そして魔女は再び王子に恋をした。
森に訪れる春はとても面倒くさがりだ。
雪解けに始まり、新芽を芽吹かせたり、冬眠していた動物たちを起こしたり、ゆっくりゆっくりと、しかもまばらに春の足跡を残していく。
そして日差しの暖かさに騙されている間に、すっかりと様子を変えているのだ。
冬には雪で閉ざされたエレンの住む頑丈な家も雪解け水に巻き込まれてずぶ濡れになり、滑りそうなぬかるみのせいで庭は手がつけられなくなる。
エレンは庭の様子を見ながら冬に編みかけだったマフラーを今更ながら完成させていた。
少しでも土が乾けば春の薬草の手入れをしたかったが、晴れているものの薄く雲のかかった空では一日かけても目的を果たせそうにない。
毛糸を始末して編み棒を抜き取って広げてみると思ったよりもいい出来だ。―――これからの季節には必要ないとしても。
自己満足に飽きてマフラーもテーブルに放り出していると、コンコンと戸が鳴る。
「こんにちは。魔女殿」
うんざりするほど上品な若い男の声だ。
エレンは深い溜息をついて戸口へと向かった。
戸板向こうの人はエレンが居留守を使わないことを分かっているからかノックは最初の呼びかけだけで、大人しくしている。
きっと、目を背けたくなるようなきらきらしい笑顔で待っていることだろう。
薄曇りだった気分が暗い曇天になるのを感じながら、エレンはそれでもドアノブに手をかけ、戸を開く。
淡い日の光を反射する金髪の男は少し分厚いコートにタイという今日も完璧な装いで、戸が開くや否や戸口からエレンに手を差し出してきた。
「お迎えにあがりましたよ」
珍しく急かすような口ぶりに、エレンはそのまま戸を閉めてしまいたくなる。
「……本当に行かなくちゃ駄目なの?」
この期に及んでまだ尻ごみするエレンに、金髪の男は相変わらず大仰に嘆いた。
「ああ、魔女殿。思慮深いあなたの不安も分かりますが、事は一刻を争うのです。このところ気分が優れないとあれやこれやと試しているようなのですが、医師さえ匙を投げてしまう始末で、もう魔女殿におすがりするしか私は他に手立てを思いつきません」
大根役者も顔負けの長台詞を噛みもせず言ってのけるのだから大したものだ。
世間知らずのエレンでさえ信じられない嘘をつき通そうとするのだから心臓には毛が生えているに違いない。
このまま放っておいても、肌寒い玄関先で延々と小芝居を続けるのだろう。
迷惑この上ない。
「……分かったわよ! 適当な薬草見繕って行けばいいんでしょ! あなたのお母様とやらと御屋敷に!」
良心に負けたエレンが叫ぶと、神々しい外見を裏切る鉄の心臓を持つ男、カイはにっこりと微笑む。
「ありがとうございます。あなたの慈悲深さに感謝いたします」
冬のまどろみから起きたばかりの森を抜けて馬車に乗せられたところで、エレンはまたしても重要なことに気がついた。
(カイの母親ってことは、王妃さまなんじゃ…!?)
馬車の窓に張り付いてみたところで後の祭りである。
どの道、軽快に走りだした馬車と詐欺師も裸足で逃げ出すような王子から逃げられるはずもない。
エレンは半ば腹をくくって、自前のショールの端を握りしめた。
やはりローブを着てくるべきだった。
カイの口先三寸で今のエレンは少しまともなカーディガンとワンピースの普段着にショールを羽織っているだけなのだ。
「……ねぇ、やっぱり私がお会いしていいお方なの?」
言外にこんな格好でいいのかとカイを窺って見るが、彼の方はにこやかなものだ。
「そのようにかしこまらないでください。今の私は王子という身分ではありませんし、母も今は隠居して離宮住まいです。普段通りの魔女殿で十分魅力的ですよ」
魅力うんぬんは関係ないし、カイが王子でないにしても、エレンにとって貴族というだけで若干の萎縮は仕方ない。
けれど、現金なものでカイの柔らかな言葉でエレンは少しだけ気分が落ち着いた。
―――彼は今、王子ではない。
王位継承権を放棄したのだ。
それを聞かされたのは春の足音もまばらな頃。
まだ雪が残る森をかきわけてやってきたカイ本人だった。
継承権を放棄し、公爵位を賜ったと。
どんな理由であれ、第一王子が継承権を放棄するのは大変なことだろう。
しかし、カイはむしろ晴れ晴れとしたような顔で言ったものだ。
冬の前の嵐のような忙しさは、このためだったそうだ。
