王子は傲慢で熟女好き
調子が悪いからとカイを追い出し一晩寝て、エレンは結論を出した。
理由や理屈はともあれ、二人は出会ったのだ。
これから接点を作っていけば、おのずと恋に落ちるだろう。
(いや、でも運命の相手にここまで周りが苦労するものだったかしら)
むしろ恋の障害に頭を悩ませなければならないはずだ。
出合いまでも魔女が世話して実らせる見合いではない。
何かが違う気がするが、可愛いオフィーリアと初恋の相手であったカイの幸せのためだ。
(これは試練よ)
魔女としてよりいっそう高みを目指すための大きな試練だ。
見ててください、師アリンダ。きっとやり遂げてみせます!
妙な使命感を胸にすると失恋の痛手も幾分和らぐ気がする。
この痛みが無くなる頃に、エレンも魔女として成長していることだろう。
ベッドの上で頬を叩いて気合いを入れて、エレンはえいっと布団から這い出した。
その時。
「おはようございます。森の魔女殿」
コンコンと戸を叩く音ともに聞こえてくるのは、この決意の朝には聞きたくなかった甘い声。
(どうしてあんたがそこに居る!)
エレンは寝巻の上からベッド脇に放り出していたローブを着こんで呪文を唱える。
すると娘のエレンは姿を消し、魔女のエレンが老婆となって現れる。
「魔女殿。朝早くから申し訳ありません。けれど、昨日の様子がどうにも尋常ではなかったのでご様子を伺いに参りました」
謝罪を口にしているものの、しきりに戸を叩いているので迷惑もいいところだ。
「朝っぱらから何の用だい! あいにくあたしゃピンピンしてるよ!」
エレンが戸口の前まで杖をついて歩いて行くと、戸の向こうからほっとする吐息が聞こえて本当に心配されていたのかと痛んだ胸がどきりとする。
(これだから、この人はタチが悪いんだわ)
ささいな何気ないことでこの王子はあっという間にエレンの心を嵐へいざなってしまう。
恋とは実に厄介なものだ。人をいとも容易く煙に巻いてしまう人ならざる美貌に触れたくてたまらなくなる。
「どうかお顔を見せてください。あなたのお元気そうな顔を拝見しなければ、私は今日一日をまともに生きて過ごせません」
おおげさな。
年季の入った役者であってもこんな台詞を素面で口にしたりはしないだろう。
しかし、この腰の重い王子のことである。
エレンが顔を見せない限り、戸口から動こうとはしないような気がする。
「声だけじゃ分からないのかい。アンタとは長い付き合いだと思ったけれどねぇ」
「意地悪を仰る。私が昨晩どれほどあなたの心配をしていたか御存じないのですね。このままでは私は夜も眠れず、食事さえ喉を通りません」
気ままな王子といえど、彼の仕事は多いはずだ。
週に一度の訪れでさえ、王子の執務の合間によく来られているものだと端々に聞く仕事の話で思うものだ。
食事は一食二食抜いたところですぐに倒れることはない。だが睡眠は違う。
どうでもいいことでも気になって眠れないことなどよくあることだ。
エレンの方が心配になって、戸口をいそいそと開けてしまった。
「……本当にもう大丈夫…」
「魔女殿!」
「夜も眠れないなんて嘘だね! 魔女を何度も騙して!」
今日も上等な臙脂のコートに身を包み、朝日のように輝く王子の笑顔はどう見ても健康そのものだ。
「嘘だなんてとんでもない。私は安眠のためにあなたのお顔を毎日でも見ていたいほどですよ」
老婆の顔に安眠効果を求めるなど、もしやこの王子はとんでもない熟女好きなのか。
王子の性癖としては笑えない自分の推測にエレンは辟易した。しかし戸を閉じようとしても忌々しい笑顔の男が掴んで離さないので動かない。見た目は細いくせにどうしてこうも馬鹿力なのだろう。
「私のことよりあなたの方がお顔の色がすぐれないのではありませんか。目元がこんなにも腫れて……」
「触らないでおくれ! これはしわだよ! 嫌味な男だね!」
いつものように邪険にカイの手を打ち払いながら、エレンは戸口から引き下がってしまった。
本当にこの男はいけない。
油断をすれば、エレンに触れようとするのだ。
老婆の姿はローブの幻影だ。掴んで触れられてしまっては、エレンの嘘がバレてしまう。
もうじきカイの心は他の娘の物になるというのに、彼が未だにエレンのことを気にかけていることに卑しい嬉しささえ感じていると気付かれたくなかった。
(本当に、なんて忌々しい)
「……申し訳ありません、魔女殿」
エレンなどに許しを乞うこの王子もどうかしている。
彼を振り払った手さえ痛む気がする。
エレンはそっと自分の手を撫でて、絞るように吐き捨てた。
「早くお帰り。迷惑だよ」
「そういうわけにはまいりません」
こちらの決意などまるで無にして、カイは魔女の家へと踏み込んでくる。
なんて傲慢な男だ!
