第一巻:仙人の系譜
神農と不老の仙人たち
遥かなる古代、野山を巡り、一本の赤い鞭で百種の草をことごとく打っては、その薬効と毒性、そして草木が持つ冷と温の性質を見極めた方がおられた。それぞれの香りが、その味わいが、人の体のどこに作用するのかを深く理解し、ついには五穀を見出して人々に広めた。その大いなる功績を讃え、天下の人々は畏敬の念を込めて彼を「神農」と呼んだのであった。
神農の時代、雨を司る師として知られた赤松子という仙人がいた。彼は水晶のように澄んだ水玉を服用し、不老の術を神農にも授けたという。燃え盛る炎の中にあってもその身は少しも焼けず、あたかも自らの意思で身体を焔と化すことができた。崑崙の頂きに登り、西王母の石室をしばしば訪れては、風雨を従えて天と地を自在に行き来した。その神仙の姿に焦がれた炎帝の娘は、ついに彼を追い、二人して仙界へと旅立ったと伝えられる。後世、高辛の時代に再び雨師として現れ、今日に至るまで雨師の祖とされている。
黄帝の御代には、赤将子輿という人物がいた。彼は俗世の五穀を一切口にせず、ただ百種の草花を食して生きていた。堯の時代には木工として世に仕え、風雨と共に天を昇り降りする術を持っていたという。時折、都の門前で弓に張る糸を売っていたことから、人々は彼を「繳父」、すなわち弓弦を売る父とも呼んだ。
同じく黄帝の時代、寧封子という仙人がいた。世に伝わるところによれば、彼は黄帝に仕える陶器職人であったという。ある日、一人の客人が彼を訪ね、代わりに火の番を買って出た。その客人は五色の煙を自在に出し入れする不思議な術を持っており、やがてその術を封子に授けた。術を会得した封子は、燃え盛る薪を積み上げて自らを焼き、立ち上る煙と共に天へと昇り、また自在に降りてきた。後に人々が燃え跡を確かめると、そこにはただ彼の白骨だけが静かに横たわっていた。人々は彼を寧北の山中に手厚く葬り、そのことから寧封子と呼ばれるようになった。
槐山にて薬草を摘む一人の老人がいた。名を偓佺という。彼は松の実をことのほか好み、その身には七寸にも及ぶ長い毛が豊かに生えていた。両目は四角く、ひとたび地を蹴れば、駿馬すら追いつけぬほどの速さで駆け抜けたという。彼はかつて堯帝に松の実を献上したが、帝はそれを用いることはなかった。当時、彼の松の実を食べた者たちは、皆三百年もの長寿を得たと伝えられる。
殷の時代に、彭祖という名の大夫がいた。姓は銭、名は鏗。帝顓頊の孫にあたり、夏の世から殷の末期までを生き抜き、その齢は七百歳を超えていたと伝えられる。彼は常に桂芝という霊草を食していた。歴陽の地には彭祖の仙室があり、古くからそこで雨乞いをすれば必ず願いが叶うと言い伝えられていた。祠の左右には常に二頭の虎が寄り添い、祭祀が終わると、その足跡だけがくっきりと残されていたという。
師門は、嘯父の弟子であった。火を自在に操る術を持ち、桃の花を食して生きていた。彼は孔甲という君主に仕え、龍を飼育する役目を担っていた。しかし、主君である孔甲はその真意を汲むことができず、あろうことか師門を殺め、野に埋めてしまった。するとある日、嵐が吹き荒れ、師門を天へと迎え入れるかのように、山中の木々が一斉に燃え上がった。孔甲は恐れおののき、師門を祀って許しを請うたが、その祭りが終わらぬうちに息絶えたという。
周の成王の御代、蜀の羌族に葛由という者がいた。彼は木を彫って羊の像を作り、それを売ることを好んだ。ある日、彼は自らが彫った木羊にまたがり、蜀の奥深くへと分け入っていった。蜀の王侯貴人たちがその後を追って綏山に登ると、そこには見事な桃の木々が生い茂っていた。峨眉山の西南に位置するその山は、天を突くほどに高かった。葛由について行った者たちは二度と戻ることはなく、皆、仙道を修めたと伝えられる。里の諺に「綏山の桃一つあれば、仙人にはなれずとも、富貴にはなれる」とあるのは、この時の名残である。山の麓には、彼を祀る祠が数十も建てられた。
