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第七巻:滅びの兆し、世に満ちる不思議な予言

挿絵(By みてみん)

『武庫の井戸に現れし双龍』

これから訪れる大いなる乱れ、王権の僭称、そして異民族という「二頭の龍」によって晋の天下が引き裂かれる、避けられぬ運命そのものを体現していました。静寂の武庫に響くのは、もはや龍のくぐもった咆哮か、あるいは帝国が崩れゆく哀切な呻き声か、誰にも分からなかったのでした。


【しおの】

予兆の石文と乱れゆく装い

遠い昔、漢の元帝、成帝の御代から、世の行く末を見通す賢者たちの間では、ある予言が密やかに語り継がれていました。「やがて魏の御代に『和』の年号が巡り来たるとき、西へ三千里余りの地で石が開き、そこから五頭の馬が繋がれた姿が現れるだろう。その石には『大討曹』という文様が刻まれているはずだ」と。

そして魏が興隆し始めた頃、予言の通り、張掖の柳谷にて、かの石がその姿を現したのです。それは建安年間に兆しを見せ、黄初年間に形を成し、太和年間に至って、その文様は完成を見ました。石は周囲がおよそ七尋、高さは九尺もあり、蒼みを帯びた肌に、白い文様がくっきりと浮かび上がっていました。そこには龍や馬、鱗を持つ獣、鹿、鳳凰、そして仙人といった姿が、あたかも命を宿したかのように鮮やかに刻まれていたのです。

この出来事こそ、魏から晋へと時代の覇権が移ろうとする、大いなる予兆だったのでした。

晋の泰始三年、張掖の太守であった焦勝が、都へ向けて報告を上奏しました。「かつての郡の絵図と、今目の前にある石の文様を照らし合わせてみたところ、文字の数にわずかな違いが見受けられます。ここに詳細な図を添え、謹んで奏上いたします」と。その文様には五頭の馬の像があり、そのうちの一頭には、平らな頭巾をかぶり、戟を携えた人物が跨っていました。また、馬の形をしていながら完全ではない像も見られ、その周りには「金」「中」「大司馬」「王」「大吉」「正」「開寿」といった文字が散りばめられていました。ある一節には、「金なる者、まさにこれを取るべし」との言葉が記されていました。

同じく晋の武帝、泰始の御代の初め頃、人々の衣服に奇妙な流行が生まれます。上衣は質素になり、下衣はゆったりとした形が好まれ、誰もが腰をきつく締め付けていました。これは、君主の力が衰え、臣下が思うがままに振る舞うという、世の乱れの兆しだったのです。

やがて元康の末期になると、婦人たちが両襠という上着を、襟を交差させる交領の上から羽織るようになります。これは、内なるものが外へと溢れ出るという象徴でした。また、乗り物である車は、細かな装飾が好まれ、その形は頻繁に変えられました。そして誰もがこぞって、白い竹の皮を縁飾りに用いるようになったのです。これは古来、葬送の車に用いられた意匠の名残であり、晋の国に忍び寄る災いの影を映し出す、不吉な前触れだったのでした。


異文化の浸食と怪異の出現

折り畳み椅子である胡床や、異民族の器である貊盤は、もとは北方の民の道具でした。羌族の煮物である羌煮や、貊族の焼き肉である貊炙もまた、異郷の食べ物でした。しかし泰始の時代から、中原ではこれらがことさらに尊ばれるようになります。貴人や富豪は必ずその器を所有し、祝いの席や大切な客をもてなす宴では、何よりも先にこれらの料理が供されました。それは、やがて異民族が中原を侵すことになる、その前兆だったのでした。

晋の太康四年、会稽郡で不可解な現象が起こります。シオマネキや蟹が、ことごとく鼠へと姿を変えたのです。その数は野を覆い尽くすほどで、稲を食い荒らし、それは未曾有の災厄となりました。鼠になり始めたばかりの頃は、毛と肉はあるものの骨がなく、ただ田んぼの中を這うように歩くだけでした。そして数日も経つと、不思議なことに、それらはすべて雌へと姿を変えてしまったのです。

