12月25日
12月25日 予兆
「お待たせしました。ブレンドです」
「えぇ、ありがとう」
お世辞にも広いとは言えなくて、かつ木造でアンティークさを醸し出している、ちょっと古臭い喫茶店。僕はここ、白石一番、と、呼ばれる店が好きだった。
「はぁ、鬱になるわ……」
コーヒーを飲む姿がとても様になっているスーツ姿の彼女は、葵さんという人で、白石一番の常連客だ。僕もここで働き始めて何年か経つので、今では顔見知りだ。しかし、親しき仲にも礼儀あり。年上であり、客である葵さんには一線を引いた付き合い方が重要だ。
「たしか、去年もそんなこと言ってましたね。今年も仕事、なんですね」
「やめて、それ以上何も言わないで。せめてここにいるときぐらいは、仕事のことは忘れたいわ……ふぅ」
「大分お疲れですね……」
今日は、12月25日。俗に言うクリスマスだ。それが理由なのか、元々人があまり入らないのか。僕の口からは決して言えないが、今、店内にいるお客は、葵さんだけだ。
「はぁ、どこかにいい男いないかしらぁ」
「マスター! 呼ばれてますよ!」
彼女の軽口を、華麗に受け流す。彼女のからかいは、マスターこと、店長の鉄平さんに振れば何とかなることも学習済みだ。
僕は、彼のことを店ではマスター、別の場所では親しみを込めてテツさんと呼んでいた。テツさんは、客をいないことをいいことに、テーブルに足を乗せて、バイクの雑誌を読みふけっていた。
「なんで俺に振る! つぅか、男探したきゃまずは仕事を辞めろ。辞めちまえ」
乱暴な口調で葵さんに話す。彼は、見た目が少し派手で、葵さんとは正反対ともいえる身なりをしているが、古くからの知り合いらしい。
「それは無理。私の信念は、仕事と恋愛を両立! そんなかっこいい女になりたいの!」
「無理だろ。葵の仕事はろくに休みねぇし……そうだな。お前に合う男は、家で家事をするような主夫がいいんじゃねぇか?」
テツさんは、面白半分にそんなことを言う。それをなんとなく眺めていたが、そうはさせてはもらえない。
「あら、だったら空くんとかいいんじゃないのぉ? 料理だってできるし、誰かさんと違って優しくて気もきくし」
「お前なぁ……いくつ離れてると思ってんだ? 八つだぞ、八つ!!」
「そうですよ」
「今のはちょっと傷ついたわ……」
「たしかに今のはひどいぞ、空」
「冗談ですよ」
僕はカウンターに戻り、流しにある食器を洗う。ここで働いてる人間は、僕とテツさんだけだ。僕がいるときは大抵のことは任せられるようになった。なんて聞こえのいい話ではなく、押しつけられるようになった。もちろん大変だが、それなりに給料も良い。
洗いものをしていると、2人の会話が耳に入ってきた。
「ねぇ……なんか、今年は違うわね」
「そうだな……実は俺もそう思ってた。去年なんか顔面蒼白だったのにな」
「そうそう」
正直触れたくない話題だ。この二人はわざと僕に聞こえるような声で言ってるんじゃないかと思ったが、そんなことをするような人ではないことを知っている。
「正直、昨日は寝てないです。でも――」
一昨年のあの日、僕は帰り道でテツさんに出会った。この人たちには感謝しているところもある。だから、
「そろそろ……忘れようと思ったんです。なにせ、もう三年ですから」
宣言する。2人からもらった恩に対して、決意で応える。
「――新しく、恋をするのもありかなぁ」
僕の言葉に、葵さんは驚いた表情を浮かべてなにも言わない。だけど、テツさんは、
「それもありだな」
と、後押しをしてくれた。
葵さんが仕事に戻った後、あいつの親友であり、僕の友達でもある奴が来た。
「いらしゃっいま――って、カナか」
「せっかく遊びに来たのにその態度? テツさぁん、空の奴鍛えなおしてやってください」
「まぁ、いいじゃねぇか。知らねぇ仲じゃねぇんだから」
テツさんは、相変わらず客席の机に足を乗っけたまま、今度は週刊誌を見ていた。その様子をカナは、あきれたような、軽蔑したような目で見た。
「はぁ……ブレンド」
「カシコマリマシタ」
盛大なため息をついた後、諦めたようにカウンターの前の席に腰を下ろした。
