第十六巻:疫病の起源と死者の訴え
疫病と方相氏
はるか昔、顓頊という帝に三人の子がおりましたが、いずれも若くして世を去り、あろうことか疫病をまき散らす鬼と化してしまいました。一人は長江に棲みつき、人々を熱病で苦しめる瘧鬼となり、一人は若水に潜み、人を惑わす魍魎鬼と成り果て、そして最後の一人は、人の住まう屋敷に忍び込んでは幼子を脅かすことを慰みとする、小鬼となったのです。
こうした鬼たちの禍から人々を護るため、帝は正月に方相氏に命じ、肆儺と呼ばれる盛大な儀式を執り行わせ、疫病の鬼どもを追い払う習わしが生まれました。
挽歌の由来と無鬼論の結末
挽歌とは、葬儀の際に棺を引く綱を持つ者たちが、声を合わせて歌う悲しみの歌を指します。その歌には「薤露」と「蒿里」という二つの曲があり、その由来は漢の時代の田横とその門人たちの物語に遡ります。
田横が自ら命を絶った時、彼の死を深く悼んだ門人たちは、悲しみのあまり歌を詠みました。人の命とは、ニラの葉に宿る露のようになんと儚く、たちまち消え去ってしまうものか。そして、人が死ねば、その魂は蒿里、すなわちよもぎの里へと還っていくのだと。この二つの嘆きが、挽歌の二章となったと伝えられています。
さて、阮瞻、字を千里という学識高い男がおりました。彼はかねてより、この世に幽霊など存在しないという無鬼論を信奉し、その明晰な弁舌の前では、いかなる者も言い返すことすらできませんでした。阮瞻は常々、自らの理こそが生者と死者の世界の真実を解き明かすものであると自負しておりました。
ある日のこと、一人の客が名乗りを告げて阮瞻を訪ねてきました。礼を尽くした挨拶を交わした後、二人は当代きっての学問の道について語り合います。客は並外れた才能と巧みな弁舌の持ち主で、阮瞻も時を忘れて語り続けました。やがて話が鬼神の存在に及ぶと、互いに一歩も譲らぬ激しい議論が繰り広げられました。
とうとう言い負かされた客は、すっと顔色を変えて言いました。「鬼神の存在は、古今の聖賢たちが等しく認めてこられたことです。それをあなた様独りが『存在しない』と断じられるのは、一体どういうわけでしょう。何を隠そう、この私こそが鬼なのです。」
そう言い放つや否や、客の姿は見るもおぞましい異形へと変わり、次の瞬間にはかき消すように消え失せてしまいました。
阮瞻はただ黙り込み、その顔は土気色に沈んでいました。それから一年余りの後、彼は病を得て、静かにこの世を去ったということです。
また、呉興の施続は尋陽の長官を務めており、議論を好む人物でした。彼の門弟もまた理知に富み、師と同じく幽霊の存在をかたくなに否定しておりました。
ある日、黒い衣に白い裏地を合わせた一人の客がふらりと現れ、門弟と語り合ううちに、話はやはり鬼神のことに及びました。丸一日にわたる議論の末、ついに客は言い負かされてしまいます。
すると客は言いました。「あなたの言葉は実に巧みだ。しかし、道理が伴っていない。私はまさしく鬼なのだ。どうして『存在しない』などと言えるのか。」
施続の門弟が「では、鬼が何の用でここへ来たのか」と問うと、客は答えました。「お前を迎えに来るよう、使いを頼まれたのだ。期限は明日の朝餉の刻までだ。」
門弟は必死に命乞いをしました。鬼は尋ねます。「お前によく似た者はいないか。」
門弟は答えました。「施続様の部下である都督が、私に瓜二つです。」鬼は門弟を伴って都督のもとへ行き、二人を向かい合わせに座らせました。
鬼はおもむろに懐から鉄の鑿を取り出すと、一尺ほどのそれを都督の頭上に置き、槌で打ち付けました。
都督は「少し頭が痛む」と呟きましたが、痛みは次第に激しくなり、朝餉が終わる頃には、とうとう息絶えてしまったのでした。
死友と泰山府君の裁き
蔣済、字を子通は、楚国平阿の生まれで、魏に仕え、領軍将軍の地位にありました。
ある夜、彼の妻が夢を見ました。亡くなった息子が涙ながらに現れ、こう訴えるのです。「生と死の世界は、道が異なります。私は生前、大臣の子孫として何不自由なく暮らしておりましたが、今や地下の世界では泰山府君に仕える伍伯という下級役人に身をやつし、その苦しみは言葉にもなりません。このたび、太廟の西におられる謳士の孫阿という者が、新しく泰山令として召されることになりました。母上、どうか父上にお話しいただき、孫阿様にお取り計らい願って、私をもっと楽な役目に移していただけないでしょうか。」