太康五年正月、都を揺るがす出来事が起こります。帝王の威厳と支配の象徴である武具を収める武庫、その固く閉ざされた井戸の底から、二頭の龍が姿を現したのです。龍は本来、そのような場所に棲まうものではありません。この出来事から七年後、王族たちは互いに争うようになり、二十八年後には、二人の異民族の長が皇帝の位を騙り、その両者ともに、名に「龍」の字を用いていたのでした。

晋の武帝、太康六年には、南陽で二本足の虎が捕らえられました。虎は陰の精でありながら陽の地に棲み、五行では「金」に属する獣です。対する南陽は、「火」に属する地。金の精が火の中に入り、その本来の姿を失うとは、王室に乱れが生じるという、不吉な兆しでありました。

その七年後の十一月、景辰の日、四本の角を持つ獣が河間に現れました。それは、天が下した警告に他なりませんでした。「角」は戦を、「四」は四方を象徴します。つまり、「四方から兵乱が巻き起こるであろう」という天の声だったのです。その後、河間王が四方の兵力を結集させ、ついに乱の火蓋が切られました。

太康九年、万里の長城の北、幽州の地で、死んだ牛の首が言葉を話すという奇怪な出来事が起こります。当時、帝は病に臥せっており、自らの死後のことを深く憂いていましたが、後継者の指名において公平さを欠き、その思慮は乱れていました。この牛の声は、それに対する天からの警告だったのです。

太康の頃には、またしても武庫で不思議な出来事がありました。今度は、その屋根の上に二匹の鯉が忽然と現れたのです。武庫が武の府であるように、鱗を持つ魚もまた、兵器の類いと見なされます。陰の気を極めた魚が、陽の象徴である屋根の上に現れる。それは、陰の気が兵乱という災いを伴い、陽なる君主を侵すという、不吉な前兆に他なりませんでした。

恵帝の御代の初め、皇后の父である楊駿が誅殺されると、矢は宮殿にまで飛び交い、皇后は庶民の身に落とされ、幽閉先の宮殿で静かに息を引き取りました。元康の末期には、賈后が権力をほしいままにし、太子を陥れて死に追いやり、しかし彼女自身もまた、すぐに誅殺される運命を辿ります。わずか十年ほどの間に、母后による災いが二度も繰り返されたのは、まさしくあの鯉が示した予兆の通りでした。そしてこれ以降、災いと乱れは次々と引き起こされていくのです。京房が説いた易の妖説にも、「魚が水を離れ道に飛び出せば、兵乱が起きるだろう」と記されています。


風俗の乱れと異形の装い

もともと木履を作る際には、婦人のものは爪先を丸く、男子のものは四角く作るのが習わしでした。男女の区別を明らかにしようという、古くからの知恵です。しかし太康の頃になると、婦人たちが皆、四角い爪先の木履を履くようになり、男女の区別がつかなくなってしまいました。これは、賈后が嫉妬深く、権力を我が物にしたことの兆しだったと言われています。

晋の時代、婦人たちの間である髪型が生まれました。髪を結い上げた後、絹の布でその輪をきつく縛るもので、人々はそれを「擷子髻」と名付けました。宮中から始まったこの流行は、たちまち天下に広まります。しかし、この髪型が世を席巻したその末に、ついに懐帝と愍帝という二人の帝が、異民族の手に落ちるという国家の大難が待ち受けていたのです。

太康年間、天下では「晋世寧」という名の舞が流行しました。その舞は、手を下に向け、杯や盆を掴んでは、それをひっくり返すという所作を伴うものでした。歌にはこうあります。「晋世寧の舞、杯盤は反覆す」と。これは、世が極めて危うい状態にあることを示唆しています。杯や盆は酒器でありながら、それに「晋の世は安泰なり」と名付けたのは、当時の人々が目先の酒食の楽しみの中にしか安らぎを見出せず、その知恵は遠い未来にまで及ばないことの表れでした。彼らはまるで、天下の安寧を器のように手中に収めていると錯覚していたのです。

