魔法(1)
魔法。
それがゲームや小説など、いわゆるフィクション上で度々耳にする異能の呼称であることは、一応高校一年生である裕紀にも認識はあった。
現実では到底実現できないほどの現象を引き起こす、この年頃の若者にとっては実際にそんな能力があって欲しいと思わせるような能力ではないだろうか。
つい数年前の裕紀も時々空を見上げると空を飛べる魔法があったらなぁ、などとしょうもないことを考えていた記憶がある。
なので、何やら複雑な事情があるらしい喫茶店で冗談などこれっぽっちも感じさせない真剣な表情と声音で言う彩夏に、裕紀は少なからず意外感を抱かずにはいられなかった。
学校では非の打ち所がない優等生でも、実はファンタジーっぽいゲームや小説に興味を持っているのだろうか。そうであるならば、これほど真剣に熱弁してしまうほどなのだから、相当好きなのだろう。
人の趣味にとやかく言う権利は与えられていないので裕紀は何も言わないが、ちょっとだけ得した気持ちにはなった。
なんせ、今日一日で裕紀の知らない彩夏の一面をたくさん知ることができているのだ。それに加えて隠れた趣味を垣間見てしまったのだから、裕紀はすでに全校生徒の誰よりも彼女のことを知ってしまっているのではないだろうか。・・・というような、彩夏本人からしてみれば気味の悪い思考を巡らせていた裕紀に、そのことを察したかのように彼女は少しばかり不機嫌そうに言った。
「君、今完全に私のことを馬鹿にしてるでしょ?」
その言葉に、素直に得した気分になっていた裕紀はつい包み隠さず率直な感想を述べた。
「いや? むしろラッキーだったと思うよ。柳田さんの隠された趣味を発見できて」
「それを馬鹿にしてるっていうのだけど?」
魔法や異世界などの記憶が消失している状態の裕紀に何を言っても仕方ないことは彩夏にも分かっていた。正直のところ彩夏自身、こちら側に関係ない同い年の男子にこういうことを言うのは恥ずかしい。事情を説明して記憶を復元するまでは何を言われても我慢する覚悟だったのだが・・・。
しかし、こうも失礼という言葉を知らないような裕紀の発言は彩夏に少し刺激を与えてしまった。
一方、そんな事情を露ほど知らずに発言してしまった裕紀は、彼女が途轍もなく冷ややかに放った言葉に全身を硬直させるしかない。
「ス、スミマセン・・・」
硬い声でそう謝罪する裕紀を一瞥した彩夏は、さっさと話を進めたいのか学生鞄を膝に乗せて中身を漁り始めた。
いったい何が始まるというのか、思わず身構えてしまった裕紀を前に彩夏は鞄から深紅の鉱石を取り出した。その石を傷つけないようにテーブルの上に優しく置いた。
この紅く透き通った鉱石が単なる宝石や、それを彩夏が自慢するために出したものではないことは言わずもながだ。
それに、裕紀はこの石を視界にとらえた瞬間、頭の片隅で記憶がチリッと弾ける感覚を感じていた。
なので、裕紀は何故か見覚えのある鉱石に、その用途と自分との関係性を見極めようとただ食い入るように見つめていた。
しかし、魔法の存在を知らない裕紀には皆目見当が付く筈もなく、しばらく口を閉ざして様子を観察していた彩夏はやがて微笑みながら言った。
「さて、色々処置を施す前にこの石について説明させてもらうわね」
「やっぱ、ただの宝石じゃなさそうだよな」
「そこまでは解ったのね」
その意味ありげな前置きに、にやりと笑って返した裕紀に彩夏はさすがと言ったような笑みを浮かべた。
「君の言う通り、この石は単価数千万以上の宝石なんかじゃない。値段では到底示し表すことができないほど貴重で、私たち魔法使いにとっては重要な代物なのよ」
「ふうん。で、どんな重要な代物なんだ?」
早く石の正体を知りたいばかりに淡々と話題を進めようとする裕紀に、彩夏は少しばかり不思議そうに問い掛けた。
「・・・君って他のことに対して疑問に思ったりしないの? 魔法使いとか、まだ説明してないことたくさんあるのだけど」
眉を顰めてそう問う彩夏に、裕紀はネタ晴らしを焦らされている子供の用に口調を尖らして言った。
「知らないことを話しの度に訊いてたらきりがないよ。それに、魔法使いとか魔法とか、複雑そうな話は俺に処置を施してからするんだろ?」
(処置のことも言ってないんだけど・・・)
しかし、裕紀の言っていることはもっともな正論だった。
魔法使いには魔法に関する情報を扱うにあたり厳密な規制が決められている。それは彩夏も例外ではなく、さっさと裕紀の記憶を復元しなければ魔法などの話は色々としづらいのだ。
処置についてまだ説明をされていない筈の裕紀がどうしてこんなにも堂々としていられるのかは、単純に彼の意識がそれ以外のことに向いてしまっているからである。