僕はコーヒーを淹れながら、軽微な疑問を感じていた。カナは、今日という日を共に過ごす恋人がいるからだ。
「はい、ブレンド一丁!」
「…………ずずっ」
彼女とはもう、三年以上の付き合いになる。僕の友人関係を考えると、1、2番を争う仲の良さなのかもしれない。もちろん、1、2位を争っているのは、カナの彼氏でもある翔太だが、友達と呼べる人物が二人しかいないのは内緒だ。
それはさておき、無言でコーヒーをすする彼女に問いかけることにした。
「翔太と別れたのか?」
「いきなりそれ!?」
「ぶはっ。さすが、俺の弟子だ」
テツさんは、カナと対照的に満足そうに頷いていた。どうやら、カナの反応を見る限り最悪の事態ではないらしい。
「残念ながら別れてません! たださぁ……」
「ただ?」
カナはそのまま崩れるように机に顔を伏せた。なんというか、気だるそうな雰囲気だ。
「なんていうか、倦怠期? とでも言えばいいのかなぁ。別に好きじゃなくなったっていうんじゃないけど」
一息ついて、そのまま続ける。
「このままでいいのかなぁ、って」
「ふぅん」
僕の感想は、一言で言えば、ごちそうさま、だ。僕とテツさんは同じことを考えていたのだろう。だから、僕はテツさんにパスを出した。
「マスター、どう思います?」
テツさんは苦笑を浮かべて言った。
「どうって……あれだろ、あれ」
「そうですよねぇ……あれですね、あれ」
僕たちが意思疎通を交わしているのに、カナは不満に感じているのか、僕に食いついてきた。
「ちょっと! なんなのあれって!」
言っている当事者は分からないのだろう。いわゆるノロケだ。当事者たちは大概気付かないのだが、聞いている身からすれば一目瞭然だ。
第一に倦怠期といいつつも、翔太とのことを考えている時点でどうだろうか。それに、嫌になったという様子は感じられない。ただ少し、気分転換をしたいだけなのだろう。
「アレダヨ、アレ……ねぇ、マスター」
「あぁ、あれだよ、あれ……まぁ、加奈子ちゃんにはわからねぇかもな。独り身にしか」
「もういい……死ね」
カナが小声で毒を吐いていた。僕はそのまま聞こえないふりをし、わざとらしく鼻歌を歌いながら、食器を磨く作業に移行した。
「空?」
「ん?」
「なんか元気そうだね」
カナの方を見ると、悲しいような嬉しいような、そんな表情をしていた。最初は、さっきの仕返しをしたのかと思ってた。
「まぁ、な。俺もこのままで良いって思わなくてさ……だから」
そうではないらしい。その証拠に、僕の目をしっかり直視している。
もしかしたら、今日喫茶店に姿を現したのは、僕のことを心配してなのかもしれない。親友であったあいつの代わりに。そう考えると、さっきからかったことに罪悪感を覚えた。
「…………」
その罪滅ぼしに、もう心配をかけないようにしたい。
「カナと翔太と出会って三年。あいつがいなくなって三年」
「うん」
「そろそろ、心の整理がつきそうだ」
「そっか」
「あぁ。でも、いいかげん遅すぎるよなぁ。ここまで来るのに三年……か」
「そ、んなことないと思……う。きっと、私の親友も嬉しく思ってる」
「そうかな?」
「うん、そうだよ」
「そうか……」
カナの表情は少しぎこちなかったけど柔らかくて……暖かいと思った。前から、よくできた女だと思っていた。ほんの少しだけ、翔太が羨ましくなった。
「まぁ、そういうことで心機一転、新しく恋をするのもあり……かな、と。どう思う?」
しかし、その表情は、僕の一言で凍りついた。
「えっ、空が……こ、い?」
そんな言葉が聞こえたが、それを打ち消すかのようにドアが開いた。そちらに目を向けると、
「お兄ちゃぁん! 愛しの心菜がやってきたよぉ!!」
長い髪を左右で結えている僕の妹――心菜と、
「こんにちわです」
妹の友達――相坂さんが姿を現した。
僕は、カナが狼狽している理由を尋ねたかったが、目を向けるといつもの表情に戻っていたので、気がかりになりつつもひとまず二人に声をかけた。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