カイが王子であることを退いてしまう前に出来るだけの執務をやってしまったという。
どうにも胡散臭いことだが、これに関しては嘘ではないのだろう。
カイだけが城を辞す予定が、ヨセフやライオネル、セリーネといった今まで彼に仕えていた者たち全員まで城の職を辞して彼の元へついていくと決めたらしい。
ライオネルに泣きつかれそうになったと苦笑したカイは珍しく困った顔をしていたから。
「……どうかされましたか。魔女殿。随分楽しそうですね」
窓に向かって思い出し笑いをしていたエレンを見つけて不思議そうに言うものだから、エレンは持っていたかごを抱え直して澄まし顔を作った。
「あなたみたいな人にどうしてあんなに人望があるのかと思って不思議に思っただけよ」
険のある言葉だったというのに、カイは「ああ」と笑った。
「世の中には私にもよく分からないことがあるのですよ」
そう言ったカイは少しだけ照れているようだった。
つられて、エレンも少しだけ笑った。
やがて馬車が辿り着いた王妃の離宮は、郊外のカイの屋敷よりももっと山深い場所にあった。
その石造りの城は豪奢だったが、どこかくすんで美しさよりも峻嶮な山のようだ。
エレンとカイを出迎えたその人は、雪山のような城の主に相応しく北風のような厳しい眼差しがよく似合う貴婦人だった。老いてなお美しい金のくすんだ白髪を結い上げ、矯正器具をきちんとつけたドレス姿は雪山の女主人に相応しい荘厳な威厳を湛えている。
「このような山城によくいらしてくださいました。森の魔女殿」
静かだが聞く者を凍えさせる氷のような声でエレンに席を勧め、貴夫人は堂々と上座に腰かける。
……今更だが、とても病人には見えない。今回もまんまとカイに担がれたようだ。
「わたくしはそこの愚息の母、ネミルターユと申します。お名前を伺ってもよろしくて?」
穏やかな冬に尋ねられているようでエレンは椅子の上で背筋を伸ばした。
「森に住まう魔女、エレンでございます。本日はお目にかかることが出来て光栄にございます」
「もはや何の権力も持たない老婆にかしこまる必要はありません」
厳しい。
ようやく春になったというのに冬が舞い戻ってきたようだ。
助けを求めて冬の貴夫人の息子に視線を遣るが、彼は春のように微笑んだだけだった。役に立たない。
エレンは改めて腹に力を入れてネミルターユに向き合った。
「魔女は政治に関わらない決まりです。私はネミルターユ様にお会いできたことに喜びを感じたまでです」
「身分も立場も関係ないというのなら、年端もいかぬ小娘のあなたがわたくしに意見するというのですね」
ああ言えばこう言う。
ぐさぐさと言葉の氷柱を向けられては押し黙るしかない。
さすが口から生まれてきた貴公子を産んだ人である。
少し冷気に撫でられただけでエレンなどひとたまりもない。
「―――母上。今日は魔女殿をお連れせよとのことでしたが、どのような御用向きなのですか?」
どうやらカイも用向きは知らないらしい。
彼にはめられたと思っていたエレンは少しだけ肩すかしを食らった。
不思議そうな二人を見遣り、ネミルターユはにこりともせず言い放つ。
「あなたが常々、体に良いと言う魔女殿の薬草茶を飲んでみたくなったのです。お願いできますか」
あの不味い茶で氷点下の眼差しから逃れられるなら、安いものだ。
エレンは顔を強張らせながら頷いた。
主とは違いにこやかに使用人たちはエレンを台所まで案内してくれたので、手持ちの薬草で茶を煎じることにした。
魔女の業は珍しいのか、作業している間もエレンの様子を使用人たちが代わる代わる見物していく。監視の意味もあるのだろうが、これは何だあれはなんだと質問をされるので、すっかり不味い薬草茶のレシピを教えてしまった。かといって別に秘伝でも何でもない。大昔は普通に市井の人も飲んでいたらしいが、あまり美味しいものではないので自然と口伝もされなくなったようだ。ただ、体にはいい。
「なるほど。この味では人気がなくなるというものですね」
カイに仕えているヨセフと違い、にこにことした老執事は孫を見守る好々爺さながらエレンがついでに淹れた茶を飲んで笑った。
「私も家では蜂蜜を入れなくては飲めません」
「ほうほう。でしたら奥方さまにお出しする際には蜂蜜をつけてお出ししましょうか」
何となくだがあのネミルターユは蜂蜜を入れることはしないだろう。
息子であるカイがまったく蜂蜜に手をつけたことさえないから。
