異世界(8)
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当然のことだが、本当の自然の森というものは道の整備などされてはいない。一度も人の手が加えられた痕跡は無く、それ故か新鮮な森の空気は今まで裕紀が吸ってきた空気よりも遥かに美味しかった。
だが、人の手が加えられていないということは、安全で歩きやすいという理念がなくなっていると言うことでもある。
更には登山の経験も皆無な為、この自然豊かな森を歩き始めてからほんの数十分で裕紀は体力の限界を感じていた。
それも裕紀にとっては仕方のないことではあった。今は時間の関係でまだお昼過ぎだが、本来であればもう夜だ。普段ならば、今日一日の疲労を少しでも回復すべく体をゆっくり休めている時間帯だろう。
学校の体育の授業で体力はとっくに底を尽きているにも関わらず、ショッピングモールで謎の男の襲撃を受けているため疲労はとっくにピークを迎えている。
決して普通な身体をしていない裕紀であってもヘトヘトだったのに、こうして村を目指して整備もされていない森を歩くことになっている。
最早、体力と気力も合わせて空っぽである。
ところで、河原では葉っぱで猫耳コスチュームを披露したり、ここが異世界だと宣言したうえに帰還できる場所が近くの村にあると言う彩香は、さっきからまるで体力が尽きる様子はない。
体育の授業でもあまり疲れた様子を見せなかったが、男との戦闘に引き続きこの登山だ。彼女には失礼極まるが、仮にも女子ならそろそろ根を上げても良い頃合いだと思う。
(ていうか、柳田さんってどんな姿でも綺麗だな。才色兼備、とはこのことなのか……?)
疲弊しきっているせいか思考が上手く回らない裕紀がそんなことを考えていると、
「ほらそこ! 何ぼけっとしているのよ。早く村に着かないとゲートが閉じちゃうわ」
聞き慣れない単語を含んだ声が頭上から届き、裕紀は物思いから覚めた。頬を垂れる汗を濡れたシャツの裾で拭いつつ見上げると、幾つも立っている樹木のうちの一本に片手を突いている彩香が裕紀を見下ろしていた。
彼女のことを考えていたせいか無意識にあの美しい容子に見入っていたのだろう。さすがの彩香も視線には敏感らしく、注意をしている顔は少々赤かった。
「あ、ああ。すまない」
一言そう返し、顔が赤い原因は決して聞かないことにして、裕紀は遅くなっていた歩行速度を少し上げた。
離れていた彩香との距離が縮まると、再び彼女は裕紀に背を向けて歩き出した。
互いに何を話すことなく数十分が経つ。森の奥へと歩くにつれて草木は生い茂っていき足場もどんどん悪くなっている。
最近雨が降ったばかりなのか、この辺りの土地特有の湿気なのか、河原付近よりも地面がぬかるんでおり足を取られやすい。
さらには木々の本数も増えたせいもあるのか、太陽からの光が葉に遮られてしまい周囲は夜のように薄暗かった。
限界が近かった裕紀の体力も本当に底を尽き始め息が荒くなる。前を見れば、先刻までは余裕そうだった彩香の背中からも少しだけ疲労が感じられた。
「いつになったら、村に着くんだ?」
辺りが暗く思考が鈍っていたせいもあるのか思わずそんな愚痴が零れてしまった。
案の定、彩香には聞こえていたらしく疲労の滲んだ声が返ってくる。
「そうね、あとほんの十分くらいかしら」
「じゃあ、もう少し、頑張らないとな……」
体力と気力の問題もあるが、それ以前に女子より先に男子が力尽きるわけにはいかない。
十分という時間の感覚すら遅いとしか感じなくなっていたが、ここは何とか踏ん張らねばならない。ここで倒れでもすれば、その時からもう彩香と顔を合わせられない。
「よしっ」
気合を入れて一歩一歩を踏みしめながら歩くことまた数分。
裕紀の視界に突然白い光が差し込んできた。
「よかった、もうそろそろよ」
彩香自身も不安だったのか、どこか晴れ晴れした声に裕紀もようやく休めることの安堵感で元気が湧いてくる。
歩いていた裕紀は疲労でパンパンだった足を動かして先を歩く彩香を追い越した。ぬかるみで足を取られないように注意することも忘れて光の中へ走って行く。
そして、狭かった視界が一気に開けるとそれまで吹いていなかった風が眉にかかる前髪を揺らした。