と、何の捻りもないマニュアル通りの接客をした。本当なら、妹をなじってやろうかと思ったが、昨日のこともあってそうはしなかった。たまには家族サービスをするのもいいのかもしれない。
二人は、カナとの席を一つ空けて、カウンターの前に二人並んで座った。実は、カナと妹はあまり仲はよくない。その証拠に、
「空、もう一杯頂戴」
「あ……あぁ」
あれ、いつもなら二人が店に滞在することなんかないのに。
僕は若干の不安を覚えながらも、客であるカナに逆らえるはずはなく、コーヒーを差し出した。
「……ずずっ」
まぁいい、放っておこう。本当は、テツさんにも手伝ってほしいのだが……
「ちらっ」
「ちゃんと仕事しろよ」
という有様だ。
気を取り直して、二人に向きなおした。
「さて、二人ともどうする?」
店員としては馴れ馴れしいかもしれないが、前に敬語で接客したら2人から批判を受けたので、僕は普通に話しかけた。しかし、さすが我が妹、というところだろう。相変わらず、頭がおかしかった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん一丁っ!!」
薬でもやってるんじゃないかと思ったが、一丁と付けるあたり、僕と同じ血を受け継いでいるのだと感じられてしまう。普通の人なら引くが、相坂さんは妹と付き合いが長いのだろう、そんな様子どころか反応すらしない。かなりのスルースキルを所有しているのだ。
「レモンティーでお願いします」
相坂さんは、妹と打って変って落ち着いた表情を見せる。二人は体系が同じような感じで、少し幼さを感じられるが、態度は180度違う。きちんと僕に敬語を使ってくるところが、偉いと思う。
「了解、レモンティー一つ入ります」
「お兄ちゃぁん……」
「はぁ」
ちゃんとメニューを言え!
とでも言えばいいのだろうか、だけど僕は、妹には基本的には甘い。
「わかってるって」
「えへへぇ、さすがお兄ちゃん」
そんな妹のだらしない笑顔を見ると、つい頬が緩んでしまう。
「シスコン」
「さすが俺の弟子。ストライクゾーンが広いことには文句はないが……シスコンに育てた覚えはねぇ、自己責任だぞ」
「俺はシスコンじゃない」
そのせいか、カナとテツさんから非難を浴びてしまった。
「はい、どうぞ」
「やっほぃ、ミルクティーだ」
「ありがとです」
相坂さんにはコーヒーを、妹にはミルクティーを出した。だけどそれだけではない。
「二人にはおまけをね」
二人にパンプキンケーキを出した。これは、午前中に暇で作っていた物だ。
この店には、たまに日替わりケーキというメニューが存在して、それを僕が作っている。昨日、妹が作ったチーズケーキが美味しかったので、家にあったかぼちゃを持ってきて作ったのだった。今日、妹が来る予感もしていた。
「美味しそう! だから、お兄ちゃん大好きなんだよぉ!」
「はいはい」
手放しで喜ぶ妹とは別に、相坂さんは戸惑っているようだ。
「あの、私もいいんですか?」
「あぁ、いつも妹が世話になってるからさ。気にしないで食べてよ」
「そうですか……じゃあ遠慮なく」
だから、適当に理由を付けてやる。彼女が人からの好意を、素直に受け取れない人間だってことは分かっていたから。
「んまぁぁぁい!」
「うん、美味しいです」
「ははっ、よかったよ」
自分が作ったものを褒められることはとても喜ばしいことだと思う。そういえばあいつもよく、そんなことを言っていた気がする。
トン、トン、トンと、テーブルを叩く音が横から聞こえる。横に顔を向けると、
「私にはまだぁ?」
と言って、不機嫌な面を浮かべたカナがいた。
正直、まだいたのか、という感じだった。
今は、妹とその大事な友達と話しているんだ、邪魔をしないでくれ。というか、翔太はどうしたんだよ。
「250円」
「テツさぁん、テツさんのとこの店員が職権乱用してますよ」
「いちいち俺に振らない。それに、それは空の自前だから俺の管轄外だ。今回は売り物として提供されたわけでもねぇしな」
「そらぁ……」
そんな甘い声を出しても無駄だ。妹たちがもう三切れ食べたいと言ったらどうすると言うんだ、あぁ?
