王子は変わらず愛を囁き
他の季節は緩やかに過ぎるというのに、この国の冬は寒かった。
人を拒む山脈で堰き止められる冷たい雲は容赦なく国中を雪で埋めるのだ。
その雪で閉ざされる前に、感謝祭という行事が行われる。
他国では秋の収穫を祝うものだが、この国では秋の足が早いので人々が冬支度を整えた冬の始めに祭りを行う。
豊穣を願い、健康を願い、幸せを願い、国中の人々で一年の労をねぎらうのだ。
その言祝ぎは庶民から王侯貴族も関係なく駆け抜け、初雪のちらつく最中に城から街、地方の片田舎まで一斉に沸き上がる。
カイが彼女を初めて目にしたのは、そんな秋の最後の慌ただしい日だった。
その日は一足早い雪が降り、例年にない冷え込みでうっすらと初雪が積もった。
久しぶりに訪れた城でも街と同じく急な寒さのせいであちこちで暖炉が必要になったようで、せわしなく侍女や下男が薪を抱えて走り回っていた。
城勤めの文官たちも冬の前には事案が増えるため、いつもよりも早足で廊下を駆けずり回っている。
カイが約三ヶ月ぶりに呼び出されたのもそのためだ。
どうしてもっと早くに呼ばないのかと使いを怒鳴り、渋々登城した。
身辺警護にとついてきた従者を引き連れて仕事をするためだけの部屋に入ると、すでに数人の文官が書類を持って所在なさげにカイを出迎えてくる。
―――カイがまずやったことは、溜息をつくことだった。
城へ帰るではなく行くと口にするようになってすでに数年が経つ。
きっかけはもはや覚えていない。
元老院からの嫌がらせだったかもしれないし、貴族院からの締め出しだったかもしれない。騎士団に属する弟と比べられてのことだったかもしれないが、今となってはどうでもいいことだった。
生来面倒事が大嫌いなカイは自ら父王に申し出て城から住まいを郊外の屋敷に移した。
この国で生まれたものの、物心つくとすぐに他国へと留学したカイには、すでに城にはいささかも愛着がない。
父王もそれがわかっているようで、一部の貴族の反対を黙殺してカイの申し出を受け入れた。
そもそもからして、この父がカイを城に置いておきたくないのだ。
カイの母である正妃は非常に美しい女だったが、それはそれは気性の荒い人だ。
口にすることはすべて正しく、道徳的で貴婦人としては欠点がない。
その正しさが少しばかり優柔不断なところがある父には耐えがたいらしく、その母に似ているカイがそばに居ると彼女を思い出してしまうらしい。
そんな父が本当に愛したのは側妃である弟の母だった。
他国の王族の娘であるカイの母と違い、弟の母は地方貴族の娘であったが、心根の優しい彼女を父は心から愛した。
それは当然だった。彼女は落ち込む父にあなたはできる人だと常に励まし、贈り物には大げさなほど喜んだ。カイの母に正論を突きつけられているとあなたの言うことももっともだと言ってくれる。
優柔不断な父の十分な癒しとなるのは目にも明らかだ。
そんな父の様子を知っていた母であったが、彼女は相変わらず毅然としたもので、カイが留学から戻るとさっさと離宮に居を移し表舞台から去った。
普通の女ならば己のプライドを傷つけられたと怒り狂っても仕方のない状況だったが、母は離宮を訪ねていったカイに一つだけ言って聞かせた。
好きになさい。
何でもお見通しだった母がカイの非常に薄い愛国心を知らないはずがなかった。
それでも、王位継承権はまずカイにある。
日に日に弟とその母への溺愛を深めている父にはすでに愛想が尽きている。
カイがその気になれば、いつでもこの平和な国が混乱に陥るのは目に見えていた。
それでも、母はカイに好きにしろと言い捨てた。
老いてもなおピンと背筋を伸ばし、他者を威圧する眼光は生半可な騎士ならば震え上がるだろう。
その目でまっすぐと己の息子を見つめて静かに言った。
「あなたにはわたくしと陛下の血が流れているのです。それを忘れないのであれば、好きになさい」
父が母との離婚を言い出さない理由が少しだけわかった気がした。
どんなに正論ばかりで責められて苦しくとも、その苦しい解答を出すために努力しなければならないと奮起させられるのだ。
母の真意は分からないが、父はきっと母の明快な正論を捨てきれないのだと思った。
そうしてカイはほどなく城を出ることを決めた。
留学から戻って一年、18になった頃のことだった。
しかしすでに政務のほとんどに関わっていたカイが居なくては国が立ちゆかない。
すべて棄ててやるつもりで郊外の屋敷に移ったものの、細かい折衝のためにこうして時折城へ出向かなければならなかった。