「す、すげぇ……」
日の光に慣れた視界に飛び込んできた光景に、思わず感嘆の呟きが零れ落ちる。
裕紀が立っている場所は、四方を大きな岩壁で囲まれた空間の大きく突き出した崖の上だった。左側には下り坂があるのでそこから下へ降りれば良いのだろう。大量の水が岩に打ち付けられる音は、左手にある巨大な滝の影響に違いない。
そして、切り立った崖の下では数々の建物が連なった一つの村があった。
三つの大きな円形の集落を横一列に並べた、まるで櫛団子の様な形をしている。
中央には大きな広場があり、左側には巨大な滝の麓に商業関係らしい建物が連なっていた。ハンマーか何かで鉄を打つ音や、商売をしている人々の賑わいの声がそよ風に乗って微かに届いてくる。最後に右側の円は居住関係の場所なのか、左側より家の数が多く、安心して暮らしている穏やかさが伝わってきた。
人と人が争うことなく関わり合う、とても平穏そうな印象の村だ。
「ちょっと、いきなり走らないでよ!」
どうやら歩きではなく走っていた裕紀に頬を膨らませて追い付いた彩香は、目の前に広がる絶景に感激している裕紀の右隣に立った。そよ風に吹かれて揺れる栗色の長髪を抑えて一息付く。
「すごく綺麗だな」
この絶景を誰かと共有したい気分だった裕紀の言葉に彩香は頷き、眼下の村を見下ろして言った。
「ええ。この村は三百六十度大きな岩壁に囲まれているのだけど、採れる食材も新鮮で住んでいる人も優しいのよ。この世界に来て訪れた街や村の中では、ここが一番好きかな」
「へえ。柳田さんが言うくらいだから、期待してもいいかもな」
「ふふっ。大いに期待して結構よ」
微笑と共にそう返した彩香は一回大きく伸びをした。とても気持ちよさそうな姿に裕紀もつられて身体を伸ばそうとするが、その前に彩香の左肩に視線が固定された。
身体に蓄積されていた疲労感を解き放つように伸びをしていた彩香は、裕紀の視線に気付くと横目で視線を送り返してくる。ライトブラウンの瞳に見つめ返されても、裕紀は視線を動かすことができなかった。
固定された裕紀の視線を追い、そこに何があるのか理解したらしい彩香は苦笑を浮かべると、焦らず確実に左肩のそれを右手で隠した。
「君は被害者なんだから、何も気にしなくてもいいのよ?」
「そういうわけにもいかないよ。柳田さんは、俺を守るために戦ってくれたんだから」
裕紀が視線を固定していた先にあったのは、引き裂かれた制服の下から露わになった白い肌だ。
決して裕紀自身に卑猥な気持ちがあったというわけではない。
新八王子駅での戦闘で服だけを引き裂かれたと思っていたのだが、白い肌に付けられた微かな切り傷から血が滲んでいたのだ。
恐らく、本人も気付かないほどの小さなかすり傷なのだろうが、裕紀にしてみればその意味は大きい。
突然の出来事で混乱していた裕紀を助けるために戦い、その上で負ってしまった傷なのだ。もっと裕紀がしっかりしていれば負わなくても良い傷だったはずだ。
自分の責任で知っている女子を傷付けてしまったことに罪悪感がひしひしと心に浸透してくる。
だが、当の彩香はそんな罪悪感などまるで気にしないように微笑んで言った。
「私にとって、これくらいの傷はないに等しいのよ。それに、誰かを守って受けた傷なら例えそれが何であっても後悔はしないわ。一番嫌なのは、目の前で大切な誰かが傷付くことだから」
そう言う彩香の表情には、これまで見たことのない薄い影が差しているような気がした。
何を思いながら紡いだ言葉なのか、まともに言葉を交わし合って半日も経っていない裕紀には到底理解できるはずもなかった。
ここは彩香の気持ちを考慮すべきなのだろうが、裕紀にも助けられたお礼くらいはしっかりしたい気持ちはあった。
「じゃあせめて、元の世界に帰ったら何かお礼をさせてくれ。助けられっぱなしなのは嫌だからな」
苦笑を浮かべながらそう提案した裕紀に、彩香は少し悩む様子を見せてからあっさり答えた。
「そう? じゃあ今度二人っきりでお話しない? 私、実は君のこと前から気になっていたのよ」
「そんなことでいいのか?」
意外にも欲のない提案に素直に驚いた裕紀に、彩香は仄かに笑うと目の前を横切った。
そのままゆっくり左側にある下り坂へ向かって歩いて行く彼女を見て、どうやら話はここまでのようだと裕紀は判断した。
