『お客様、当店は正規販売代理店でございます。』 ~サイバー攻撃でオンラインショップが止まったので、なぜか代理店勤務の俺が責任を取らされそうになっている件~
今日もどこかで起きている携帯ショップの日常をお届けします。
2026年11月6日、金曜日。
午前10時12分。
東京都内にある携帯電話販売店『アステルモバイル錦糸町中央店』には、開店からわずか12分で、すでに戦争の気配が漂っていた。
もっとも、店内に銃声が響いているわけではない。
爆発物が仕掛けられているわけでもない。
ただ、入口の自動ドアの向こうから、ものすごく不機嫌そうな男が歩いてきているだけである。
「……来ましたね」
受付カウンターに立つ黒髪の男性スタッフが、静かにつぶやいた。
彼の名は黒瀬怜司。32歳。
株式会社東都コミュニケーションズが運営する、この店舗の副店長である。
整えられた短い黒髪、細身の体格、端正な顔立ち。清潔感のある紺色の制服を着こなし、背筋は常に真っすぐ。口元には柔らかな微笑を浮かべ、どんな相手にも丁寧な敬語を崩さない。
同僚からの評価は、おおむね一致していた。
『怒ったところを見たことがない』
『接客が丁寧すぎて逆に怖い』
『あの人、たぶん心臓の代わりに業務用の電卓が入ってる』
本人に言わせれば、至って普通の接客をしているだけなのだが。
そんな黒瀬の隣で、若手スタッフの小鳥遊美咲が、入口を見つめながら小さく息をのんだ。
「黒瀬さん……あのお客様、なんかすごい顔してません?」
「ええ。大変お困りのご様子ですね」
「困ってるっていうか、今から国家転覆でも始めそうな顔ですよ!?」
「それは困りましたね。当店では国家転覆のお手続きは承っておりませんので」
「そういう問題じゃないです!!」
小鳥遊の声が裏返った、その瞬間。
ウィィィン。
自動ドアが開いた。
「おいィィィィ!! ちょっと聞いてくれよォォォ!!」
午前10時13分。
戦争が始まった。
◇ ◇ ◇
男の名は坂巻銀次郎。38歳。
無造作な黒髪に、少し伸びた無精ひげ。よれた灰色のパーカーに黒いジーンズという、休日のお父さんが近所のコンビニへ出かけるような服装をしている。
ただし、その表情だけは休日ではなかった。
完全に月曜日だった。
しかも三連休明けの月曜日である。
「おい! 責任者! 責任者出してくれ! いや、待て! まず水だ! 俺は今、怒りで喉がカラッカラなんだよ!」
「いらっしゃいませ。お水でございますね。少々お待ちくださいませ」
「いや、そこで普通に水取りに行くなよ! こっちは怒ってんだぞ!?」
「承知しております。ですので、まずはお喉を潤していただければと」
「……お、おう」
黒瀬は落ち着いた足取りで給水機へ向かい、紙コップに水を注いだ。
そして、銀次郎の前へ静かに差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとよ」
ゴクゴクゴク。
「ぷはぁっ! 生き返ったァ!」
「それは何よりでございます」
「いや違う違う違う!! 俺は水飲みに来たんじゃねえんだよ!!」
「もちろんでございます」
「なんでお前、そんなに落ち着いてんの!?」
「お客様のお話を正確に伺うためでございます」
「こっちはもう沸騰してんだぞ!? お前だけ南極にでも住んでんのか!?」
「東京都在住でございます」
「住所聞いてねえよ!!」
銀次郎は勢いよく頭をかきむしった。
そして、スマートフォンをカウンターに叩きつける寸前で止めた。
どうやら壊したくはないらしい。
「これだよ! これ!!」
画面には、携帯電話会社『アステル通信』の公式オンラインショップが表示されていた。
いや、正確には表示されていなかった。
画面いっぱいに表示されているのは、緊急メンテナンスを知らせる文章だけだった。
『現在、緊急メンテナンスを実施しております』
『サービス再開時期は未定です』
その下には、謝罪文が続いている。
「昨日からずっとこれなんだよ! 昨日もこれ! 今日もこれ! 寝る前もこれ! 起きてもこれ! 俺の人生、メンテナンス画面に支配されてんだよ!!」
「ご不便をおかけしております」
「しかも原因がサイバー攻撃だって!? おいおいおい! 何やってんだよ、お前んとこの会社は!!」
「このたびは、通信事業者のオンラインサービスにおいて、大変ご心配とご不便をおかけしております」
「そうだよ! 大変なんだよ! 俺はな、昨日スマホ買い替えようと思ってたんだよ!」
「機種変更をご希望でございますね」
「そう! 今使ってるやつ、もう限界なんだよ! 充電100%で家出たのに、駅着いたら78%なんだぞ!? 俺より体力ねえじゃねえか!!」
「長年ご使用されているのでしょうか」
「5年だよ! 5年! 人間なら幼稚園入ってるぞ! なのにこいつ、最近じゃ動画開くだけで発熱すんだよ!」
「それはお困りでございますね」
「しかも昨日、画面の端がちょっと浮いてきたんだよ! スマホが脱皮しようとしてんの!!」
「電池の膨張が疑われる場合は、安全のためご使用を控えていただく必要がございます」
「……えっ?」
「発熱や画面の浮きがあるとのことですので、充電を含めてご使用をお控えいただき、端末の状態を確認されることをおすすめいたします」
「……え、マジで?」
「はい。安全に関わる可能性がございます」
「……じゃあ今日買うわ」
「かしこまりました」
「いや待て待て! 話が違う! 俺は買いに来たんじゃなくて文句言いに来たんだよ!」
「機種変更のご相談も承っております」
「だから落ち着けって!! なんで俺より話進めようとしてんだよ!!」
小鳥遊は隣のカウンターで、必死に笑いをこらえていた。
まだ開店から15分。
すでに今日一日分の情報量が押し寄せている。
しかし、これは序章にすぎなかった。
◇ ◇ ◇
「で、本題だ!」
銀次郎は椅子に座ると、腕を組んだ。
黒瀬も向かい側に腰を下ろす。
「オンラインショップで買おうと思ってた機種があるんだよ。最新のアステルフォンX。128GBのやつ!」
「ありがとうございます。当店でもお取り扱いがございます」
「そう! それで昨日、オンラインショップで値段見たら99000円だったんだよ!」
「はい」
「でもメンテナンスで買えねえ!」
「はい」
「だから仕方なく店に来た!」
「ありがとうございます」
「ありがとうじゃねえよ! 来たくて来たんじゃねえんだよ!!」
「失礼いたしました」
「で! 店の値段見たら110000円って書いてあるじゃねえか!」
「はい。当店での販売価格は110000円でございます」
「11000円高えじゃねえかァァァ!!」
銀次郎が叫んだ。
待合席にいた年配の男性が、雑誌から顔を上げる。
黒瀬は微笑を崩さない。
「おっしゃるとおり、オンラインショップの掲載価格とは11000円の差がございます」
「だろ!? しかも事務手数料4400円も取るんだろ!?」
「はい。店頭で機種変更のお手続きを行う場合、4400円の事務手数料が発生いたします」
「オンラインなら無料だろ!?」
「そのとおりでございます」
「合計いくらだ!?」
「15500円でございます」
「そう!! 15500円!!」
銀次郎は両手を広げた。
「15500円だぞ!? ちょっといい焼き肉食えるぞ!? 回転寿司なら家族全員で腹いっぱい食えるぞ!? スーパーで卵何パック買えると思ってんだ!?」
「卵の価格によって異なりますが」
「計算すんな!!」
「失礼いたしました」
「俺は卵を買いに来たんじゃねえんだよ!!」
「承知しております」
「そこでだ!」
銀次郎は人差し指を突き出した。
「俺は本来、オンラインで買うつもりだった。ところが、お前らの会社がサイバー攻撃を食らったせいで買えなくなった。だから仕方なく店舗に来た。つまり!」
バンッ!
