諭し説いても王子は聞かず
そもそも、限界だったのは王子の方ではなかったらしい。
流れるような銀髪を振り乱して書類を運ぶライオネルが疲労困憊の様子で出迎えてくれた時に確信した。
限界だったのは、カイの部下の方だったのだ。
ただでさえカイの部下たちは息の詰まるような忙しさに見舞われているのに、城の政務の方がカイの仕事のペースに追い付けず、王子を更に不機嫌させている。そんな彼の不愉快のはけ口が部下たちへの暴言へと繋がっているようだった。
うっかりドアの外で聞いてしまった言葉は、心の弱い人なら一言で泣きだしてしまいそうなものばかりだ。
なまじ頭のいい人から繰り出される暴言なので、向けられた相手がおいそれと反論できないらしい。さらにカイは口から生まれてきたような天性の話し上手である。彼に口で勝てる者はまずいない。
「城での仕事も滞るので、暇を出されてしまわれたのです」
エレンがやってきたことでようやく休憩を許されたライオネルが、蛙が気持ちよさそうに雨を浴びるような顔で教えてくれた。
カイが居ると膨大な量の執務は片付くが彼の仕事の早さは尋常ではないので、しばらく休めと城を追い出されたらしい。
それがもう七年にもなるという。
何とも気の毒な話だ。主について行かざるを得なかった部下たちが。
腐っても王太子所有の屋敷は贅の限りが尽くされ、美術的にも利便にも追求されている。それだけで価値ある名品のような構えだが、ここは贅沢なカイの檻なのだ。
大量の処理済みの書類を持たせてライオネルを追い出し、王太子のためにあつらえられた瀟洒な肘掛椅子に腰かけた優雅な猛獣を眺めて、エレンは何とも言えない心地になった。
まるで自分がねずみになったような気持ちになるのだ。
仕事が一区切りつく頃に執務室へと招かれるのだが、それまでの不機嫌が嘘のようにカイはにこやかにエレンを迎え入れる。
「ようこそ、森の魔女殿。あなたのお陰で今日のつまらない一日が洗われるようです」
本当に心の洗濯をしているのはカイの部下たちの方だろう。鬼の居ぬ間にせいぜいのんびりと休んで欲しいものだ。
ヨセフが静々と用意してくれた上品な菓子や茶に手をつけながら、カイはエレンにいつものようにくだらない相談を持ちかける。今日は朝から急な書簡が届けられて散歩が出来なかったらしい。いつものように実にくだらない。
彼の態度はエレンが娘の姿であっても、老婆であった時と変わらない。
丁寧で紳士的。くだらない雑談は話し上手の彼にかかるととびきり腕のいい吟遊詩人が語る物語にも聞こえる。
こうまで変わらないとなると、はたして彼の熟女好きが治ったのかどうかが分からないのだ。
(比較する対象がいないのが良くないのね)
カイと週に一度の訪れを過ごす時はいつもエレンと二人きりだ。
屋敷に訪ねてくるのは城からの使いばかりで私的な訪問はない。
出来ることならもう一度オフィーリアと引き合わせてやりたいが、カイの仕事が立てこんでいる今、彼を無理矢理連れ出すこともできないし、王太子の私邸にまさかいきなりオフィーリアを連れてくることもできない。
まじないや薬となれば魔女の分野だが、人との縁を取り持つなど門外漢もいいところだった。
エレン自身ができることは限りなく少ない。
それに、エレン自身としてはとても良くない現状になりつつあった。
胸より胃が痛むとはいえ、初恋の相手が再び目の前に居るのだ。
うっかり心がざわめくことがある。
それは、カイの青空のような瞳に見つめられていると錯覚する時であったり、さりげなくエスコートされる居心地の悪さだったり、見送られる時の少しだけ寂しそうな顔であったり。
心の内側をかき混ぜられて、このままの関係を続けていたくなってしまうのだ。
つかず、そうかといって離れず、曖昧で、エレンにとっては少しだけ苦い週に一度の訪れ。
この綱渡りでもするような訪問をいつまでも続けていたくなる。
それが、いつまでも許されるはずはないと知っているというのに。
第一王子とは思えない無軌道ぶりを発揮しているカイだが、腐っても王太子だ。万が一にも運命の相手であるオフィーリアと結ばれないとしても、しかるべき結婚をしなくてはならない。
彼はエレンよりも三歳年上の二十五歳。せめて婚約者を決めなくてはならないのだ。
カイの熟女好き矯正計画は、長い目で見れば彼の幸せとこの国のためになる。
熟女好きで悪いわけではないが、子を産ませなくてはならない彼には若い娘にも目を向けてもらう必要があった。
「そろそろ秋も終わりになろうとしていますね」
静かに茶を楽しんでいたカイの言葉に誘われて、エレンも大きな窓から望む庭樹に目をやった。
赤く染まった落ち葉の半分が散り、晴れた空は霞むように高い。
最近では夕暮れがすとんと夜に代わり、日に日に太陽が仕事をさぼるようになっている。
エレンの冬籠りも近い。
「今年も、私の屋敷で過ごしてはいただけませんか」
恒例となった台詞を口にすると、カイは寂しげに苦笑を滲ませる。
「――私の家はあの森の家だけだからね」