そんなことを考えもせずに裕紀の返答を聞いた彩夏は、内心で自分の質問が愚問だったことに反省しつつ、一度咳払いをしてから石の説明を再開した。
「こほん。魔法はね、どこでも使えるわけではなくて、特にこの現実世界では普通に使うことができないというリスクがあるの。この石は《魔晶石》って呼ばれる異世界の資源で、そのリスクを軽減できる力を持っている石なのよ」
こつこつと深紅の石を突きながらそう説明する彩夏を前に、裕紀は脳内の処理速度を上げて鉱石に関する情報を処理していた。
彼女の言う魔法や異世界が何かは当然分からないが、二つには密接な関係があることは理解できる。
そして、裕紀たちの暮らす現実世界でも魔法は使えるが様々なリスクがあり異世界ほど簡単には使えない。
魔晶石はその枷を無効化させるのか軽減させるのか、どちらにせよこの現実世界で魔法を容易に使えるようにできる特別な資源らしい。確かに魔法を扱う者の立場からすれば貴重という言葉がぴったりだ。
そこまで処理し終えた裕紀は、両目をすっと細めるとこの説明から察せられることを口にした。
「てことは、柳田さんはこれから魔法を使おうとしているんだな?」
ほとんど正解であろうと思いながら言った裕紀の言葉に、彩夏は真剣な表情を崩さずに頷いて答えた。
「そうね。まあ、そのあとは本題である魔法と異世界の話になるのだけど、覚悟はできてる?」
その試すような声音と視線に、裕紀は自分自身に問い掛けるよう数秒黙り込んだ。
魔法。それを扱う者を魔法使い。そして異世界。
この現実離れした存在を知ることに関しては、楽しみ半分不安半分といった様子だ。
楽しみな理由は、知り合いの研究者に影響されてか、自分の知らない何かをとことん知り尽くしたいと思う底のない探求心から。
不安の理由は、これらについて彼女から話を聞いてしまえばその時点で裕紀は特別な存在へとなってしまうのではないかという先の見えない恐怖心からだ。
ここで彩夏の話を聞かなければ、裕紀はそのまま彼女から鉱石などの記憶を抹消されてただの高校生へと戻るのだろう。
だが裕紀は、彩夏の問いに頷くことしか考えていなかった。断るには不十分すぎる謎が裕紀には積もり積もっていたのだ。
この疑問は、記憶を書き換えられても心の何処かで必ず引っ掛かる。思い出せない気味の悪い感覚を味わうなら、たとえ後悔しても目の前の疑問を直視し受け止めようと思った。
裕紀はこの数秒で未来のことではなく、現在のことに向かい合う覚悟を固めたのだった。
「覚悟は、できているよ。だから話してくれ。俺の知るべきことを」
裕紀の決意を汲み取ったのか、彩夏は目の前に取り出した深紅の鉱石を持ち上げた。
「リコールメモリーズ」
あまり聞き慣れない呪文のような言葉を口にした彩夏の声に反応したのか、深紅の鉱石は中心から仄かに輝きを帯び始めた。
その神秘的な紅い光に目を細めた裕紀は、光り輝く鉱石から円状で構成された光の輪を目視した。
徐々に輝きを増していく鉱石の光に耐えながら、裕紀は眩い視界の中でその輪を直視し続けた。そして、その輪がただの光輪ではなく見覚えのない文字の列で形作られていることを知る。
英語ではない。どこかの古代文明で扱われたような複雑そうな文字列が高速で回転し、一つ、二つと光輪を生み出していた。
「新田裕紀君。これから君は、君が体験し失ってしまった記憶を取り戻すでしょう。取り戻した記憶に、君は必ず恐怖に慄く。でも、それは受け入れなければならない。その記憶は、誰にも変えることのできない君自身の経験だから」
彩夏のはっきりとした言葉を最後に、一際強い輝きを放った鉱石の光に裕紀の視界は真っ白に満たされた。
それと同時に、頭の中で大量の情報を堰き止めていた防壁が決壊したかのように、裕紀の欠けていた記憶が溢れ出す。
「・・・っつ!!」
一度に大量の記憶を復元された反動で頭痛が発生し、加えて処理する記憶の一部が断片的なイメージの奔流として裕紀の意識に伝えられた。
ショッピングモールにて突如襲ってきた男性と彩夏との戦闘。その際に、彩夏が逃避ように用いられた魔晶石と呼ばれる紅い鉱石。
受け取るも思うように退避はできず、代わりに避難した場所は富士の樹海みたいなたくさんの木々が生い茂る森。
森を抜けた先の村で門番と言い争いになり、思わぬ反撃を受けあと少しで斬りつけられそうになる彩夏を、動けずただ遠くから眺めていることしかできなかった裕紀が不可思議な力で弾き飛ばした瞬間。
現実世界へ帰還する際に使用した大きな滝と、裕紀に差し伸べる彩夏の手。彼女の、穏やかな暖かい笑み。
その笑みが光に包まれたところでイメージの奔流は途切れ、頭痛もじわじわと引いていった。