そんな楽しくもない仕事を終えて帰る途中、庭を望む回廊を慌ただしい城の人間を横目にのんびりと歩いていて、その人を見つけた。
何事かをぶつぶつと呟きながら、庭の端でうずくまっていたのだ。
「いやだ、魔女が居るわ」
カイの目に届く範囲だが非礼にはならない程度離れた侍女たちがそんなことを言って顔をしかめていた。
代々王侯貴族の間でも魔女に時々薬などを頼むことは知っていた。今代の城勤めの医者も今の魔女とは懇意でよく薬をやりとりしているという。
しかし不気味な風体であるのは否めない。美しいことに目がない侍女や貴婦人たちの評判は良くないようだった。
なるほど草木で染めたような深い色のローブを着ている姿は物語に出てくる魔女そのものだ。
侍女たちのさえずりが遠のいて、うっすら積もった雪と回廊の端に立つカイと従者だけになると、魔女の呟きが切れ切れに聞こえてきた。
「どうして雪割り草をこんなところに植えたのかしら」
その声は、澄んだ水のような響きがした。
「あのヤブ医者、自分で薬草を育ててみるとか言って結局私に世話をさせるなんて。師匠が居たら怒鳴りつけてるところよ」
溜息をついているのだろう。彼女のフードを白い息が時折取り巻いては消えていく。
ローブから覗く白い指先が赤くなっているのも構わず、彼女は雪を掴んでは何かを埋めている。
「さぁ、これで邪魔されずに冬を越せるわよ。今日、私が来て良かったわね」
そう言って立ち上がり、ローブについた雪を払う。
彼女の足下を見やると、雪で無造作に小さな山が作られている。あれぐらいの山は、すぐまた降るであろう雪にすぐ埋もれてしまうと思われた。
どうやら、雪割り草とやらを雪で埋めていたらしい。
魔女はひと仕事終えたように息をついて空を見上げた。
その拍子のことだ。
彼女が頭から被っていたフードがゆっくりと滑り落ちた。
ふわりと冷えた空気に触れて流れ落ちたのは、
「……灰を被ったようですね」
どんよりと淀んだ曇り空を映しているからだろうか。
従者には色のないその髪がくすんで見えたのかもしれない。
「帰るぞ」
惚けたように魔女を見つめる従者に呼びかけて、カイはなるべく彼女から見えない廊下へと滑り込んだ。
寒さにかじかんだ自分の手が少しだけ震えているのは気のせいではなかった。
雪のようだった。
浅く雪が積もった庭に立った彼女の髪は、色を奪われたように真っ白だったのだ。
背中にゆっくりと流れていった長い髪を緩やかな三つ編みにしていて、まるで冬をそのまま編み込んだようだ。
顔は見ることができず、年も分からない。
しかし後ろ姿であることが惜しいほど、その立ち姿は美しかった。
きっと、触れれば冷たく、温めれば溶けて消えてしまうのだろう。
情緒など持ち合わせないカイにそんな幻想すら抱かせた。
「この世の者ではないような雰囲気の女でしたね。確かに魔女のようです。ぜひ顔を見てみたい」
よく口の回る従者は無言でいるカイの後ろをついて歩きながらそんなことを言って続ける。
「以前は年寄りの師匠と一緒に二人で城に来ていたようですね。あれ、でも今は一人だったな」
そうだ。半年ほど前には二人連れのローブを遠くから見たはずだ。
どうして今まで忘れていたのだろうか。
「エド」
カイはまだ何事か喋り続けている従者を振り返ると微笑んで言った。
「そんなに喋りたいのなら、あの魔女殿のことを調べてこい。調べきるまで帰らなくていい」
主の微笑みに真っ青になった従者を残して、カイは今年最後の城への呼び出しであることを願って自分の屋敷へと戻った。
―――雪が本格的に降る頃に帰ってきた口の軽い従者が集めてきた彼女のことはほんのわずかなことだけだった。
何年か前からか師匠と城に来ていたこと。
時々街へも訪れて薬を卸していること。
そして、半年ほど前に師匠を亡くしたということ。
彼女が孤児なのかどこからか引き取られたのかも分からない。
だが、魔女の師弟というものは親子ほど固く絆で結ばれると聞いている。
親も同然の師を亡くした彼女は、今やたった一人で森の奥深くにある家で暮らしているという。
無性に彼女に会いたくなった。
それは、同情からだったかもしれないし、あの美しい後ろ姿の彼女ともう一度会いたいだけだったかもしれない。
あの雪のような髪に触れたいと、そう浅ましく欲したからかもしれない。
何事も必要でなければ全て切り捨てているカイがどうしても捨てられない望みとなってそれは居座り続け、とうとう冬が明けた翌年の春に魔女の森へと足を向けた。
最初、何人かの騎士や従者がカイについてやってきた。
