第六巻:妖(あやかし)
怪異の理と天地の声
妖とは、万物に宿る生命の気、すなわち精気が、何かの形を借りてこの世に現れたもののことである。内に秘められた気が乱れるとき、そのさざ波は外なる事物の姿を変えてしまう。形と魂、気と物質とは、いわば光と影のように、分かちがたく結びついているのだ。
この世の森羅万象は、木・火・土・金・水という五つの元素をその本質とし、それは人の営み、すなわち視ること、聴くこと、語ること、思うこと、そしてその顔つきにまで通じている。すべては移ろい、盛衰を繰り返し、無数の様相を見せるが、それが吉凶の兆しである限り、そこには必ず読み解くべき理が潜んでいるのである。
石の言霊:山が動くとき
古、夏の桀王の時代に厲山は崩れ、秦の始皇帝の世には三つの山が姿を消したと伝わる。周の顕王の御代には宋の大邱にあった社が、漢の昭帝の末期には陳留と昌邑の社が、忽然と滅び去った。
京房が著した『易伝』には、こう記されている。「山が音もなく自らその場所を移すとき、天下には戦乱が起こり、国は亡びるであろう」と。
故に、会稽の山陰や瑯邪の地には、「怪山」と呼ばれる奇妙な山が存在する。世に伝わる話によれば、この山はもともと瑯邪の東武の海に浮かぶ山であったという。ある夜、激しい風雨が地を打ち、世界が闇に閉ざされた。夜が明けてみると、かの武山が、この地に移り来ていたのである。人々はその不可思議な出来事を畏れ、いつしかその山を「怪山」と呼ぶようになった。時を同じくして、東武の県にあったはずの山も、一夜にして消え失せていた。その山の形を知る者だけが、二つの出来事が一つに繋がっていることを悟ったのだ。今も怪山の麓には「東武里」という地名が残るが、それはこの山がかつてどこから来たのかを、静かに物語るために名付けられたものだ。
また、交州の脆州山が遥か彼方の青州へと移ったという話もある。山が動くというのは、およそ尋常ならざる大いなる異変である。これら二つの山が動いたのが、いずれの時代のことであったか、今はもう定かではない。
『尚書』の「金縢」の篇には、こうある。「山が動くのは、君主が道を見失い、賢者が用いられず、人々の禄が絶え、朝廷の賞罰が君主の手を離れ、私利を貪る者たちが徒党を組むときである。これを正さなければ、やがて時代は移り、国の名さえも変わるであろう」と。
天の病:人の世に映る変異
古の賢人は言う。「天の道を深く知る者は、その理を必ず人の営みに重ねて語り、人の性を深く知る者は、その源を必ず天に求める」と。
それ故に、天には四季が巡り、太陽と月が満ち欠けし、寒さと暑さが入れ替わる。これは天の常の姿である。その気が和やかに働けば雨となり、怒れば風となり、霧散すれば露となり、乱れれば霧となり、凝り固まれば霜や雪となり、天に広がれば虹となる。これらは皆、天の常なる息遣いなのだ。
人にもまた、四肢と五臓があり、目覚めと眠りがあり、呼吸を繰り返し、生命の気が体内を巡り、血肉となって流れ、顔色に現れ、声となって発せられる。これもまた、人の常なる営みである。
もし天の四季が狂い、寒暖の差が常軌を逸したならば、五つの惑星の軌道は乱れ、星辰は位置を失い、太陽や月は蝕まれ、彗星や流れ星が夜空を裂くだろう。これらは、天地が重篤な状態にあることの現れなのだ。寒暑が不規則なのは、天地が病に冒された兆候であり、岩が屹立し、土が盛り上がるのは、いわば大地の腫物である。山が崩れ、地が裂けるのは、まさしく地の病巣が破れた姿に他ならない。突風や豪雨は天地の狂奔する気であり、雨が降らず河が涸れるのは、天地の焦燥と枯渇の現れなのである。
異形の誕生:陰陽の乱れ
商の紂王の治世には、巨大な亀に毛が生え、兎に角が生えたという。これは、戦乱が間近に迫っていることを告げる不吉な象徴であった。
周の宣王の御代、後に幽王となる王子が生まれた年、馬が狐に化けるという不可思議な出来事が起こった。
晋の献公の時代、周の恵王が鄭の国に滞在していた折のこと、王の役所に入った多くの者が、水中に潜む妖物である蜮に姿を変え、人々に向かって矢を射かけたという。
