お礼SS 夜明けに鳴く2
タージが町へ着くともう日は暮れていて、家や店のランプの明かりを頼りに家路につく人々が行き交っていた。
宿屋と酒場以外は店じまいを始めていて、タージは顔をしかめた。これからどこかで馬車を借りるにしても、交渉が難しくなるからだ。
村で馬車を借りることも少しだけ考えたが、マルティたちのこれからの生活を思えばそれは避けたかった。
魔女たちは世界と人間を繋ぐために生きているが、人間たちが魔女に向ける目は厳しい。人間にとって魔女の技がどんなに人の世に役立っていても、異端は異端でしかないのだ。マルティたちが魔女であることを隠せておけるのなら隠しておきたい。
馬のいななきが聞こえた。
大きな黒馬だ。
堂々たる体格のその馬はおそらく戦場を駆けるために育てられた軍馬だろう。
その艶やかなたてがみに目を奪われて、タージはその隣で手綱を握っている男に気がつくのが遅れた。
「──タージ殿?」
どうしてこんな場所にいるのか。
ランプの明かりを銀髪に映しながら、氷のように表情が動かないと評判の男が目を丸くしていた。
「ど、どうしてここにいるの…!」
柄にもなく動揺が隠せないタージに、偽物氷の騎士、ライオネル・ヒューバートはのんびりと顔をほころばせた。目を細めて笑う様子は端正で、家路を急いでいたはずの人々が思わず足を止めるほどだ。その長身も立ち姿も見た目だけならば彼は絵画から抜け出してきたように一級品なのだ。
「殿下の代理としてこの町の近くまで視察に来ていたのです。そこであなたからの手紙を受け取ったので、まだこの町にいらっしゃるのではないかと」
そういえばライオネルはいつものような詰め襟の騎士の装いではなく、長いコートに簡素な旅装姿だ。それでも容姿は目立っているので、すぐに貴族だと分かるのだが。
「……どうやって手紙を受け取ったのよ。私は今朝、手紙を預けたはずなんだけど」
タージが苛立ちも隠せないで詰問するのに、ライオネルは心得たように答えた。
「商人の隊商から預かったと聞きました。手紙ならば商人の手で渡った方が早く運ばれますから」
「あのオヤジ…」
あの狸オヤジはタージから受け取った郵便代金をそのまま懐に入れたのだ。
「たまたま貴族の屋敷に呼ばれた商人でしたから、きっと私が殿下の使いだと知ってもしやと思ったのでしょう」
国境まで部下を視察に寄越すような王子だ。商人としては少しでも関わりを持ちたかったのだろう。
「私のことよりも──ずいぶんと急いでおられたようですがどうかされたのですか?」
不思議そうに尋ねられてタージは「あっ」と声を上げる。のんびりと見せかけ騎士と遊んでいる場合ではなかった。
「これあなたの馬?」
これ、とタージに指さされた黒い軍馬の手綱を持ったままライオネルはうなずく。
「はい。私の馬ですが…」
「貸して!」
タージはライオネルの返事も聞かずに手綱をひったくる。
「え、ええ?」
おろおろとするライオネルをしりめに、タージは鐙に足をかけて軍馬に飛び乗った。
突然のことに不快感を露わに足を鳴らした馬だったが、タージは馬首を撫でる。
「ごめんなさい。でも子どもが危ないの。今だけ力を貸して」
タージには乗馬のことなどわからない。けれど、自然を相手にする魔女であるから動物にどう話しかければいいかはわかるのだ。
軍馬は主人に似てお人好しなのか、仕方ないなといった様子でおとなしくなる。
「行って!」
タージの呼びかけに、軍馬は大きく鼻息をこぼすと町中を走り出す。
「タージ殿!」
制止する主人を置いてきぼりにして。
▽▽▽
軍馬はすばらしく速かった。
タージが指示するとおりに街道を抜け、村を横切り、すぐにマルティの家へと戻ることができた。
立派な鞍までついた馬を借りてきたというタージに驚いたマルティだったが、さすがに腕のいい魔女らしくユリウスの処置は済ませてあった。今は眠りのまじないを施してベッドで寝かせてあるという。
「ユリウスを毛布でくるんでちょうだい。これから隣山のリーリンに診せてくる」
「リーリンに? それなら安心だけど…」
リーリンは治療が得意な腕のいい魔女だ。名前の知れた魔女に預けるのならばと安心したのだろうが、マルティは自分もついていきたいのだろう。
「ごめんなさい。馬車は借りられそうになかったの。それに馬で行かなければ間に合わない」