しかし森は深く、行けども行けども家など見つからず、夕暮れまで迷った末に結局、森の外へと弾き出されてしまった。
それから、カイは何度も森へと入り込んだ。
回数が増えると仕事にも差し支えるので次第にお付きは減ったが、もう一度あの魔女に会いたいというカイの望みは消えなかった。
とうとう無断で屋敷を抜け出しカイ一人で森に来るようになると、森に道があることを見つけた。
それは青青とした草木に隠されるように獣だけが通るような道だったが、確かに何者かが通る道だと、カイは確信した。
時間の許す限り通い続け、ある時ようやくどっしりとした石と木の魔女の家へと辿りついたのだった。
騙し討ちのように顔を合わせた彼女は、枯れ木のような老婆だった。
折れ曲がった腰、しわがれた声、枯れ枝のような腕。
あの雪のような姿は魔女の見せた幻だったのか。
だが、魔女と話すと彼女はたちまちボロを出した。
老婆の姿でありながら、時々彼女は娘のような目をするのだ。
カイが街の様子を話して聞かせると、恋愛劇の話に目を輝かせ、特に甘い物には目がないようで喜んで聞いてくれる。
しかし初めのうちは楽しんでいたはずの彼女も、次第に自分では味わえない街の様子に寂しそうな顔をするようになっていった。
魔女である彼女はその生活のほとんどを森深くの家や周囲の森で過ごしている。
そうすることが魔女の生き方であって、そうして古くから森を守ってきたのだという。
だから森の外へと出るのは月に一度か二度のこと。それも薬を届けて回るだけなので立ち寄れる場所は限られている。
まだ若い娘であるはずの彼女に、カイが聞かせる街の様子は酷なことだったのだ。
だが、カイ自身のこととなると、それほど話題があるわけでもない。
時折、街へと出かけるものの、カイの日常は政務に忙殺されている。地方へ出かける用事はほとんどが部下のやることで、カイ自身が行ったところで事務的な視察で終わるだけで彼女に聞かせられる土産話の一つ無いのだ。
カイの生い立ちなど田舎で犬が走り回っていたほどにも面白くもないことだ。
だから、彼女が呆れているのも承知でカイはくだらない日常のことをを話した。
従者のエドがおしゃべりで困ること。
庭に鴨の親子がやってきたこと。
紙が湿って書きにくいので部下に乾かせていたら書類を燃やしてしまったこと。
こんなくだらないことでも、彼女は静かに聞いてくれた。
そして、しわがれてはいるがあの澄んだ水のような声で律儀に応えてくれるのだ。
彼女は、実に真面目な人だった。
カイの嘘八百に怒り、贈り物に驚いて呆れた。
水が静かに染み込むような優しい声をもっと聞いていたくてカイの屋敷にあれこれと言って誘ってみたが、ことごとく断られてしまう。
同じ屋根の下に居れば、もう一度あの雪のような姿が見られるかもしれないという、カイの下心を見抜かれていたのかもしれない。
それから、彼女は優しい人だった。
くだらないことを喋っては長居するカイを叩き出そうとすればいくらでも追い出せるというのに、それをしようとはしない。
そうして時々、水のような声で言ってくれるのだ。
「大丈夫。あなたは幸せになるよ」
魔女は人々を導く者。それが王侯貴族であっても変わらないのだと言って、優しく微笑む。
その微笑みと共にもたらされる優しい言葉がどれほどカイを救ったか、彼女は知らないだろう。
―――きっと、本当の名前も顔も知らない魔女に恋していた。
会えなければ一日が実にくだらなく、しかしその一日のことを彼女に話すと幸せになれた。
週に一度の訪れが待ち遠しくてたまらず、彼女と過ごす日々が雪のように降り積もった。
触れれば溶けて消えるような、彼女との時間を少しでも長く続けるために、カイは自制を続けた。
不用意に彼女に触れない。
詮索しない。
その項目に、決して本心を見せないというものが加わったのはそう日の経たないうちだった。
気を抜けば、彼女を押さえつけてでもあの姿をもう一度見たいという欲望が鎌首を垂れてくる。
彼女との時間は幸福な時間でもあったが、抑えがたい欲望との拷問に苛まれる時でもあった。
―――その甘い苦痛から、ついに解き放たれてしまったのはつい先日のこと。
魔女の彼女と出会ったことで落ち着きを見せてきたカイに婚約者という更なる首輪をつけようと父が用意した舞踏会でのことだった。
靴を落とした一人の娘に出会ったのだ。
靴を落とすという行為は非常にはしたない行為だ。しかし、彼女は足を痛めたらしく、会場の隅で困り果てていた。