同じく太康年間、天下ではフェルトを、髷を覆う布や、帯、袴の裾に用いることが広まりました。そこで人々は、互いにこんな冗談を言い合ったものです。「中原は必ずや異民族に敗れるだろう。なぜなら、フェルトは彼らの産物だからだ。それを天下の人々が頭に頂き、身にまとい、袴の裾にまで使っている。異民族が三度も我らの服制を支配したのだ。これで国が滅びないはずがあろうか」と。

太康の末期、都の洛陽で「折楊柳」という歌が流行しました。その調べは、初めは兵乱の苦しみを嘆く言葉で始まり、終わりには捕虜となり、斬首されるという悲劇で幕を閉じます。その後、楊駿が誅殺され、太后が幽閉の末に亡くなったのは、まさしくこの楊柳の歌が予言した通りだったのでした。

晋の武帝、太熙元年のこと、遼東で馬に角が生えるという出来事がありました。角は両耳の下から生え、その長さは三寸ほどでした。やがて帝が崩御されると、王室はたちまち兵乱という毒に蝕まれていったのです。


賈后の専横と異形の予兆

晋の恵帝、元康の頃、婦人の装飾として、五種類の兵器を模したものを身につけることが流行しました。金、銀、象牙、角、鼈甲などを用い、斧、鉞、戈、戟といった武具の形を作り、それを簪の代わりにしたのです。男女の区別は、国家の大きな秩序であり、その服飾もまた異なるのが当然です。婦人が兵器を飾りとするとは、世が乱れる極めて妖しい兆しでした。そしてその後すぐに、賈后の専横が始まったのです。

晋の元康三年閏二月、宮殿の前にある六つの鐘が、すべて涙を流すように濡れそぼり、一時間ほどしてようやく乾いたといいます。その前年、賈后は楊太后を金墉城で手にかけましたが、その悪行を悔いることはありませんでした。鐘が流した涙は、その悲しみを代弁していたかのようでした。

恵帝の御代、都の洛陽に、一つの体に男女二つの性を備えた者が現れました。性的な営みも両方を行うことができ、その性はとりわけ淫らであったと伝えられます。天下の兵乱は、男女の気が乱れることによって引き起こされるという、これもまた妖しい兆しの一つでした。

恵帝の元康年間、安豊に周世寧という八歳の娘がいましたが、次第にその体は男へと変化していきました。十七、八歳になる頃には気性も男らしくなりましたが、女の体が完全に消えたわけでも、男の体が完全に成り立ったわけでもありませんでした。妻を娶りましたが、子を授かることはありませんでした。

元康五年三月、臨淄にて、体長三十メートルはあろうかという大蛇が、二匹の小蛇を背負い、城の北門から現れました。大蛇はそのまま市を通り抜け、漢陽城の景王祠の中へと姿を消したといいます。

同じく元康五年三月、呂県で地面から血が流れ出し、その跡は東西に百三十メートル以上も続きました。その八年後、封雲が徐州で乱を起こし、数万もの人々が命を落としたのです。

元康七年、雷が城南にある高禖石を打ち砕きました。高禖とは、宮中で子授けを祈るための祠です。賈后が嫉妬心から懐帝や愍帝を手にかけようとしていたため、天がその誅殺を怒り、予兆として示したのでした。

元康の頃、天下では烏杖という杖を真似て、それを背後から肘で支えるようにして突くのが流行しました。やがて杖の先端には飾りが施され、人々は杖を地面に突き立てるようになります。懐帝、愍帝の御代になると、王室は苦難に見舞われ、都は失われました。その後、元帝が地方の有力者として東方で徳を積み、天下を支えたことは、この杖が「支え」となったことへの応えだったのでした。

また元康年間、上流階級の子弟たちの間では、髪を振り乱し、裸で酒を酌み交わすという風俗が広まりました。彼らは側近の女性を目の前で愛撫し合い、これに異を唱える者は交友を絶たれ、批判する者は非難を浴びせられました。当時の清廉な士は、これに加わることを深く恥じたといいます。これは、やがて異民族が中原を侵す萌芽でした。そしてついに、五胡の乱が起こるのです。