しかしエレンは口を挟まず老執事の提案に頷いておいた。
親子の関係にまで口を出すようなお節介ではないつもりだ。
こうして粛々と煎じた茶を山城の女主人へと献じてみると、しばらく無言で彼女は口をつけ、飲み干してから控えていた老執事に一言だけ付け足した。
「午後のお茶の時間に必ずこの薬草茶を煎じなさい」
どうやら気に入っていただけたらしい。
エレンがほっと胸をなでおろしていると隣で同じく様子を眺めていたカイがにっこりと微笑んでくる。やめてくれ。せっかくメイドが出してくれたお菓子を食べられなくなる。
そして案の定、雪山の女王は海千山千王子と同様に蜂蜜を入れなかったようだ。
しかし峻嶮な女主人はエレンとカイに席を勧めたあと、老執事がすかさず紅茶を差し出してくれたが、それきり大きな窓の外に広がる庭を眺めてぴたりと口を閉じられてしまった。
窓の外に広がるのは庭というには殺風景なものだ。春だというのに濃い緑の木々が続き、人工的な花壇は一切ない。木々の向こうに見える雲のかかる山は見事な三角錐で、ネミルターユを映すようだ。
「……あれは、氷の貴夫人と呼ばれる山ですよ」
山が喋ったのかと思ったが、氷のような視線を感じてエレンは慌ててネミルターユに向き直った。
「このミネル王国を外敵から守る山です。なのに将軍でも暴君でもなく、貴夫人と名付けるところがこの国らしいと思いませんか」
氷の貴夫人と呼ばれる所以は、その昔、山に阻まれて外国に住む恋人に会えない大貴族の娘がその山裾に山城を建てて帰りを待ったという話に由来する。結局、彼女は生涯嫁がず、この国境とも言える最果ての地を一人守り続けたという。
エレンには知識はあるが、ネミルターユが聞きたいのはそういうことではないように思われた。
「春のまどろみにも怯まず凛としていて美しい山ですね」
素直に感想を口にしてしまった。
気付いた時にはもう遅い。
女主人の冷たい視線がエレンに突き刺さる。ああ、やってしまった。
この地域はエレンの住む森よりも春の風が分かりにくい。
山の頂上には恐らくまだ雪がある。
しかし、氷の女王はそれきり何も言わず、完璧な所作で紅茶に口を付けただけだった。
この気まずいお茶会は結局、気まずくなったエレンが茶菓子を食べてしまうまで続き、味の分からなくなった甘いお菓子をすべて彼女が食べ終えてからカイがようやく暇を告げた。
やっと帰れるのかと小さく息をついたエレンに再び雪山の息吹が降りかかったのは完全に不意打ちだった。喉を詰まらせそうになった彼女にネミルターユは目を向け、次に今の今までほとんど空気のようにしか扱っていなかった自分の息子を見遣った。
「あなたには好きになさいと言いましたね」
「はい」
エレンには何の話か分からないことを尋ねられてカイはいつもように胡散臭い笑みのまま頷いた。
親子の会話に口を挟むわけにもいかないので黙って二人を眺めていると、雪山の貴夫人はとんでもないことを口にした。
「なぜ、この国を混乱に陥れようとは思わなかったのです?」
さしものカイも少しだけ目を丸くしたが、やがてのんびりと微笑んだ。
その様子に、ネミルターユが何と口元を緩めて微かに微笑んだではないか。
「わたくしも人並みに嫉妬する心があるのですよ」
凛々しくもあり、艶然とした貴夫人はカイの様子に満足したのか「また気が向けば来なさい」と追い払う。
「あなたもですよ。森の魔女、エレン」
目をむきそうになったエレンにネミルターユはいつもの無表情を取り戻していた。
「わたくしの話し相手をなさい」
そう言って、エレンはカイと共に屋敷を追い出されるように辞した。
帰り道にあれで良いのかとカイに問いただしたエレンに、彼はのんびりと笑っただけだった。
「あの人がまた来いという人は少ないのですよ。さすが魔女殿ですね」
褒められているのか体のいい世辞なのか分からず、エレンは唸ったまま黙り込んだ。
それから春が進むにつれ、喜ばしいことがあった。
ガンネットがやっとハンナに告白し、めでたく二人は結婚することになったのだ。
夏の始めに式を挙げると街に出てきたエレンに報告してくれ、エレンは我がことのように喜んだ。
エレンが初めて街へ薬を売りに来た時に、最初に声をかけてくれたのはハンナだ。老婆のように白髪の若い娘など気味悪いと思われて当然だったが、彼女が朗らかに話しかけてくれたおかげで石を投げられることもなく、魔女として人々に受け入れられた。