「あなたは先ほどまで寝ていらしたのですね」
「え?」
「ローブの袖から寝巻のレースが」
カイが自分の上等な臙脂のコートの袖口を指すのを見て、エレンは我に返って自分の袖を顧みた。
水色のふんわりとしたレースがローブの袖から零れている。
気難しい老婆の魔女が着ているなど、何の冗談だろう。
普段着飾ることなどないのだからと、伯父の妻のコーネリアからオフィーリアのお下がりなどもらうのではなかった。我がことながら貧乏性が憎らしい。
「やはりお加減がすぐれないのでは…」
「出て行っておくれ!」
恥ずかしいのか青ざめたいのか自分にも分からないまま、王子の長身をエレンは叩き出した。
しかし今日に限ってカイはしつこかった。
「魔女殿」
殊勝な声で戸を再び叩いて呼びかけてくる。こいつはきっと子ヤギを食べたい狼なのだ。母ヤギの真似をして猫撫で声を出している。もう騙されるものかとエレンは戸のカギをしっかりと閉めた。
「帰っておくれ!」
「先ほどの寝巻のことでしたら私は気にしませんよ。むしろお年を召した方が外見に気を使うのは良いことだと以前医者から聞いたことが」
「さっさと帰らないといつまで経っても起きられない呪いを送るよ!」
そしてさっさと水色のレースのことを忘れてほしい。
「さすが魔女殿です。私が執務を昼寝してサボりたいことをよく御存じだ」
ああ言えばこう言うとはこの男のためにある言葉なのではないか。
大体、朝っぱらからどうしてこんなに神経を擦り減らさらなければならないのだろうか。
朝ごはんすら食べられていないエレンは進退極って戸口に向かって叫んでしまった。
「今日は出かける用事があるんだ! アンタの相手はしてられないんだよ。頼むからさっさと帰っておくれ!」
用があるのは本当だ。今日はオフィーリアを訪ねる約束をしている。名目上は街へ薬を卸しに行くためだが、本当の目的はオフィーリアの気持ちを探るためだ。
カイの鈍感ぶりは分かったが、オフィーリアの方がその気ならエレンは彼女を応援すればいい。
それに、すでに初恋の胸の痛みが胃の痛みに変わってきている気がする。
エレンが胃をなだめているうちに戸口の向こうは静かになった。
ようやく諦めて帰ってくれたのだろう。いつものようなうるさいほどの辞去の挨拶という名のエレンを森から連れ出しにかかる説得が無いのが気になるが、エレンはようやく一息ついてローブを脱ぐと朝食の準備にとりかかった。
しかし、だ。
そうして今日だけ特別に作ったたっぷりと蜂蜜を塗ったパンの朝食をのんびりと時間をかけて食べ、苦い薬草茶を飲み干し、長い白髪を三つ編みにして動きやすい生成りのワンピースにショールを羽織り、注文のあった薬を数えたりして、全ての準備を整えたエレンがようやく戸を開け外へ出た。
日はすでに高く薄暗いばかりの森にも温かな日差しが差し込んでいる。
そんな木漏れ日を跳ね返す金髪がひょっこりと現れたかと思えば、エレンに向かってにっこりと微笑むではないか。
「ああ、ちょうど良かった。魔女殿。馬車を用意して戻ってきたところなのですよ」
「え、ちょ、なんで」
薬の入った箱をよいこらと背負ったエレンを見つけて、先ほど追い返したはずの臙脂のコートが優雅にやってくるではないか。
以前、子供の姿を見せてやったからか、いつもの老婆ではない若い娘の姿のエレンを見ても一向に驚く気配すらない。
「アンタ、帰ったんじゃないの!」