そう言い終わると、妻ははっと目を覚ましました。翌朝、妻が夢の話をすると、蔣済は言いました。「夢とは虚ろなものだ。気にするには及ばない。」
しかしその日の暮れ、妻は再び同じ夢を見ました。息子が言うには、「私は新しい君をお迎えするために参りました。廟の下で出発をお待ちする束の間、一時的に帰ることを許されたのです。新しい君は、明日の日中には旅立たれます。そうなればもう忙しく、二度と帰ることは叶いません。これが永遠の別れとなりましょう。父上は気が強く、なかなか信じてはくださいませんでしたので、母上に直接お話しいたしました。どうか、もう一度父上にお願いしてください。一度確かめてみるくらい、何が惜しいというのでしょう。」そして、息子は孫阿の顔立ちや特徴を、まるで見てきたかのように詳しく語るのでした。
夜が明けると、妻は再び蔣済に訴えました。「夢が信じがたいものだとしても、この話はあまりに現実味を帯びています。一度確かめてみるくらい、惜しいことなどありましょうか。」
そこで蔣済は人を遣わし、太廟の下で孫阿という人物について尋ねさせました。すると、果たして孫阿という謳士がおり、その容姿や特徴は、息子が語った通りだったのです。
蔣済は涙を流し、「あわや、我が子を裏切るところであった」と呟きました。
彼はさっそく孫阿に会い、事の次第をすべて打ち明けました。孫阿は死を恐れるどころか、泰山令になれることを喜び、むしろ蔣済の話が偽りではないかと案じるほどでした。「もし閣下のお言葉が真実ならば、私にとってこれほどの願いはございません。ご子息はどのような役職をお望みでしょうか。」蔣済は、「地下で安楽に過ごせる役職を頼む」と答えました。孫阿は、「必ずやご期待に沿いましょう」と約束します。蔣済は彼に手厚い褒美を与え、帰らせました。
蔣済はその結末を早く知りたくて、領軍門から廟の下まで、十歩おきに人を立たせ、知らせを伝えさせました。辰の刻(午前八時頃)、「孫阿が心臓の痛みを訴えている」との知らせが届きます。巳の刻(午前十時頃)には、「病状が重くなった」と伝わってきました。そして正午、ついに孫阿が亡くなったとの報せがもたらされたのです。
蔣済は言いました。「我が子の不幸は悲しい。だが、亡き者に知性があるということが、せめてもの慰めだ。」
それから一月余り後、息子が再び妻の夢に現れ、「おかげさまで、録事という役職に就くことができました」と、嬉しそうに告げたということです。
孤竹君の棺と幽霊の恋
漢の時代、不其県に孤竹城という古い城があり、それはかつての孤竹君の国でした。霊帝の光和元年(178年)のこと、遼西の民が、遼水の川面に浮かぶ一つの棺を見つけました。人々が斧でそれを打ち割ろうとすると、棺の中から声が聞こえてきたのです。
「私は伯夷の弟、孤竹君である。海水のために棺が壊れ、こうして漂っているのだ。なぜ故なく私を打ち壊そうとするのか。」人々は恐れおののき、棺に手を出すのをやめました。そして、その場所に廟を建てて祀ったのです。その後、役人や民が興味本位で棺の中を覗こうとすると、皆ことごとく病にかかって死んでしまったと伝えられています。
温序、字を公次は、太原祈の人でした。護軍校尉に任じられ、隴西へ行軍していたところ、隗囂の軍勢に捕らえられ、生きたまま降伏するよう強いられました。温序は激しく怒り、持っていた節(軍旗)で敵兵を打ち殺します。賊が彼を殺そうと迫りましたが、荀宇という者がそれを制し、「この義士は、節義を貫いて死のうとしているのだ」と言いました。
そして剣を与え、自決を促します。温序は剣を受け取ると、自らの髭を口に含み、嘆息して言いました。「このままでは、我が髭が土に汚れてしまう。」そう言うと、剣の上に身を伏せて果てました。更始帝は彼の死を深く憐れみ、洛陽城のそばに手厚く葬り、墓を築かせました。
彼の長男である寿は印平侯となりましたが、ある時、夢に父が現れ、「長く旅をして、故郷が恋しい」と告げました。寿はすぐに官職を辞し、父の遺骨を故郷へ帰し、改めて葬ることを願い出る上奏を行いました。帝はこれを許したということです。