泰山に住む崔文子は、王子喬に師事し、仙道を学んでいた。ある時、師である王子喬が白虹と化し、薬を携えて文子の元へ現れた。文子はその異様な光景に驚き、思わず手にした戈で虹を打ち据えてしまった。すると、虹は薬を落とし、そこには王子喬の亡骸が横たわっていた。文子は亡骸を室内に運び、破れた籠を被せておいた。だが、しばらくするとその亡骸は一羽の大きな鳥へと姿を変え、文子が籠を開けた途端、空高く飛び去ってしまった。
宋の国に、冠先という人物がいた。釣りを生業とし、睢水のほとりに百年余りも住んでいた。釣った魚は、あるいは川に返し、あるいは売り、あるいは自ら食した。常に冠をかぶり帯を締め、彼は茘枝の実をことのほか好み、その花や果実を食して日々を過ごしていた。宋の景公がその術を教えてほしいと請うたが、冠先は応じなかった。それに怒った景公は、彼を殺めてしまった。しかし数十年後、冠先は宋の城門の上に現れ、数十日間にわたって琴を奏で続けた後、再び姿を消した。その神異を目の当たりにした宋の人々は、家々で彼を神として祀るようになったという。
趙の国に、琴高という者がいた。琴の演奏に長け、宋の康王に仕えていた。彼は涓子や彭祖に連なる仙術を修め、冀州、涿郡のあたりを二百年余りも放浪した。ある日、彼は弟子たちに別れを告げ、涿水の中に入り龍の子を捕らえてくると言い残した。「皆、身を清めて明日を待て」と。弟子たちが水辺に祠を設けて待っていると、果たして、約束の日に琴高は、鮮やかな赤い鯉にまたがり、水面を割って姿を現した。そして祠の中に座った。その奇跡を一目見ようと、岸には一万もの人々が集まったと伝えられる。彼は一ヶ月そこに留まった後、再び水の中へと帰っていった。
六安の町に、陶安公という名の鋳物師がいた。日々、炉の火と向き合っていたある朝、炉の火が天へと舞い上がり、紫の煙となって空を突いた。陶安公は炉の前にひれ伏し、許しを請うた。しばらくすると、一羽の朱雀が炉の上に舞い降り、告げた。「安公よ、その炉は天に通じた。七月七日、赤い龍がお前を迎えに来るであろう」と。約束の日が来ると、陶安公は龍の背に乗り、東南の空へと去っていった。その日、城下町の数万の人々が、天へと昇る彼の旅立ちを見送ったと伝えられる。彼は人々に別れを告げ、雲の彼方へと消えていった。
焦山に七年間こもり、修行を続けた者がいた。老君(老子)が彼に一本の木の錐を与え、厚さ五尺もの岩盤を穿つよう命じた。「この石を貫くことができたなら、仙道を得るであろう」と老君は静かに告げた。彼はそれから四十年の歳月をかけて、ついに石を貫き、神仙の丹薬を練る秘法を授かったのである。
山陽に、魯少千という人物がいた。漢の文帝が、その素性を隠し、密かに彼を訪ねたことがあった。仙道を尋ねようとする帝に対し、少千は金の杖を手に、象牙の扇をかざし、悠然と門に出て文帝を迎えたという。
淮南王の劉安は、道の術を深く好んだ。正月元旦の朝、八人の翁が王の門前に現れ、面会を求めた。話を聞いた王は、役人に命じて言わせた。「わが王は長生を願うが、先生方は老いを留める術さえお持ちでないようだ。会うには及ばぬ」と。王の意を察した翁たちは、たちまち八人の童子へと姿を変えた。その頬は、あたかも桃の花のように若々しく輝いていた。王は驚き、彼らを丁重に迎え入れ、盛大な宴を催した。そして琴を手に取り、こう歌った。
「天は明るく四海を照らし、我が道を好むを知りて公は来たる。公は我に羽毛を生やし、共に青雲を昇り、梁甫の山を踏まん。三光を眺め、北斗に会い、風雲を駆り、玉女を使わん」
この時に王が詠んだ歌こそ、後世に伝わる「淮南操」の調べである。
劉根、字は君安。京兆長安の人である。漢の成帝の時代、嵩山に入って道を学び、異人より秘術を授かり、ついに仙人となった。彼には鬼神を自在に呼び出す術があった。時の潁川太守、史祈は、劉根をまがいものの妖術師とみなし、召し出して殺そうと企んだ。役所に着くと、史祈は言った。「そなたは人に鬼を見せることができるそうだな。もし私に見せることができぬなら、罰を与えるぞ」劉根は「たやすいことです」と答えると、筆と硯を借りて符を書き、机を叩いた。すると、どこからともなく五、六人の鬼が現れ、二人の囚人を史祈の前に引き据えた。史祈が目を凝らすと、そこに縛られていたのは、驚くべきことに、亡き自分の父母の姿であった。父母は劉根に額ずき、「愚かな息子が不届きを働き、万死に値します」と謝罪し、史祈を叱りつけた。「先祖に栄光をもたらすどころか、神仙を怒らせ、親にまでこのような恥をかかせるとは!」史祈は驚き、悲しみ、泣きながら罪を請うた。劉根は何も答えず、ふっとその場から姿を消した。彼がどこへ去ったのか、誰にもわからなかった。