「オンラインと同じ値段で売るのが筋ってもんだろォォォ!!」
店内に沈黙が落ちた。
銀次郎は勝利を確信していた。
完璧な論理。
非の打ちどころのない主張。
自分でも驚くほど筋が通っている。
これは勝った。
絶対に勝った。
そう思った。
しかし。
「恐れ入りますが、当店ではオンラインショップの販売価格に合わせたお値引きは承っておりません」
「…………は?」
「また、事務手数料4400円につきましても、通常どおり発生いたします」
「…………え?」
「したがいまして、当店でお手続きをされる場合は、端末代金110000円と事務手数料4400円の合計114400円となります」
「いやいやいやいやいやいや!!」
銀次郎は椅子から立ち上がった。
「お前、今の話聞いてた!?」
「はい。すべて伺っております」
「俺、すげえ正論言ったよね!?」
「お客様のお考えは理解いたしました」
「理解したなら値引きしろよ!!」
「申し訳ございませんが、お値引きはいたしかねます」
「なんでだよォォォ!!」
黒瀬は静かに一礼した。
「ご説明いたします。当店はアステル通信が直接運営している店舗ではなく、株式会社東都コミュニケーションズが運営する販売代理店でございます」
「……は?」
「アステル通信の商品やサービスを取り扱っておりますが、店舗の運営主体は別の会社でございます」
「いやいや、看板にアステルって書いてあるじゃん!」
「はい。アステル通信の正規販売代理店でございますので」
「制服にもアステルって書いてあるじゃん!」
「はい。正規販売代理店でございますので」
「店内のポスターもアステルじゃん!」
「はい。正規販売代理店でございますので」
「お前、正規販売代理店って言いたいだけだろ!!」
「事実をご説明しております」
「くっ……!」
銀次郎は歯ぎしりした。
なんだこいつ。
全然崩れねえ。
普通、こういうときって、もうちょっと申し訳なさそうにするだろ。
いや、申し訳なさそうにはしている。
めちゃくちゃ丁寧だ。
でも一歩も下がらねえ!
「じゃあ何か!? この店はアステルじゃねえって言うのか!?」
「アステル通信の正規販売代理店でございます」
「またそれかァァァ!!」
「なお、当社が運営する店舗は、このほかにもございます」
「そんなこと聞いてねえよ!」
「失礼いたしました」
「つまり何だ!? 本社がやらかしても店は知らねえってことか!?」
「本件につきまして、当店が直接の原因を作ったものではございません。オンラインサービスの停止や復旧につきましては、通信事業者側で対応しております」
「だからって客に負担押しつけていいのかよ!」
「ご負担が増える点については、私どもも理解しております。ただし、店頭での販売条件は、通常どおりご案内しております」
「そこを何とかするのがサービス業だろ!!」
「お客様のご要望にお応えできる範囲で、誠実に対応させていただきます」
「じゃあ値引き!」
「いたしかねます」
「即答ォォォ!!」
◇ ◇ ◇
午前10時34分。
銀次郎の怒りは、順調に成長していた。
もはや観葉植物なら天井に届いている頃合いである。
「おい、ちょっと待て。そもそもさ、お前ら代理店って言うけどよ、全国に何百店舗もあるんだろ?」
「はい。アステル通信の店舗は全国にございます」
「その中に本社直営店はねえのか?」
「アステル通信の携帯電話販売店につきましては、すべて代理店が運営している形でございます」
「全部!?」
「はい」
「1店舗も!?」
「ございません」
「じゃあ何!? 俺が本社に直接文句言える店舗は日本全国どこにもねえの!?」
「店舗という形ではございません」
「逃げ道完備じゃねえかァァァ!!」
銀次郎は天井を仰いだ。
「全国に看板出しといて全部別会社って! 何だよそれ! 忍者の分身の術か!? 本体どこにいんだよ!!」
「本社所在地につきましては、公式サイトに記載がございます」
「住所教えろって意味じゃねえよ!!」
「失礼いたしました」
「お前、絶対わざとだろ!?」
「そのようなことはございません」
黒瀬は微笑んだ。
その笑顔には、一切の曇りがない。
小鳥遊は思った。
(黒瀬さん……今日も絶好調だ……)
黒瀬は決して客を馬鹿にしない。
挑発もしない。
言葉遣いを崩さず、声も荒らげない。
ただし。
できないことは、絶対にできないと言う。
それだけだった。
「じゃあ本社に電話しろよ!」
「本件についてのご意見やご要望は、通信事業者のお客様窓口にお申し出いただくことができます」
「お前が電話しろって言ってんだよ!」
「私からお客様窓口をご案内することは可能でございます」
「いや、お前が本社の偉い人に電話して、『お客様が怒ってます! 15500円値引きしてください!』って言えばいいじゃん!」
「申し訳ございませんが、そのような値引きの承認をいただく窓口はございません」
「じゃあ作れよ!!」
「私の権限では、新たな窓口を設立することはできかねます」
「当たり前だろ!! お前が会社作り始めたら怖えよ!!」
銀次郎は頭を抱えた。
「何なんだよ、この店……! こっちは怒ってるのに、全部ちゃんと返してくるじゃねえか……!」
「ありがとうございます」
「褒めてねえよ!!」
黒瀬は一礼した。
その所作は、もはや芸術的ですらあった。
◇ ◇ ◇
「……わかった」
銀次郎は深く息を吸った。
そして、椅子に座り直した。
「ちょっと冷静に話そうじゃねえか」
「かしこまりました」
「俺だって大人だよ。38歳だよ。もう怒鳴ってどうにかなる年齢じゃねえんだ」
「恐れ入ります」
「だから、ここからは理詰めでいく」
「承知いたしました」
銀次郎はスマートフォンを取り出し、メモ帳を開いた。
「まず確認な。今回、オンラインショップが止まった原因は、俺じゃないよな?」
「はい。お客様に原因があるというご案内はしておりません」
「お前でもないよな?」
「はい」
「この店舗でもないよな?」
「はい」
「本社側で発生した不正アクセスが原因なんだよな?」
「公表されている内容では、そのとおりでございます」
「よし。じゃあ、誰が悪い?」
「不正アクセスの実行者や管理上の責任につきましては、調査や事実関係の確認が必要かと存じます」
