帰還(1)
白く濃霧が掛かった樹海で、裕紀は一人立っていた。頭がぼんやりとしていて思考が上手く回らない。ここが何処なのか、どういった経緯でここに来たのかすら思い出せない。霧の影響で日の光が届かないのか、樹海は不気味と言ってもいいほど薄暗かった。
周りをぐるりと確認するが、内部は霧が濃く見通しが悪い。まるで出口の見えない迷路に突然放り出されてしまったようだ。
霞む意識を何とか覚醒させようと頭を強く振ると気分は少し楽になる。
それから裕紀は、この状況下でどう動くべきか考えた。
たった一人この濃霧に包まれた樹海を彷徨えば遭難の危険もあったが、だからと言ってずっと立ち尽くしているわけにもいかない。
考え始めてから数秒足らずで導かれた答えは一つだった。
「よし」
一応の対処を完了した裕紀は、自分に気合を入れて先の見通せない薄暗い樹海の奥へ一人歩き出した。
歩き始めてから数分、一切先の伺えない不安に足を止めようとした裕紀は、しかしその歩みを止めないようにただ進むことだけを考えた。進み続けなければ、霧を抜けた先に行かなければならないと、彼の直感がそれが使命なのだとでも言うように彼自身の体を動かしていた。
もうどのくらい歩いただろう。周囲の見えない霧の中では方向感覚も次第に薄れてくる。やがて時の流れすらも感じなくなり、覚醒させたはずの意識も霧の奥へ進むにつれて再び霞みが掛かってくる。乱れた地面によって体力も着実に奪われ不安だけが裕紀を支配していった。
それでも、裕紀は足を動かした。この先には裕紀が邂逅しなければならない存在がある。全てが虚ろな世界で、これだけははっきりと確信が持てた。
それからしばらくして、ただただ自分の息遣いと足音しか響かなかった聴覚に、ようやく違う音が音が響いた。それはとても綺麗で、闇へと落ちそうだった彼の意識を優しく受け止めた。
濃霧の水滴一粒一粒を優しく振動させながら裕紀の鼓膜を心地よく振動させるこの音は、歌だ。心に沁み渡るような音色と、それに深く絡み合うソプラノの声は女性のものだろう。この歌声だけで、心に溜まった様々な闇を払拭できるようだ。
歌が聞こえてきたおおよその方角に裕紀は視線を向ける。真っ白で何も伺うことのできない霧の奥で、微かに揺らぐ人影を見つけ、裕紀は反射的に走り出した。
しかし、人影はすぐに霧の奥へ消えてしまい、残った優しい歌声だけをを道しるべに消えてしまった影を追いかける。
もっと聞きたい。そう思う裕紀の願いとは裏腹に、唯一の目印であるはずの歌声は段々と遠ざかって行く。
「待ってくれ・・・」
その呟きに歌い手が気付くはずもなく、歌声は遠ざかり、樹海に掛かった霧もその濃さを増す。
これ以上は行かせまいと行く手を阻む樹木の枝を払いながら、裕紀は掠れた声を放った。
「待って・・・」
だが、その声は歌い手にすら届かないのか、樹海に響く歌声はそんな彼をあざ笑うかのように音量が絞られていく。
そして恨めしいことに、消え行く歌声に反比例するように裕紀の足は鉛を一つ一つ装着させられているように重くなっていた。
体の一部が不自由になっているのだから当然体力の減少も早く、荒れた樹海の道を走った分も合わせて、すでに裕紀の息は上がっていた。
最早呼吸をすることも困難になってきたころ、裕紀の視界にあの人影が再び現れた。すぐ近くで立っているはずなのに、姿はそこだけが視認できないかのように霞んでいた。
だが、それを視認した裕紀は我知らず口元に笑みを綻ばせていた。
しかし、人影はそんな裕紀を誘っているかのように再び遠ざかり始めた。
消えたり現れたり、正直もう追いかけるのは辞めたくなったが、諦めの悪い裕紀は足を動かした。しかし、重くなったこの足ではもう全力疾走は不可能。当然、裕紀と人影の距離は離れてしまう。
「待てよ! なあ、あんたは誰なんだ!? なんで、遠くへ行くんだよ」