彩香を追って坂を下り始めてから、急がなければ《ゲート》とやらが閉じてしまうと彼女が言っていた言葉を思い出す。
ゲートと呼ばれるぐらいなのだから門のような扉のことなのだろうか。
そもそもここが異世界であるとすれば、ゲートは元の世界とどうやって繋がっているのか。
考えれば考えるだけ解らなくなる疑問に、裕紀は首を捻ることしか出来なかった。
目測でおよそ五十メートル程度の坂を下った裕紀と彩香は、平地となった地面を百メートル程度歩いてようやく目的の村まで辿り着いた。
だが、目的地に到着したにも関わらず二人は村の中へ入ることを許されずにいた。
今、裕紀は村の出入り口となっている巨大な門から離れた小さな野原で一人暇そうに座っている。
その退屈そうな視線の先には、この異世界とやらに来てから今まで一緒に行動を共にしてきた彩香と、彼女と何やら言い争っているらしい村の門番たちだ。
必死に彩夏が何かを訴えかけているものの、門番二人は首を横に振るだけだ。遠目から見ても事態は難色を示していた。
「はあ……」
その光景を遠目から眺めていた裕紀は、実に暇そうなため息を大きく吐いて、数分前の些細なトラブルを思い出す。
数分前。
「えっと、それはどういうことなんですか?」
村の正門に仁王立ちで立ち塞がった門番二人の忠告を聞いた彩香は、困惑を隠しきれない声音でそう聞き返した。
崖から地面に繋がる下り坂を降り終えた裕紀と彩香は、ようやく現実の世界へ帰還できる喜びと安堵感に急かされながら村へ入ろうとした。
しかし、正門と思われる古めかしいレリーフの掘られた巨大な門を潜ろうとした二人を、突如正面に立つ門番に止められてしまったのだ。
まあ、門番側の気持ちも分からなくはない。見ず知らずの人間二人が、何も言わずにとても嬉しそうに走ってくるのだ。これほど気味の悪いことはないだろうから警戒するのは仕方ないだろう。
なので、この世界についてはよく知っているらしい彩香が丁寧に事情を説明したのだ。
それに、彩香はこの村に何度も訪れている。これで少しは門番たちも分かってくれたと思ったのだが、それは裕紀の早とちりでしかなかった。
予想外にも、門番二人は裕紀と彩香の村への入村を拒否したのだ。
この世界に来てこのような事態は初めてなのかは定かではないが、少なからず彩香は慌てていた。裕紀自身、この村の雰囲気からある程度の事情なら誰でも歓迎してくれると思っていた。
「だから言っているだろう。いまこの村ではお前たちアース族を入れるわけにはいかないんだ」
アース族、とは彩香や裕紀のことだろうか。背の低い門番の言葉にふと疑問を抱いたが、それを口にする前に彩香は切羽詰まった様子で返した。
「私たちは《ゲート》がなければ元の世界には帰れないんです! その《ゲート》があるのはこの世界の村や街なんです。あなたたちも分かっているでしょう?」
「そう言われても、僕らの答えは変わらない。いまこの村には、君たちを受け入れる者は誰一人いないと思うよ」
と、俳優並みにかなり整った顔立ちの長身の門番がそう忠告を重ねる。
「悪いが他をあたってくれ!」
と、再び背の低い門番が追い打ちに怒鳴りつける。
これまでの彩香の説明から、この異世界から元の世界へ戻る方法は《ゲート》と呼ばれる何かが必要になるようだ。
しかし、そのゲートとやらにも制限時間がある。そして、それがとても短いことも分かっている。他にも制限時間が切れてしまうと元の世界へ帰れなくなってしまうことなども判明済みだ。
相当時間的に厳しくなっているのだろうか、二人の門番からそう言われた彩香はぎりっと奥歯を噛みしめ何かしらの反論をしようとする。
「お、おい」
ここで口論に時間を費やしてしまうのは誰が考えても時間の無駄だ。
そのことを指摘しようと一言声を掛けるが、そんなことは彩香もよく理解しているようだった。
噛み締めていた力をすぅっと抜くと、後ろを振り向いて裕紀にしか聞こえない声で言った。
「分かっているわ。彼らにも何かしらの事情があることは確かみたいだし、言う通り他をあたりましょう」
「でも、時間は大丈夫なのか?」
「ここが駄目だとちょっと厳しいけど、無理に押し通ることはしたくないから。それに、帰れなくなるといってもまた数日後にゲートは開くのよ」