漢の明帝の御代、尚書郎であった王喬は、鄴の県令を務めていた。彼は神術を心得ており、毎月一日になると、必ず任地の県から都の役所へと参上した。帝は、彼が頻繁に訪れるにもかかわらず、その車馬を見たことがないのを不思議に思い、密かに太史に命じて監視させた。報告によれば、王喬が都に着く少し前、決まって二羽の鴨が東南の空から飛んでくるという。そこで待ち伏せて網を張ると、網にかかったのは、鴨ではなく、一対の履物であった。それは、帝が四年前、役人たちに下賜した履物そのものであった。
薊子訓は、その出自を誰も知らない。後漢の時代に洛陽へ来て、数十人もの公卿の屋敷を訪ね歩いた。彼はどの屋敷にも一斗の酒と一片の干し肉だけを持参し、「遠方より参りましたゆえ、他には何もございませんが、心ばかりの品です」と述べた。宴には数百人が集ったが、終日飲み食いしても、酒と干し肉は尽きることがなかった。彼が去った後、人々はただ、彼のいた場所から白い雲が立ち上り、一日中消えずにいるのを見たという。当時、百歳になる老人が、「私が子供の頃、会稽の市場で彼が薬を売っているのを見たが、その顔色は今と少しも変わらない」と語った。子訓は洛陽に長居することを好まず、やがて姿を消した。後年、ある者が長安の東にある覇城で、彼が老人と銅像を撫でながら「この像が鋳造されたのを見たが、もう五百年近く経つな」と語らっているのを目撃した。その者が「薊先生、お待ちくだされ」と声をかけると、二人は歩きながら返事をしたが、その歩みは緩やかに見えて、駿馬でさえ追いつくことはできなかった。
長安の渭橋の下に、漢陰生と呼ばれる物乞いの童子がいた。彼はいつも市中で物乞いをしていたが、人々は彼を嫌い、ある時、糞を浴びせかけた。ところが、すぐにまた市中に現れる彼の衣は、不思議と少しも汚れていなかった。これを知った長官が彼を捕らえ、枷にはめたが、彼は枷をつけたまま物乞いを続けた。再び捕らえて殺そうとしたその時、彼は忽然と姿を消した。そして、彼に糞を浴びせた家は、ひとりでに崩れ落ち、十数人が亡くなったという。この一件以来、長安では「物乞いに良い酒を施せば、家が壊れる災いを免れる」という歌が謡われるようになった。
谷城郷に、平常生という者がいた。どこから来たのか、誰も知らない。彼は幾度となく死んでは蘇るという、摩訶不思議な人物であった。ある時、大洪水が起きて多くの人々が犠牲になったが、平は決壊した山の上に立ち、「平常生は、ここにいるぞ」と大声で叫んだ。そして、「雨は五日で必ず止む」と予言した。その言葉通りに雨が止むと、人々は山に登って彼を祀り、教えを請うた。それから数十年後、彼は華陰の市門で番兵を務めていたという。
左慈、字は元放。廬江の人である。若い頃から神通力を持ち、かつて曹操の宴席に招かれたことがあった。曹操は笑って言った。「今日の宴には山海の珍味が揃ったが、ただ一つ、呉の松江鱸の膾がないのが心残りよ」。左慈は「それはたやすいことです」と答えた。言うが早いか、左慈は銅の盆に水を満たし、竹竿に餌をつけて、まるでそこが川であるかのように釣りを始めた。しばらくすると、一匹の見事な鱸を釣り上げた。曹操は手を叩いて喜び、居合わせた者たちは皆、息をのんだ。曹操が「一匹では皆に行き渡らぬ。二匹あれば申し分ないのだが」と言うと、左慈は再び竿を垂れ、また一匹を釣り上げてみせた。どちらも三尺余りの、新鮮で活きの良い鱸であった。曹操は自らそれを膾にし、皆に振る舞った。