「250えぇん」
「……もういい」
だけど、妹たちの方を見ると、相坂さんは俺に冷たい視線を、対して妹は、
「美味しいなぁ、ちらっ」
優越感に浸っていた。
これはいけない。
と、思った。なのでしょうがなく、苦渋の選択を強いられた気分で、カナにケーキを差し出した。
「コーヒー二杯頼んだし、サービスな」
「そらぁ」
でも、嬉しそうな彼女の表情を見ると、素直に嬉しくなる自分もいた。
「うまぁ……ちらっ」
「……ちっ」
気付くと、カナが心菜に挑戦的な目をしていた。本当にこいつらは仲が悪いのだ。原因はいまいちわからないが、少しは仲良くしてほしいと思う。なんにせよ、事態の収拾のために、僕はカウンターの下に手を伸ばして、メールを送った。
そんな僕たちの様子を、雑誌を見ているふりをしながら、面白そうにのぞき見ていたテツさんがカウンターに戻ってきた。そして、戻ってくるなり、火に油を注ぐことになった。
「あれ? 心菜ちゃん、そのネックレスどうした?」
僕は内心で舌打ちをした。
「気づいちゃいました? えへへぇ、ぐへっへっへぇ」
と、狂ったような反応を見せる妹。さすがは超がつくほどの変人だ。これには相坂さんも嫌悪の表情を見せた。
「……気持ち悪いです」
「空、あんたの妹なんだから何とかして」
「無理っす」
しかし、さすがテツさん。そんな狂った態度にも冷静だ。
「もしかして彼氏かぁ? やるな、心菜ちゃん。しかもそれ…………たしか見たことあるけど、五万はしたはずだぞぉ。くぅぅ、いい彼氏を持ったなぁ」
僕にはわかる。僕にはわかっている。テツさんはこの状況を絶対楽しんでいる。僕があげたと知っていて、この態度を取る。しかも、五万というのも本当だし。
僕をシスコン呼ばわりする気満々だ。要は暇だからからかいたいのだろう。
「へぇ、五万もするんだぁ。えへへっ」
そうして、僕の方をちらっと見てから、顔を赤くして笑う妹。
かわいい……。
じゃなくて、これではばればれだ。
「はぁ……」
まぁいいか、別に。よくあることだ。
テツさんはにやにやしながら僕を見て、元々事情を知っているであろう相坂さんは、心菜が喜んでることに友達想いの表情を浮かべ、カナは僕のことをシスコンと言ってからかう……というのが、僕が妹に何かしてあげた時のパターンだった。
だけど、今日はいつもと違った、いいや、明らかに違いすぎた。
「誰からもらったの?」
カナは、もうばればれのはずの答えを本人に求める。
その言葉と彼女の表情には、何か……何か。何かはわからないが、嫌な予感。いや、僕は感じていた。
きっと、予兆を。
「おに――」
「呼ばれて飛び出て……俺、参上!!」
妹の声は、ドアを勢いよく開ける音と、僕が呼び出した男によってかき消された。
「古池さん、今日はどこかおかしくありませんでしたか?」
少し様子がおかしかったカナを、彼氏である翔太に任せて、帰ってもらった。翔太が来たところでどうにもならないかもしれないと思っていたけど、意外と素直に帰って行った。でも、
「また明日」
と、僕に向かって言われたのは、あまり良い気分とはいえない。おかげで、翔太が一瞬だけど、僕を睨めつけていた気がした。一体なんだと言うんだ。
「そうだったかなぁ? 古池加奈子なんてどうでもいいし。お兄ちゃんはどう思ったぁ?」
まさか、心菜に嫉妬……?