「はい。私は一人、馬でこちらに来ているので一度馬車を用意しに戻りました」
誰よりも白馬の似合う、確かに叩きだしたはずの金髪の王子様は、エレンの蒼白な顔を見遣って微笑みを少し崩した。
「やはり顔色がお悪いですよ。街へ行かれるのでしたらぜひ馬車をお使いください」
そう言って有無を言わさずエレンの手を取るものだから、らしくもなくびくついて慌てて手を振り払う。背負った大きな箱がエレンの動揺を表わすようにがこがこと音を立てた。
触れた彼の手は、大きな手だった。手袋越しにもひんやりと冷たい。
いつも簡単に振り払っていたのというのに、どうしたことかただの小娘のようにエレンの胸はとくとくと早鐘を打つ。
振り払われたカイの方はといえば、こちらも常ではないようで、払われた手を返す返す見つめて不思議そうにしていたが、やがて頬を染めてまで嬉しそうな顔になった。
「失礼しました。魔女殿。レディの手をいきなり取るなど礼儀に反しましたね」
「……いつも思うけど、アンタ、全然悪いと思っていないんじゃないのかい」
顔と言葉がここまで違うとさすがのエレンも分かろうというものだ。
しかし金髪のタヌキは「とんでもない」と首を振る。
「物事の順序を守らなかった私が悪いのです。どうかお許しください、森の魔女」
「順序?」
心のない謝罪を無視して訝るエレンに、王子は殊更きらきらしい笑みを作って手を差し出してくる。
「森深くに住む賢明なる魔女殿、どうか俗世に生きる愚かな私にあなたを街までエスコートする権利をお与えくださいませんか」
まるでどこぞの深窓の姫君でも誘うような文句を紡いで差し出された手をエレンはじっと見つめた。
(これを私にどうしろと)
美貌の王子が差し出すのは、魔女というには薬箱を抱えただけの普通の娘。どう考えても物語の一場面にすらなれない。
「勝手におやり」
エレンに舞台役者の資格はない。
大道具かそれこそ魔女役がお似合いだ。
森の奥とはいえ家の戸締りをしてからカイのそばをすり抜けて、えっちらおっちら箱を背負ってエレンは森の小道へと向かう。
いい加減、この道を整備して手押し車でも通れるようにした方がいいのかもしれない。アリンダの居た頃はまめにエレンが街へ通っていたので小分けにして薬を持ちだせたが、薬作りも何もかも一人でやるようになってからは月に一度が関の山なので、大荷物となってしまう。
しかしこんなにも枝がはびこっていただろうか。元気よく伸びた枝葉に背負子が引っ掛かってなかなか進めない。帰ってきたら成敗してやらなくては。
「お手伝いしましょう」
くすくすと笑う声が聞こえたかと思えば、エレンの背の箱がひょいと持ち上げられてしまう。
持ち去られた箱を追いかけていけば、金髪の王子が面白がるような顔で背負子ごと片手に箱を抱えている。箱はエレンがやっと持ち上げられるほどの重さがあるというのに、上品な顔をしてこの王子は時々エレンから見ればとんでもない馬鹿力を発揮してみせる。
「そんなに困った顔をなさらないでください。私の方が困ってしまいますよ」
そんなことをうそぶいて、邪魔な小枝をぱきぱきと折ってカイはするりとエレンの横に並んだ。
エレンを見下ろすその顔は、やはりどこか嬉しそうだった。
「……アンタ、性格悪いって言われるだろう」
「まさか。面と向かってそんなことを仰るのは後にも先にも魔女殿だけです」
道を遮る小枝をぱきんと折って、カイはエレンを促した。
「さぁ、行きましょう。魔女殿」