リーリンの家は山の中腹にあって、馬車ではなかなかたどり着けない。
「心配だろうけれど、ユリウスを預けてくれないかしら。マルティは村に残っていたほうがいいと思うの」
何かあったとしてもマルティならばひとりでも切り抜けられる。はっきり言ってしまえば、魔女の彼女に幼い子どもは足手まといなのだ。
「危ないと思ったらここを捨てて魔女組合を頼ればいいわ。私がリーリンの家から組合に連絡をとっておく。ユリウスのこともあるしね」
人間たちには隠しておけても、魔力を持つユリウスのことは魔女組合には報告しなければならない。
魔力はただ持っているだけでは危険なものだ。彼のこれからの将来について話し合いをしなければならないのだ。
マルティはしばらく考え込むように目を閉じて、やがてうなずいた。
「……お願い、タージ」
すっかり母親の顔になった先輩魔女にタージは強くうなずいた。
「任せて。絶対にあなたもユリウスも助けるわ」
マルティがユリウスをベッドから連れて出るまでタージは少し待つことにした。魔女として心を決めたとしても、母親として子どもと言葉を交わす時間は必要だ。
台所に残っていた薬草茶を勝手に飲んで、タージはふと不思議な気配を感じて外へ出た。
「馬がいない…!」
この森まで走ってきてくれた軍馬がいなくなっている。
待っていてくれと頼んでおいたはずなのに、この場を離れてしまったのか。
焦って姿を探して森を出ると、ぶるると静かな馬のいななきが聞こえた。
森と道の境目で軍馬の首を撫でていたのは、さっき町に置いてきたはずの美貌の騎士だった。
「どうしてここに……」
「この馬が生まれたときから私が世話をしています。どこへ行こうとも私の元に帰ってくるのですよ」
そう静かに答えたライオネルは、タージの前まで馬を連れてやってくるが怒った様子もない。
「タージ殿は何か火急の用がおありだったのでしょう?」
月明かりに照らされた微笑みはおだやかそのもので、タージのほうが少したじろいでしまう。
「用事はもうお済みになったのですか?」
ライオネルはまごうことなくこの軍馬の主人だが、馬の言葉を聞けるわけではないのだ。
「まだ少し貸してもらえないかしら。子どもの命に関わるの」
いつになく真摯なタージにライオネルは少し黙考してから、
「急ぐのでしたら、私が連れていきましょう。私が走らせたほうが速い」
タージは馬の言葉はわかるが、乗馬のことはわからない。それにライオネルはタージが魔女だと知っている。
「……私と七歳の男の子を乗せられる?」
馬に乗せられる重さもわからない。タージが疑り深く慎重に尋ねたが、ライオネルは「大丈夫です」とあっさり請け負った。
「今は馬も私も甲冑を身につけておりませんから。あなたと少年は羽根のように軽いことでしょう」
戦場へ赴くときは馬は全身鎧で覆い、ライオネルも甲冑をまとってさらには長いランスまで備えるという。
のんびりと笑う様子からすっかり忘れていたが、彼らは軍馬と騎士だったのだ。
馬と騎士を連れてタージが森に戻ると、マルティはびっくりして声を上げたがすぐに準備を始めてくれた。
ユリウスをタージが抱え、そのタージをライオネルが抱えて乗ることになった。
万が一でもユリウスが振り落とされないようにタージの体に紐を巻いていると、手伝っていたマルティがひそひそと訊ねてくる。
「いったいどういうことよ? どうしてあんな騎士さまとお知り合いに?」
あんな、とは当然あの美貌のことだろう。見せかけだろうとライオネルは見た目だけなら本当に上等なのだ。
今はマルティに持たされた毛布や薬草などを自分の荷物といっしょに馬に積んでいる。
「依頼人のひとりよ。たまたま近くの町にいらっしゃったんですって」
「まぁ! そんな偶然ある?」
マルティの目が無遠慮に輝く。魔女は人の恋路に首を突っ込むのが大好きだ。タージ自身ももれなく人の恋路は大好きだが、その気もないのにはやし立てられる側のうんざりした気持ちを今ようやく思い知る。
(これからはほどほどに見守ることにしよう)
妹魔女の恋路に必要以上に首を突っ込んだ延長がこの状況なのだ。
占い以外で他人の人生に向かって批評するのはただの噂話以上でも以下でもない。それを口酸っぱくタージに言って聞かせた今は亡き師の忠告が心にしみた。
「マルティ、騎士様は本当にただの依頼人なの。面倒な噂なんて流したら本当に怒るわよ」