「お兄ちゃぁん……」
いやいや、彼氏もいるあいつがなぜ心菜に嫉妬するんだよ。自意識過剰だろ、どう考えても。
「お兄ちゃん!!」
急に妹に呼びかけられた。
「んっ?」
「もう、何回も呼んだんだよっ!」
何回も呼ばれていたらしい、まったく気付かなかった。僕は考えを一時中断することにした。
「で、どうしたんだ?」
僕が尋ねると、妹の代わりに相坂さんが口を開いた。
「いえ、古池さんの様子が少しおかしかった気がして……」
「…………」
僕の目からだけ、といわけではないわけか。
「心菜はどう思った?」
「あたしはそうは思わなかったよっ、相変わらず憎たらしかったけどね」
年上に対するその発言はどうだろうかと、僕は思った。だけど、今はそれは置いておくことにして、
「…………」
なんて答えようかと思った。ここで、相坂さんに同意するのはいいけど……少なくとも僕には、その理由は思いつかない。
だから、今日は虫の居所が悪かったのだと勝手に結論付けた。あいつは昔からそうだったはず。気丈で、気分屋で、欲が強くて……心菜とはまた違った、変わった奴なんだ。
「多分、俺がいじめすぎたんだよ。反省してる」
胸のもやもやを打ち消して、そう答えた。
白石一番の閉店時間は、午後8時だ。僕はちょっと疲れていた。
実は妹たちが帰ったあと、この店にしては客が多く来た。もちろん、カップルが多かったのは言うまでもない。
「ほら」
僕が片づけを終えて、椅子に座っていると、テツさんがコーヒーを淹れてくれた。テツさんが淹れたオリジナルだ。このコーヒーは、テツさんの気が向いたときしか飲めなくて、とても美味しい。これを飲む時は、テツさんがここの店長であることが想い出される。
「ありがとうございます」
仕事後の一杯とでもいえばいいのだろうか、二人でコーヒーをすする。すると、テツさんが話を切り出した。
「なんか、今日の加奈子ちゃんおかしかったよなぁ」
「そうですか?」
僕がそう返すと、軽く舌打ちをして、煙草を吸い始めた。
「空、お前がごまかしてることぐらいお見通しだぞ? お前らなんかあったんじゃねぇか?」
「…………」
僕は、本当にその理由がわからなかったので、黙るしかなかった。
「まぁ……確かに、俺がお前らの問題に口を出すのはおかしいかもしれねぇ。でもな、俺は何も知らないわけじゃねぇ。だからつい、口出しちまうんだよ」
そう言ってソッポを向き煙草を吸い始めた。多分、テツさんなりの気遣いなんだろう……この積極的な気遣いに僕は救われた。
あの日、僕に対して踏み込んでくれるやさしさを見せた。そうして今は、僕に対して起ころうとしていることから、踏み込んで守ろうとしてくれている。ガラは悪いけど、人は良くて最終的には損をしてしまうタイプ。出会ってすぐは、心の中で馬鹿にしていた。でも今は、尊敬している唯一の大人。
そんな彼だからこそ、僕は正直なところを話してみた。
「わからないんですよ。確かに今日のカナは、おかしかったと思います。でもその理由もわからないですし、カナは気分屋のところもありますから……だから、おかしいと言われても手放しで肯定はできなかったんです」
「そうかぁ、付き合いの長い空でもわかんねぇのか……」
白い煙が吐き出される。テツさんの顔を見ると、何か迷っているような陰りの射した表情をしているような気がした。
「空のこと好きなんじゃねぇのか……?」
「ぶっ――ごほっ、ごほっ、げほっ!」
「おい、大丈夫か?」
「は、はい……ごほっ」
突然の爆弾投下に、僕の体に破片が突き刺さったらしい。
「ごほっ――そんなわけないじゃないですか!!」