「ぐっ……!」
銀次郎は一瞬詰まった。
しかし、すぐに立て直す。
「じゃあ質問を変える! 俺がオンラインで買えなくなったのは、本社のシステムが止まったからだよな?」
「はい」
「本社のシステムが止まらなきゃ、俺は99000円で買えたんだよな?」
「オンラインショップでその価格が適用され、正常にご購入いただけた場合は、そのとおりでございます」
「そう! なのに店に来たら114400円! 差額15500円! これは俺に発生した損害じゃないのか!?」
「お客様がご負担の差を損失とお考えになることは理解いたします」
「だろ!?」
「ただし、当店での購入はお客様にお選びいただくものであり、現在のところ、当店がその差額を負担するというご案内はしておりません」
「だから、それが納得いかねえって言ってんだよ!」
「承知しております」
「だったらどうすんだよ!」
「オンラインショップの価格をご希望でしたら、サービス再開までお待ちいただく方法をご案内しております」
「復旧未定なんだろ!?」
「はい」
「明日かもしれねえし、来週かもしれねえし、来月かもしれねえんだろ!?」
「現時点では、再開時期をお約束できません」
「だったら待てねえじゃん!」
「お急ぎの場合は、店頭でのお手続きをご検討いただけます」
「15500円高えじゃん!」
「はい」
「だから値引きしろよ!」
「いたしかねます」
「振り出しに戻ったァァァ!!」
銀次郎はテーブルに突っ伏した。
黒瀬は静かに見守った。
小鳥遊はカウンターの陰で、そっとメモ帳を開いていた。
『本日の名言:振り出しに戻った』
あとで先輩に見せよう。
そう思っていると、銀次郎が勢いよく顔を上げた。
「いや待て!! 今、重要なことに気づいたぞ!!」
「何でしょうか」
「俺には選択肢がねえんだよ!!」
「と、おっしゃいますと?」
「オンラインは止まってる! 店舗は高い! つまり俺は、高い金を払うしかねえんだ!」
「お待ちいただく選択肢もございます」
「それは選択肢じゃねえ! ただの我慢だ!!」
「お急ぎのご事情は理解しております」
「理解してるなら何とかしろよ!」
「申し訳ございませんが、販売価格は変更いたしかねます」
「お前、さっきから同じことしか言ってねえぞ!?」
「ご案内できる内容に変更がございませんので」
「ぐぬぬぬぬ……!」
銀次郎は両手で顔を覆った。
だが、まだ終わらない。
彼には切り札があった。
社会人なら誰もが一度は耳にしたことのある、あの言葉である。
「……お客様は神様だろ?」
黒瀬の表情は変わらなかった。
「お客様には、常に敬意をもって接しております」
「だったら神様のお願い聞けよ!」
「恐れ入りますが、当店の販売価格は変更いたしかねます」
「神様でも!?」
「はい」
「神様でも値引き不可!?」
「はい」
「じゃあ神様って何なんだよ!!」
「その点につきましては、私からお答えできる立場にございません」
「宗教問題に発展したァァァ!!」
小鳥遊はとうとう後ろを向いた。
肩が震えている。
笑ってはいけない。
笑ってはいけない。
これは接客だ。
真剣な仕事だ。
だが、神様が15500円の値引きを求めている。
しかも却下された。
小鳥遊の腹筋は限界を迎えつつあった。
◇ ◇ ◇
午前11時03分。
銀次郎は新たな攻撃方法を思いついた。
責任者召喚である。
「もういい! お前じゃ話にならねえ! 店長呼べ!!」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
「……え?」
黒瀬はあっさり立ち上がった。
「店長をお呼びいたします」
「お、おう……」
銀次郎は拍子抜けした。
もっと抵抗されると思っていた。
『店長は不在です』
『私が責任者です』
『これ以上の対応はできません』
そんな台詞が飛び出すと予想していたのだ。
しかし、黒瀬は素直に店長を呼びに行った。
(……よし! ここからだ!)
銀次郎は内心で拳を握った。
副店長は駄目だった。
だが店長なら違うはずだ。
店長ともなれば、多少の裁量があるだろう。
客の怒りを鎮めるため、特別な値引きを認めるかもしれない。
何なら店長のポケットマネーで15500円出してくれるかもしれない。
いや、そこまでは期待しない。
10000円でもいい。
いや、5000円でも……。
(……いや待て! 俺は15500円を取り戻すために戦ってるんだろ! 弱気になるな俺!!)
そのとき。
「お待たせいたしました」
奥の事務室から、1人の女性が現れた。
店長の榊原真琴。41歳。
肩まで伸びた黒髪を後ろでまとめ、眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の女性である。
見た目は穏やかだが、店舗運営歴は15年。
数々の理不尽な要求を処理してきた歴戦の店長だ。
「店長の榊原でございます。お話は黒瀬から伺っております」
「おう! ようやく話のわかる人が来たか!」
「このたびは、オンラインサービスの停止により、ご不便をおかけしております」
「そうなんだよ! わかってくれるか!」
「はい。お困りのご事情は理解しております」
「そう! で、オンラインと店頭の差額15500円なんだけど!」
「恐れ入りますが、当店ではお値引きいたしかねます」
「早ァァァァァい!!」
銀次郎は椅子からずり落ちかけた。
「まだ説明してねえよ!?」
「黒瀬から詳細に報告を受けておりますので」
「じゃあ何!? 店長も同じ答え!?」
「はい」
「特別対応とかないの!?」
「ございません」
「上司の権限とか!」
「当店の判断でございます」
「本社の指示!?」
「いいえ。本件について、店頭価格をオンライン価格に合わせるような指示は受けておりません」
「……ん?」
銀次郎の目が光った。
「ちょっと待て」
「はい」
「今、何て言った?」
「店頭価格をオンライン価格に合わせるような指示は受けておりません、と申し上げました」
「つまり……値引きするなって指示も来てねえのか?」
「そのような指示も受けておりません」
「…………」
銀次郎は、ゆっくりと笑った。
ついに見つけた。
突破口だ。
「なーんだ!!」
バンッ!