「わかってるわよ。──私はあなたを信用してるもの」
そう言ってマルティはタージにしっかりと紐をくくりつけた。
「お願いね」
本当ならマルティは自分で行きたいはずだ。それでも、それではユリウスが手遅れになることを分かっているからタージに託してくれたのだ。その信頼を裏切りたくない。
タージはマルティに向かって深くうなずいた。
準備が整ったのを見計らってか、外にいたライオネルがタージを呼んだ。
ユリウスを抱えたマルティも連れて外へ出ると、ライオネルも馬もすっかり準備を整えていた。
「目的地までの地図などはありますか? 長い時間走らせるのなら、一度馬を休ませる必要があります」
長時間走らせては馬も人も疲れてしまう。休憩は絶対にとらなくてはならないとライオネルは常にない真剣なまなざしで言う。
「私の馬は普通の馬より丈夫で強い馬ですが、代わりの馬がいないので計画的に走る必要があるのです」
専門家のライオネルの意見は重要だ。
しかし魔女の住処をただびとのライオネルに気安く教えるわけにもいかない。
「……いいわ。道を教えるから少しかがんでちょうだい」
タージの提案に少し不思議そうな顔をしたが、ライオネルは素直に少しかがんだ。長身が揺れると肩口の銀髪がさらさらと落ちて、伏せた双眸には長いまつげで影ができる。
本当に見た目だけはたとえ額縁の中に入っても映えそうなすばらしく整った男だ。
「タージ殿?」
伏せていた瞳が少し見上げてタージを映す。澄んだ氷のような藍色の瞳が淡いランプの明かりを反射して瑠璃のようにも見えた。
この男は本当に自分の容姿に無頓着すぎる。
形の良い薄い唇がまた何か吐き出さないうちに、タージはライオネルの額を指先で突いた。
姫でも王女でもないタージに額をつつかれても、ライオネルは目を丸くするだけで怒りもしない。まったく呆れた騎士さまだ。
「今からあなたの頭の中に私が知っている道を教えるわ。だからあなたがいいと思う場所を休憩場所にしてちょうだい」
そう言うとタージはライオネルの額を再びトンとついた。ちょっとした刺激に驚いたのか目をつむった騎士は子どものようで少し可笑しくなる。
彼は今、タージが覚えている道をタージの目で見たままを見せられている。
初めての体験に驚いているのだろう。目をつむったままあわあわと慌てて、ライオネルはいちいちびくびくと驚いている。
「どう? 分かった?」
魔女の住処まですっかり見せると、ライオネルは深く息をついて身を起こした。
「…これが魔法というものなのですか…」
「私の記憶を少し見せただけよ。それで、どう?」
タージが急かすと、ライオネルは顎に長い指を置いて考えながら答えた。
「あなたの記憶の通りの道ならば、おそらくここから三時間はかかるでしょう。山越えの必要はありませんから危険はないでしょうが、やはり一度休んだほうがいい」
場所は問題ないとライオネルはすんなりと言う。
「三時間? そんなに早く着くの!?」
まっさきに声を上げたのはマルティだった。タージも驚いた。
「馬車で半日はかかる道よ。大丈夫なの?」
マルティの驚きを引き継いでタージが尋ねるが、ライオネルは「ええ」とうなずく。
「ただし私が走らせるのでかなり揺れます。酔いをおさえる薬を飲んでおいたほうがいいと思います」
いったいどれほどひどい揺れになるのか。ひねくれ者の自覚はあるが、タージは素直にマルティに酔い止めの薬を頼んだ。
マルティから薬を受け取って飲み、準備が整うとまず馬にはライオネルが飛び乗った。ほとんど体重を感じさせないほど軽やかに乗るので、一瞬見とれてしまったほどだ。
次に鐙に足をかけてタージが乗り、最後にマルティに眠ったままのユリウスを受け取る。紐でしっかりとタージにくくりつけて、抱え込む。さすがに赤ん坊ではないからタージには少し重いが、手綱を握ったライオネルの腕がユリウスごと彼女をしっかりと支えた。
見た目は細身に見えるくせに、さすがというべきかライオネルの体の安定感は抜群だった。
「どうか、よろしくお願いいたします」
馬上のライオネルにマルティが深く頭を下げた。
「お礼ならば魔女タージへ。私はタージ殿に恩義あって助力しているだけですので」
ライオネルはそう氷の騎士らしく冷たく言い放ったが、静かに言葉を続けた。
「あなたのお子さんも友であるタージ殿も、私がかならず無事送り届けましょう。ですから、お気を確かに」
