第1話「文字だけは届く」
死んで幽霊になった女子高生。
ところが、同居することになった女の子には姿も見えなければ、声も聞こえない。
頼れるのはノートとクレヨンだけ。
騒がしい幽霊お姉ちゃんと、反応の薄い少女の共同生活が始まります。
『おなか、すいてる?』
薄暗い部屋の片隅。年季の入ったスケッチブックの真っ白なページに、ひとりでにピンク色の文字が浮かび上がった。
丸みを帯びた、少し癖のあるポップな書体。誰も持っていないはずの太字のサインペンが空中で踊り、スラスラと文字を紡いでいく。
普通の子供であれば、悲鳴を上げて逃げ出すか、腰を抜かして泣き叫ぶような怪奇現象だ。
しかし、床に体操座りをしてそのスケッチブックを見つめていた少女は、驚きもしなかった。瞬きすら、わずかしかしない。ただ静かに傍らに落ちていた鉛筆を拾い上げると、ピンク色の文字の下に、たどたどしい平仮名で小さく書き加えた。
『だれ』
空中を漂っていたサインペンが、嬉々として激しく動く。
『見えないお姉ちゃんです!』
少女は鉛筆を持ったまま、一度だけゆっくりと瞬きをした。そして、感情の読めない平坦な文字で返す。
『そう』
「反応うっす!!」
誰もいないはずの空間から、高めのツッコミの声が響いた。もちろん、その声は少女には届いていない。
私の名前は星野結衣。十九歳。
昨日までは、どこにでもいる少しお調子者の女子高生だった。
友達から送られてきたお笑い系の動画を見ながら道を歩き、工事中の柵をうっかり越えて、口を開けていたマンホールへ真っ逆さまに転落。痛みを感じる暇さえなく、私の十九年間の人生は実にあっけなく終了した。笑えないにもほどがある。
そして目を覚ましたら、見知らぬ豪華なマンションの一室の天井付近で、ふわふわと浮いていた。
生きている人には私の姿は見えない。どれだけ大声を出しても声は聞こえない。物に触れることはできるけれど、なんだか少しコツがいる。
つまり、どうやら私は幽霊になってしまったらしい。
「いや、十七歳で人生終了とか早すぎるんだけど。しかも地縛霊? なんでよりによって他人の家なのよ」
私が一人でぶうぶうと文句を言っている間にも、少女は鉛筆を動かすのをやめ、画面が蜘蛛の巣のようにバキバキに割れた古いスマートフォンを、ぼんやりと見つめ直していた。
玄関に立っていた彼女を初めて見たとき、私は息を呑んだ。
小学校に上がったばかりくらいの年齢だろうか。フリルのついた高そうな純白のワンピースを着て、肩までの柔らかそうな髪も、一本も乱れないように綺麗に整えられている。おとぎ話のお姫様のように愛らしい。
けれど、何より気になったのはその表情だった。
怖がっているわけでも、眠そうなわけでもない。最初から感情を使うことを、泣くことや笑うことを諦めてしまったような、空っぽでぼんやりとした顔。飾られたまま忘れ去られたフランス人形のようだった。
私は試しに、部屋の壁にある照明のスイッチへと手を伸ばした。ぐっと念じるように力を込めると、指先がプラスチックに触れる感覚がある。
パチッ。
部屋に明るい電気がともった。
「おおっ! 念力! 幽霊、思ったより便利じゃない!?」
もう一度力を込め、今度は窓際にぶら下がる重そうな遮光カーテンへ向かって手を振った。シャーッという音とともに、カーテンが勢いよく開いて夕日が差し込む。
「最強じゃん、私! ポルターガイスト最高!」
空中を泳ぐように一回転した私を、少女は淡々とした瞳で見上げて、ぽつりと呟いた。
「……スマート家電」
「違うわ! 幽霊! もっと非科学的でオカルトな方だから!」
私のツッコミはやはり虚空に消える。少女はスケッチブックに視線を落とした。
『電気、つけて』
『了解! お姉ちゃんに任せて! こう見えて幽霊歴一日だけど、スイッチくらいなら余裕で――』
空中のサインペンで意気揚々と書き込んでいる途中で、パチッと部屋が明るくなった。少女が自分でスイッチを押したのだ。
「……もう、ついた」
『最後まで読んでよ! 文字だとテンポずれるんだから!』
言い知れぬもどかしさを感じながら、私は再びスケッチブックに向き合った。まずは自己紹介だ。
『名前は?』
少女は短くなった鉛筆を握り直す。
『みずせ れい』
名前の隣には、丸と線だけで描かれた、不器用だけれど可愛らしい桜のマークが添えられていた。
『私は星野結衣! 十七歳! 好きなものは甘い物と面白い動画! 嫌いなものは退屈と早起き! 現在は初心者幽霊です! よろしくね、レイちゃん!』