漢の南陽に住む文穎、字を叔長は、建安年間に甘陵府丞の職にありました。ある夜、国境を越えた先で野営していた時のことです。夜も更けた三更(午前零時頃)、一人の男が彼の前にひざまずいて現れました。
「昔、私の先祖が私をこの地に葬りました。しかし、水の流れが墓を削り、今や棺は半分水に浸かり、体を温めるすべもございません。あなた様がここにおられると聞き、おすがりしに参りました。どうか明日、しばしご逗留いただき、私を高く乾いた場所へ移していただけないでしょうか。」
鬼は衣をまくり上げて文穎に見せましたが、その服は水に濡れてぐっしょりと湿っていました。文穎は心から哀れに思い、はっと目を覚まします。彼は側近にその話をしましたが、「夢とは虚ろなもの。気になさいますな」と取り合ってもらえません。
文穎が元の寝床に戻り、再び眠りにつこうとすると、また夢の中に鬼が現れ、語りかけてきました。「私はこれほどの苦しみをあなた様にお訴えしたというのに、なぜお憐れみくださらないのですか。」
文穎は夢の中で尋ねました。「あなたは、一体どなたですかな。」鬼は答えます。「私はもと趙の国の者ですが、今は汪芒氏の神に属しております。」文穎が「あなたの棺は、今どこにあるのだ」と問うと、鬼は答えました。「あなた様の幕舎の北、十数歩のところにある水辺の枯れた楊の木の下に、私の棺がございます。夜が明けてしまいます。もうお会いすることはできません。どうか、私のことをお忘れなきよう。」文穎が「承知した」と応えると、鬼はたちまち姿を消しました。
夜が明け、いざ出発という時になり、文穎は言いました。「夢は信じるに足りぬというが、この話はあまりに辻褄が合う。皆の者、しばしの間だ。試してみるのを惜しむことはあるまい。」
文穎はすぐに立ち上がり、十数人の供を連れて水辺を上流へと向かいました。果たして一本の枯れた楊の木を見つけると、「これだ」と言い、その下を掘らせます。すると、間もなく一つの棺が現れました。棺はひどく朽ち果て、その半分は水に浸かっています。文穎は側近に言いました。「以前、私は人から聞いた話を虚ろなものだと切り捨てた。だが、世に伝わる話も、あながち嘘ではないのだな。」彼はその棺を移させ、乾いた場所に手厚く葬ってから、その地を後にしました。
漢の九江にいた何敞は、交州刺史の職にありました。彼が蒼梧郡高安県を巡察していた夜、鵠奔亭という宿駅に泊まりました。夜がまだ半分も過ぎない頃、一人の女が楼の下から現れ、叫びました。「わたくしは姓を蘇、名を娥、字を始珠と申します。もとは広信県修里の者でございます。早くに両親を亡くし、兄弟もおりません。同郷の施氏に嫁ぎましたが、薄幸にも夫に先立たれました。手元には絹織物百二十疋と、致富という名の召使いが一人おりました。孤独で貧しく、自活の道もなかったため、近隣の県へ絹織物を売りに行こうと、同郷の王伯という男から牛車を一台、一万二千の銭で借り受け、召使いに手綱を取らせました。一昨年の四月十日、この亭の外まで参りましたが、すでに日も暮れ、人通りも途絶えていたため、これ以上進むことを恐れ、この亭に宿を取ることにいたしました。ところが、致富が突然腹痛を訴えたため、わたくしは亭長の家へ水と火を借りに行ったのです。すると、亭長の龔寿が、戈や戟といった武具を手に車の方へやって来て、わたくしに尋ねました。『夫人はどこから来た。車に何を積んでいる。夫はどこだ。なぜ一人でいるのか』と。わたくしが『なぜそのようなことをお尋ねに』と答えますと、龔寿はわたくしの腕を掴み、『若い者は色を好むもの。楽しみが得られるやもしれぬ』と言いました。わたくしは恐ろしくて拒みましたが、龔寿は刀でわたくしの脇腹を刺し、その場で命を奪いました。致富もまた、刺し殺されてしまいました。龔寿は楼の下を掘り、わたくしを下に、婢を上にして埋め、財物をすべて奪い去ったのです。牛を殺し、車を焼き、その車軸や牛の骨を亭の東にある空井戸に捨てました。わたくしは無念の死を遂げ、その痛みは天にも届くほどですが、訴える術がございません。それゆえ、明察なる使君(あなた様)に、自らお訴えしに参った次第でございます。」