追いつけない悔しさにそう叫ぶが人影は答えない。そのまま裕紀の手の届かない場所へ行ってしまうだけだ。
「なんとか言えよ!! なあッ!」
自覚することのない涙を散らして、裕紀はその悔しさと自身の無力さを声に載せて叫んだ。
『大丈夫だよ。わたしが見えているなら、わたしを感じられるのなら、きっとあなたとは出会える』
「な、何を・・・」
突如頭に響き渡った、まだ少女の面影が残る声に裕紀は走りながら問いかけていた。
『けどまだその時じゃないの。あなたには、そのための覚悟がまだ備わっていない』
いきなり意味深な言葉を贈られた裕紀にできることは、ただ諦めずに掴むことのできない何かを追いかけることだけだった。
そんな彼を、人影は初めて微笑みの気配を微かに放つと霧へ溶けるように拡散してしまった。同時に歌声も消失してしまい、もうあの人影の気配を捕らえることはできなくなった。
目標を失った裕紀は動かし続けていた足を止め、呆然とその場に立った。。
次の瞬間、樹海を包んでいた濃霧を全て吹き飛ばす勢いの強風が裕紀を襲った。咄嗟に足を踏ん張るが、脚力など一蹴してしまうほどの風に、地面から足裏が簡単に離される。
「く・・・ッ! うわああああ!」
人ひとり簡単に吹き飛ばせるほどの強風に、腕で顔を防ぐのが精いっぱいだった裕紀は、そのまま軽々と吹き飛ばされてしまった。
「ぁぁぁああああ!」
ガツンッ! と額に激痛を伴いながら裕紀は意識が遠のくのを感じた。よく漫画などで頭に星が回っているシーンを見たことがあるが、今の裕紀はそんな気分だった。このまま気絶すればある意味ネタにはなるかもしれない。
しかし、完全に意識が途絶える前に裕紀は気合で体を起こした。起こした勢いで、なぜか泥だらけの制服を覆い隠すように被さっていた亜麻色の暖かそうなカーディガンがはらりと落ちる。
じんじんと痛む額に手を当てながら、裕紀は自分がソファに横たわっていたことに気付く。周囲を伺えば、裕紀のいる場所は強化ガラスで囲まれたスペースとなっていた。横になっていたのは、その部屋に設置されていたソファらしい。
(あれは夢、だったのか?)
痛む頭で、気を失っている間の夢のようなおぼろげな記憶を振り返る。
突然霧の濃い樹海に放り込まれ、ただひたすら樹海を彷徨い、謎の歌を聞いたり人影と言葉を交わしたり、終いにはいきなり吹き付けた強風に飛ばされたり。
考えてみれば現実味がなさすぎる。仮にあれが現実だとすれば、今頃裕紀は病院のベットの上だ。
「夢で良かった」
一人安堵の呟きを漏らした裕紀は、ここまで自分を運んでくれた心優しい人物を捜した。
そして、自分の隣。詳しく言えばソファの横で猫みたく背中を丸めながら震えている女子を発見する。栗色の長髪、裕紀の通う学校の制服から彼女は柳田彩香だろうと結論付ける。
裕紀に被せられていたカーディガンも、放課後に校門で会ったときに着ていたものだ。
もしかしなくても、この部屋まで裕紀を運んだのは彼女だ。
彩夏の真面目さと優しさに微笑みを浮かべた裕紀だったが、ソファの隣で身を丸める彼女の姿に、その笑みはやがて奇妙なモノを見る表情となった。
何らかの要因で気を失った裕紀をこの部屋まで運ぶのには苦労したのだろう。しかし、彼女は何故このような格好をしているのだ、と思ってしまう。
明らかにおかしい姿に、裕紀はこっそり肩を突こうと手を伸ばした。
「何が、夢でよかった、よ」
「へ?」
しかし、彼女の肩を突く前に、体を丸めた彩夏から震えた小さな声が聞こえ手を止める。たちまち放たれた彼女のヨクナイ雰囲気に、裕紀はあるはずもない第六感が逃亡を強く提案していることを感じた。
数秒後、がばっと上体を起こした彩夏は、両手で額を抑えながら涙目になって怒鳴った。
「いきなり体起こさないでよ! 痛いじゃない!!」
相当痛かったのか半泣き状態で放たれた彩夏の言葉を、状況が呑み込めない裕紀は目を点にしてこう言った。
「あ、うん。何か、すまん」




