世に女はごまんといると
エレンはライオネルが乗ってきたらしい馬車に乗せられ、喫茶を静々と後にした。見物人が結構いたから、ほとぼりが冷めるまで街へ出るのは控えるべきだろう。
御者が戸を閉めてから、ライオネルの方はようやく息をついた。
「……ありがとうございます。森の魔女殿」
「エレンで構わないわよ。ええと、ヒュー様?」
エレンが親切心で言ったというのに、ライオネルは「とんでもない!」と首を横に振り、「ヒューと呼び捨てで構いませんので」とエレンを諭すように懇願してきた。
あまりの剣幕にエレンは頷いてしまったのだが、なるべく彼を呼ばないよう心がけることにした。こんな中身であっても、国中の乙女の憧れであるライオネルを呼び捨てにするのは気が重い。
「私のことよりも、あなたのことです。魔女殿」
ライオネルはそう居住まいを正す。
「先ほどの喫茶店で一緒だったあの男ですが、申し訳ないが金輪際縁を切ると約束していただきたい」
真面目な顔をして熱でもあるのかもしれない。
エレンが無言でライオネルの額に手を当てようとすると、途端に真面目な顔は崩れて泣きそうになって馬車の隅まで飛びのいた。器用なことだ。彼はわななきながらエレンを怯えた瞳で見つめてくる。
「ま、魔女という方々はどなたもあなたのような方なのですか!」
「……どういう意味よ」
「誰彼構わず男を誑かそうとするのかということです!」
不本意ながらこのエレンの人生で一度たりとも男を誑かせたことなど一度もない。
それどころか初恋に告白さえ出来なかったのだ。
「―――帰らせていただきます」
走っている馬車の戸をエレンが取っ手を掴むと、さすがにライオネルは慌てて「おやめください!」と叫んだ。
「なら、不愉快な発言を取り消していただきたいわ。私の、どこが、男を誑かせるように見えて?」
今度はライオネルの方が微妙な顔をする。
じっとエレンを見つめ、難しい顔をしたかと思うと、見たこともない珍獣を見るような目になった。
「……先ほどのご一緒だった男性は…?」
恐る恐るといった風なので、エレンは取っ手を放して馬車の座席に座りなおした。
「私の一番の相談者よ。街に出るたび彼の相談に乗ってるの。―――彼はあの喫茶のハンナが好きなのよ。でも一人じゃ彼女と話しにくいから私がそばに居るの」
内緒よ、と付け足すと、ライオネルはようやく得心したように頷いた。
彼が何を誤解しているのかは分からないが、誤解は解けたようだ。
「しかし、彼の心配ようは珍しいほどでしたよ」
「ガンネットに言わせれば私は無防備に見えるらしいわ。さっきも言われたところなの。変な男についていくなって」
冷やかに睨んでやると、ライオネルはぐっと喉の奥を鳴らした。
「……魔女殿のご快諾に感謝いたします」
「そうよ。感謝してほしいわ」
「それはもう!」
エレンは手を取らんばかりのライオネルの様子が気になったが、馬車は静々とある屋敷へと吸い込まれていった。
御者が到着を告げると、先に降りたライオネルが手を差し出してくる。
「あら、逃げないの?」
「この場で手を貸さない方が主に責められます」
騎士という立場は存外難しいらしい。
ライオネルの手を借りて馬車から降り立ってみると、エレンの視界に広大な屋敷が広がった。
広い庭をたたえた白亜の屋敷は長大で、エレンでは端を見渡すこともできない。一抱えもありそうな柱に支えられた玄関ポーチだけで森の家がすっぽりと収まってしまいそうだ。どこの巨人が行き来するのかと思うほど縦に長い戸がライオネルとエレンを待ち構えていたように開かれると、一人の老紳士が「おかえりなさいませ」と頭を下げた。
「ヨセフ、殿下は?」
「執務室においでです」
ライオネルに続いて招き入れられて、エレンは果ての見えない天井にぽかんと口を開けた。家の中に空でも作るつもりなのか。半天球となった天井には何の冗談か天上画が描かれていた。
