂っているの。異世界の魔法使いは、自身の生命力ではなくその魔力を源に魔法を使っている。だからいちいち魔力変換を必要とする魔晶石は異世界には必要ない、というのが答えね」
「つまり、異世界では無償で魔法が使い放題なのか?」
生命力を糧に魔法を使う魔法使いにとって、異世界はまるで楽園のような場所ではないか。
そんな欲望が裕紀の心の中に芽生え始めたが、声音でそれを察知したか彩香は重みのある静かな声で欲望の芽を摘み取った。
「異世界に行ってとことん魔法を使ってやろう、なんて考えはやめてよね。そもそも、異世界へ行くためのゲートはある組織の管理下にあるし、使い過ぎればその地域の魔力の枯渇だってあるんだからね。未だに謎の多い世界で、大それた行動をとるのはあまり良いことではないわ」
「そう、だよな」
少しばかり残念な気持ちではあるが、確かに未知の存在への過干渉は良くない結果をもたらすだろう。
それ以前に、異世界へのゲートを管理している組織が存在するならまずはその組織へ話を通さねばならない。魔法使いになったばかりの新参者の裕紀には不可能極まりない話だ。
「でも、どうして俺は異世界に行けたんだ? 魔晶石を使ったときは存在も知らなかったのに」
「それは、私にもわからないわ。偶然か必然か、調べてみないと何とも言えないわね」
本日初めて裕紀への回答でわからないという答えを返した彩香に、不覚ながらも言ってしまった。
「柳田さんでもわからないことがあるのか」
途端、彩香の瞳に冷たい雰囲気が宿り、視線も摂氏ゼロ度以下へと急低下する。
そして終いに優しく微笑まれてしまえば、もうどんな相手だろうと彼女にできることはただ一つだけだった。
「私にだってわからないことはあるのだけど?」
「誠に申し訳ありませんでした」
マイナス五十度くらいの冷気を伴って放たれた彼女の言葉に否応なく背筋を伸ばした裕紀は、震えだした声に構わず早急に謝罪をするのであった。