恵帝の太安元年、丹陽湖の一つ、夏架湖で、大きな石が水面に浮かび上がり、二百六十メートルほど流されて岸に打ち上がりました。百姓たちは驚き、互いに言い合いました。「石がやって来た(石来尋)」。その後、石冰が建鄴の城に入ったのは、この出来事の暗示だったのかもしれません。

太安元年四月、一人の男が龍門から宮殿の前に侵入し、北に向かって二度拝礼すると、「私は中書監になるべき者だ」と言い放ち、すぐに捕らえられ斬首されました。尊く、秘された禁中に、卑しい者がたやすく入り込み、門番すら気づかないとは、宮室が空となり、下の者が上を凌ぐという妖しい兆しでした。その後、恵帝は長安へ遷都を余儀なくされ、宮殿は主を失い、空っぽになったのです。


人と獣の怪異、乱れゆく世

太安の頃、江夏の功曹であった張騁が牛車に乗っていると、その牛が突然、人の言葉でこう話しかけました。「天下はまさに乱れようとしている。私はもう疲れ果てた。私に乗って、一体どこへ行こうというのか」。張騁と数人の従者は、皆、驚き恐れました。張騁は牛をなだめるように言います。「お前を家へ帰してやるから、もう話すでない」。そして道を半ばで引き返し、家に着いてまだ牛を車から外さないうちに、牛はまた言いました。「ずいぶんと帰るのが早いではないか」。張騁はますます憂い、このことを固く秘密にして誰にも話しませんでした。

安陸県に、占いに長けた者がいたので、張騁は彼のもとを訪ね、占ってもらいました。占者は言います。「大凶です。これはあなた一族の災いにとどまらず、天下に兵乱が起こり、この一郡の内はことごとく破滅するでしょう」。

張騁が家に帰ると、牛はまたもや二本足で立ち上がり、歩き始めました。百姓たちは物珍しさに集まってきます。その年の秋、張昌が賊徒を率いて蜂起しました。彼はまず江夏を攻め、「漢の天命が再び巡り来た。鳳凰の吉兆が現れ、聖人が世に出る」と嘘を広めて百姓を惑わしました。彼の軍に加わった者は皆、赤い頭巾を巻き、火徳の瑞祥であると誇示しました。百姓たちは混乱し、賊に従うことを、まるで故郷へ帰るかのように受け入れたのです。張騁の兄弟も将軍や都尉の位を得ましたが、間もなく敗れ去りました。これにより一郡は破壊され、死傷者は半数を超えましたが、不思議と張騁の家族だけは無事でした。京房の易の妖説には、「牛が言葉を話せば、その言葉の通りに吉凶を占うべし」とあります。

元康から太安にかけて、長江と淮水の地域で、破れた草履がひとりでに道端に集まるという現象が起こりました。多いところでは、四十から五十足にもなったといいます。人がそれを散らして林の中に投げ込んでも、翌日見ると、すべてが元通りに集まっているのです。あるいは、「猫が咥えて集めているのを見た」と語る者もいました。世間の人々はこう噂しました。「草履は人の履く最も卑しいものであり、下々の民が苦労し、虐げられることの象徴だ。それが破れているのは、民が疲弊しきっていることを示している。道とは、四方八方へ通じ、王の命令が行き交う場所。今、その道に破れた草履が集まるのは、疲弊した下々の民が互いに集まって乱を起こし、四方を閉ざして王命を塞いでしまうという象徴に違いない」と。

晋の恵帝、永興元年、成都王が長沙を攻撃した際、反乱軍は鄴に陣を敷き、城外に兵を並べました。その夜、兵士たちの持つ戟の穂先のすべてに、ゆらめく火の光が見えました。遠くからはまるで蝋燭が吊るされているかのようでしたが、近づいてみると、そこには何もありません。その後、反乱軍はついに敗れ、滅び去ったのでした。

晋の懐帝、永嘉元年、呉郡呉県に住む万詳という家の下女が、一人の子を産みました。その子は鳥の頭を持ち、二本の足は馬の蹄、手は一本しかなく、毛はなく、椀ほどの大きさの黄色い尾を持っていたといいます。