何敞は言いました。「今、お前の亡骸を掘り起こしたいが、何を証とすればよいか。」
女は答えました。「わたくしは上下ともに白い服をまとい、青い絹の履物を履いております。まだ朽ち果ててはいないはずです。どうか、わたくしの故郷を探し出し、遺骨を亡き夫のもとへ還してくださいませ。」
言われた場所を掘ってみると、果たして女の言葉通りでした。何敞はすぐに広信県へ戻り、役人を遣わして龔寿を捕らえさせます。龔寿は拷問の末、すべてを白状しました。広信県で調査させると、その内容は女の訴えと寸分違わぬものでした。龔寿の父母兄弟もすべて捕らえられ、獄に繋がれました。
何敞は帝に上奏しました。「龔寿が人を殺めた罪は、通常の法では一族皆殺しにまでは至りません。しかし、龔寿は悪事の首謀者でありながら、数年もの間その罪を隠し通してきました。王の法から逃れることは許されません。幽霊が自ら訴え出るなどということは、千年に一度あるかないかの稀有なことでございます。どうか、彼ら全員を斬罪に処することをお許しください。これによって鬼神の存在を世に知らしめ、冥府の裁きを助けることにもなりましょう。」
帝はこれを許可したということです。
湖底の幽霊船と幽婚
濡須口の湖底には、転覆した大きな船が沈んでいます。水位が低い時にだけその姿を現しますが、土地の長老たちは「あれは曹公(曹操)の船だ」と言い伝えていました。
昔、一人の漁師が夜、その船のそばに小舟を繋いで眠っていたところ、どこからか笛や弦楽器の音が聞こえ、えも言われぬ香りが漂ってきました。漁師がうとうとと眠りにつくと、夢の中に人が現れて彼を追い払い、「官妓に近づくな」と言ったそうです。言い伝えによれば、「曹公が妓女たちを乗せていた船がここで転覆し、今もなお、そのままの姿で沈んでいる」とのことでした。
夏侯愷、字を万仁という男が、病で亡くなりました。彼の一族に、苟奴という、かねてより物の怪の姿を見ることができる子供がいました。その子の目には、亡くなった夏侯愷がたびたび家に戻ってきては馬を欲しがったり、残された妻に病を移そうとしたりする姿が映っていました。夏侯愷は平らかな頭巾をかぶり、単衣をまとい、生きていた時に使っていた西の壁際にある大きな寝台に腰掛け、人に茶を求めて飲んでいたということです。
諸仲務の娘、顕姨は、米元宗に嫁いだ後、実家で産みの苦しみの最中に亡くなりました。当時の習わしでは、産褥で亡くなった女性の顔には、墨で点を打つことになっていました。しかし、母親は娘が不憫でならず、どうしてもその手を動かすことができません。見かねた父の仲務が、誰にも見られぬよう、そっと娘の顔に点を打ちました。
その後、夫の元宗が始新県丞の職にあった時のこと、夢に亡き妻が現れ、彼の寝台に上がってきました。はっきりと見ると、彼女は新しい白無垢をまとい、その顔には、見覚えのない黒い点があったということです。
晋の時代、新蔡王の昭平は、子牛の引く車を庁舎の上に置いていました。ところがある夜、その車が理由もなくひとりでに斎室の中へ入り込み、壁にぶつかってはまた出て行くという奇怪な出来事が起こりました。その後も、四方から叫び声や何者かが争うような物音が頻繁に聞こえてきます。昭平は人々を集め、弓矢を構えさせ、音のする方へ矢を射させましたが、鬼はその矢を何本か素手で受け止め、ことごとく地面に突き刺して見せたということです。
呉の赤烏三年(240年)、句章の楊度という者が、余姚へ向かう道すがら、夜道を歩いていました。すると、一人の少年が琵琶を抱え、道連れに乗せてほしいと頼みます。楊度はこれを承知しました。少年は琵琶で見事な曲を数十曲も奏でましたが、演奏が終わると、突然べろりと舌を吐き出し、らんらんと目を剥いて、楊度をさんざん怖がらせてから去っていきました。
さらに二十里ほど進むと、今度は一人の老父に出会いました。自ら「姓は王、名は戒」と名乗ったので、また彼を乗せてやることにします。楊度が「先ほどの鬼が弾く琵琶は、実に物悲しい音色でした」と話すと、王戒は「わしも弾けるぞ」と言いました。そして、たちまち先ほどの鬼の姿に変わり、再び目を剥いて舌を吐き出したのです。楊度は恐ろしさのあまり、ほとんど死ぬかと思ったということです。