「……ではこちらが」
螺旋階段やら先の見えない廊下を眺めていたエレンにヨセフと呼ばれた老紳士の視線がぴたりと合い、彼女は空になった背負子とケーキの包みを思わず握りしめた。
頭の先からつま先までざっと眺められ、ふいと逸らされた。どうやら特に問題は無かったようだ。
思えばこれから王子様に会うのだ。エレンの姿どころか背負子の中身まで確認されない方がおかしいだろう。
「魔女殿、こちらです」
ヨセフが先導し、ライオネルがエレンの隣に並ぶ格好で、一行は再び屋敷の散策に入った。
屋敷が広すぎて案内と呼ぶには距離が長いのだ。貴族は運動をしないと思っていたが、どうやら屋敷の中で常に運動できるらしい。
そうしてヨセフが先行して辿り着いた部屋の戸を叩いたが、返事はない。
しかしヨセフは慣れているのかそのまま部屋へとライオネルとエレンを招いた。
「―――遅い」
これまた広い部屋だと見渡したエレンの耳に入ってきたのは、聞き覚えのある、しかし聞いたこともないほど冷たい声だった。
「インクを用意するのに何時間かけるつもりだ。役に立たないのなら辺境の国境警備でもしてきなさい。木偶の坊でも極寒のかの地に三年もいればまともな人となれるだろうからな」
酷い言い草だ。
しかしライオネルとヨセフは慣れているらしく平気な顔だ。むしろライオネルはほっと胸を撫でおろしているではないか。
「ああ、良かった。先ほどよりもご機嫌が良いようだ」
「先ほどずっとお待ちだった案件の返事が来たのです」
ライオネルに応えながら、ヨセフはきびきびと執務室にある椅子や長椅子を整え始めた。
罵詈雑言が普通の職場らしい。
エレンは聞き覚えはあるが全く別人のような、顔を上げない金髪を見遣った。
来客があったことには気がついているだろうが広い執務机から顔も上げず、人外じみた美貌を不機嫌に歪めている。
「ヒュー、この忙しいのに来客は誰だ。私は君まで無能扱いしなければならないのか?」
「まだ御気分が良さそうでよろしゅうございました」
ライオネルは主人の暴言をそよ風が来たように微笑んで、エレンに「さぁ」と促してくる。
今まで見たこともないほど不機嫌な王子に向かって、エレンに何を言えというのか。
しかし、ライオネルばかりかヨセフは何か言えとばかりに見つめてくる。
ええい、ままよ!
「あの」
たった一言。
呼びかけただけだった。
しかし変化は突然だった。
カリカリと忙しそうに動いていたペンは机に落ち、書類をめくっていた手は止まった。
ゆっくりと顔を上げ、空色の双眸は丸く見開かれる。
「魔女殿……?」
不機嫌だったはずの美貌は、見る見るうちに花が開くように笑顔となった。
驚いたのはエレンの方だ。
先ほどまで執務机に向かっていた金髪が一瞬にして入れ替わったのかと目をこすりたくなった。
しかし、魔女殿と呟いた声は確かにカイだった。
「え、えと。忙しくて倒れそうだって聞いたのよ。このヒューさん? から。駄目じゃない。無理をしてはいけないって言ったはずよ」
何か話さなければならないような気がして慌てて口を動かしていると、机の前からカイが離れてエレンのそばまでやってきてしまう。
「そうでしたか。お忙しいところを私の部下が申し訳ございません。もしかして今日は街へ出られている日だったのでは?」
丁寧な言葉は森にやってくるカイそのものだったが、不機嫌な彼も初めてなら目の前に居る格好も初めてだ。私室に居るからかコートを羽織らずベストとシャツ姿の寛いだ格好なのだ。エレンは何となく目のやり場に困って自分の手元に視線を彷徨わせた。
「そう。そうなのよ。喫茶でくつろいでたら、ヒューさんが来て、あんたが倒れそうだっていうじゃない? だからハイこれ!」
エレンは顔も上げずに目の前の手袋にケーキの包みを押しつける。
「私が倒れそうだと訊いてこれを?」