いつものようにエレンも応えて、何気なく視線をそらせた。
カイが訪れるようになってから、一人で過ごす冬が寂しいと感じるようになってしまった。
春があんなにも待ち遠しいと思うのは、今年も変わらないのだろうか。
(いけないわ)
感傷に浸ってばかりではいられないのだ。
心を入れ替えて事にあたらなくては。
そんなエレンに、機会は意外にも早く巡ってきた。
カイの婚約者候補が、彼の屋敷を訪れるというのだ。
ライオネルがヨセフに神妙な顔で密談していたのをたまたま耳にした。
誰もいないと思っているのか、暗い階段の下でこそこそとやる方が悪いのだ。
エレンは魔女のローブを被って気配を消して、彼らの会話に聞き耳を立てた。
いわく、カイの婚約者候補はすでに三人居るらしい。
運命の相手であるオフィーリアがその三人に入っていないのは仕方がないが、いずれも噂話に疎いエレンでも知っている評判の良い姫君たちだ。
一人は公爵家の令嬢。彼女は慈善家で知られていて、二十歳にして孤児院をいくつも運営している。
二人目は隣国の第二王女。大層博識で国一番の学者として知られている。年は三人の中で一番上の二十六。
三人目は遠国の第一王女。その姿は大輪の薔薇のようだと称えられる評判の美女。年は三人の中では一番下の十九。
「議会で勝手に承認されたとあって、殿下がどんな傍若無人をされるか今から心配でなりません」
ライオネルが胃のあたりをしきりにさすりながら無表情のヨセフに沈痛な顔をする。
胃の薬でも作ってやった方が良いのかもしれない。氷の騎士が胃痛持ちでは世の乙女たちが幻滅してしまう。
一人雨雲を背負ったようなライオネルにさしものヨセフも慰めをかけている。確かにあの顔が目の前に居ては励ましの一つもかけたくなる。
「いくら殿下であっても政治的に難しいお立場のお三方を蔑ろにはされますまい。お気を確かに」
「いや、しかし。あのお三方から婚約者をお選びにならなくてはならないとあっては、議会の決定を覆すためにどんな無茶を言い渡されるか……」
ライオネルの泣きごととヨセフの励ましは続いていたが、エレンはそっと密談から離れた。
とうとうカイにも年貢の納め時がやってきたらしい。
のらりくらりと交わしていた結婚が、婚約者という形で迫ってきたのだ。
ライオネルは散々心配していたが、エレンの前ではちゃらんぽらんでも頭は良いカイのことだ。とりあえずはくだんの姫君たちと見合いをするだろう。
良い機会だ。
三人の姫たちには悪いが、ここは彼の熟女好きがどれほど改善されたか窺う絶好の機会。
もしも婚約者を彼女たちから選んだとしても、それはカイの本意ではない。
それに、運命は絶対だ。
どんなこととなっても、彼の運命はオフィーリアに繋がっている。
いずれ運命の導きのままに、彼女との縁が結ばれることだろう。
エレンは畳んだローブを胸に抱いて、我知らず溜息をついた。
微かに痛んだのは、胃の痛みだと自分に言い聞かせながら。
それから、エレンは簡単な遠見のまじないを作って、こっそりとカイの屋敷に残して帰った。
見つかれば不敬罪にあたるが、そうそう魔女のまじないが見つかるはずもない。
遠見の鏡から覗くカイの生活は相変わらず凄まじい量の仕事に忙殺されていたが、三日経ったある日、婚約者候補たちが彼の屋敷を訪れた。
「……やっと来たわね」
布団を頭から被ったエレンは鏡を覗いて鼻をすする。
遠見の鏡は家の中でも一番暖炉から遠くて寒い部屋にあるので、こうして布団をかぶっていなければとてもではないが長い時間見ていられないのだ。
それにエレンの遠見は音まで拾えるものではない。映像だけが鏡の中でせわしなく移り変わるだけだ。
それでも、屋敷の様子はよく分かった。
三人の姫たちを迎えたカイは、少なくとも愛想よく彼女たちを招き入れていつもの王子営業を最大限、活用しているようだった。
(それにしても、綺麗な方たちね)
遠国の第一王女は、まるでその場にバラが舞い降りたような美女であるし、隣国の第二王女は知識の泉から湧き出たようなすらりとした知的な美女であるし、公爵家の姫は春の訪れのような微笑みをたやさない愛らしい美女だ。
彼女たちと並ぶカイは、エレンの知らない王子様に見えた。
鏡を通して見ていると、エレンが知っているカイが夢物語だったように思えた。
傲慢で熟女好きの詐欺師まがいのきらきらしい若者は、本当にエレンの家に通っていたはずのこの人だろうか。
始終にこやかに進んだ見合いは、カイの暴言を見ないまま終わった。
(ひとまず、若い娘にも目を向けるようになったのかしら)
だとすれば、エレンの気苦労も少なからず報われるというものだ。
(今度は、オフィーリアとのことね)
自ずから彼女と結ばれることにもなるかもしれないが、会うことさえままならない今の有様では彼らが恋をすることさえ難しい。
せめてカイの仕事がどうにかならないだろうか。
エレンは鏡の呪いを解いてそのまま布団に包まり考え込んだ。
(カイの仕事?)