「じゃあ店の判断で値引きできるんじゃねえか!!」
店内に銀次郎の声が響く。
「お前らさっきから代理店だの本社だの言ってたけど、結局、値引きするかどうかは店で決められるんだろ!?」
「はい。今回の販売価格について、当店としてお値引きを行うかどうかは、当社の判断でございます」
「だったら値引きしろよ!!」
「いたしかねます」
「なんでだよォォォ!!」
榊原は穏やかに答えた。
「当店では、今回の件に伴う特別なお値引きは実施しておりません」
「だから理由を聞いてんだよ!」
「店頭での販売条件を変更しないという判断をしております」
「それ、理由になってなくね!?」
「ご希望に添えず、申し訳ございません」
「じゃあ俺が納得できる理由を説明しろよ!」
銀次郎は身を乗り出した。
「いいか!? お前らの会社は何も悪くないって言いたいんだろ!? でも客からしたら同じ看板なんだよ! だったら本社の尻拭いをするのが代理店の仕事じゃねえのか!?」
榊原は静かに首を横に振った。
「申し訳ございませんが、当店が本社側の障害によって生じた価格差を、必ず負担しなければならないというご案内はしておりません」
「義務がなけりゃ何もしなくていいのかよ!」
「お手続きや商品のご案内など、当店で対応可能なサービスは通常どおり提供しております」
「値引きもサービスだろ!」
「価格の変更については、ご希望に添いかねます」
「うおおおおおお!!」
銀次郎は天井を見上げた。
強い。
この店、強い。
副店長も強いが、店長も強い。
いや、何だこれ。
同じ会社の人間だからか?
考え方が完全に統一されている。
軍隊か?
ここは携帯ショップじゃなくて防衛施設なのか?
「……店長」
「はい」
「お前ら、絶対に値引きしねえつもりだな?」
「はい。今回のご要望につきましては、そのように判断しております」
「ちょっとくらい迷えよ!!」
「すでに判断しておりますので」
「判断が早すぎるんだよ!!」
銀次郎は頭を抱えた。
その横で、黒瀬が静かに微笑んでいた。
実に満足そうな顔だった。
◇ ◇ ◇
ここで少し、店の事情を説明しておこう。
もちろん、銀次郎には聞こえない場所での話である。
午前9時20分。
開店前の事務室。
黒瀬と榊原は、今回のオンラインサービス停止について話し合っていた。
「本社から新しい案内は来ていますか?」
「復旧時期は未定。急ぎのお客様は店頭で対応可能な手続きをご案内すること。現時点では、それだけね」
「値引きについては?」
「何も来ていないわ」
「承知いたしました」
黒瀬は資料を閉じた。
「では、当店としては通常の販売条件を維持いたします」
「そうね」
榊原は頷いた。
理由は単純だった。
店頭で110000円で販売している端末を、オンライン価格の99000円に合わせれば、11000円の差額が発生する。
さらに、事務手数料4400円まで店舗負担にするなら、合わせて15500円。
今回の設定では、その負担を通信事業者が補填してくれる仕組みは用意されていない。
つまり、代理店側が自腹を切ることになる。
客からすれば、同じ看板を掲げている以上、同じ価格で売ってほしいと思うのは自然だろう。
だが、店からすれば話は別だ。
サイバー攻撃を受けたのは通信事業者のシステムである。
オンラインショップを止める判断も、再開する判断も、代理店にはできない。
それなのに、発生した価格差だけを代理店が負担する。
しかも、対象となる客は1人ではない。
10人なら155000円。
100人なら1550000円。
1000人なら15500000円。
数字は容赦がない。
「黒瀬君、今回の件で値引きを求められるでしょうね」
「ええ。相当数いらっしゃるかと存じます」
「どう対応する?」
「通常の販売条件をご案内いたします。ご納得いただけない場合は、オンラインサービスの再開をお待ちいただくようご説明いたします」
「そうね」
「なお、お客様には当社の原価や利益についてご説明する必要はございません。価格の設定理由として内部事情を持ち出すことは、かえって不要な誤解を招きます」
「そのとおり」
「私どもがご案内するのは、あくまでも販売条件と、お客様がお選びいただける方法でございます」
榊原は満足そうに頷いた。
「頼もしいわね」
「恐れ入ります」
「ただ、無理な要求を受けても、感情的にならないでね」
「もちろんでございます」
黒瀬は微笑んだ。
「ご納得いただけないことと、当店が販売条件を変更することは、別のお話でございますので」
その言葉に、榊原は小さく笑った。
黒瀬怜司。
彼は決して喧嘩を売らない。
しかし、買う必要のない喧嘩を、わざわざ買うこともしない。
相手がどれほど怒ろうとも、店としてできることとできないことを淡々と伝える。
それが彼の仕事だった。
◇ ◇ ◇
そして現在。
午前11時21分。
銀次郎は、まだ諦めていなかった。
「……よし、わかった。じゃあこうしよう」
彼は腕を組み、妙に真剣な顔をした。
「端末の11000円は諦める」
黒瀬は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「その代わり、事務手数料4400円を無料にしてくれ」
「いたしかねます」
「交渉時間0秒ォォォ!!」
「店頭で機種変更のお手続きをされる場合は、4400円の事務手数料が発生いたします」
「いやいや! 11000円諦めたんだぞ!? 俺、めちゃくちゃ譲歩したよね!?」
「お客様のお考えは承知いたしました」
「だったらそっちも譲歩しろよ!」
「申し訳ございませんが、手数料は通常どおり発生いたします」
「お前ら交渉って知ってる!?」
「はい」
「交渉ってのはな、お互い少しずつ譲り合って落としどころを探すもんなんだよ!」
「おっしゃる趣旨は理解しております」
「なら!」
「ただし、当店では今回の価格変更には応じかねます」
「理解してるだけじゃねえか!!」
銀次郎は再び椅子に沈んだ。
しかし、そこで何かを思いついたらしい。
「……待てよ」
「はい」
「じゃあ事務手数料って何の金だ?」
「店頭での機種変更に伴うお手続きについて、定められている手数料でございます」
「具体的には?」
「ご契約内容の確認、お申し込み内容のご説明、登録手続きなど、所定の受付を行います」
「じゃあ俺が全部自分でやる!」
「と、おっしゃいますと?」
「契約内容の確認も自分でやる! 説明もいらねえ! 登録も俺がやる! だから4400円無料!」
「恐れ入りますが、店頭での機種変更については、所定の手続きを省略することはできません」
「俺が説明するから! お前は聞いてるだけでいいから!」
「申し訳ございません」
「じゃあ俺が店員役やる!」
「……はい?」
「俺が『いらっしゃいませ』って言って、俺が『機種変更ですね』って言って、俺が『ありがとうございました』って言う! ほら! 人件費ゼロ!」
銀次郎は立ち上がり、カウンターの内側へ回り込もうとした。
黒瀬が静かに手を差し出す。
「恐れ入ります。こちらは従業員専用の区域でございます」
「ちょっとくらいいいじゃん!」
「ご遠慮くださいませ」
「俺、今日だけアルバイトするから!」
「採用募集については、別途ご案内しております」
「採用する気かよ!!」
「いいえ。ご応募の方法をご案内することは可能でございます」
「応募しねえよ!! 俺はスマホ買いに来たんだよ!!」
「承知しております」
「じゃあ4400円!」