そしてエレンに最初に相談を持ちかけてきたのが、ガンネットだった。最初の相談事は、火傷に効く塗り薬が欲しいというものだったが、彼もエレンを見てくれで怖がらずに優しく接してくれたものだ。
式にはぜひ来てくれと言ってくれている。何か素晴らしい贈り物をしたい。
エレンは薬を作りながら贈り物について考えるのを楽しんだ。
ガンネットとハンナにはきっとこれから小さなことでも大きなことでも、悲しことも、苦しいこともあるかもしれない。
けれど、魔女ができるのはそれらを取り除くことではない。ほんの少しの手助けだけだ。
そのほんの小さなことが、幸せになることもある。
たとえば、好きな人が微笑んでくれるだけで。
―――冬の前にカイに正体を見破られて以来、エレンは師の占いのことを考えないようにしている。
感謝祭の時にはカイに指先へと口づけられてエレンがパニックを起こしたので結局、彼の真意を確かめることはできなかった。
あれから、エレンは会場に戻ってカイが止めるのも聞かずに酒を飲んでしまい、気付けば姉弟子に森の家で介抱されていたのだ。失態にもほどがある。
しかし、冬が明けるとカイはいつものようにエレンの元へとやってきて、相も変わらずくだらない雑談をしては帰っていく。
結局、オフィーリアとカイには接点がないようで、未だに二人の仲は進展しないままだ。
頼りになるはずの姉弟子のタージは感謝祭のあとすぐに発ってしまった。だから、アリンダの占いのことを相談できずじまいでいる。
最近では、あの冬の夜のことは夢だったのではないかと思う。
エレンの願望が見せた、幸せな夢。
夢を見るだけなら幸せなことはたくさんある。
たとえば、こうして離れて暮らしているのに、ふとしたことで相手を思い出すこと。
そしてそれが相手も同じく思い出していること。
それから居てもたってもいられず、ペンを放り出し書斎を飛び出して、会いたいと思うこと。
もしかしたら、そんな日はこんな穏やかな春の日かもしれない。
眠たがりの春は今では爛漫に咲き誇り、花をつけて木々の葉を温かい日差しで輝かせている。
きっと、森の道も青々と茂った新緑でいっぱいだろう。
やりかけのレース編みをテーブルに放って、エレンはつい窓の外を見つめた。
ガンネットとハンナへの贈りものにと編んでいるレース編みだ。
あまり大きなものは作れないので、コースターほどのものを作れるだけ作ろうと考えている。
鍋敷きに、コースターに、と使える大きさの違うものだ。
彼らの幸せを祈って魔法で紡いだ丈夫な糸を使っている。
喧嘩をしても、この鍋敷きを敷いてシチューでも出せば仲直りするだろう。
焦げて汚れたなら、それは彼らの幸せの証となる。
意匠はできるだけ派手過ぎず、かしこまらず、かといって品のいいものを。
魔女はこうして他人の幸せを祈って過ごす。
師であるアリンダもそうだった。
他人の幸せを自分の幸せと入れ替えて、喜びを得ていた。
奔放に見えるタージでさえも、この基本はしっかりと守っている。私利私欲で魔法を使うことは決してない。
そうであることが魔女であることの証明であるし、尊厳でもあった。
自分の幸せなど望むべくもないのだ。
だから、まだ新米のエレンは時々夢想することで、自分ではない他の誰かの人生を楽しんでいる。
そう、きっとこんな日に森を抜け出してみればいい。
夢の中ではエレンがカイに会いたいと思う時、彼も同じくエレンに会いたいと思い、森へやってくるだろうから。
―――いつもなら想像するだけのことが、今日だけは春の日和に騙されてみたくなった。
気がつけば、エレンは誘い出されるように外へと駆けだしていた。
魔女であるエレンが魔法の熱に浮かされるように、早く早くと森の道を走る。
小枝に髪が引っ掛かり、お気に入りのワンピースに葉っぱがぶら下がり、あまり運動をしない足には土が跳ねて埃だらけだ。
なんて馬鹿なことをしているのだろうか。
けれど、今日だけは自分の馬鹿馬鹿しい衝動に任せてみたかった。
これが夢ならば、森を抜ければ想う人が居るはずだ。
息を切らせて森を抜け、街へと続く街道へとエレンは飛び出した。
いつの間にか噴き出した汗を拭ってがくがくと笑う膝をかがんで押さえつけた。
(……居るはずもないわ)
山奥へと続くこの街道には滅多に人は通らない。