「さて、鱸は手に入ったが、蜀の生姜がないのが残念だ」と曹操が言うと、左慈は「それもたやすいことです」と答えた。曹操は彼が近所で手に入れるのだろうと思い、「実は以前、蜀へ人を遣わして錦を買わせたのだが、その者に伝えて、錦を二反多く買ってくるよう命じられるか」と試した。左慈はすぐに人を遣わし、しばらくするとその者は生姜を手に戻ってきた。そして、「錦屋の前で公の使いに会い、確かに錦を二反増やすよう伝えました」と報告した。それから一年余り後、蜀へ遣わした使いが戻り、果たして錦は二反多く買い求められていた。使いの者に尋ねると、まさに左慈が言ったその日、店の前で見知らぬ男に曹操の命だと伝えられた、と証言したのである。
後日、曹操が近郊へ出かけた際、百人ほどの士人が従っていた。左慈は酒を一甕と干し肉一片だけを持ってきて、百人もの役人たちに酒を振る舞い始めた。すると不思議なことに、役人たちは皆、満腹になり、酔いつぶれてしまった。曹操がこれを怪しみ調べさせると、近隣の酒屋から、昨夜のうちにすべての酒と干し肉が忽然と消え失せていたことがわかった。
曹操は怒り、密かに左慈を殺そうと企んだ。宴席で彼を捕らえようとしたが、左慈はすっと壁の中へ入り込み、姿を消してしまった。人をやって市中を捜索させると、ある者が彼を見つけた。しかし、捕らえようとした瞬間、市中の人々が皆、左慈とそっくりの姿に変わり、誰が本物か見分けがつかなくなった。後に、陽城山の頂で彼に遭遇し、再び追いかけると、今度は羊の群れの中へと逃げ込んだ。曹操は捕らえられないと悟り、羊の群れに向かってこう告げさせた。「曹公はもうお前を殺しはしない。ただ君の術を試したかっただけだ。もはや疑いはない。ただ会いたいだけなのだ」と。すると突然、一匹の老いた牡羊が前脚を折り、人のように立ち上がって言った。「何をそう急ぐのか」。人々が「こいつだ」と飛びかかると、数百匹の羊が皆、牡羊に姿を変え、同じように立ち上がって「何をそう急ぐのか」と言った。こうして、誰も本物を見分けることはできなかった。
老子はかつて言った。「私に大きな憂いがあるのは、私がこの身を持つがゆえである。もし私にこの身がなければ、何の憂いがあろうか」と。左慈のような者こそ、まさに「身を持たない」境地に至ったと言えるだろう。なんと遥かなる境地ではないか。
孫策が、長江を渡って許都を襲おうと軍を進めていた時のこと。于吉という道士が一行に加わっていた。折しもひどい旱魃で、行く先々は猛烈な暑さに見舞われていた。孫策は将兵に船を急がせ、自らも早朝から督励に当たっていた。しかし、多くの将校たちが自分の元ではなく、于吉のもとに集まっているのを見て、孫策は激しく怒った。「私が于吉に劣るとでもいうのか。なぜ皆、私を差し置いてあの男に媚びへつらうのだ!」
彼はすぐさま于吉を捕らえさせ、厳しく詰問した。「日照りで雨は降らず、道は険しく進軍は滞っている。私は自ら早朝より督励しているというのに、お前は憂うそぶりも見せず、船の中で安座して怪しげな術を弄し、軍の規律を乱している。今すぐお前を処刑する」
孫策は于吉を縛り上げ、炎天下に晒し、雨を降らせるよう命じた。もし正午までに天を動かし雨を降らせることができれば許すが、できなければ斬り捨てると。
まもなく、空に雲気が立ち上り、みるみるうちに天を覆った。やがて正午を迎えようとする頃、天は一転して掻き曇り、大地を潤す大雨が沛然と降り注いだ。川という川は、たちまち溢れんばかりの水嵩となった。将兵たちは喜び、誰もが于吉は許されるものと信じ、祝いの言葉を述べに集まった。
だが、孫策は将兵たちの願いも虚しく、ついに于吉を斬り捨てた。
将兵たちはその死を悲しみ、亡骸を丁重に葬った。その夜、再び雲が湧き起こり、墓を覆った。翌朝、人々が見に行くと、于吉の亡骸は跡形もなく消え失せていた。
于吉を殺してからというもの、孫策が一人で座っていると、傍らに于吉の幻が見えるようになった。彼はこれをひどく嫌い、次第に心の平衡を失っていった。後日、戦で負った刀傷が癒えかけた頃、鏡を覗き込むと、そこに映るのは己の顔ではなく、紛れもない于吉の姿であった。振り返っても誰もいない。再び鏡を見ると、また于吉が現れる。これを三度繰り返した孫策は、鏡を叩きつけて絶叫した。その衝撃で傷口がすべて開き、彼はまもなく息絶えたという。于吉は、瑯琊出身の道士であった。