永嘉五年、枹罕県の県令であった厳根の家の女中が、一匹の龍と、一人の女、そして一羽の鵝鳥を同時に産み落としました。京房の易伝には、「人が人ならざるものを産み、人には見えぬものが現れるとき、それはすべて天下に大兵乱が起こる兆しである」と記されています。当時、恵帝の後の世は四海が騒然としており、間もなく懐帝は平陽に囚われ、異民族の手によって害されることとなったのです。

永嘉五年、呉郡嘉興の張林の家で、飼っていた犬が突然、人の言葉でこう言いました。「天下の人は皆、飢え死にするだろう」。その後、二胡の乱が起こり、天下は飢饉と荒廃に見舞われました。

永嘉五年十一月、延陵に蝘鼠という、トカゲに似た鼠が現れました。かの郭璞がこれを占ったところ、臨の卦から益の卦が出ました。彼は言います。「この郡の東の県に、皇帝を騙ろうとする妖人が現れるだろう。しかし、その企てはすぐに自滅するに違いない」と。

永嘉六年正月、無錫県に、突然四本の茱萸の木が生え、互いに絡み合って、まるで一つの木であるかのように見えました。これより先、郭璞が延陵の蝘鼠を占った際に、こうも予言していました。「後にまた、妖しい木が生えることがあるだろう。それは吉兆ではなく、辛く刺激の強い木だ。もしそれが出現すれば、東西数百里の範囲で、必ずや反逆を企てる者が現れる」と。この茱萸の木が生えた後、呉興の徐馥が乱を起こし、太守の袁琇を殺害したのでした。

永嘉の頃、寿春の城内で、豚が人間の子を産みました。その子は二つの頭を持っていましたが、産まれたときにはすでに息絶えていました。周馥がこれを取り寄せて検分したといいます。識者はこう評しました。「豚は北方の家畜であり、異民族を象徴する。二つの頭は、君主が二人いる状態を意味する。産まれてすぐに死んでいたのは、その企てが成功しないことを示しているのだ」。天の警告は、「軽々しく権力を我が物にしようとすれば、自ら滅びを招くだろう」というものでした。間もなく、周馥は元帝に敗れ去りました。


臣下の専横と帝国の崩壊

永嘉年間、士大夫たちは競って生箋という絹でできた単衣を着るようになりました。物事の道理をわきまえた者はこれを怪しみ、「これは古来、天子が諸侯に下賜する練絹の布である。今、理由もなくこれを身にまとうとは、何か異変があるのではないか」と言いました。その後、懐帝と愍帝は異民族に捕らえられたのです。

昔、魏の武帝(曹操)の軍中で、理由もなく白い頭巾を作る風習がありました。これは喪服の兆しでした。初め、頭巾の前を横に縫って後ろと区別し、「顔帢」と名付けて流行しました。しかし永嘉の時代になると、その縫い目は次第に取り払われ、「無顏帢」と呼ばれるようになります。そして婦人が髪を結う紐は、以前より緩くなり、髷は自立せず、髪は額を覆い、かろうじて目だけが見えるという有様でした。「無顔」とは、恥を知るという意味です。額を覆うのは、恥じ入る姿。髪紐が緩むのは、天下が礼と義を失い、人々が情欲のままに振る舞い、その果てに大きな恥をかくことになる、という暗示だったのです。その二年後、永嘉の乱が起こり、天下は分裂し、民は塗炭の苦しみを味わい、ただ生きていくことすら恥ずかしいと感じるほどの世の中になってしまいました。

晋の愍帝、建興四年、西の都、長安は陥落し、元皇帝が初めて晋王となり、四海の中心となりました。その年の十月二十二日、新蔡県の役人であった任喬の妻、胡氏が、二人の娘を産みました。娘たちは互いに向き合い、腹と胸が一つに繋がっており、腰から上と、臍から下だけが分かれていました。これは、天下がいまだ一つに定まっていないという、妖しい兆しでした。

当時、内史の呂会はこのように上奏しました。「瑞応図によれば、『異なる根から生えながら体が一つであるものを連理といい、異なる畝に育ちながら一つの穂を持つものを嘉禾という』とあります。草木でさえ吉兆とされるのですから、今、二人の人間が心を一つにしているのは、天が霊妙な象徴をお示しになったに違いありません。故に易にも『二人が心を一つにすれば、その鋭さは金をも断ち切る』とあります。この喜ばしき徴が陳東の地から現れたのは、天下が心を一つにするという瑞祥です。喜びを禁じ得ません。謹んでこの図を奉ります」。