周の隠王の御代、四月のこと。斉の国の地面が、突如として一丈(約3メートル)あまりも盛り上がり、その高さは一尺五寸(約45センチ)にも達した。京房の『易妖』によれば、「四季の間に地が不意に成長する占いは、春と夏であれば吉が多く、秋と冬であれば凶が多い」とされている。
また、歴陽の郡が一夜にして地中に沈み、広大な沢に変わってしまった。今の麻湖がその場所であると伝わるが、それがいつの時代のことであったかは不明である。『運斗枢』には、「都が陰に沈み、陽の気を喰い尽くすとき、下克上が起こり、人々は互いに殺し合うであろう」と記されている。
周の哀王の御代、鄭の国で一人の婦人が、一度に四十人の子を産んだ。そのうち二十人は人の姿で生き、残る二十人は死んでしまったという。その九年後、晋の国では、豚が人の子を産むという異変が起きた。
呉の赤烏七年には、一人の婦人が一度に三人の子を産んだ。
周の烈王の御代、林碧陽君に仕える御者が、二頭の龍を産み落とした。
魯の厳公の時代、斉の襄公が貝邱で狩りをしていたとき、一頭の豚に出くわした。従者が言う。「あれは公子彭生様の化身にございます」と。襄公は怒り、その豚に矢を放った。すると豚は、人間のように立ち上がって吠えたてた。公は恐怖に駆られ、車から落ちて足を怪我し、履物さえ失ってしまった。劉向は、これを豚がもたらした災いと見なした。
同じく魯の厳公の時代、城門の中で雌雄の蛇が争い、雌の蛇が死んだ。劉向はこれを蛇がもたらした災いとした。京房の『易伝』には、「後継者を立てることに迷いが生じるとき、その災いは蛇が国の門で争うという形で現れる」とある。
魯の昭公の時代、龍の群れが鄭の都の門の外、洧淵に集まった。劉向はこれを龍がもたらした災いと見なした。京房の『易伝』には、「人々の心が定まらず、不安が広がるとき、その災いは龍が都に集まるという形で現れる」とある。
魯の定公の元年、九匹の蛇が一つの柱に巻き付いた。占いは、九代にわたって先祖の祀りが絶えることを示しており、人々はそれを鎮めるために煬宮を建てた。
秦の孝公の御代、馬が人の子を産んだ。昭王の時代には、雄馬が子を産み落とし、そのまま死んだという。劉向はこれを馬がもたらした災いとした。京房の『易伝』には、「諸侯が君主の権威を分け合うとき、災いは雄馬が子を産むという形で現れる。天子がその座になく、諸侯が互いに争うとき、災いは馬が人を産むという形で現れる」とある。
魏の襄王の時代、一人の女が男に変わり、妻を娶って子を成した。京房の『易伝』には、「女が男に化けるのは、陰の気が盛んになる兆しであり、身分の低い者が王となることを示す。男が女に化けるのは、陰が陽に打ち勝つ兆しであり、国が亡びる前兆である」とある。また別の説では、「男が女に化けるのは宮刑が濫用される兆しであり、女が男に化けるのは婦人が政治を壟断する兆しである」とも言う。
秦の孝文王の御代、五本足の牛が献上された。当時、秦は民を酷使し、天下の恨みを買っていた。京房の『易伝』には、「民に重労働を課し、その時間を奪うとき、その災いは牛が五本足で生まれるという形で現れる」とある。
秦の始皇帝の二十六年、身の丈が五丈(約15メートル)、足の大きさが六尺(約1.8メートル)もある巨人たちが、皆異民族の衣装をまとい、十二人も臨洮の地に現れた。始皇帝はこれに畏怖し、彼らを模した十二体の黄金の像を造らせたという。
漢の恵帝の御代、正月のこと。蘭陵の井戸の中に二頭の龍が現れ、夜のうちに去っていった。京房の『易伝』には、「徳ある者が害されるとき、その災いは龍が井戸の中に現れるという形で示される」とある。また、「刑罰が苛烈を極めるとき、黒龍が井戸から現れる」とも言う。
角の凶兆:争いの気配
漢の文帝の時代、呉の国で馬に角が生えた。劉向はこれを、呉が天子に背き、兵を挙げようとしている兆候だと解き、呉の反乱を告げる異変であるとした。京房の『易伝』には、「臣下が主君に逆らい、政治が乱れるとき、その災いは馬に角が生えるという形で現れる。これは賢者が世にいないことの証しである」とある。また一説には、「天子が自ら討伐に赴くとき、馬に角が生える」とも言われる。