琅琊の秦巨伯は、齢六十の老人でした。ある夜、酒を飲んで蓬山廟の前を通りかかると、突然、二人の孫が迎えに現れました。彼らは百歩ほど祖父をかいがいしく支えながら歩いた後、いきなり祖父の首を掴んで地面に押し倒し、「この老いぼれめ!いつぞや我らを打ったな。今こそ殺してくれるわ」と罵ります。巨伯が思い返してみると、確かに以前、この孫たちを叩いた覚えがありました。巨伯が死んだふりをすると、鬼は彼を置き去りにしてどこかへ消えていきました。
巨伯は家に帰り、二人の孫を懲らしめようとしましたが、孫たちは驚き、頭を下げて言いました。「子孫たるものが、どうしてそのようなことをいたしましょう。きっと物の怪の仕業に違いありません。どうか、もう一度お試しください。」巨伯は合点がいき、数日後、再び酔ったふりをして、あの廟の間を歩きました。すると、また二人の孫が現れ、祖父を支えます。巨伯はすかさず鬼たちを捕らえ、動けなくなったところを家に連れ帰りました。それは、やはり見知らぬ二人の男でした。巨伯が火で炙ると、腹や背中が焼け焦げて裂けたところで、男たちは庭から夜の闇に紛れて逃げ去りました。巨伯は彼らを殺し損ねたことを悔やみ、一月余り後、またも酔ったふりをして夜道を歩き、今度は懐に刃を忍ばせて行きました。家族は何も知りませんでしたが、夜遅くなっても帰らないため、孫たちはまた鬼に襲われたのではないかと案じ、二人揃って祖父を迎えに行きました。ところが巨伯は、駆けつけた孫たちを鬼と見誤り、その刃で刺し殺してしまったということです。
漢の武建元年(148年)、東莱に池という姓の者がいました。家でいつも酒を造っていましたが、ある日、三人の見慣れぬ客がやって来て、皆で麺や飯を持ち寄り、酒を求めて飲んでいきました。しばらくして、ある人がやって来て、「林の中で、三人の鬼が酔いつぶれているのを見ました」と告げました。
呉の孫権が、武衛兵の銭小小を処刑した時のことです。彼の亡霊が大通りに現れ、借家人であった呉永に話しかけました。亡霊は永に書状を渡し、街の南にある廟へ届けて、木馬を二頭借りてくるように頼みます。永が言われた通り、酒を木馬に吹きかけると、木馬はたちまち鞍や轡もすべて揃った立派な馬に姿を変えたということです。
南陽の宋定伯は、若い頃、夜道を歩いていると、一人の鬼に出会いました。定伯が尋ねると、相手は「私は鬼だ」と答えます。鬼が「お前は誰だ」と聞き返してきたので、定伯はとっさに「私も鬼だ」と嘘をつきました。鬼が「どこへ行くつもりだ」と問うので、「宛市へ行きたい」と答えると、鬼も「私も宛市へ行くところだ」と言い、二人は連れ立って歩くことになりました。
数里ほど歩くと、鬼が言いました。「歩くのが遅すぎる。互いに背負い合って行かぬか。」定伯は「それは良い考えだ」と応じます。まず鬼が定伯を数里背負いました。すると鬼は言いました。「お前は重すぎる。もしや鬼ではないのではないか。」定伯は答えます。「私は新米の鬼なので、体がまだ重いのだ。」今度は定伯が鬼を背負う番でしたが、鬼は羽のように軽く、ほとんど重さを感じませんでした。
このように何度か背負い合った後、定伯は再び言いました。「私は新米の鬼なので、何を恐れるべきか、まだよく知らない。」鬼は答えました。「我々はただ、人の唾だけが苦手なのだ。」
二人が共に歩いていくと、やがて川に行き当たりました。定伯は鬼に先に渡るよう促し、耳を澄ましましたが、鬼が渡る音はまったく聞こえません。定伯が渡ると、「ざぶ、ざぶ」と水音がしました。鬼はまた言いました。「どうして音がするのだ。」定伯は言います。「死んだばかりで、まだ水に慣れていないのだ。どうか許してくれ。」
宛市に近づくと、定伯は鬼を背負い、その肩の上で相手を力いっぱい捕えました。鬼は「キーキー」と甲高い声をあげて、降ろしてくれと頼みましたが、定伯は聞き入れません。そのまま宛市の中へ連れて行き、地面に下ろすと、鬼は一匹の羊に姿を変えました。
定伯はすぐにそれを売ることにしました。羊がまた変化するのを恐れ、唾を吐きかけてから売りに出すと、千五百の銭で売れたということです。当時の富豪であった石崇は、この話を聞き、「定伯は鬼を売って、千五百銭を得た」と語ったと伝えられています。