そもそもカイは仕事のし過ぎで城を追い出された身だ。加減を教えてやれば、仕事以外にも目を向けるようになるかもしれない。
王子の相談役として、魔女が助言をしてもおかしくないだろう。
手っ取り早く、オフィーリアが運命の相手だと教えてやることもできるが、それでは自尊心の高いカイが素直に導かれてくれるとは思えなかった。
その運命さえ、持ち前の鈍感さと熟女好きゆえに気付かない男だ。
まどろっこしいが、事は繊細な問題だ。多少遠回りもせねばならない。
(――さしあたっては、寝よう)
ここ三日というもの、冬支度と鏡の観察に勤しんでいてろくに寝ていない。
エレンは大きなあくびをしながら布団を引きずり、自分の寝床へと潜り込んだ。
―――まるで睡魔に魅入られたように眠ったエレンが、ドンドンという戸を叩く音で目覚めたのは、もう太陽も高くのぼった頃だった。
カーテンの隙間から覗く日の光の眩しさに目を細めて、止まない戸を叩く音にエレンはこめかみを指でぐりぐりとやった。心なしか頭が痛いような気がする。
寝巻のまま寝床から滑り出て、戸の前で大声を出そうとして、世界がくらりと揺れた。
(あれ)
くらり、がグラグラに変わり、あっけなく戸に体を預けてしまって、ようやくエレンは自分がふらふらとしていることに気がついた。
自分の額に手を当ててみると、驚くほど熱かった。
(しまった)
風邪だ。
自覚すると喉は痛いし、頭は熱いのに体は震えが止まらない。
最近の不摂生がこんなところで悪さをしたらしい。
「―――森の魔女殿。そこにいらっしゃるのですか」
おずおずと問うのはライオネルだ。
今日は屋敷へ行く日ではなかったはずだが。
「……今日は帰ってちょうだい。ヒューさん」
戸の前で座り込んでしまったエレンは辛うじて戸の向こうで心配そうなライオネルに向かって囁くように言ってやった。
「どんな用事か知らないけれど、風邪をひいてしまったみたいなの。だからどんな用事も今日は無理よ。帰ってちょうだい」
「それはいけません!」
頭に響くような叫び声がしたかと思えば、戸の向こうから再び戸を叩く音が聞こえてくる。
「開けてください、魔女殿。医者に診ていただかないと」
エレンは魔女だ。風邪ぐらいならば自前の薬草でどうとでもなる。
「風邪ぐらいで騒がないでちょうだい」
「ではせめて介抱の手伝いをさせてください。あなた一人では心配です」
ライオネルは戸の鍵をどうにか開けられないか思案しているようだった。
魔女の家の鍵は特別製で、力任せにどうにかなるものではない。
もしものために、薬草園の脇にある木の根元に合鍵を隠してあるが、ライオネルに教える気は無かった。
「帰ってちょうだい。ヒューさん。殿下によろしくね」
そのままエレンはよたよたと戸を離れた。
戸の向こうの気配はしばらくうろうろとしていたが、やがて戸を叩く音も納まり、エレンは静かに自分で調合した風邪薬を飲んで寝床で丸くなることが出来た。
熱に浮かされて見たエレンの夢には、色々な人の顔が現れては消えていった。
時折出かける街で出会う穏やかな人々、永遠に別たれてしまった両親、いつも導いてくれた師、優しい伯父夫婦、美しく可愛い従妹のオフィーリア。
そしてオフィーリアの運命の人である、カイ。
どうして彼に出会ってしまったのだろう。
彼は、どうしてエレンの家にやってきたのだろう。
どうして、恋してはならない人に、恋をしてしまったのだろうか。
魔女とはいえ、エレンも年頃の娘である。
カイでなかったとしても、初恋の一つや二つしていただろう。
だというのによりにもよって運命の相手がいる一国の王子様に恋をするなど、不毛が過ぎるというものだ。
恋の仕方など知らなかった。
そんなことは両親も、師も、伯父も、誰も教えてはくれなかったというのに。
もしかしたら、時折街で娘たちに聞く恋の話を聞いているうちに、エレンも恋をしている気分になっていただけなのだろうか。
そうであったなら、今からでも誰か教えてくれないだろうか。
この、消えない胸の痛みが嘘だと教えてくれさえすれば、こんなにも涙を流すことはなかっただろうから。
―――エレンの頬を優しくかすめるものがある。
ふわりふわりと、羽根のようにくすぐるかと思えば、じんわりとエレンに温もりを分ける。
そのもどかしい違和感に促されて、エレンは重いまぶたを押し上げた。
すでに日が傾いているようで、午後の終わりの陽光がエレンの周りに紗をかけている。
(……いいえ、本物のレース?)