文帝の後元五年六月、斉の雍城の門外で、犬に角が生えた。京房の『易伝』には、「政を執る者が民の信頼を失い、害されようとするとき、その災いは犬に角が生えるという形で現れる」とある。
漢の景帝の元年九月、膠東の下密に住む七十余歳の老人に角が生えた。その角には毛が生えていたという。京房の『易伝』には、「大臣が権力をほしいままにするとき、その災いは人に角が生えるという形で現れる」とある。これは諸侯が都に兵を向けようとする兆しであり、その後、呉楚七国の乱が勃発した。
景帝の三年、邯鄲で犬が豚と交わるという出来事があった。当時、趙王は道理に背き、六国と同盟して反乱を起こし、北方の匈奴さえも味方に引き入れようとしていた。五行志によれば、犬は戦乱で民を失うことを示し、豚は北方の異民族の象徴とされる。君主の過ちが聞き入れられず、異質なものと交わった結果、災いが生まれたのである。京房の『易伝』は、「夫婦の道が乱れるとき、その災いは犬と豚が交わるという形で現れる。これは徳に背く兆しであり、国に戦乱が起こるであろう」と説いている。
同じく景帝の三年十一月、楚の呂県で、頭の白い烏と黒い烏が群れをなして争い、白い烏が敗れて泗水に落ちて死んだものが数千羽に及んだ。劉向はこれを、白と黒が示す吉凶の兆しと見なした。当時、楚王の劉戊は暴虐で、賢人である申公を虐げ、呉と組んで謀反を企てていた。烏の争いは、戦いの象徴である。白い烏が小さかったのは、力の弱い方が敗れることを示し、水に落ちたのは、水辺で死ぬことの暗示であった。
景帝の十六年、梁の孝王が北山で狩りをしていた折、一頭の牛が献上されたが、その足は背中の上から生えていた。劉向はこれを牛がもたらした災いとした。国の内では思慮が乱れ、外では土木工事が度を超すとき、牛の災いが起こる。足が背から生えるのは、下の者が上の者に逆らうという、不吉な兆候なのであった。
人の世の影:王莽へと続く道
漢の武帝の太始四年七月、趙の国で、一匹の蛇が城郭の外から忍び込み、城内にいた蛇と孝文廟の下で争い、城内の蛇が死んだ。その二年後、衛太子の事件が起こり、趙の出身である江充がその騒動の発端となった。
漢の昭帝の元鳳元年九月、燕の国で、黄色い鼠が互いの尾を咥え、輪になって王宮の門の中で舞った。王がそれを見ても、鼠たちは舞い続けた。王が役人に命じて酒と干し肉で鼠を祀らせたが、舞いは一向に止まず、丸一日一夜の後、すべての鼠が死んでしまった。これは、燕王劉旦が謀反を企て、その身が滅びることを示す兆候であった。京房の『易伝』には、「無実の罪で人が殺されるとき、その災いは鼠が門で舞うという形で現れる」とある。
昭帝の元鳳三年正月、泰山と蕪莱山の南で、数千人の騒がしい声が響き渡った。人々が見に行くと、そこには巨大な石が自らの力で立ち上がっていた。高さは一丈五尺(約4.5メートル)、周囲は四十八囲(約24メートル)もあり、地中深く八尺(約2.4メートル)まで根を張り、三つの石が足となってそれを支えていた。石が立った後、数千羽の白い烏がその傍らに集まったという。これは後に宣帝が漢王朝を中興させるという、吉兆であった。
同じく昭帝の時代、皇帝の庭園である上林苑にあった大きな柳の木が、一度折れて倒れたにもかかわらず、一夜にして再び立ち上がり、枝葉を茂らせた。やがて虫がその葉を食み、そこに文字が浮かび上がった。「公孫病已立つ」と。これは、後に宣帝となる公孫病已が、即位する前は皇族でありながら民間で病に伏していたことを、不思議な力で告げたものであった。
また昭帝の時代、昌邑王の劉賀は、方山冠という四角い冠を被った、尾のない大きな白い犬を目撃した。時を経て王莽の時代になると、宮中では犬に冠を被せ、飾り帯をかけさせて笑い興じる遊びが流行したという。あるとき、その犬の一匹が宮殿を飛び出し、司空府の門へと駆け込んだことがあった。