介琰は、どこの者か誰も知らない。建安の頃、方山に住み、師である白羊公から無為の道を学び、変化自在、隠形の術を体得した。彼はしばしば東海を行き来し、ある時、秣陵に立ち寄り、呉の君主に面会した。呉主は介琰の術に心惹かれ、彼を都に引き留めると、そのために壮麗な宮殿や廟を建てさせた。
呉主は日に何度も人を遣わして彼の様子を窺わせたが、介琰はある時は童子に、ある時は老翁にと姿を変え、食事もせず、贈り物も一切受け取らなかった。呉主はその術を学びたいと願ったが、介琰は、呉主に多くの側室がいることを理由に、数ヶ月経っても教えようとしなかった。ついに呉主は怒り、介琰を捕らえ、甲冑の兵士に弩で射殺させようとした。しかし、兵士たちが一斉に弩を放った瞬間、そこに介琰の姿はなく、ただ彼を縛っていた縄だけが、力なく地面に落ちていた。
呉の時代に、徐光という術者がいた。ある日、市中で瓜を売る男に一つ乞うたが、断られた。そこで徐光は瓜の種をもらい、杖で地面を突いてそれを植えた。すると、たちまち芽が出て蔓が伸び、花が咲き、実がなった。彼はその瓜をもぎ取って食べ、見物人にも分け与えた。瓜を売っていた男が自分の店を振り返ると、並べてあった瓜がすべて消え失せていたという。彼はまた、旱魃や水害を予言し、ことごとく的中させた。
ある日、大将軍の孫綝の屋敷の前を通りかかった際、徐光は衣の裾をからげて足早に通り過ぎた。人々がその理由を尋ねると、彼は答えた。「血の臭いが鼻をついて、とてもではないが耐えられぬ」。これを聞いた孫綝は、自分を誹謗するものだと思い、徐光を殺させた。しかし、その首を刎ねても、一滴の血も流れ出ることはなかった。
後に、孫綝が帝を廃して景帝を立て、陵墓に参拝するため車に乗ろうとした時、大風が吹いて車を激しく揺さぶった。孫綝がふと見上げると、道の傍らの松の木の上に、あの徐光が立ち、手を叩いて嘲笑っているではないか。従者に尋ねても、誰にもその姿は見えなかった。まもなく、孫綝は景帝によって誅殺された。
葛玄、字は孝先。左元放から九丹液仙経を授かった。ある時、客と食事を共にしていると、変化の術が話題にのぼった。客が「食事が終わりましたら、何か面白い術を見せてはいただけませんか」と頼むと、葛玄は「今すぐご覧になりたいかな」と言った。彼はおもむろに口に含んだ飯粒を吐き出すと、それらは忽ち数百匹もの大きな蜂と化し、客人の周りを飛び回ったが、人を刺すことはなかった。しばらくして、葛玄が口を開けると、蜂は皆その中へ飛び込み、彼がそれを噛むと、元の飯粒に戻っていた。
また、彼は蛙や虫、鳥たちに、拍子に合わせて舞うよう命じると、それらはまるで人間のように見事に舞った。冬には客人のために瑞々しい瓜や棗を用意し、夏には氷雪を届けた。また、数十枚の銭を井戸に投げ込ませ、器を手に井戸の上で名を呼ぶと、銭は一枚ずつ井戸から飛び出してきた。酒を勧めると、杯はまるで意思を持つかのように客人の前へと滑ってゆき、飲み干さぬ限り、その場を離れようとはしなかった。
かつて呉主と共に楼閣にいた時、雨乞いのために作られた土人形を見て、帝が「民は雨を待ち望んでいるが、降らせることはできるか」と尋ねた。葛玄は「たやすいことです」と答え、符を書いて社に投げ入れると、たちまち天地は暗くなり、大雨が降り注いで水浸しになった。帝が「この水の中に魚はいるか」と問うと、葛玄は再び符を水中に投じた。しばらくすると、数百匹もの大きな魚が現れ、帝はそれを獲って料理させたという。
呉猛は濮陽の人である。呉に仕え、西安の県令となった。彼は極めて親孝行な人物で、ある時、仙人の丁義に出会い、神の秘法を授かった。それ以来、道術に深く通じるようになった。
かつて大風が吹き荒れた時、彼は一枚の符を屋根の上に投げつけた。すると、一羽の青いカラスがそれを咥えて飛び去り、風はたちまち静まった。人々が理由を尋ねると、「南の湖で舟が難破しそうになり、道士が助けを求めていたのだ」と答えた。調べてみると、果たしてその通りであった。