「発生いたします」
「うわあああああ!!」
小鳥遊はとうとう事務室へ避難した。
理由はもちろん、笑いをこらえるためである。
彼女は休憩室の扉を閉めると、口を押さえてしゃがみ込んだ。
「む、無理……! 今日だけアルバイトって……! しかも黒瀬さん、採用案内しようとしてるし……!」
涙が出てきた。
だが、すぐに姿勢を正す。
「駄目駄目。仕事中。仕事中だから……!」
そして、深呼吸して売場へ戻った。
その間も、銀次郎の戦いは続いていた。
◇ ◇ ◇
「じゃあさ、逆に聞くけどよ!」
銀次郎はスマートフォンを掲げた。
「オンラインショップが止まってる間、俺たち客はどうすりゃいいんだよ!」
「オンラインショップでのお手続きをご希望の場合は、再開までお待ちいただく必要がございます」
「だから復旧未定なんだろ!」
「はい」
「いつ直るかわからねえんだろ!」
「はい」
「1週間かもしれねえし、1か月かもしれねえ!」
「その可能性について、現時点では判断できません」
「下手したら来年かもしれねえだろ!」
「そこまで長期化するかどうかについても、現時点ではお答えできません」
「じゃあ10年後かもしれねえじゃん!」
「10年後という見込みは発表されておりません」
「100年後かもしれねえ!」
「そのようなご案内もございません」
「俺が死んでから復旧するかもしれねえだろ!」
「そのような見込みは確認しておりません」
「何でお前、100年後まで真面目に答えてんだよ!!」
「ご質問をいただきましたので」
「ぐっ……!」
銀次郎は顔をしかめた。
そして、再び椅子に座った。
「……いいか。俺は客だ」
「はい」
「客ってのはな、困ったときに助けてもらうために店に来るんだよ」
「おっしゃるとおり、当店ではお困りごとのご相談も承っております」
「だったら助けろよ!」
「機種変更のお手続きは可能でございます」
「高えんだよ!」
「オンラインショップの価格をご希望でしたら、再開までお待ちいただく方法がございます」
「待てねえんだよ!」
「お急ぎでしたら、店頭でのお手続きをご検討くださいませ」
「だから高えんだよォォォ!!」
銀次郎は両手で頭を抱えた。
「何これ!? 無限ループ!? 俺、同じところをずっと歩いてねえ!?」
「ご案内できる選択肢に変更がございませんので」
「お前、案内板かよ!!」
「必要なご案内は何度でもいたします」
「そういう優しさいらねえんだよ!!」
黒瀬は一礼した。
そして、卓上の料金案内を銀次郎の前に置いた。
「改めまして、現在ご案内できる方法を整理いたします」
「……おう」
「本日、店頭で機種変更を行う場合、端末代金110000円、事務手数料4400円、合計114400円でございます」
「……おう」
「オンラインショップでの購入をご希望の場合は、サービス再開後にお手続きいただくことになります。その際の価格や条件につきましては、購入時点での表示をご確認くださいませ」
「……おう」
「また、現時点でオンラインショップの再開時期は未定でございます」
「……おう」
「以上でございます」
「…………」
銀次郎は沈黙した。
黒瀬も沈黙した。
数秒が過ぎる。
やがて銀次郎は、ゆっくりと口を開いた。
「……それ、さっきからずっと言ってるやつじゃん」
「はい」
「何も変わってねえじゃん」
「はい」
「俺、1時間以上ここにいるんだぞ?」
「はい」
「1時間以上話して、何も変わってねえんだぞ?」
「販売条件に変更はございません」
「俺の1時間返せよォォォ!!」
黒瀬は静かに答えた。
「お客様からのご質問には、その都度ご回答させていただいております」
「そうだよ! 全部答えてるよ! それが腹立つんだよ!!」
銀次郎はついに立ち上がり、店内を歩き始めた。
もちろん、スタッフの立ち入り区域には入らない。
そこだけは守る。
不思議と律儀な男だった。
◇ ◇ ◇
午前11時47分。
銀次郎は最後の大技に出た。
「……なあ、黒瀬さんよ」
「はい」
「お前、俺の立場だったらどう思う?」
黒瀬は少しだけ考えた。
「オンラインショップでの購入を予定していたところ、突然ご利用いただけなくなり、店頭では価格が異なるとご案内された場合、ご不満を感じられることは理解できます」
「だろ?」
「はい」
「だったら、俺の気持ちわかるよな?」
「はい」
「だったらさ……」
銀次郎は両手を広げた。
「人として、何とかしてやろうって思わねえのかよ!」
店内が静かになった。
それまでの騒がしい口調とは違う。
少しだけ真剣な声だった。
「俺だってさ、別に最初から怒りたかったわけじゃねえんだよ。昨日、仕事終わってからスマホ買おうと思って、色も決めて、ケースも探して、保護フィルムまで選んでたんだ」
「はい」
「それが突然買えなくなってさ。しかも復旧未定だろ? じゃあ店に行くしかねえと思って来たら、15500円高いって言われてよ」
銀次郎は苦笑した。
「そりゃ納得できねえだろ」
黒瀬は頷いた。
「はい。ご不満をお持ちになるご事情は、理解しております」
「……じゃあ」
「ただし」
黒瀬の声は、どこまでも穏やかだった。
「お客様のお気持ちを理解することと、当店が販売価格を変更することは、別の問題でございます」
「…………」
「私どもは、お客様がご希望の商品をご購入いただけるよう、可能な範囲でお手伝いをいたします。しかし、すべてのご要望にお応えできるわけではございません」
「……冷てえな」
「そのように感じられたのであれば、申し訳ございません」
「いや、謝るなら値引きしてくれよ」
「それはいたしかねます」
「……やっぱりな」
銀次郎は苦笑した。
黒瀬は続ける。
「今回のオンラインサービス停止につきましては、当店から復旧時期をお約束することも、オンラインショップの販売条件を店頭へ適用することもできません」
「……ああ」
「一方で、当店でのお手続きをご希望でしたら、通常の販売条件にて承ることができます」
「……ああ」
「どちらをご選択されるかは、お客様にお決めいただくことでございます」
銀次郎は黙り込んだ。
これまで、どれだけ大きな声を出しても。
どれだけ理屈を並べても。
どれだけ感情に訴えても。
黒瀬は、一度も態度を変えなかった。
いや。
態度を変えなかっただけではない。
言っていることも、ずっと同じだった。
最初から最後まで。
店頭なら114400円。
オンラインなら復旧待ち。
それだけ。
「……なあ」
「はい」
「本当に、1円も安くならねえの?」
「はい。今回のご要望によるお値引きはいたしかねます」
「100円でも?」
「はい」
「10円でも?」
「はい」
「1円でも?」
「はい」
「……じゃあ、端数の400円だけでも」
「いたしかねます」
「くそォォォ!! 小銭にまで厳しい!!」
銀次郎は再び頭を抱えた。
黒瀬は静かに待った。
そして。
「……わかったよ」
銀次郎が、ぽつりと言った。
「今日は帰る」
「かしこまりました」
「でもな! 納得したわけじゃねえからな!」
「承知しております」
「絶対に納得してねえからな!」
「はい」
「俺は今、ものすごく怒ってるからな!」
「ご不満については、確かに承りました」
「……くっ!」
銀次郎は唇を噛んだ。
何だよ。
最後くらい、引き止めろよ。
『お客様、少々お待ちください!』
『特別に値引きいたします!』
そういう展開、ないのかよ。
ドラマだったらあるだろ。
漫画だったらあるだろ。
現実はないのかよ!