漢の宣帝の黄龍元年、未央殿の厩舎で、雌鶏が雄に変わるという異変があった。羽毛は雄のようになったが、鳴くことも交尾することもなく、蹴爪も生えなかった。後の元帝の初元元年には、丞相府の役人の家で、卵を抱いていた雌鶏が次第に雄に姿を変え、鶏冠と蹴爪を持ち、雄々しく鳴き、交尾までするようになったという。京房の『易伝』には、「婦人が政治をほしいままにし、国が揺らぐとき、雌鶏が雄のように鳴き、君主の栄華は失われる」とある。
宣帝の世、燕と岱の地で、三人の男が一人の女を妻とし、四人の子をもうけた。やがて妻子を分けようとしたが、均等に分けられず、争いとなって役所に訴え出た。裁きを下した廷尉の范延寿は言った。「これは人の道に非ず。禽獣の子が父に従わず母に従う理で裁くべきである」と。そして三人の男を処刑し、子供たちは母親に返した。
漢の元帝の永光二年八月、天から草が降ってきた。その葉は絡み合い、大きさは弾丸のようであったという。京房の『易伝』には、「君主が禄を惜しみ、信義が廃れ、賢者が去るとき、その災いは天から草が降るという形で現れる」とある。
元帝の建昭五年、兗州の長官であった浩賞が、民が私的に社を祀ることを禁じた。山陽の橐茅郷にあった社の大きな槐の木を役人が伐り倒したが、その夜、木は元の場所に再び立ち上がっていた。これは、一度は衰えた漢王朝が、光武帝によって再び興ることを示す吉兆であった。
漢の成帝の建始四年九月、都の長安の城南で、鼠が黄色い藁と柏の葉を咥え、民家の墓に立つ木の上に巣を作った。京房の『易伝』には、「臣下が私利を貪り、君主の禄を乱すとき、その災いは鼠が木の上に巣を作るという形で現れる」とある。その後、趙飛燕が卑しい身分から皇后の位に上り詰めた。
成帝の河平元年、長安に住む石良と劉音という二人の男が同居していた部屋に、人の形をしたものが現れた。叩くと犬に化けて逃げ出したという。その後、甲冑をまとい弓矢を持った者たちが石良の家に現れたが、それらも皆、犬であった。これらはすべて犬がもたらした災いであり、君主の言葉が臣下に従われないことへの咎めであった。
成帝の鴻嘉四年秋、信都で空から魚が降ってきた。京房の『易伝』には、「海に巨大な魚がしばしば現れるときは、邪な者が用いられ、賢者が遠ざけられる」とある。
成帝の永始二年二月、河南の宿場にあった樗の木から、人間の頭のような枝が生えた。眉、目、鬚はすべて備わっていたが、髪だけがなかったという。京房の『易伝』には、「王の徳が衰え、下の者が台頭しようとするとき、木は人に似た枝を生やす」とある。その後、王莽が帝位を簒奪した。
成帝の綏和二年二月、宮殿の厩舎で馬に角が生えた。当時、王莽は大司馬の地位にあり、君主を害する兆しは、ここから始まっていたのである。
漢の哀帝の建平三年、零陵で、伐り倒された木が切り株から再び立ち上がった。京房の『易伝』には、「正しい道が捨てられ、淫らな行いが横行するとき、その災いは根を断たれたものが自ら元に戻るという形で現れる」とある。
哀帝の建平四年夏、都とその近郊で、民衆が道端に集まって宴を開き、西王母という神を祀る奇妙な流行が起こった。また、「母は民に告げる。この書を身につける者は死なず」と書かれた手紙が、人々の間に広まった。
漢の平帝の元始元年六月、長安で、一人の女が異形の子を産んだ。二つの頭と二つの首、四本の腕が一つの体につき、尻の上に目があったという。京房の『易伝』は、これを「下の者たちが互いに争い、上の者が滅び、政治が改まるであろう」と占った。
漢王朝の終焉:乱世の兆し
漢の桓帝が即位したとき、大蛇が徳陽殿の上に現れた。洛陽の市場の役人であった淳于翼は、これを見て言った。「蛇は鱗を持ち、甲冑の象徴、すなわち兵の象徴である。宮殿に現れたのは、皇后の一族が兵権を握る兆しに違いない」と。彼はそう言い残すと、官を捨てて逃げ去った。その二年後、大将軍の梁冀が誅殺され、その一族はことごとく捕らえられた。
桓帝の建和三年秋七月、北地の廉県で、空から肉が降ってきた。羊の肋骨に似て、手のひらほどの大きさがあったという。当時、梁太后が摂政を行い、兄の梁冀が権勢を振るい、無実の者を殺害して天下の恨みを買っていた。その後、梁氏一族は滅びた。