ピンク色のサインペンで一気に書き上げた長文。レイはそれを指先でなぞるようにして最後まで読み終えると、隅のほうに一言だけ書いた。
『ながい』
「ごめん」
私は素直に謝った。無表情なくせに、妙に冷静で理屈っぽい子だ。
『私は幽霊です』
『そう』
『怖くないの?』
『見えないから』
見事な切り返しだった。理屈が強い。
そんな奇妙な自己紹介の筆談を続けていたときだった。
――ぐう。
エアコンの微かな駆動音しかしない静寂の部屋に、小さな、けれどはっきりとした音が鳴った。レイのお腹だった。
年端もゆかない子供なら、恥ずかしがったり、あるいは泣き出して空腹を訴えたりする場面だろう。けれど彼女は何事もなかったかのように、割れたスマートフォンの冷たい画面を小さな指でなぞり続けている。
『おなか、すいてる?』
私がピンク色のサインペンで尋ねると、レイは一拍置いてから短く返した。
『べつに』
その直後、まるで彼女の強がりを裏切るかのように、先ほどよりも少し大きな音が、ぐう、と鳴った。
『おなかは、べつにじゃないみたいだよ』
私がからかうように書き込むと、レイは少しだけ眉を寄せ、短くなった鉛筆の先をじっと見つめてから書いた。
『うるさい』
感情を押し殺したような、それでもわずかに子供らしい意地を張るようなその文字に、私は苦笑しながら立ち上がった。
「よし、お姉ちゃんが何か作ってあげる。任せなさい」
キッチンへと向かい、壁際に鎮座する巨大な最新型の冷蔵庫の扉に手をかける。念力を込めて重い扉を開いた瞬間、私の意気込みは冷たい冷気とともに凍りついた。
冷蔵庫の中は、異常なほどに空っぽだった。
しなびてカサカサに乾いたネギの切れ端。底のほうで黄色く固まっている、とっくに賞味期限の切れたマヨネーズ。そして、飲みかけの高級そうな赤ワインのボトルが一本だけ。
卵も、牛乳も、米すらない。育ち盛りの小さな子供が食べられそうな物は、何一つとして存在しなかった。
冷蔵庫が開いた音を聞きつけ、レイがキッチンへ歩いてきた。私の姿は見えないはずなのに、彼女はその空っぽの庫内を見ても驚きも落胆もしなかった。まるで「何もないこと」を最初から知っていたかのように扉をスッと閉めると、備え付けのプラスチックの踏み台に乗り、蛇口からグラスへ水道水を注いで、こくり、こくりと無表情に飲んだ。
「……それ、ご飯じゃないよ」
私の震える声は届かない。レイはグラスをシンクに置くと、再びリビングへ戻ろうとする。
私は改めて、この広くて豪華な部屋の中を見渡した。
部屋には、大人が欲しがるような高価な物があふれている。有名ブランドのロゴが眩しい紙袋。未開封のまま積まれたデパコス化粧品。動画撮影用の立派なリングライト。値札がついたままの、流行りの大人用の服。
なのに、この小さなレイが今日、命を繋ぐために食べる物だけが、この部屋にはなかったのだ。
「……ふざけんな」
私は奥歯を強く噛み締め、キッチン上の高い位置にある吊り戸棚を睨みつけた。こういう見栄っ張りな家は、大人が自分だけ楽しむための高級な隠し棚があるものだ。
私は取っ手に強く念を込めた。
一つ目の戸棚は空。二つ目の戸棚には美容サプリメントのボトル。三つ目の戸棚を開けようと力を込めた瞬間、急に指先が透け、身体全体が薄い霧のようにぼやけ始めた。
「ちょ、待って。幽霊なのにスタミナ制なの!? 連発できない仕様とか聞いてないし!」
息を弾ませ、自分の存在が掻き消えそうになる恐怖と闘いながら、それでも意地で四つ目の戸棚をこじ開ける。
そこには、高級洋菓子店のものとおぼしき、美しい淡い水色の箱が隠されるように置かれていた。箱の蓋をすり抜けて中を覗くと、宝石のように色とりどりのマカロンが並んでいる。
私は最後の力を振り絞ってその箱を宙に浮かせ、リビングのローテーブルへとゆっくり運んだ。
コトリ、と箱が置かれた音に、レイが振り向く。
『食べていいよ』
スケッチブックに書き込むと、レイはマカロンの箱をじっと見つめた。しかし、手は伸ばそうとしない。
『おなかすいてるでしょ?』
『だめ』
『どうして?』
『ママの』
『一個くらい大丈夫だって。いっぱいあるし』
『モデルだから 甘いものはだめって』
その残酷な文字を見て、私はレイの不自然なほど綺麗な服と、乱れなく整えられた髪の理由を完全に理解した。この子は親の所有物として、外見の美しさだけを求められているのだ。体型管理という大人の勝手な都合で、食事すら満足に与えられず、ただ飾られている。