当時、物事の道理を知る者たちは、この上奏を嘲笑したといいます。君子は言います。「物事を知るということは、なんと難しいことか。かの臧文仲ほどの才能がありながら、ただ鶻鳥を祀ったという過ちを犯した。その記録は書物に残り、千年経っても忘れられることはない。だからこそ、士たる者は学ばねばならないのだ。古人も言う。『木に枝がなければ不具であり、人が学ばなければ盲目である』と。知識がないところに物事が覆い隠されてしまえば、そこには欠落が生まれる。人は、勉学に励むべきではないだろうか」。

晋の元帝、建武元年六月、揚州で大干魃が起こり、十二月には河東で地震がありました。その前年の十二月には、督運令史の淳于伯が斬首された際、その血が柱を逆流して五メートル半もの高さまで達し、再び一メートル三十センチほど下がるという奇怪な出来事がありました。この時、淳于伯は無実の罪で死んだため、その後三年もの間、干魃が続いたのです。刑罰がみだりに行われ、下の者が従わないとき、上の者の気がそれに勝ってしまうという現象です。この干魃は、不当な罰と、無実の者の無念の気が引き起こしたものだったのでした。

晋の元帝、建武元年七月、晋陵の東門で、牛が一体に二つの頭を持つ子を産みました。京房の易伝には、「牛が子を産み、二つの頭に一つの体であれば、天下が分裂する象徴である」と記されています。

元帝の太興元年四月、西平で地震があり、水が湧き出ました。十二月には、廬陵、豫章、武昌、西陵で地震が起こり、水が湧き出し、山が崩れました。これは、やがて王敦の墓所が荒れ果てるという予兆だったのです。

太興元年三月、武昌太守の王諒の牛が、二つの頭、八本の足、二本の尾を持ち、一つの腹を共有する子を産みました。自力では産むことができず、十人以上が綱で引っ張り出してようやく取り出しましたが、子は死に、母牛だけが生き残りました。その三年後には、宮中の苑で牛が子を産みましたが、一本の足に三本の尾があり、産まれてすぐに死んでしまったといいます。

太興二年、丹陽郡の役人、濮陽演の馬が、首の前から分かれた二つの頭を持つ仔馬を産みましたが、これも産まれてすぐに死んでしまいました。これは、政権が私的な一門(王敦)によって二分されるという象徴でした。その後、王敦が権力を握ることになります。

太興の初め、ある女性は、その陰部が腹部の臍の下にあったといいます。彼女は中原から江東へやって来ましたが、その性は淫らでありながら、子を産むことはありませんでした。また別の女性は、陰部が頭部にあり、揚州に住んでいましたが、これもまた性的に淫らであったと伝えられています。京房の易妖には、「人が子を産み、陰部が頭にあれば天下は大いに乱れる。腹にあれば天下に異変あり。背にあれば天下に後継ぎが絶えるであろう」と記されています。

太興年間、王敦が武昌に駐屯していた時、武昌で火災が起こりました。多くの人々が消火に駆けつけましたが、こちらで火を消せば、あちらで火の手が上がり、東西南北の数十ヶ所で同時に燃え広がり、数日間も火は絶えませんでした。古来より、「みだりに起こる災いは、軍を興しても救うことはできない」と言われる通りです。これは、臣下が君主のように振る舞い、その度が過ぎたことを示していました。当時、王敦は権力をほしいままにし、君主をないがしろにする心を抱いていたため、この災いが起こったのです。

太興の頃、兵士たちは赤い袋で髪を結ぶようになりました。識者は言います。「髪は頭にあり、天、すなわち君主を表す。袋は地であり、臣下を表す。今、朱色の袋で髪を結ぶのは、臣下が君主を侵すという象徴だ。着る物も、上着の帯は短く脇の下に届くほどになり、帽子をかぶる者は、帯で首を締め上げる。これは下の者が上の者を締め付ける様子を示している。袴は、まっすぐで口がなく、大きく作られているが、これも下の者が増長する象徴だ」と。間もなく、王敦は謀反を起こし、再び都を攻撃したのでした。