先を進み出した臙脂のコートの背を追って、エレンは渋々歩きだす。
エレンよりも頻繁にカイが通っている道だというのに、枝は一つも折れていない。
彼は、エレンが歩きやすいように枝を折っているのだ。
嫌味なほど気遣いができるというのに、どうしてああも性格が悪いのだろうか。
こんな男に果たして可愛いオフィーリアを差し出して良いものか。
だが、運命は一つだけなのだ。
オフィーリアと恋に落ちれば、彼の性格が改善へと向かうかもしれない。限りなく勝算はないが。
喉元過ぎれば何とやら。初恋が失恋に変わったエレンはすでにカイを可愛い妹の結婚相手として品定めをしようとしていた。
どのみち宿命に逆らうすべなどありはしない。
申し訳ないが、性格がどうしても直らなかった場合はオフィーリアには持ち前の明るさと天真爛漫さを使ってこの海千山千の人外をまっとうな美形へと矯正してもらうしかない。
泣きついてきたなら幾らでも力を貸そう。
幸せになるための出会いがないというのなら、二人の縁を結ぶ者としてエレンは幾らでもかけ橋となろうではないか。
「ちょいと」
小道の前を進む背に呼びかけると、カイはさっと振り返る。
こういう紳士的なことはいくらでもできるのだ。改善の余地はあるはずだ。
「行きたいところがあるんだけど。ついででいいから馬車で連れて行ってくれないかい」
王子に頼み事など今までしたことがない。
しかし、遠慮がちなエレンの話を聞くやいなや、カイの頬がうっすらバラ色に染まる。
「もちろんです。あなたが行きたいというのなら、帝国の城さえ落としてみせましょう」
帝国とは、この国のちょうど隣にある大きな国だ。いつもどこかの国と戦争をしていて、軍隊がやたら強いのでどの国からもちょっと距離を置かれている。
そんな国の城など、魔王の城と同じだろう。
熱でもあるのだろうか。エレンは輝きださんばかりのカイの笑顔を心配した。
「誰がそんな恐ろしげなところへ行くんだい。知り合いの家に薬を届けに行くんだよ」
伯父の屋敷にエレンが訪れる時には、いつもオフィーリアが出迎えに出てくれる。
出会いとしてはまずまずだろう。
熱でもあるならオフィーリアに心配してもらえばいいのだ。
エレンの企みを他所に、やたらと笑顔だった王子が今度はじっとこちらを見つめてくる。
「……何だい」
「いえ」
短く応えて騒がしかったさっきまでが嘘のように、静かに道の脇にある枝を片手で折り始めてしまった。彼の歩幅ならばもっと早くに歩けるだろうに、エレンに近寄りもせず、遠ざかりもしない距離を歩き続けている。
「……今日は、魔女殿に驚かされてばかりです」
「どういうことだい」
背中越しの彼の顔は窺えない。
「どうして今日は若い娘の姿なのです?」
「……この姿の方が、薬を運ぶにはちょうどいいからさ」
まさか今更これが本当の姿ですとは言えるはずもない。
「では、その白髪と緑の瞳は間違いなくあなた自身のものなのですね」
髪色と瞳の色を言い当てられて、エレンは正体に肉薄されたような心地になった。
「どうして」
「以前、子供の姿になられた時にもその髪色と緑の瞳でしたから」
よく覚えているものだ。
「若作りしすぎだと笑うかい」
「いいえ」
今度はきっぱりと応えて、カイは自嘲するように笑った。
「よくお似合いです」
吐息のように続いた言葉は木々のざわめきに消えたが、エレンには少しだけ振り返った彼の唇が動くのを見た。
憎らしいほど美しい、と。