桓帝の元嘉年間、都の婦人たちの間で、愁眉、啼粧、堕馬髻、折腰歩、齲歯笑という奇妙な風俗が流行した。これは大将軍梁冀の妻、孫寿から始まったと言われている。「愁眉」は細く憂いを帯びた眉。「啼粧」は泣き腫らしたかのような目元の化粧。「堕馬髻」は片方に崩れたような髪型。「折腰歩」は腰が折れたかのように弱々しく歩く姿。「齲歯笑」は歯の痛みをこらえるように笑う仕草。これらは天からの戒めであった。「やがて兵馬が押し寄せ、婦人たちは捕らえられ、憂いに眉をひそめて泣き叫ぶであろう。役人たちはその腰を打ち、髪を乱し、たとえ無理に笑おうとも、そこには何の喜びもないであろう」と。
漢の霊帝は、宮中の庭園で遊興に耽り、後宮の女官たちに宿屋の主人をさせ、自らは旅の商人に扮して酒食を楽しむという遊びに興じた。これは天子がその尊い位を失い、卑しい身分に落ちるという不吉な予兆であった。その後、天下は大いに乱れた。
霊帝の建寧年間、男の衣服は上衣が長く下衣は極端に短くなり、女の衣服は裾が長く上衣は極端に短くなった。これは陽の気が下を失い、陰の気が上を失うという兆しであり、天下が安定しないことを示していた。その後、大乱が起こった。
霊帝の建寧三年春、河内で妻が夫を食らい、河南で夫が妻を食らうという、世にもおぞましい事件が起こった。夫婦の道とは、天と地の情にも等しい深きものである。その夫婦が互いを食らうというのは、陰陽が互いを侵し合うことであり、日食や月食よりも深刻な災いであった。霊帝が崩御すると、天下は大乱に陥り、君主はみだりに人を殺し、臣下は君主を脅かし弑する逆行がまかり通った。戦乱は絶えず、肉親さえもが仇敵となり、人々の苦しみは極限に達した。このような人の世の災いが、先に起こっていたのである。
霊ていのの中平元年、張角の兄弟が冀州で兵を挙げ、自らを「黄天」と称した。三十六の組織を作り、四方へ兵を送り、将帥を置き、役人を各地へ派遣した。漢の朝廷がこれを鎮圧できたのは、彼らが疲弊し、飢えに苦しんだ後のことであった。
霊帝の中平三年八月、懐陵の上で一万羽を超える雀が、悲しげに鳴き交わした後、互いに激しく争い、すべてが首を断たれて木の枝や茨にぶら下がっていた。その六年後、霊帝は崩御した。陵とは尊きものの象徴であり、雀は爵位、すなわち官位にある者の象徴である。天はこう戒めていたのだ。「爵禄を懐き、尊い地位にある者たちが、やがて互いに害し合い、滅びるであろう」と。
これら数多の怪異は、偉大なる漢王朝の衰微と、その後に続く三国時代の激しい動乱を、静かに予告していたのである。
この巻は、古代中国で起こったとされる多種多様な「怪異」を記録したカタログです。その核心にあるのは、「天と人の世界は繋がっている」という思想です。山が動き、動物が異形となり、男女の性が入れ替わるといった不可解な現象は、単なる奇怪な出来事ではありません。それらはすべて、政治の乱れや君主の不徳、社会秩序の崩壊といった「人の世の病」が、自然界という鏡に映し出された「天からの警告」であると説いています。特に漢王朝の滅亡に至るまでの数々の凶兆を列挙することで、人の営みが天の理から外れた時、いかに恐ろしい結末を迎えるかを物語る、壮大な警告の書となっています。
不思議さと人情味あふれる場面
この巻は不気味な話が多い一方で、不思議な運命の糸や、人間の滑稽な一面が垣間見える場面もあります。
不思議さの極致:「柳の木の神託」
昭帝の時代、一度倒れた柳の木が自ら起き上がり、その葉に虫が食って「公孫病已が立つ」という文字が現れた話は、特に印象的です。これは、後に漢王朝を中興させる名君・宣帝の即位を予言したものです。多くの凶兆が滅びを告げる中で、このエピソードは「天は警告だけでなく、希望の兆しも示す」という不思議な摂理を感じさせます。自然という巨大な存在が、一人の人間の運命をそっと後押ししているかのような、静かで神秘的な情景が目に浮かびます。
人情味と奇妙な裁き:「三人の夫と一人の妻」