西安の県令であった于慶が亡くなって三日が過ぎた時、呉猛は言った。「彼の天命はまだ尽きておらぬ。私が天に訴えかけてみせよう」。そして、亡骸の傍らに横たわり、数日後、于慶と共になにごともなかったかのように起き上がった。
後に、弟子を連れて豫章へ帰ろうとした際、長江は荒れ、誰も渡ることができなかった。呉猛は手にしていた白い羽扇で水面をすっと一撫でした。すると、荒れ狂う長江の水が左右に分かれ、川底に一本の道が現れたのである。彼はゆっくりと歩いて対岸へ渡り、渡り終えると水は元に戻った。その光景を見た人々は、ただ驚き、ひれ伏すばかりであった。
済陰に、園客という者がいた。彼は容姿が美しく、多くの村人が娘を嫁がせたいと願ったが、生涯妻を娶ることはなかった。彼は五色の香草を植え、その実を数十年も服用し続けた。ある日、五色の神々しい蛾が香草の上に舞い降りた。園客が布でそれを包んで暖めると、桑の蚕が生まれた。蚕が育つ頃になると、夜ごとどこからともなく一人の神女が現れ、園客の蚕の世話を手伝うのであった。蚕には香草を食べさせた。出来上がった繭は甕のように大きく、一つの繭から糸を繰るのに六、七日もかかったという。糸をすべて繰り終えると、神女と園客は共に仙人となって去っていった。彼らがどこへ向かったのか、誰も知らない。
漢の時代、董永という千乗の若者がいた。幼くして母を亡くし、父と共に農作業に励み、いつも鹿車に父を乗せて行動を共にした。父が亡くなると、彼には葬儀を出す費用もなかった。そこで自らの身を売り、その代金でようやく父を丁重に葬った。彼の主人となった男はその孝行心に感銘を受け、一万銭を与えて彼を自由の身にした。董永は三年の喪が明けると、主人への恩を返すため、再びその家へ向かった。その道中、一人の婦人に出会い、「あなたの妻になりたい」と告げられた。彼は婦人と共に主人の家へ帰った。主人は言った。「私はお前に銭を与えたはずだ」。董永は答えた。「ご主人様のおかげで、父を葬ることができました。この卑しい身ですが、必ずや懸命に働き、ご恩に報いたいと存じます」。主人が「その婦人は何ができるのか」と尋ねると、董永は「機織りができます」と答えた。主人は「それならば、私のために絹百反を織ってもらおう」と言った。そこで董永の妻は機を織り始め、わずか十日でそれを仕上げてしまった。門を出ると、婦人は董永に言った。「私は天に住まう織女。あなたの類まれなる孝行心に天帝が心を動かされ、私に命じてあなたの借金を返させたのです」。そう言い終えると、彼女は空高く舞い上がり、姿を消した。
鉤弋夫人は、罪を得て死を賜ったが、その亡骸は葬られた後も腐敗することなく、かぐわしい香りが十里四方にまで漂ったという。時の帝、武帝は彼女の死を深く悼み、彼女が常人ではないことを疑い、墓を掘り返して棺を開けさせた。しかし、人々が目にしたのは、空の棺と、そこに静かに置かれた一対の履物だけであった。後の昭帝の御代に改めて改葬された際も、やはり棺は空で、絹の履物だけが残されていたという。
漢の時代、杜蘭香という女性がいた。彼女はしばしば張碩という十七歳の若者のもとを訪れた。ある日、張碩が門の外に美しい車が停まっているのを見ると、侍女がやってきてこう伝えた。「我が主は、母君の遺言により、あなた様に嫁ぐよう定められております」。張碩が娘を招き入れると、そこにいたのは十六、七歳の美しい娘で、語る言葉は遥か昔の出来事ばかりであった。彼女は螺鈿細工の車に青い牛を従え、二人の侍女を伴っていた。そして、このような詩を詠んだ。
「母は霊山に住み、雲の果てを遊ぶ。多くの娘が仕える身なれど、車は私を送り届けた。私に従えば福を、私を嫌えば禍を招くであろう」