「……本当に帰っちゃうぞ?」
「はい。本日はご来店いただき、ありがとうございました」
「まだ帰ってねえよ!!」
「失礼いたしました」
「……帰るからな!」
「かしこまりました」
「……本当に帰るぞ!」
「お気をつけてお帰りくださいませ」
「ちくしょおおおおお!!」
銀次郎は自動ドアへ向かった。
だが、そこで立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。
最後の最後に、何か言ってやりたい。
このまま帰ったら負けた気がする。
いや、もう十分負けている気もする。
しかし、せめて一矢報いたい。
銀次郎は大きく息を吸い込んだ。
「……おい、黒瀬!」
「はい」
「お前さ!」
「はい」
「……接客、丁寧すぎるんだよ!!」
黒瀬は深々と頭を下げた。
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
「褒めてねえええええ!!」
ウィィィン。
自動ドアが開く。
銀次郎は勢いよく外へ飛び出した。
そして、去り際に叫んだ。
「オンライン復旧したら絶対そっちで買ってやるからなァァァ!!」
黒瀬は微笑んだ。
「はい。ぜひご利用くださいませ」
「お前の売上にならねえんだぞ!?」
「お客様がご希望の方法でご購入いただけることが何よりでございます」
「最後まで優等生かよォォォ!!」
ウィィィン。
自動ドアが閉まった。
午前11時58分。
戦争は終結した。
◇ ◇ ◇
店内に静寂が戻った。
黒瀬はしばらく入口を見つめていた。
そして、銀次郎の姿が完全に見えなくなったことを確認すると、ゆっくりと振り返った。
「……さて」
その瞬間。
事務室の扉が開いた。
「黒瀬さああああん!!」
小鳥遊が飛び出してきた。
「お疲れさまでしたァァァ!!」
「ありがとうございます」
「すごかったです! すごすぎました! あのお客様、何回値引きって言ったんですか!?」
「正確には数えておりませんが、相当数おっしゃっていましたね」
「私、途中から数えてたんですけど、37回でした!」
「それは熱心でいらっしゃいましたね」
「熱心っていうか執念ですよ!!」
小鳥遊はカウンターに手をついた。
「いやもう、本当にすごかったです! あれだけ言われて、よく最後まで笑顔でいられましたね!」
「お客様は大変お困りでしたので」
「でも黒瀬さん、絶対に値引きしませんでしたよね!」
「はい。値引きをする理由がございませんので」
その言葉を聞いて、小鳥遊は思わず笑った。
「そこですよ! そこ! 黒瀬さんって本当にブレないですよね!」
「販売条件が変わっておりませんから」
「それはそうなんですけど!」
そこへ、店長の榊原もやってきた。
「黒瀬君、お疲れさま」
「ありがとうございます」
「よく対応してくれたわ」
「恐れ入ります」
榊原は入口へ目を向けた。
「……ようやくお帰りになったわね」
「はい」
「まったく。あれだけ説明しても、最後まで値引きの話だったわね」
「ご希望が明確なお客様でございました」
「物は言いようね」
榊原は苦笑した。
そして、少しだけ声を落とした。
「それにしても、本社のシステムが止まったからって、うちが15500円負担する理由はないのよね」
「おっしゃるとおりでございます」
「1人に値引きしたら、同じ事情のお客様にも同じ対応を求められるでしょうし」
「はい。今回の件については、当店として通常の販売条件を維持する方針でございます」
「そもそも、うちに補填なんてないものね」
「はい」
黒瀬は頷いた。
もちろん、この会話は客には聞かせない。
店の経営事情を客に説明したところで、納得してもらえるとは限らない。
むしろ。
『お前らの利益なんか知らねえよ!』
そう言われる可能性の方が高い。
だからこそ、店として提示する条件を明確にする。
それだけでいい。
小鳥遊は、ふと思い出したように口を開いた。
「でも、あのお客様、最後はちょっとかわいそうでしたね」
「と、おっしゃいますと?」
「だって、オンラインで買うつもりだったのに買えなくなって、店に来たら高いって言われたんですよね。怒る気持ちはわかります」
「ええ。私も理解しております」
「じゃあ、黒瀬さんも少しは心が痛んだり……」
「いたしましたよ」
「えっ!?」
小鳥遊は目を丸くした。
「本当ですか!?」
「もちろんでございます。ご希望の方法でお買い求めいただけないことは、残念に思っております」
「じゃあ……」
「ただし、当店が15500円を負担する理由にはなりません」
「ですよねえええ!!」
小鳥遊は笑った。
榊原も笑った。
黒瀬だけは、いつもどおり微笑んでいた。
そのとき。
店内の電話が鳴った。
プルルルル。
小鳥遊が受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。アステルモバイル錦糸町中央店、小鳥遊でございます」
『あのさ、ちょっと聞きたいんだけど』
「はい、いかがなさいましたか?」
『今、オンラインショップ止まってるでしょ?』
「はい。現在、緊急メンテナンスを実施しております」
『それでさ、オンラインで買おうと思ってたスマホが買えないんだよね』
「はい」
『店で買うと11000円高いんでしょ? しかも手数料4400円かかるんだよね?』
「はい……」
小鳥遊の顔が、みるみる引きつった。
『これってさ、本社の都合なんだから、店で値引きしてもらえるんじゃないの?』
「…………」
小鳥遊は、ゆっくりと黒瀬を見た。
黒瀬も、ゆっくりと小鳥遊を見た。
そして。
ニコリ。
実に美しい笑顔を浮かべた。
「小鳥遊さん」
「は、はい……」
「お電話、代わりましょうか」
「お、お願いします……!」
黒瀬は受話器を受け取った。
そして、まるで高級ホテルの案内係のような穏やかな声で話し始めた。
「お電話代わりました。副店長の黒瀬でございます」
『あ、副店長さん? ちょうどいいや! ちょっと聞いてよ!』
「はい。どうぞお申しつけくださいませ」
『オンラインショップが使えないのって、そっちの会社の問題でしょ?』
「はい。通信事業者側で発生している事象でございます」
『だったら店で安くしてくれてもいいんじゃない?』
「恐れ入りますが、当店ではオンラインショップの販売価格に合わせたお値引きは承っておりません」
『えっ!? なんで!?』
「ご説明いたします」
黒瀬は、静かに椅子へ腰を下ろした。
その表情に、疲労の色はない。
むしろ、いつもどおりの余裕があった。