永遠の契りと真実の愛
呉王夫差に、紫玉という名の末娘がおりました。年は十八、その才知と美貌は並ぶ者がないほどでした。一方、韓重という十九歳の若者がおり、道術を学んでいましたが、彼は紫玉に心惹かれ、娘もまた彼に想いを寄せ、密かに文を交わしては、いずれ妻となることを誓い合っていました。やがて韓重が斉や魯の国へ学問を修めに行くことになり、出発に際し、両親に紫玉との結婚を王に願い出てくれるよう頼みました。しかし、これを聞いた王は激怒し、二人の仲を許しませんでした。
紫玉は悲しみのあまり病に伏し、やがて儚くもこの世を去り、閶門の外に葬られました。
三年後、韓重が故郷へ戻り、両親に事の次第を尋ねると、「王が大変お怒りになり、玉様は悲しみのあまりお亡くなりになり、すでに葬られた」と知らされます。韓重は声を上げて泣き、供物と金品を用意して、彼女の墓前で弔いを行いました。
すると、紫玉の魂が墓の中からふわりと現れ、韓重の姿を見て涙を流し、言いました。「あなたが旅立たれた後、私はあなたの御両親に王への求婚を頼み、きっと願いは叶うものと信じておりました。しかし、別れての後、このような運命に見舞われようとは。もはや、どうすることもできません。」
玉は静かに横を向き、首を傾けて歌い始めました。
南の山に鳥はいるのに、北の山には網が張られている。
鳥はすでに空高く飛び去り、網にはもはやなすすべもない。
あなたに従いたいと願っても、人を傷つける言葉があまりに多い。
悲しみが病となり、黄泉路へと命は落ちた。
運命は私に味方せず、このやるせない恨みをどうすればよいのか。
鳥の長は、その名を鳳凰という。
一日夫を失えば、三年もの間、悲しみに暮れる。
たとえ多くの鳥がいようとも、私と対になることは決してない。
あえてこの醜い姿をさらすことで、あなたの輝かしい光に出会うことができた。
体は遠く離れても、心はいつもあなたのそばに。どうして一時でも忘れられましょう。
歌い終えると、玉はすすり泣き、韓重を墓の中へと誘いました。
韓重は言いました。「生ける者と死せる者、その道は異なります。咎めを受けるのが恐ろしく、あなたに従うことはできません。」
玉は言いました。「生と死の道が違うことは、私も承知しております。しかし、今ここで別れてしまえば、永遠に会える日は来ないでしょう。あなたが私を恐れるのは、私が鬼となってあなたに災いをなすとお思いだからですか。偽りのない真心をお見せしているのに、どうして信じてはくださらないのですか。」
韓重はその言葉に心を動かされ、ついに彼女と共に墓の中へと入っていきました。玉は彼と酒を酌み交わし、三日三晩、夫婦の契りを尽くしたのでした。
別れの時、玉は一寸ほどの大きさの真珠を韓重に贈り、言いました。「私の名誉は傷つけられ、願いも絶たれてしまいました。もはや言うことはありません。どうか、時節柄ご自愛ください。もし、私の実家へお立ち寄りになることがあれば、父である大王によろしくお伝えください。」
韓重は墓を出ると、すぐに王のもとへ赴き、事の次第をありのままに話しました。王はこれを聞いて大いに怒り、「私の娘はすでに死んでいる。この男は偽りを述べ、亡き娘を汚そうとしている。これは墓を暴いて品を盗み、それを鬼神のせいにする魂胆に違いない」と言い、韓重を捕らえるよう命じました。
韓重は追っ手から逃れ、玉の墓所へ駆け込んで訴えました。すると玉は言いました。「ご心配には及びません。今すぐ、私が王に申し上げます。」
王が身支度を整えていると、目の前に、突然、娘の紫玉が現れました。王は驚き、悲しみ、そして喜んで尋ねました。「お前は、どうして生き返ったのだ。」
玉はひざまずいて言いました。「昔、韓重様が生きておられた時、私との結婚をお求めになりましたが、大王はお許になりませんでした。娘の名誉は傷つき、義も絶たれ、自ら命を絶ちました。先日、重様が遠い地からお戻りになり、娘が死んだと聞いて、供物と金品を携え、わざわざ墓へ弔いに来てくださいました。その篤い情に心打たれ、ついに彼と再会し、真珠を贈ったのです。決して墓が暴かれたわけではございません。どうか、彼をお許しください。」