なるほどこう言えるからこそ王国きっての人気となるわけだ。タージは馬首を巡らせたライオネルに少し感心した。
「タージも、お願いね!」
手を振るマルティに「ええ!」とタージも馬上で答えて、手を振った。
森の結界を出るととたんに空気は代わり、人間の世界の雑多な音で満ちていく。畑の真ん中を走る畦道は静かだが、人のいない森と違って集落の人間のざわめきがたゆたっている。
ランプはまだつけない。誰かに見咎められるからだ。
それに村の中で馬を疾走させるわけにもいかないので、ライオネルはゆっくりと馬を歩かせた。
並足で馬を歩ませながらライオネルは少し森を振り返る。
「……あっさりとしたものですね。息子を他人に預けてしまうというのに」
誰に対しても礼儀正しいライオネルにしては少しとげのある言い草だ。
それを意外に思ったが、タージはそれを訊ねることはしなかった。ライオネルだって人間なのだ。彼は完璧に近いほど容姿が整っているが、理想の答えを返すだけでの人形ではない。
「魔女は合理的なのよ」
タージの少しはずれた答えにライオネルが訝る気配がする。それにかまわずタージは続けた。
「もう魔女じゃないマルティでは、他の魔女を頼ることはできないの。人間の子どもを生んだから」
「……だから、あなたに預けた?」
納得のいかないことなのだろう。ライオネルの相づちの声が低い。
「棲み分けね。依頼することはできるけど、それじゃあ時間がかかりすぎる。だから私に預けることが合理的」
魔女ではない者が魔女に依頼をするには、まず魔女組合を通さなければならない。魔女組合を通じて依頼が選出され、最適な魔女を紹介されるのだ。だから、その最適な魔女が近くに住んでいるとは限らないし、適当な魔女が他の依頼を受けていて手があかない場合もある。
それに比べて魔女同士の助け合いならば誰でも相談に乗ることができるし、情報交換も盛んだ。
「……それでも、母親ならばついていこうとするものではないのですか?」
「この馬にもう一人乗れるの?」
タージの答えにライオネルはとうとう押し黙ってしまった。
そういうことなのだ。
「魔女にとって割り切りは大事なのよ。マルティは私を信じてくれた。私は命がけでこの子を送り届ける。それでいいの」
夜の鳥がどこかで鳴いている。森の奥から、森の友であるユリウスを見送っているのだろう。
人間に魔女のことが理解できるとは思わない。けれど、あまりに関係が遠くなっても困る。
黙り込んでしまったライオネルにもわかるようにタージは話を続ける。
「──諦めることも大切なのよ。私たち魔女の大半は女で、男はほとんどいない社会よ。でも人間は違う。だから私たちは助け合うの。そうしないと生きていけないから」
魔女の誰もが、この手綱を握る大きな手ほど膂力を持つのならば、ひとりで生きられるのかもしれない。それでもたったひとりで生きるのは大変だろう。
「……タージ殿も、女性として苦労されているのですか?」
まるで雨に打たれた犬のような声だ。タージは思わず笑いそうになって、止める。笑い事でもないからだ。
「魔女だけじゃないわ。誰でも生まれたときから危険と隣り合わせよ。美醜は関係ない」
ひどい雨に遭っても生きていくのが生き物というもので、そうしたものなのだ。
「……でも、そうね。女だからって侮られたり、危険な目に遭う確率は多いわね。魔女が夫を持たないのは、持てないこともあるからよ。望まないまま体を奪われて…」
手綱を握っていたはずの手がぎゅうと音を立てる。頑丈そうな手袋がなければ、あの長い指で彼は怪我をしていたかもしれない。
「これでも、あなたのことは信用しているのよ」
タージの言葉にこれほど怒りを寄せる騎士のことだ。堅物騎士がタージを傷つけないことはもう知っている。
そろそろ村の道も終わりだ。
街道に入ってからは馬を走らせてもらわなければならない。
振り返ろうとしたタージにばさりと何かがかけられる。大きな布のようだがわずかに温かい。ライオネルのコートだ。
彼はコートでタージとユリウスをくるむようにして自分の腕に囲った。
旅装の上着一枚となったライオネルは少し前のめりになって、タージを懐へ抱え込む。
タージの耳元にあたった薄い唇が静かにささやく。
「……あまり、私を信用なさらないでください」
ぱしんと手綱が鳴らされて、馬は走り出した。