エレンの家の寝床の周りにレースなど一枚もない。
レースなど使われているのは、オフィーリアからもらった寝巻ぐらいだ。
あるはずのないレースが日の光を淡く遮っている。
そういえば、エレンの寝床はこれほどふかふかの羽毛が詰まっていただろうか。
修行時代に作った自前の布団は綿と布切れをこれでもかと詰め込んでいるから、ふかふかとしているが軽くはない。しかし、この寝床はどうだ。まるで温かい空気のようだ。
「―――お目覚めですか。魔女殿」
……少なくとも、エレンの家にはこれほど顔形の整った金髪の男はいないはずだ。
今日は深緑のコートをゆったりと着こなして、こちらを覗きこむ彼は何故か上機嫌に微笑んでいた。
しかし、目だけは笑っていない。
「……どうしてアンタがここに居るの」
自分の声が思ったよりもかすれていたことに驚いたが、青空色の瞳はひたと彼女を見つめて目を細めた。
「それはこちらの台詞ですよ。魔女殿」
形の良い唇がいつもよりも幾らか低い声を紡ぐと、起き上がりかけたエレンの額を指先がトンと突いて、彼女を枕へと押し戻す。
「私が自由に見舞えないことをご存じのはずなのに、風邪など引くとはどういうおつもりですか」
枕に押しつけられるように長い腕で囲われて、エレンは否応なしにきらきらしい顔を見上げる羽目となってしまった。
「アンタこそ、どうしてここに居るのよ」
「ここは私の屋敷ですよ。あなたを迎えにやったはずの不肖の部下が慌てて舞い戻ってきましてね。騒ぎを聞きつけ私があなたを迎えたのです」
笑顔のくせに不機嫌なカイの言葉で、ようやくエレンは辺りをぐるりと見回した。
間違ってもここは自分の寝床のある薬臭い部屋ではない。
優しい白を基調とした、美しいが寒々しいほど広い屋敷の一室だった。
「……どうして私の家に入れたのか聞いてもいいかしら」
「合鍵を使って入りました。あのような場所に置かれるのは止めた方がよろしいですよ」
「………ご忠告ありがとう」
芥子粒ほども悪気のないらしい泥棒に、エレンは素直に礼を言っておくことにした。
鍵の隠し場所は変えた方がよさそうだ。
「どうして風邪など?」
どうして病人であるエレンが責められねばならないのか分からないが、カイが大人しく身を引いてくれたので、エレンも大人しくふかふかの枕に頭をうずめた。
「最近忙しかったから。もうすぐ冬籠りだもの」
鏡でしばらくカイを覗き見していたことは口が裂けても言えない。
努めて平気な顔をつくろったエレンを、カイはじっと見つめていたがやがて小さく息をついた。
「……あまり無茶をされては困ります」
ライオネルが毎日のように口にしそうなことを言って、ベッドの脇からカイはふわりとエレンの額を撫でる。
ひんやりと冷たいその手には、今日に限って手袋がない。
細いくせにしっかりとした男の手が、エレンの顔半分を覆うほどの影を作って午後の日の光を遮った。
「……殿下?」
小さな暗がりからは、カイの顔は見えない。
ただ溜息だけが漏れ聞こえた。
「魔女殿」
溜息のあとに影を作るのをやめたカイは、いつもの胡散臭い微笑みでエレンを見下ろす。
「良い機会です。今年の冬はこの屋敷でお過ごしください」
「……風邪ぐらいで騒がないでよ」
ぼそりとエレンが口元で溢すと、カイの微笑みは一層輝きを増した。
「ここがすでに私の屋敷だということをお忘れなく。――少なくとも風邪が治るまでは屋敷に居ていただきます」
物語に住んでいるような王子様が、まるで小うるさい小姑のように見えた。
(家の外に鍵を置くのはやめよう)
羽毛の布団をかぶりながら、エレンは小さく決意した。