王妃がこれを聞きつけ、奥から出てきて玉を抱きしめようとしましたが、その姿は煙のように掻き消えてしまいました。
死後の契りと金枕の証
隴西の辛道度という男が、遊学の途中、雍州の城から四、五里離れた場所で、大きな屋敷を見つけました。青い衣をまとった娘が門に立っていたので、道度は門の下まで行き、一食の恵みを乞います。娘は中へ入り、主である秦の娘に告げると、娘は道度を招き入れるよう言いました。
道度が急いで奥の建物へ入ると、秦の娘が西側の寝台に腰掛けていました。道度が名を告げ、旅の挨拶を述べると、娘は東の寝台に座るよう促し、すぐにもてなしの食事を用意させました。
食事が終わると、娘は道度に語りかけました。「わたくしは秦の閔王の娘です。かつて曹国へ嫁ぎましたが、不幸にも夫に先立たれ、わたくしも亡くなりました。この世を去ってから二十三年、ずっと一人でこの屋敷に住んでおります。今日、あなたがここへいらしたのは、私たち二人が夫婦となる縁があったからでしょう。どうか、三晩ほど、共に過ごしてくださいませ。」
三日が過ぎた後、娘は自ら言いました。「あなたは生きておられるお方、そして私は鬼。あなたとの宿命の契りは、この三夜で尽きます。これ以上長居をなされば、きっと災いが降りかかりましょう。ですが、この三夜の情愛はまだ尽きてはおりません。お別れにあたり、あなたに何か信となるものをお渡ししとうございます。」
娘は侍女に寝台の後ろにある箱を取らせ、その中から金の枕を一つ取り出して道度に渡しました。そして、涙を流して別れを告げ、青衣の娘に命じて門の外まで送らせます。門を出て数歩も行かないうちに、あれほど立派だった屋敷は跡形もなく消え、そこにはただ一つの古い塚があるだけでした。
道度は慌ててその場を走り去りましたが、懐には確かに金の枕がありました。不思議なことに、身に変事は何も起こりません。彼は秦の国へ行き、その枕を市場で売ろうとしました。ちょうどその時、秦の妃が東へ遊びに出ており、道度が金の枕を売っているのを見て、怪しんでそれを取り上げさせました。そして、道度にどこで手に入れたのかと問いただします。道度は、事の次第をありのままに話しました。
妃はこれを聞き、悲しみに耐えませんでしたが、まだどこか疑う気持ちがありました。そこで人を遣わして娘の墓を発掘させると、埋葬された品々はすべてそのままありましたが、枕だけがなくなっています。そして、娘の遺体を調べると、まるで生きているかのように、交わりの跡が生々しく残っていました。
秦の妃は初めてそれを信じ、嘆息して言いました。「私の娘は、なんと聖なる娘であろうか。死して二十三年も経つというのに、生きた人間と交わることができるとは。この男こそ、私の真の婿である。」
そこで道度を駙馬都尉という官職に封じ、金品や車馬を与えて故郷へ帰らせました。この出来事以来、後世の人は娘婿を「駙馬」と呼ぶようになり、現代の皇族の娘の夫もまた、「駙馬」と呼ばれるようになったということです。
幽霊の妻と焦げた尻尾の琴
漢の時代、談生という男がおりました。年は四十になりますが、まだ妻がいませんでした。彼はいつも心を込めて『詩経』を読んでいました。ある夜更けのこと、一人の娘が現れます。年は十五、六歳ほどで、その容姿も装いも、この世のものとは思えぬ美しさでした。彼女は談生に寄り添い、夫婦になりたいと申し出ました。
娘は言いました。「わたくしは普通の人とは違います。決して、火でわたくしの姿を照らさないでください。三年経てば、もう照らしても構いません。」
二人は夫婦となり、やがて二歳になる男の子をもうけました。しかし、談生はもう好奇心を抑えることができません。ある夜、娘が寝静まった後、密かに火を灯してその姿を照らしてみました。すると、娘の腰から上は人の肉体でしたが、腰から下は、見るも無惨な枯骨だったのです。
娘はそれに気づき、言いました。「あなたは、私を裏切りました。私はもうすぐ生き返ることができたというのに、どうしてあと一年、待てなかったのですか。私を照らしてしまうとは。」
談生は涙ながらに許しを請いましたが、娘の決意は変わりません。娘は言いました。「あなたと永遠に別れるのは、断腸の思いです。ですが、この子が不憫でなりません。もし貧しくて一人では暮らせないようなら、しばらく私について来てください。あなたに何か形見を差し上げましょう。」