森を全速力で突っ切るような真似をしたところで、誰に見咎められる心配ないはずだった。
ぶるり。
近くで馬の息が聞こえる。
顔を上げるとそ馬の主が驚いたように目を丸くし、大股で走り寄ってきた。
「……なぜ、ここに居るのですか。魔女殿」
いつもの優雅なコート姿ではない。
きっと手近にあった適当なコートを掴んで羽織っただけなのだろう。
乗馬用でないコートがむやみに風に当てられたようで痛んでいる。
よほど焦ってきたのか、タイが歪んで白い肌には汗が浮いていた。
「……それはこっちの台詞だわ。公爵閣下」
エレンの不審顔に、カイは今にも泣きだしてしまいそうな顔で微笑む。
「―――今日はいい天気ですね」
「そうね」
「……曇一つない」
「そうかしら。霞んでいるだけよ」
エレンの返答にカイはとうとう押し黙り、無言で彼女を見下ろした。
「……何よ」
さすがに居心地が悪くなり、エレンが睨み上げるとカイはしばらく口を開いたり閉じたりして、ようやく言葉を口にする。
「……魔女殿は、どうしてここに?」
今度はエレンが押し黙る番だ。
言えるわけがない。
もしかしたらカイに会えるかもしれないという妄想だけで森を突っ切ってきてしまったなど。
運命がある以上どうにもならないことが分かり切っていても、エレンという人格を疑われるのは避けたい。
黙り込んだ彼女をじっと見つめていたカイだったが、やがて長い溜息をついた。
「―――私は、会いたいと思っただけです」
まさか、エレンの頭の中を覗いたのだろうか。
驚いたエレンがカイを見つめると、彼は瞳をぴたりと彼女に合わせた。
「ここへ来れば、会えるなどとは思っていませんでした。……こうして、あなたが森から飛び出してきてくれるなど、夢としか思えない」
そっとエレンの頬を長い指が滑り、汗を拭う。
会いたいと、ただそれだけで。
「……錯覚よ」
あるはずがない。
あってはならない。
「だって、あなたは私とは結ばれない運命なんだもの」
とうとう口にしてしまった。
だけど時間は戻らない。
頭が痛くてくらくらとする。
顔は熱くて、目はあけていられなかった。
そんなエレンを掴む腕がある。
彼女の体を抱き込んで、閉じ込めるように耳元で彼は囁いた。
「……私の運命をご存じなんですか?」
知っている。
嫌というほど繰り返した。
「それがあなたの幸せだから」
エレンではない人と暮らすことがカイの幸せだ。
それでも悲しく思うのは、エレンの心だけ。
会いたいと思っても、奇跡のようなこの日があっても。
「私に幸せになれると言ったのは、運命を知っていたからですか?」
「……違うわ」
人はそれぞれ幸せになれる鍵を持っている。
だから、
「どんな道にも幸せはあるのよ。無いと思っているなら見つけられないだけ。探せないなら、私が手伝ってあげるの」
それが、魔女というものだから。
小さな小さな粒のような奇跡を探す手伝いをする。
「……では、あなたの幸せはどこに?」
魔女の道には幸せはない。あるとすれば、それは全て他人の物だ。
「もしも探せないのなら、私がお手伝いしますよ。魔女殿」
魔法でもない、特別な日でもない。
そんな奇跡のような幸せが、あるのだろうか。
見上げたエレンに空色の瞳が微笑んだ。
「―――愛しています、エレン。私では、あなたの幸せになりませんか」
ああ、どうしよう。
気絶したい。
(……でも、きっと)
運命ではなくても、エレンは諦めなくてはならないのだろう。
「エレン」
彼の声が耳をくすぐり、エレンは微笑んだ。
優しく頬をかすめたのは唇だろうか。
甘く吐息が肌を滑り、やがてエレンの唇に辿り着く。
瞳を覗きこむと切れ長の双眸が綻ぶ。
「私の運命を変えてみませんか」
エレンは魔女であることを辞められない。
星の運行を読み、人々の運命を確実に読み取ることができるのだ。
それでもきっと、悪戯のようにどうしようもない心が降ってくる。
「……私があなたの運命を変えられるかしら?」
エレンは胸やけを起こしそうな甘い微笑みを見つめて、溜息をつく。
せめてこの無駄にきらきらしい容貌はどうにかならないものだろうか。
吸い込まれるように唇を寄せるカイを前に、エレンは目を閉じた。
この元王子がろくでもない性格であることは重々承知しているつもりだ。
それでもきっと、エレンは後悔しないだろう。
(仕方ない)
エレンは何度でもカイに恋をするのだろうから。
終幕