小鳥遊は、そんな彼を見つめながらつぶやいた。
「……第2ラウンド、始まっちゃった」
榊原は腕を組み、楽しそうに笑った。
「大丈夫よ」
「何がですか?」
「あの人、今日も絶対に負けないから」
黒瀬は電話口で、丁寧に説明を続けていた。
「当店は、アステル通信の正規販売代理店でございまして……」
小鳥遊は天井を仰いだ。
「出たァァァ!! 正規販売代理店!!」
そして、ふと思った。
全国には、同じ看板を掲げた携帯電話販売店が数多く存在する。
だが、それぞれの店舗を運営しているのは、通信事業者とは別の会社である。
本社のシステムが止まったからといって、代理店の利益が増えるわけではない。
むしろ、問い合わせや苦情が増えるだけだ。
それでも、店は営業を続けなければならない。
目の前の客に商品を案内し、契約を受け付け、必要な説明をする。
できることはする。
できないことはしない。
それが、この店の方針だった。
小鳥遊は黒瀬の背中を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「……私も、ああいう接客ができるようになりたいな」
榊原が微笑む。
「なれるわよ。経験を積めばね」
「本当ですか?」
「ええ。ただし、ひとつ覚えておきなさい」
「何ですか?」
「丁寧な接客と、何でも要求を受け入れることは違うのよ」
小鳥遊は、その言葉を胸に刻んだ。
すると、電話口から大きな声が聞こえてきた。
『いや、だからさ! こっちは被害者なんだよ!?』
黒瀬は微笑んだまま答える。
「はい。ご不便をおかけしていることは承知しております」
『だったら誠意を見せてよ!』
「恐れ入りますが、当店での販売条件は通常どおりでございます」
『ちょっとくらい安くならないの!?』
「申し訳ございませんが、いたしかねます」
『そこを何とか!!』
「いたしかねます」
『お願いだから!!』
「いたしかねます」
『頼むよォォォ!!』
「いたしかねます」
小鳥遊は、とうとう吹き出した。
「黒瀬さん、強すぎる……!」
榊原も肩を震わせた。
そして黒瀬は、受話器の向こうへ向かって、今日何度目かわからない言葉を告げた。
「オンラインショップでのご購入をご希望でしたら、誠に恐れ入りますが、サービス再開までお待ちくださいませ」
実に丁寧な口調だった。
実に穏やかな声だった。
そして。
実に、一歩も譲らない回答だった。
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
店を出た坂巻銀次郎は、近くのコンビニで缶コーヒーを買っていた。
「……くそっ」
プシュッ。
缶を開ける。
「何なんだよ、あの店……」
ゴクゴク。
「……いや、わかってるよ」
銀次郎はため息をついた。
正直なところ、黒瀬の説明は理解していた。
代理店は本社とは別会社。
オンラインショップの停止は、店舗が起こした問題ではない。
店頭価格も、事務手数料も、事前に案内されている。
その条件に納得できなければ、購入しなければいい。
理屈はわかる。
全部わかる。
だが。
「……納得できるかァァァ!!」
コンビニの前で叫んだ。
通りかかった女子高生が、ぎょっとして振り返る。
「……あ、すんません」
銀次郎は頭を下げた。
そして、スマートフォンを取り出した。
オンラインショップの画面を開く。
『緊急メンテナンス中』
「……まだかよ」
画面を更新する。
『緊急メンテナンス中』
「……まだか」
もう一度更新する。
『緊急メンテナンス中』
「……頼むよ」
もう一度。
『緊急メンテナンス中』
「…………」
銀次郎は空を見上げた。
11月の青空は、腹立たしいほど澄み渡っていた。
「……なあ、神様」
彼はつぶやいた。
「俺、何か悪いことしたか?」
返事はない。
「ただスマホ買いたかっただけなんだよ……」
返事はない。
「オンラインで99000円のやつを買いたかっただけなんだよ……」
返事はない。
「なのに何で15500円も余計に払わなきゃならねえんだよ……」
返事はない。
そのとき。
ピロン♪
スマートフォンに通知が届いた。
「……おっ!?」
銀次郎は勢いよく画面を見た。
もしかして復旧のお知らせか!?
ついに!?
ようやく!?
俺の勝利か!?
画面には、こう表示されていた。
『アステル通信からのお知らせ』
『オンラインサービスの緊急メンテナンスについて』
銀次郎は息をのんだ。
そして、通知を開いた。
『現在も緊急メンテナンスを継続しております』
『復旧時期は未定です』
『お急ぎのお客様は、店頭でのお手続きをご検討ください』
「…………」
銀次郎は静かにスマートフォンを見つめた。
そして。
「だからその店が高えって言ってんだろうがァァァァァ!!」
錦糸町の空に、男の絶叫が響き渡った。
通りかかった女子高生が、また振り返った。
「……あ、すんません。2回目っすね」
銀次郎は頭を下げた。
そして、しばらく黙り込んだあと、スマートフォンの画面を見つめた。
電池残量は、残り12%。
「……えっ?」
さっきまで48%あったはずなのに。
「おいおいおい……」
画面の端が、ほんの少し浮いている。
「……マジかよ」
銀次郎は、先ほど黒瀬に言われた言葉を思い出した。
『安全のため、ご使用をお控えいただく必要がございます』
「…………」
銀次郎は、ゆっくりと店の方角を振り返った。
その目には、深い葛藤が浮かんでいた。
今日買えば、114400円。
オンラインの復旧を待てば、99000円で買えるかもしれない。
差額15500円。
焼き肉。
寿司。
卵。
しかし、手元のスマートフォンは限界を迎えている。
銀次郎は、しばらくその場で固まっていた。
そして。
「……今日は帰ろ」
スマートフォンの電源を切った。
「明日、昔の予備機探そ……」
彼は、とぼとぼと歩き始めた。
怒りは収まっていない。
納得もしていない。
15500円のことを考えると、今でも腹が立つ。
だが、どうしようもない。
店は値引きしない。
オンラインは復旧未定。
ならば待つしかない。
「……くそっ」
銀次郎は、もう一度つぶやいた。
「……あの副店長、絶対忘れねえからな」
そして、少し考えたあと。
「……でも、接客は上手かったな」
悔しそうに、そう付け加えた。
◇ ◇ ◇
午後12時16分。
アステルモバイル錦糸町中央店。
黒瀬は電話対応を終え、受話器を置いた。
「……ふむ」
小鳥遊が駆け寄ってくる。
「黒瀬さん! 今のお客様は!?」
「オンラインショップの価格をご希望とのことでございましたので、サービス再開をお待ちいただくようご案内いたしました」