理由がどうあれ、この村の住人が自分たちを拒絶しているのだからこれ以上の介入は良くないと判断した彩香には裕紀も同感だった。
無理に村へ押し入って元の世界へ帰れたとしても、この村のことを気に入っている彩香と村の人たちの間に変な蟠りが出来てしまうかもしれない。
そんなことは、今回のことを除けばほとんど他人な裕紀でも見逃すことは出来なかった。
無関係な人たちに危害を与えることはできないと苦笑を浮かべて言った彩香に、同じく無駄な騒動を起こしたくはない裕紀も頭を縦に振った。
ここで気持ちよく村を後にできれば上出来だったはずなのだが、存在すらはっきりしない神様はどうやら捻くれ者らしい。
「まったく。あんたらが起こした問題なのに勘弁してくれよ」
静かに上り坂へと歩こうと二人が右足を踏み出したのとちょうど同じタイミングで、背中越しからそんな愚痴が届いた。
自分たちに対する愚痴でも大したことがなければ気にしない性格の裕紀は相手の愚痴を難なく右耳から左耳へ素通りさせた。きっと隣を歩いている真面目な優等生も、こんなくだらない悪口は華麗さっぱりかっこよく無視するだろうと思っていた。
だが、隣を歩く彩香は裕紀ほど適当な性格ではなかったようだ。
「あらたくん」
「は、はい?」
突然足を止め、背筋を震わせるほどの冷感と威圧感を込めた声音で名前を呼ばれた裕紀は、立ち止まって反射的に硬い声で応答した。
声音から察するに、横顔を見るのはかなりの度胸が必要そうなので裕紀は視線だけをちらりと隣へ向ける。
そして、彩香の横顔が視界に入った途端、スッと視線を目の前の大きな上り坂へと戻した。
隣ではきっと笑顔も美しいのであろう彩香が、ニッコリと摂氏ゼロ度以下確定の極冷笑を浮かべていた。
人目を惹くほど美しい容子のこめかみ辺りに、やや血管が浮き出ているように見えるのはきっと目の錯覚に違いない。……錯覚であって欲しい。
「いま私、とても気に障るような言葉を耳にした気がしたんだけど気のせいかしら?」
「き、気のせいなんじゃないか? そ、それより、早くゲートのある場所を捜さないと……」
視線を前方へ固定しながら彩香の意識を愚痴から逸らそうするも、次の瞬間には隣からヒヤリとした何かを感じた。
きっとこのまま否定し続ければ、本当に無駄な被害が出そうなので裕紀はあっさりと肯定する。
「言っ……たかもしれないな。うん」
「そうよねー。確かに言ったわよね、アイツら」
段々と冷たくなっていく彩香の声を聴いて裕紀はまずいな、と内心で頭を抱えた。
彩香の怒りがとてつもなく怖そう、という理由もあるが他にも問題はある。
もしもこの瞬間、彩香があの二人の門番に食って掛かったりしたらそれこそ時間がなくなってしまう。今日ゲートが閉じても数日後にはまた開くらしいが、こちらにも現実世界でやらなければならないことが山ほどある。
そもそも、異世界で武装した未知の人間相手に生身の高校生では(高校生以上の戦闘力は有しているが)どう考えても勝てる気がしない。
「なあ。怒る気持ちは分からなくもないけど、ここは我慢しよう。時間もないし、武装した相手じゃ勝てないぞ」
「安心して新田君。絶対に戦闘にはならないから。君はそこの野原にでも腰を下ろして待ってなさい」
言いながら近くの小さな野原を指さす彩香に、裕紀は不覚にもつられて同じ方向を向いてしまった。
しまった、と思うが最早遅い。急いで振り返った時には、すでに彩香は門番二人へずんずんと歩いて行くところだった。
「あっ、ちょっと柳田さんっ!」
咄嗟にそう呼びかけても当然彩香は答えずに歩いて行ってしまった。
まあ、あの成績優秀な彩香が話し合いだけでケリを付けると言ったのだ(実際は言っていないが言ったも同然だろう)。ここは余計な邪魔をせずに、大人しくそこら辺の野原にでもくつろいでいよう。
もし本当に戦闘にでもなったら、出来る限り仲裁として割って入らなけらばならないが。
暖かな日光と涼しいそよ風の影響か、内心では微かな憂いもあったが裕紀はあの優等生を信じ切ってしまっていた。
そんな自分に後悔してしまうのは、それからおよそ数分後の話であることに、この時の裕紀はまだ気付いてはいなかった。