見慣れたはずの手袋はケーキの包みを受け取らず、包みを持ったエレンの手を取ってしまった。
これではすぐに離れられない。
睨みつけてやろうと見上げると、空色の瞳が嬉しそうに細まって頬を染めんばかりだ。
「……ですが、今日もそのお姿なのですね」
ふ、と双眸に陰りが宿る。
「その姿で、街を歩かれてきた……」
その徐々に彼の声のトーンが下がっていくのを感じて、エレンはハッと思い出す。
(そうか、今日は老婆の姿じゃないから)
熟女好きの彼には耐えられないのだろう。
疲れているところに申し訳ないが、これも矯正のためだ。
「そうよ。街へ出るときはいつもこの姿よ。王宮へ行く時もね」
嘘はついていない。
実際、姿を偽っていたのはカイがやってきた時だけだ。
案の定、カイは微笑みを消してしまった。よほど衝撃が大きかったらしい。いつになく沈んだ様子でぶつぶつと呟く。
「……そうですか。そのお姿で……」
しかし何故だろう。
カイが握っている手がびくとも動かない。
無理に引きはがそうとしても、さして力も入れていないように見えるカイの手はエレンの腕を放そうとしない。
「……ねぇ、忙しい時に来て悪かったわ。良かったらケーキを食べてちょうだい。私はこれで帰るから」
忙しくて不機嫌になりやすいのだろう。
今までになく優しく言葉をかけると、カイは我に返ったように目をぱちぱちとさせた。
そして不思議そうな顔でエレンを見遣ったものの、次にはにっこりと微笑む。
「ありがとうございます、魔女殿。ケーキを持ってきてくださったのですね。あなたと食せばさぞ美味しいことでしょう。いかがですか、御一緒に」
この顔には見覚えがある。絶対に自分の意見を押し通そうとするときの笑顔だ。
エレンは渋々溜息をついて「わかったわ」と応えた。
それから、ヨセフが入れてくれた紅茶を飲みながらハンナの選んでくれたケーキを一つずつ食べた。紅茶もケーキもこの上もなく美味しかったが、エレンの目の前で胸やけしそうなほど甘い笑みを浮かべる王子が居たので、二つ目のケーキは食べられなかった。
お茶を飲みながら執務室で寛いでいるとカイは森の家でするようにまたくだらない相談をしてきた。(今日はペンのインクの出が悪くてつづりをよく間違うのだそうで) 珍しくもない話を聞いていたというのに、ライオネルとヨセフは奇怪な亡霊のような顔でエレンとカイの様子を見ていた。
「―――今日はありがとうございます。魔女殿」
夕暮れに差し掛かり、ようやくカイが喋り終えたのでエレンは辞去を申し出た。どうせなら泊まっていけとカイの方はしつこかったが、そういうわけにはいかない。エレンも森での生活というものがあるのだ。
「仕事の邪魔をして悪かったわ。ごめんなさい」
執務室に積み上げられた書類の量だけを見ても、どう考えても一朝一夕で出来るものではなかった。だというのに、ずいぶん長い時間邪魔をしてしまった。
申し訳ない気持ちのエレンの手を、そっと大きな手が包む。
「……謝罪などいりません」
見上げると、青の瞳がゆっくりと微笑む。
「次も魔女殿がいらしてくださるなら」
そうだった。
にっこりと微笑む美貌の人外は、口から生まれてきたのだった。
殊勝な気持ちは吹き飛んで、エレンはじとりときらきらしい王子を睨んだ。
「しばらくこの屋敷から離れられそうにないのです。魔女殿のお気が向かれた時でいいので、どうか私を慰めに来ていただけませんか」
どことなくいかがわしい言い回しなのでエレンの方がとんでもない悪女に聞こえるではないか。
「……気が向けばね」
絶対に行くものかとにこにことした善人面の性悪王子を睨みつけ、エレンは屋敷を後にした。
しかし、かの王子が微笑めば、道理もへったくれもないらしく。
「―――どうしてこうなるのよ」
今度はエレンの方が王子の別邸に毎週招かれるようになっていた。