三人の男が一人の妻を共有し、生まれた四人の子を巡って争うという、現代でも頭を悩ませるような珍事件。これを裁いた役人・范延寿は、「これは人の道ではない」と断じ、動物の世界の理屈(子は母に従う)を持ち出して子供を母親に返します。そして、社会の秩序を乱したとして三人の夫を処刑してしまうのです。この裁きは非常に厳格ですが、その根底には「いかに奇妙な状況でも、子の拠り所は母であるべきだ」という、一種の人情的な判断が隠されています。常識では測れない人間の関係性と、それを無理やり社会の枠に収めようとする公権力の苦悩がにじみ出る、非常に人間臭いエピソードです。
面白さ、または恐怖心をあおられる場面
読者の好奇心をくすぐる面白い話から、背筋が凍るような恐怖譚まで、この巻は感情を揺さぶるエピソードに満ちています。
奇妙な面白さ:「皇帝の商人ごっこ」と「奇抜ファッションの流行」
霊帝が宮中で女官に宿屋の真似事をさせ、自分は客に扮して遊んだという話は、国の滅びの兆候とされつつも、どこか滑稽で面白いエピソードです。最高権力者が見せた、現実逃避にも似た子供じみた遊びは、彼の孤独や重圧を想像させ、人間的な魅力さえ感じさせます。
また、大将軍の妻から始まったという「愁眉」「啼粧」といった奇抜なメイクやファッションの流行も興味深いものです。滅びゆく時代の退廃的な空気と、いつの世も変わらない人々の美意識や自己顕示欲が入り混じった、文化史的にも面白い記録と言えるでしょう。
極限の恐怖:「夫婦が互いを食らう」
この巻の中で最も直接的で、生理的な恐怖を喚起するのが、「河内で妻が夫を食い、河南で夫が妻を食う」という、わずか一行の記述です。飢饉や戦乱が極まり、社会のあらゆる倫理が崩壊した果ての、地獄のような光景が眼前に広がります。愛情で結ばれているはずの最も近しい存在が、互いの命を奪い合う。この究極の裏切りと絶望は、他のどんな超自然的な怪異よりも、「人間そのものが最も恐ろしい妖怪になりうる」という事実を突きつけ、読者の心に深い傷跡を残します。
検証と深掘り:なぜ怪異は記録されたのか?
これらの怪異譚をさらに深掘りすると、古代中国の人々の世界観と、作者の明確な意図が見えてきます。
背景にある「天人相関思想」
第六巻の根底を流れるのは、「天人相関思想」です。これは、天(自然界)で起こる現象と、地(人間社会)で起こる出来事は、互いに深く関連し合っているという考え方です。特に、君主の行いが政治の善し悪しを決め、それが天に反映されると信じられていました。日食、彗星、そしてこの巻にあるような怪異は、天が君主の過ちを諌めるために送る「譴告」なのです。つまり、これらの話は単なるゴシップや伝説ではなく、当時の人々にとっては極めて真剣な政治的・哲学的メッセージでした。
歴史を「解釈」するための装置
『捜神記』の作者・干宝は、歴史家でもありました。彼にとって、これらの怪異は、王朝交代や大乱といった歴史上の大事件の原因と結果を説明するための「鍵」でした。なぜ偉大な漢王朝は滅びたのか? それは、数々の怪異が警告していたにもかかわらず、為政者たちが道を改めなかったからだ――。このように、怪異を歴史の転換点に配置することで、彼は歴史に道徳的な意味と、天命による必然性を与えようとしたのです。
社会不安の投影
これらの物語が語られ、信じられた時代は、政治的に不安定な時代でした。人々は未来への不安から、身の回りで起こる少しでも異常な出来事に意味を見出そうとします。秩序が転倒する怪異(雄が雌になる、馬が人を産む)は、身分制度や社会秩序が崩壊することへの人々の深い恐怖が投影されたものと言えるでしょう。怪異譚は、社会が抱える集団的な不安や願望を映し出す鏡でもあったのです。
この『捜神記』第六巻は、単なる奇妙な話の寄せ集めではありません。それは、古代中国の人々が自然と人間社会をどのように捉え、歴史の大きなうねりをどう理解しようとしたかの記録です。一つ一つのエピソードは、為政者への痛烈な批判であり、未来への警告であり、そして何よりも、人知を超えた大いなる存在への畏敬の念に満ちた、壮大な物語なのです。