気がつくとさっきまで光を放っていた鉱石も沈黙し、彩夏の手の中に静かに収まっていた。
「これが、俺の忘れていた記憶。あの世界が、異世界だっていうのか?」
なぜこんな大事な記憶を失っていたのか。そのことを考えるよりも、これまで自分のことをちょっと運動神経の良い普通の高校生だと思い込んでいた裕紀には、人知以上の能力を使っているこの記憶は衝撃的だった。
頭を押さえながら半ば信じられないように呟いた裕紀に、彩夏はそれが事実だとでも言いそうなほどの口調で言う。
「そう。君はすでに異世界に赴いているし、魔法だって使ってる。そして、その瞬間から君はもう魔法使いとして存在が認められているの」
「い、いや、存在が認められてるって? どうやったら俺が魔法使いになったかなんて分かるんだよ。もしかしたら、あの剣を防いだのも柳田が無意識にやったことかもしれないだろ?」
そうだ。仮に裕紀が魔法を使い、魔法使いになったとしてもそれを肯定するだけの証拠がない。
処置を施す前に彩夏が言ったように、裕紀は途轍もなく怯えていた。人生でこれほど怖いと、不気味に思ったことはないだろう。
しかも、その対象が自分自身に対してなのだからこの事実を受け入れることは難しかった。
しかしそれでも、目の前に座る同級の女子生徒はその事実を受け入れさせようと、確かな意志を宿した瞳で裕紀の瞳を射抜いていた。
反射的に、裕紀はその瞳から視線を外した。これ以上彼女の瞳を、姿を視界に捉え続けていたら認めざる負えなくなってしまう。
だが次の瞬間、彩夏は裕紀の逃れることのできない決定的な一言を口にした。
「残念だけど、あの剣を防いだのは紛れもなく君よ。それに、証拠は君の記憶にもう刻まれているはずよ」
一度だけ自分の頭をつんと突いた彩夏の動作に、裕紀はつられて復元された記憶へ意識を傾けた。
ドクン。
瞬間、裕紀は自身の記憶領域に稲妻のような電撃が走る感覚を味わった。見たことも聞いたことも、意識すらしたことのない内容の記憶が、文字というイメージで再び裕紀に伝わってくる。
魔法規約
一,魔法の存在は如何なる状況においても知られてはならない。
一,魔法の存在は決して魔法使いではない他者に口外してはならない。
一,魔法使いではない他者の目がある場所にて魔法の使用は固く禁ずる。
一,魔法による痕跡は速やかに処理しなければならない。
まるで日本における憲法や学校における校則のような、けれどこれまで聞いたことのない内容が次々と記憶領域から伝わってくる。
自分の知らない知識が勝手に脳に刻み込まれていることに、裕紀はそろそろ恐怖心に抗いきれなくなっていた。頭の頂点からつま先までの感覚が途切れてしまったかのように動かなくなってしまう。
「何なんだよ、こんなの俺は知らない。教わった覚えもないし、そもそも聞いたことも・・・」
「落ち着いて、新田君」
もはや一人では抱えきれないほどに膨れ上がった恐怖に頭を抱える裕紀を宥めるべく、彩夏は彼の肩に恐る恐る手を触れさせた。
人生で初めて自分から異性の体へ手を伸ばす彩夏にこの行為はかなりの勇気が必要だったが、そんなことは寸分も気にならなかった。
同じ経験をしたことのある彩夏には裕紀の感じている恐怖が手に取るように分かっていた。昔自分がしてもらったように、彼の感じている恐怖を少しでも軽減できればと思ったのだ。
そんな彩夏の思惑のおかげか、肩に手を置かれた裕紀は、その手の暖かさのおかげで多少は落ち着くことができた。
この事実を受け入れると決めたのも、いまと向き合うと決めたのも裕紀自身のはずだ。
彩夏から色々と事情を聴く前に、こんな恐怖に竦んでいてはこの先どうなるかは誰にでも目に見えていることだ。
(怖がるな。俺は一人じゃない。柳田さんもいるんだ!)
そう自身に叱咤した裕紀は、緊張で強張っている彩夏の手に自分の手を被せた。瞬間、びくんっと手が震えたので優しく肩から手を外して、最後に裕紀の手も放す。
それから大きく息を吸い、肺に空気をいっぱいに溜めてから、裕紀はゆっくりと息を吐き出して脱力しきった声で言った。
「ありがとう、柳田さん。おかげで落ち着けたよ」
感謝の言葉を述べられた彩夏は、華奢な手を片方の手で擦りながら、恥ずかしそうに小声でもごもごと言葉を発した。
「いえ。…どう、いたしまして」
俯きながら仄かに赤面してそう言う彩夏が何だか微笑ましく感じた裕紀は、ばれないように密かに笑った。
そんな穏やかな空気の中、注文した飲み物を作り終えたらしいマスターが、コーヒーとココアをそれぞれ丁寧に置いた。
簡素な白いカップに注がれた茶褐色の液体から、ココアのほんのり甘い香りが裕紀の鼻腔いっぱいに広がった。