「そうか? 俺は前々から、あいつの空を見る目が少し怪しいんじゃねぇかと思ってたんだよ」
「いやいやいやいやいやいやいや」
「そんな否定することかぁ? ほんとは、お前だって感じていたはずだぞ」
「……っ」
僕の心臓は大きく脈打った。暑くも寒いわけでもないのに、背中に嫌な汗が感じられた。
「なぁ、そうだろ?」
「ふぅ」
ごまかせないことは分かっていた。だから、精一杯の反撃をすることにした。
「マスターは本当にそう思ってるんですか? 翔太とカナの仲の良さは分かっているはずですよね……」
「…………」
「学校でも、バカップルで有名なんですよ? 第一に僕だって、あいつらが仲悪いところを見たことが無い。だから、そういうことですよ。確かに、今日は気になるところもあったかもしれません。でも、あり得ませんよ。カナが俺を好きだなんて……あり得ません」
「……ずずっ」
テツさんが残りのコーヒーを飲んだ。
「まぁな。そこなんだよ、俺が引っ掛かってたところは」
やはりテツさんもそう思っていてくれたらしい。僕は正直、少しだけ安心した。
「普通ならあり得ねぇんだよ、普通ならなぁ」
「…………」
「まっ、明日、それとなく探りを入れてやるよ」
「えっ、ちょっ――」
「呼ばれて飛び出て……心菜、参上!!」
僕の言葉は、妹によってかき消されてしまった。しかし、なんだその参上の仕方。
「心菜、翔太の真似をするのだけはやめなさい」
「はぁい」
満面の笑みで頷いてくれたのが唯一の救いだった。
腑に落ちないことがあったが、妹が来たので一緒に帰ることにした。
「えっへへぇ」
「どうした?」
「前はよく迎えに来てたなぁ、って」
「そうだったな」
僕がバイトを始めたのは、高校一年生になってすぐだった。僕が中学三年生の昨日、テツさんと出会って、すぐに手伝いを始めて、惰性的に正式なバイトとして雇われた。とてもこきを使われたけど、その忙しさはテツさんが与えてくれたもので、僕には心地よかった。
「あの時はびっくりしたよ。知らないはずのお前が、喫茶店の前で待ってたんだからなぁ」
「えへへっ」
僕はバイトで、喫茶店に入り浸っていることを家族には言ってなかった。なぜならあの時は、僕の帰りが遅くなったとしても咎められる人はいなかったから。
「あたしはね、すごく心配してたんだよぉ。お兄ちゃん、突然家に帰ってくるの遅くなったし、お父さんもお母さんも気にしていたけど、お兄ちゃんが怖くて聞けなかったみたいだし」
「そんなこともあったなぁ」
そんなこともあった。今は、僕の両親はうるさいぐらいに色々言ってくる。何かをため込んでいたかのように。
「あの時は怖かったなぁ……ほんとに。喫茶店に入って確かめたかったんだけど、怒られるかもしれなくて。嫌われるかもしれなくて、入れなくて。一歩がとても重かったなぁ」
「だから泣いてたんだよなぁ」
「な、泣いてなんかないもんっ!!」
ドアから鳴き声が聞こえて、開けたら妹がいた。あの顔を見たとき、僕は、罪悪感に打ちのめされた。
妹の泣き顔見たら一発で更生だもんなぁ……我ながらなんというか。いや、シスコンじゃないから。
「お兄ちゃん、あたしほんとはね――ううん、なんでもない」
歯切れが悪い言葉に、僕は聞きなおした。
「なんだよ。しっかり言わないと、あの店に入ること禁じるぞ?」
「うわぁ!! いうから、いうからぁぁ!!! らめぇ!!!」
らめぇ、って……。
「あたし、チョコケーキが食べたかったなぁ……って」
「それだけかよっ!!」
妹といると心が休まる。
そう思うと同時に、最近、何をするにせよ、妹を中心に動いているような気もした。