さすがに見捨ててはおけず、カイ一人の胸に納めておくつもりで彼女に声をかけると、彼女はカイの顔を見た途端に靴を放り出して逃げ出してしまったのだ。
困ったのはカイの方だ。
自分でもあまり多くはないと自覚している良心から靴を拾ったというのに、当の持ち主である娘の方が逃げ出してしまったのだ。
追いかけようにも人の目があり、返そうにも娘のことをカイは知らなかった。
「おや」
先ほどまで勝手に舞踏会を楽しんでいた従者がカイを見つけて声を上げた。
そしてその手元を見てまた目を丸くする。
「どうしたんですか、それ」
「拾った」
「はぁ?」
エドでなくともそういう反応が正しいだろう。普段のカイであったならくだらないとその場で一瞥して終わりだ。
「珍しい靴ですね。ガラスですか?」
透き通る小さな靴はガラスだ。しかしガラスように丈夫でありながら靴として履きやすい柔らかさを持っている。不思議な靴だった。
「持ち主を探せ」
「まさかとは思いますが、持ち主のご令嬢に興味がおありで?」
下世話な従者をひと睨みしてその場から追い払うと、カイは再び靴に視線を落とした。
この靴からは、水の匂いがする。
そして人肌の温かさも感じる。
まるで、涙のように。
ほどなく従者は仕事をこなしてカイに靴の持ち主を告げてきた。
靴の持ち主は、貴族院での有力者の一人であるバーレー卿の一人娘、オフィーリア。
直感で、この娘だと思った。
カイがこの先、結婚させられる娘だと。
婚約者候補には何人かの候補がある。
国内外の王族から高位の貴族に至るありとあらゆる娘たちが集めれているが、カイと同時に彼女たちは弟にもあてがわれた娘たちだった。
父王は、早く結婚した者を次期王に推薦するつもりなのだ。
娘たちの方もそれが分かっているようで、カイに会いに来る娘はわずかだ。
カイに王の関心がないことなどすでに周知の事実なのだ。王位を継ぐ可能性が低い王子に嫁ごうという物好きは少ない。それでも会いに来る娘たちは自国では比較的身分の低い娘たちだ。王族であっても母親の身分が低いとおとしめられている娘であったり、変わり者と評判で無理矢理見合いをさせられている娘、容姿だけは抜群だがとにかく楽して王族の暮らしを維持したい娘。
会えばうんざりするほど退屈で時間を無駄にしてしまうが、父王の薦める娘とあっては会わないわけにもいかない。
如才なく立ち回って早々にお帰り願うのが今のところ一番の上策だった。
だが、これを続けていれば、ほどなく弟の方が先に結婚するのは分かっていた。
一見頑固者のように見える弟が、実は自分の母親や王に弱いことを知っている。
だから彼らの強い薦めに遭えば、弟がほどなく結婚するのは手に取るように見越せた。
そもそもカイには王位への野心がない。
それは生まれた時から継承権はあって当然であったからかもしれないし、やはり国を守ろうという気概も意志もないからだ。
そんなカイにどんな運命が待っているかなど、少しでも事情を知っている者なら誰にでも分かりそうなことだった。
まず王位継承権の順位を下げられ、公爵の位に落ち着く。
そして、最近口うるさくなっている貴族院の有力者の娘と結婚させ、カイに文官として貴族院を喉元から抑えさせるのだ。
首を押さえつければ、体がいくら暴れたとしても少しの労力で大人しくさせることができる。
その結婚相手として無難だと思われるのが、貴族院で力を持ちながら中立の姿勢を保っているバーレー卿だ。
彼は古くから王族に仕える家柄で、彼自身も王家大事の考え方の持ち主だ。
オフィーリアという娘自身も最近ようやく社交デビューしたばかりの娘らしいが、エドいわく可憐な花のような美しい娘だ。
カイ自身も靴を落としていった時はとんだ非常識な娘だと思ったが、彼女の屋敷に見舞った時には実によく教育された淑女だと感心した。
常に男を立て、出過ぎずそれでいて花のように美しい。
きっと男の誰もが彼女を隣に置きたいと願うだろう。
裸足で逃げ出すような少しばかりお転婆だとしても、それが可愛いと思える男もいることだろう。
けれどカイが欲しい娘は、そんな娘ではない。
カイの言うことなどちっとも聞きもしないし、憎まれ口は可愛げもない。
本当の顔も知らない、名前も知らない。
だが、澄んだ水のような声と、雪のような髪であることは知っている。
あの、森の奥深くで暮らす魔女の娘が欲しいのだ。
(申し訳ありません。魔女殿)
カイの中で巣食っていた欲望という名の猛獣が苦痛の鎖をすでに食い破ってしまった。
もう彼女との優しい時間には戻れない。
走り出してしまったら止まらないのが、欲望というものなのだから。