その年の八月一日、彼女は再び訪れ、詩を詠んだ。「天の川を逍遙し、呼吸は九嶷山に響く」と。そして、鶏の卵ほどの大きさの薯蕷を三つ取り出し、「これを食べれば、風雨を恐れず、寒暖に悩まされることもないでしょう」と言った。張碩が二つ食べ、一つを残そうとすると、蘭香はそれを許さず、すべて食べさせた。彼女は言った。「あなたの妻となるために参りましたが、今はまだその時ではありません。歳星が卯の年に巡る頃、再びお会いしましょう」。張碩が祭祀について尋ねると、彼女は「魔を祓えば病は癒えます。淫らな祀りは無益です」と答え、薬を授けて魔を消し去ったという。
魏の時代、済北郡の弦超という男が、ある夜、一人で寝ていると、夢の中に一人の神女が現れた。神女は自ら名乗った。「わたくしは天上に住まう玉女。東郡の者で、姓は成公、名は知瓊と申します。早くに両親を亡くし、天帝がわたくしの孤独を憐れみ、あなた様の元へ嫁ぐようお命じになりました」。弦超は夢の中で、その比類なき美しさに心を奪われた。目覚めてからもその面影が忘れられずにいた数日後、彼女は現実に姿を現した。綾や羅をまとったその姿は仙女のようで、八人の侍女を従えていた。年は七十歳だと言ったが、見た目は十五、六の娘のようであった。彼女は弦超に言った。「わたくしがあなた様の元へ来たのは、宿命によるものです。あなた様に益を与えることはできませんが、害することもありません。ただ、常に美食に満たされ、美しい絹織物に困ることはないでしょう。わたくしは神仙ゆえ、子を産むことはありませんが、あなたの婚姻を妨げることもしません」。こうして二人は夫婦となった。
七、八年後、弦超が両親の勧めで別の妻を娶った後も、彼は昼は妻と、夜は神女と過ごした。神女は夜に来ては朝に去り、その姿は弦超にしか見えなかった。しかし、やがてその噂が人々の間に広まると、神女は別れを告げた。「わたくしは神人ゆえ、人に知られることを望みませんでした。もはや、ここにはいられません」。彼女は涙を流しながら別れの詩を贈り、車に乗って飛び去っていった。弦超は悲しみのあまり、数日間、倒れ伏したという。
五年後、弦超が都へ向かう途中、魚山の麓で知瓊の車によく似た馬車を見かけた。駆け寄ると、果たして彼女であった。二人は再会を喜び、再び夫婦の縁を結んだ。それからは、年に数度、決まった日に彼女が訪れるようになったという。後に張茂先は、彼女のために「神女賦」を作った。
この巻は「仙人の系譜」と題され、神話の時代から漢・三国時代に至るまでの、様々な仙人や不思議な力を持つ人々の逸話を集めたものです。彼らは不老長寿の術を心得、自然を操り、姿を変え、死すらも超越します。物語は、仙人たちがどのようにしてその力を得たか(修行、霊薬の服用、天からの啓示など)を描くと同時に、彼らが俗世の権力者や一般の人々とどのように関わったかを示しています。その関わりは、時に畏敬の念を抱かせ、時に人間的な温かさを感じさせ、そして時には権力者の驕りに対する恐ろしい結末をもたらす、警告に満ちた物語群となっています。
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各場面の魅力の深掘り
1. 不思議さと人情味あふれる場面
董永と織女(人情味): この章で最も人情味にあふれる物語です。父を葬るために自らの身を売る董永の「至孝」は、人間の最も美しい徳性を象徴しています。彼の行いに天が感動し、天の織女を遣わして助けるという展開は、単なる奇跡譚ではなく、「誠実な真心は必ず天に通じる」という温かいメッセージを伝えています。仙女が自らの正体を明かし、天へ帰っていく別れの場面は、儚くも美しい、人間と神的存在との心の交流を描いています。
弦超と玉女(人情味): 人と神の恋愛譚であり、その交流には細やかな感情の機微が描かれています。正体を明かさねばならないと悟った玉女が、弦超との長年の恩愛を思い、涙ながらに別れを告げる場面は、神仙であっても断ちがたい情愛の深さを感じさせ、読者の胸を打ちます。二人の再会は、運命的な絆の強さを物語っています。
2. 面白さと奇想天外な場面