「やっぱり!!」
「ご理解いただけたかどうかはわかりませんが、店頭でのご購入は見送られるとのことでございます」
「……すごい」
小鳥遊は感心したように頷いた。
「今日、まだお昼なのに、もう2件も値引き要求を断ってますよね」
「そうですね」
「しかも、どっちも最後まで一歩も譲らず!」
「販売条件に変更がございませんので」
「もうその台詞、今日の合言葉ですね!」
黒瀬は小さく笑った。
そして、パソコンを操作し、先ほどの応対記録を入力した。
『オンラインサービス停止に伴う店頭価格差についてお問い合わせ。通常の販売条件をご案内。価格変更のご要望には応じられない旨をご説明。オンラインサービス再開後の購入をご検討されるとのこと。』
簡潔。
正確。
余計な感情は一切ない。
小鳥遊は画面をのぞき込んだ。
「……黒瀬さん」
「はい」
「さっきのお客様、あんなに怒ってたのに、応対記録はめちゃくちゃ平和ですね」
「事実を記録しておりますので」
「『神様でも値引き不可』とか書かないんですか?」
「記載する必要はございません」
「ですよね!!」
そのとき、榊原が事務室から顔を出した。
「黒瀬君、小鳥遊さん。そろそろお昼休憩に入っていいわよ」
「ありがとうございます」
「それと、黒瀬君」
「はい」
榊原は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「今日の対応、見事だったわ」
「恐れ入ります」
「本社のシステム障害まで、うちの店が背負う必要はないものね」
「はい」
「お客様には申し訳ないけれど、できないものはできない。それでいいのよ」
「承知しております」
黒瀬は一礼した。
そして、ようやくネクタイを少し緩めた。
小鳥遊は、その様子を見て尋ねた。
「黒瀬さん、今日のお昼は何食べるんですか?」
「そうですね……」
黒瀬は少し考えた。
「近くの定食屋で、焼き肉定食でもいただこうかと」
「いいですね! 私も行こうかな!」
「ご一緒されますか?」
「はい!」
小鳥遊は笑顔で頷いた。
そして、ふと思い出した。
「そういえば、さっきのお客様、15500円あれば焼き肉食べられるって言ってましたね」
「おっしゃっていましたね」
「黒瀬さん、焼き肉食べながら思い出し笑いしちゃいそうですね!」
「そのようなことはございませんよ」
「本当ですか?」
「もちろんでございます」
黒瀬は微笑んだ。
そして、静かに言った。
「お客様が15500円のお値引きをご希望されたことと、私が焼き肉定食をいただくことは、別のお話でございますので」
「そこまで分けるんですかァァァ!!」
小鳥遊の笑い声が店内に響いた。
榊原も、とうとう声を上げて笑った。
黒瀬は2人を見つめ、穏やかに微笑んでいた。
実に平和な昼休みだった。
少なくとも。
次の自動ドアが開くまでは。
◇ ◇ ◇
午後12時19分。
ウィィィン。
自動ドアが開いた。
「すみませーん! ちょっと聞きたいんですけど!」
入ってきたのは、50代くらいの男性だった。
小鳥遊が笑顔で振り返る。
「いらっしゃいませ! 本日はどのようなご用件でしょうか?」
「あのさ、オンラインショップがメンテナンスで使えないでしょ?」
「……はい」
「それで店でスマホ買おうと思ったんだけど、オンラインより11000円高いんだよね?」
「……はい」
「しかも手数料4400円かかるんでしょ?」
「……はい」
「これさ、そっちの会社の都合なんだから、オンラインと同じ値段にしてくれないの?」
「…………」
小鳥遊は、ゆっくりと黒瀬を見た。
黒瀬は、ゆっくりと男性客を見た。
そして。
ニコリ。
「いらっしゃいませ。副店長の黒瀬でございます」
男性客は、少し驚いたように瞬きをした。
「あ、副店長さん? ちょうどよかった! 話が早そうだ!」
「恐れ入ります」
「で、値引きしてもらえる?」
黒瀬は、静かに頭を下げた。
「申し訳ございませんが、当店ではオンラインショップの販売価格に合わせたお値引きは承っておりません」
「ええっ!? なんでだよ!?」
黒瀬は微笑んだ。
「ご説明いたします」
小鳥遊は、そっと天井を見上げた。
榊原は、そっと時計を見た。
黒瀬は、そっと椅子を引いた。
「どうぞ、こちらへお掛けくださいませ」
男性客が椅子に座る。
黒瀬も向かい側に腰を下ろす。
そして、穏やかな声で言った。
「まず、当店はアステル通信が直接運営している店舗ではなく、株式会社東都コミュニケーションズが運営する正規販売代理店でございまして……」
小鳥遊は心の中で叫んだ。
(また始まったァァァァ!!)
だが、黒瀬の表情は変わらない。
笑顔。
丁寧。
冷静。
そして、絶対に譲らない。
その姿は、まさしく接客の熟練者だった。
彼の仕事は、客を言い負かすことではない。
怒鳴り返すことでもない。
理不尽な要求に屈することでもない。
ただ、店として提供できるサービスを、正確に案内すること。
そして、できないことは、できないと伝えること。
それだけである。
黒瀬は、今日も穏やかに微笑んでいた。
その笑顔の奥に、確固たる意思を秘めながら。
なお。
この日のアステルモバイル錦糸町中央店における、オンラインショップとの価格差を理由とした値引き実績は。
0件。
値引き総額。
0円。
そして、閉店後。
小鳥遊が何気なく黒瀬に尋ねた。
「黒瀬さん、今日だけで何人のお客様に『値引きしてください』って言われたと思います?」
「さて。何人でしょうか」
「8人ですよ! 8人!」
「そうでございましたか」
「しかも、全員断りましたよね!」
「はい」
「……黒瀬さん、達成感とかないんですか?」
黒瀬は少しだけ考えた。
そして、いつもよりわずかに口元を緩めた。
「そうですね」
「はい!」
「本日も、当店の販売条件を正確にご案内できました」
「……はい」
「お客様からのご質問にも、すべて誠実にお答えできたかと存じます」
「……はい」
「そして、不要な値引きも行わずに済みました」
「……はい!」
黒瀬は満足そうに頷いた。
「実に、良い一日でございました」
小鳥遊は笑った。
榊原も笑った。
そして、黒瀬は最後に一言だけ付け加えた。
「明日も同様のご相談が予想されますので、引き続き通常どおりご案内いたしましょう」
小鳥遊は、両手を天井へ突き上げた。
「もうオンラインショップ早く復旧してくれェェェェ!!」
その叫びだけは。
全国の販売代理店で働く人々が、心の底から共感できるものだったかもしれない。
完