『誰が言ったの?』
『ママが』
『レイちゃんが食べたいわけじゃないの?』
『うん』
嘘だ。さっきからマカロンの箱から、その大きな瞳が一度も離せていないくせに。
『おなかがすいたら、食べていいんだよ』
『おこられる』
レイの鉛筆の筆圧が少しだけ強くなった。芯が折れそうなほど強く押し付けられた文字から、怒られること、見捨てられることへの明確な恐怖が伝わってくる。
私は深呼吸をし、とびきり太く、力強い字で書き込んだ。
『私のせいにして』
『ゆうれいのせい?』
『そう。悪い幽霊が勝手に出して、レイちゃんの口に無理やり突っ込んだって言いなさい。お姉ちゃんが全部引き受けるから』
『こわい』
『今さら!? さっき見えないから怖くないって言ったじゃん! 理屈どこ行ったの!』
私の必死のツッコミに、レイは初めてほんの少しだけ戸惑うような仕草を見せた。そして、恐る恐る箱に手を伸ばし、淡いピンク色のフランボワーズのマカロンをつまみ上げた。
小さな口が開き、そっと噛み付く。
さくり、と軽やかな音が響いた。
「……あまい」
レイの口から、今日初めて言葉らしい言葉がこぼれ落ちた。
その瞬間、冷たいフランス人形のようだった彼女の表情が、ほんの少しだけ、本当にわずかだけ緩んだ。張り詰めていた糸がほどけ、幼い子供本来の柔らかさが顔を覗かせる。
私は思わず満面の笑みを浮かべて、それからハッと気づいた。この子には、私の笑った顔は見えないのだと。
だから、急いでノートに書いた。
『おいしい?』
『おいしい』
そのたった四文字の平仮名が、私には何よりも雄弁な喜びに満ちて見えた。
レイが大事そうに二口目をかじろうとした、まさにその時だった。
ガチャリ。
玄関の重厚な鍵が回る、無機質な音が響いた。
先ほどまでマカロンを見つめていたレイの目から、一瞬にしてわずかな光が消え失せた。元の、空っぽで感情のない人形の顔。食べかけのマカロンを握る小さな手が、小刻みに震えている。
「……まずい。隠さなきゃ」
私は残りのマカロンが入った箱を素早く掴んで棚の奥へ放り込み、レイの手に握られていた食べかけの一個をひったくって、ソファのクッションの裏へと乱暴に押し込んだ。
玄関の扉が開く。
コツコツとヒールの高い足音を立ててリビングに入ってきた母親は、部屋の隅に座るレイに目を向けることもなく、耳に当てた最新のスマートフォンに向かって甲高い声で笑っていた。
「あはは、だから言ったじゃん! えー、今日? 今日はちょっと無理かなー、明日の撮影の準備あるし。レイ? あー、適当に寝かせとくから平気平気。うん、じゃあまた後でね」
電話を切り、母親はヒールを脱ぎ捨ててリビングを通り過ぎようとする。レイの震えには全く気づいていない。
「レイ、ご飯食べた?」
「……まだ」
「なんで自分で何か食べなかったの?」
「なかった」
「もう、そういうの早く言ってよ。ママ疲れてるんだから。今日はもう歯磨いて寝なさい。明日、朝早いんだからむくまないようにね」
怒鳴るわけでも、暴力を振るうわけでもない。親にとって、このネグレクトは特別な悪意ですらないのだ。ただの「日常」であり、面倒な作業を後回しにしているだけ。その底知れない無関心な冷たさが、背筋が凍るほど恐ろしかった。母親はレイの頭を撫でることも、目を合わせることもなく、奥の広い寝室へと姿を消した。
静まり返った暗いリビングで、レイはスケッチブックに素早く鉛筆を走らせた。その小さな手は、まだ微かに震えている。
『あしたも いる?』
それは、感情を殺して生きてきた少女が、初めて他者に助けを求めた瞬間だった。
私は迷わず、サインペンを両手で握りしめ、インクが滲むほど力強く太い文字で書いた。
『いるよ』
私の姿は見えない。
私の声は届かない。
冷え切ったその小さな体を抱きしめて、大丈夫だよと頭を撫でてあげることもできない。
それでも、この不器用でピンク色の文字だけは、確実に彼女に届く。
だから明日も、明後日も、私はここにいる。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
幽霊になった結衣ですが、レイからは今のところ「ちょっと便利なスマート家電」くらいに思われています。
果たして、お姉ちゃんとして認めてもらえる日は来るのでしょうか。
次回、見えないお姉ちゃんのお世話が始まります。