左慈と曹操(面白さ): この一連の物語は、絶対的な権力者である曹操を、仙人・左慈が意のままに翻弄する痛快なエンターテインメントです。銅盆から鱸を釣り上げ、遠い蜀から瞬時に生姜を取り寄せ、たった一甕の酒で百人の軍勢を酔わせる。これらはまるで現代のイリュージョンのようです。特に、捕まえようとすると市中の人々が全員左慈の顔になったり、羊の群れが皆立ち上がって喋りだしたりする場面は、奇想天開でユーモラスですらあります。権力者が及ばない領域が存在することを示す、風刺の効いた面白さがあります。
葛玄の術(面白さ): 口の中の飯を蜂に変え、また元に戻す術や、蛙や鳥に舞を踊らせる術は、深刻さよりもむしろ宴席での余興のような軽やかさがあります。彼の術は人々を怖がらせるためではなく、驚かせ、楽しませるためのものとして描かれており、仙人の持つ力の多様性と、親しみやすい一面を垣間見ることができます。
3. 恐怖心をあおられる場面
孫策と于吉(恐怖心): この章で最も強烈な恐怖を描いた物語です。孫策の驕りと不信が、神聖な存在である于吉を死に追いやります。しかし、恐怖はここから始まります。殺したはずの于吉が幻影として現れ、孫策の精神をじわじわと蝕んでいく。鏡の中に映る于吉の姿を見る場面は、外部からの攻撃ではなく、自らの罪悪感が生み出す内面的な恐怖(心理ホラー)の極致です。神を侮った権力者が、逃れることのできない破滅へと追いつめられていく様は、読者に強い戦慄を覚えさせます。
漢陰生と長安の人々(恐怖心): 汚い物乞いの少年が、実は恐るべき力を持つ存在だったという物語です。人々が彼を侮辱し、糞を浴びせかけるという行為に対し、その家が崩壊して十数人が死ぬという結末は、直接的で容赦のない「祟り」の恐怖を描いています。目に見える姿形で相手を判断してはならない、という教訓と共に、神的存在の怒りに触れることの恐ろしさを生々しく伝えています。
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物語の検証と深掘り
これらの物語を単なる「不思議な話」として片付けるのではなく、その背後にある思想や文化的背景を検証することで、より深い意味が見えてきます。
1.「道」の多様性と価値観の転換
この巻に登場する仙人たちは、一つの方法だけで仙人になったわけではありません。薬草を食す者、修行を積む者、生まれながらに神通力を持つ者、そして董永のように「徳」によって天に認められる者まで様々です。これは、真理へ至る道(道)は一つではないという、道教的な思想を反映しています。特に重要なのは、曹操や孫策が持つ「地上の権力」が、左慈や于吉が体現する「宇宙の理(道)」の前では全く無力であると描かれている点です。物語は、武力や財産といった俗世の価値観を相対化し、それを超えた所に真の力や価値が存在することを示唆しています。
2.権力者への警告(警鐘)
物語が書かれた六朝時代は、政治的な混乱と権力闘争が絶えない時代でした。孫策や曹操といった歴史上の権力者が、仙人に対して驕り高ぶった結果、破滅したり翻弄されたりする物語は、当代の権力者たちに対する痛烈な警告として機能したと考えられます。すなわち、「人の世の権力がいかに強大であろうと、天地自然の理や神々の領域を侵してはならない。驕りは身を滅ぼす」というメッセージです。これは、不安定な世に生きる人々の願望や、権力への批判精神の表れとも言えます。
3.人間性の肯定と救済
一方で、董永の物語は、権力や術を持たない一般の民衆にとっての救いとなります。最も重要視されるのは、超能力ではなく「孝」という人間的な徳性です。どんなに無力な人間でも、誠実な心を持ち、人間としての徳を尽くせば、天はそれを見過ごさず、必ず救いの手を差し伸べてくれる。この思想は、混乱の時代を生きる人々にとって、大きな希望と道徳的な指針を与えたことでしょう。
総じて、『捜神記』第一巻は、単なる奇譚集ではなく、当時の人々の世界観、死生観、道徳観が色濃く反映された文化的なテキストです。仙人という超越的な存在を通して、人間のあるべき姿や、驕りへの戒め、そして徳を積むことの尊さを、豊かで劇的な物語として後世に伝えているのです。