太興四年、王敦が武昌にいた時、彼の護衛が持つ儀仗の鈴の下から花が生えました。それは蓮の花のようでしたが、五、六日で萎れて落ちてしまいました。易経には、「枯れた楊柳に花が生じても、長くは続かない」とあります。今、狂い咲きの花が枯れた木に咲き、しかも護衛の鈴の下で咲いたのは、王敦の威儀と栄華が、その花のように儚く、長くは続かないことを示していました。その後、王敦は謀反の末に命を落とし、その亡骸はさらに辱めを受けたのです。

昔、羽扇の柄は、木の形を刻んで骨のように見せ、羽は十枚で一つの完全な数としていました。初め、王敦が南征した際、初めて柄を長くし、下から突き出して握れるように改めました。そして羽の数を十枚から八枚に減らしたのです。識者はこれを非難して言いました。「羽扇は、翼の名を持つ。柄を長くしたのは、その柄を握って朝廷という翼を支配しようとしているのだ。十を八に減らしたのは、才の備わらぬ者が、すでに備わっている朝廷の権威を奪おうとしていることの表れだ。これはまさに王敦が権力をほしいままにし、朝廷を支配し、徳も才能もないままに不当な位を奪おうとしている徴候である」と。

晋の明帝、太寧の初め、武昌に大きな蛇がいて、古い祠の洞になった木の中に棲みつき、人に向かって頭を出し、餌をもらっていました。京房の易伝には、「蛇が人里に現れ、三年以内に出現すれば、国に大きな兵乱と憂いがある」とあります。間もなく、王敦の謀反が起こったのでした。


この第七巻は、西晋王朝が崩壊へと向かう時代に、天下に現れた数々の不可解な現象や風俗の乱れを記録し、それらをすべて「王朝滅亡の予兆」として結びつけた、いわば歴史の裏面を描いた終末預言書です。自然界の異常、人々の奇妙な流行、不気味な怪異譚が、賈后の専横、八王の乱、そして異民族の侵入による永嘉の乱といった、実際に起こった歴史的大事件の前触れとして克明に語られます。それは、天と地と人が一体となって、一つの時代の終わりを告げていたことの証言集なのです。

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各場面の深掘り:心揺さぶる情景

この巻には、単なる怪異の羅列に留まらない、人間の息遣いや時代の空気が感じられる印象的な場面が数多く含まれています。

刹那の安らぎを求める「晋世寧の舞」

滅亡が迫る中、都では「晋の世は安泰なり」と名付けられた舞が流行します。しかしその振り付けは、杯や盆をひっくり返すという、実に不吉なものでした。これは、破滅を予感しながらも、あえて「安泰」と名付けた宴の舞に興じることで、目の前の不安から目を逸らそうとする人々の痛々しいほどの人間味を描いています。明日をも知れぬ乱世にあって、一瞬の楽しみにすがりつきたいという庶民の切ない願いが、この不思議な流行の裏に透けて見えます。

シニカルな冗談に隠された諦観

異民族の産物であるフェルトが、頭の飾りから袴の裾にまで使われるようになります。人々は「異民族に三度も服装を支配されたのだから、国が滅びないはずがない」と互いに冗談を言い合いました。これは単なる噂話ではありません。抗いがたい時代の大きな流れを前に、庶民ができる唯一の抵抗が、自嘲とユーモアであったことを示しています。破滅的な未来を前に、恐怖や怒りではなく、乾いた笑いで受け流そうとする人々のしたたかさと悲哀が感じられる、非常に人情味あふれる一節です。

言葉を話す牛と、うろたえる主人

功曹・張騁が乗っていた牛が、突然「天下は乱れる。私は疲れた。どこへ行くのか」と喋りだします。驚き恐れた張騁は、「帰してやるから、もう話すな」と牛をなだめすかして家に帰ります。この超常的な出来事に直面した主人の狼狽ぶりと、なんとかその場を取り繕おうとする小心な姿は、滑稽でさえあり、非常に人間臭く描かれています。神や天の警告といった壮大な話の中で、このような個人の小さなドラマが挿入されることで、物語に不思議なリアリティと温かみを与えています。

野を埋め尽くす「蟹から変化した鼠」

会稽郡で、シオマネキや蟹が、一斉に鼠に変化するという怪事件が起こります。しかも、なりかけの鼠は骨がなく、やがてすべて「雌」になってしまうという異様さ。野原を覆い尽くす不完全な生命体の群れという光景は、現代のSFやパニックホラーを彷彿とさせるシュールな恐怖に満ちています。自然界の秩序が根底から覆される様は、不気味でありながらも、その奇抜さにおいて読者の好奇心を強く刺激します。

生命の禁忌を犯す「人ならざるものの出産」

この巻で最も強烈な恐怖を喚起するのは、女性が「人ならざるもの」を産む場面でしょう。「鳥の頭と馬の蹄を持つ子」や、「一匹の龍、一人の女、一羽の鵝鳥」を同時に産むという記述は、生命倫理の根幹を揺るがす生理的嫌悪感を伴います。これは単なる奇形ではなく、人間と動物、神聖なものと俗なるものの境界線が溶解し、世界の秩序そのものが崩壊していく様を象徴しています。特に、これらの怪異が歴史上最も悲惨な「永嘉の乱」の直前に記録されていることで、その恐怖は現実のものとして読者に迫ってきます。

死者からの警告「語る牛の首」

幽州で「死んだ牛の首が言葉を話す」という出来事は、短い記述ながら強烈なインパクトを残します。生き物が話すだけでも不気味ですが、一度死んだものが語りかけるというのは、生と死の境界が曖昧になったことの証であり、より根源的な恐怖を感じさせます。それは、もはやこの世の理屈が通用しない、絶対的な破滅がすぐそこまで来ているという、拒絶不能の警告なのです。

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検証の深掘り:予兆はなぜ生まれたのか

これらの不可解な物語は、単なる迷信や空想の産物ではありません。そこには、当時の人々が世界をどのように捉えていたかを示す、深い思想的背景が存在します。

思想的背景:「天人相関思想」と「五行説」

すべての怪異譚の根底には、「天人相関思想」があります。これは、天(自然界)で起こる異常現象は、地上(人間社会)、特に為政者の行いと深く連動しているという考え方です。君主の政治が乱れれば、天は警告として日食、地震、そしてこの巻にあるような様々な怪異を引き起こす、と信じられていました。また、「虎は金の獣」「南陽は火の場所」といった記述に見られるように、「五行説」を用いて怪異を論理的に解釈しようとする試みも見られます。これにより、あらゆる不思議な出来事が、「王室の乱れ」や「臣下の専横」といった具体的な政治的メッセージとして読み解かれたのです。

歴史的背景:結果から遡った「後付けの予言」

『捜神記』が編纂されたのは、西晋が滅亡した後の東晋時代です。つまり、編纂者である干宝は、「永嘉の乱」という結末を知った上で、過去に遡ってその「原因」や「前兆」を探し求めたと考えられます。人々の間で語られていた様々な噂話や地方の記録の中から、後の歴史的事件を暗示するようなエピソードを意図的に選び出し、一つの壮大な「滅亡の物語」として再構成したのです。これは未来を予言したというより、起こってしまった悲劇に「天命」という必然的な意味を与えるための、歴史の再解釈であったと言えるでしょう。

社会的背景:乱世が生み出した集合的“不安”

この巻に記録された風俗の乱れや異文化の流行は、実際に西晋末期の社会が直面していた現実です。伝統的な価値観が崩れ、異民族との接触が増え、政治が混乱する中で、人々は漠然とした、しかし強烈な終末感を抱いていました。その集合的な社会不安が、日常の些細な異常や不可解な出来事を「凶兆」として語り継がせる土壌となったのです。つまり『捜神記』第七巻は、客観的な記録であると同時に、滅びの時代を生きた人々の“不安”そのものが結晶化した物語でもあるのです。

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