談生がついて行くと、娘は華麗な建物の中へ入っていきました。部屋の調度品は、どれも尋常なものではありません。娘は談生に真珠を縫い込んだ豪奢な着物を渡し、「これで生計を立てなさい」と言うと、談生の着物の裾をちぎって持ち去り、別れて行きました。
その後、談生がその着物を市場へ持っていくと、睢陽王家がそれを買い取りたいと言い、一千万もの銭を支払いました。王は着物を見て言いました。「これは、亡くなった私の娘の着物だ。なぜ市場に出ているのだ。この男は、きっと墓を暴いたに違いない。」そして彼を捕らえ、厳しく拷問しました。談生は、事の次第を正直に話しました。
王はそれでも信じず、娘の墓を見に行かせました。墓は荒らされた様子もなく、元のままでした。しかし、掘り起こして棺を開けてみると、棺の蓋の下に、確かに談生の着物の裾の破れ端が落ちています。さらに彼の息子を呼んで見ると、その顔立ちは亡き娘に生き写しでした。
王は初めて談生の言葉を信じ、すぐに彼を呼び戻すと、改めて褒美を与え、娘婿として迎え入れました。息子は郎中という官職に推挙され、王家は、まるで焦げた尾を持つ名琴が再び美しい音色を奏でるように、再興したということです。
盧充は范陽の人で、彼の家から西へ三十里ほどの所に、崔少府の墓がありました。盧充が二十歳になった年の冬至の前日、家の西側へ狩りに出ていた時のことです。一匹の獐を見つけ、弓で射ると見事に命中しましたが、獐は一度倒れた後、再びむくりと立ち上がりました。盧充は夢中でその後を追いかけ、いつしか遠くまで来てしまいました。
突然、道の北一里ほどの所に、高い門構えの瓦屋根の大きな屋敷が現れました。周囲の様子はまるで役所のようでしたが、追っていた獐の姿はどこにも見えません。門から一人の使いが出てきて、「お客様のお成り」と声を張り上げます。盧充が「ここはどこの役所ですか」と尋ねると、使いは「少府様のお屋敷です」と答えました。盧充は「私の服は狩りで汚れている。どうして少府様にお会いできようか」と言葉を濁すと、すぐに一人の男が新しい服の包みを持ってきて、「府君(少府様)から郎君(あなた様)へ」と言って手渡しました。盧充はそれに着替え、少府に会うことにしました。
少府に名を告げ、旅の挨拶を終えると、少府は盧充に言いました。「あなたのお父上が、私の屋敷を卑しいなどとは思われず、先日、お手紙をくださって、私の娘との縁談を申し込まれた。それゆえ、あなたをお迎えに上がった次第だ。」そう言うと、手紙を盧充に見せます。盧充は父が亡くなった時はまだ幼かったものの、父の筆跡は覚えておりました。彼はすすり泣き、断る言葉もなくその縁談を承諾しました。
少府は奥に命じ、「盧郎がおいでになった。娘に化粧をさせなさい」と言うと、盧充には「東側の廊下でお待ちくだされ」と告げました。黄昏時になると、奥から「お嬢様のお支度が整いました」との知らせがあります。盧充が東の廊下へ行くと、娘はすでに車から降り、席の前に立っていました。二人は、共に拝礼を交わしたのでした。
三日間、そこで食事を共にし、満ち足りた時を過ごした後、崔少府は盧充に言いました。「あなたはもうお帰りになるべきだ。娘は身ごもったようだ。もし男の子が生まれたなら、あなたのもとへ返そう。疑ってはならぬぞ。女の子が生まれたなら、我らがここで育てる。」そして、外に客を送るための車を用意するよう命じました。
盧充が別れを告げると、崔少府は中門まで見送り、固く手を握って涙を流しました。門を出ると、子牛の引く車に青い服の御者がおり、盧充がもともと着ていた服と弓矢が、門の外に置かれているのが見えました。
すぐに一人の使いが服の包みを持ってきて、盧充に告げます。「縁組が始まったばかりで、お別れはさぞお寂しいことでしょう。もう一揃いの服と布団を差し上げます。」
盧充が車に乗ると、それはまるで電光石火の速さで走り、たちまち彼の家に到着しました。
家族は彼の帰還を喜び、そして悲しみながら、事の次第を問い詰めました。そこで初めて、崔少府とはとうに亡くなった人であり、彼がいた場所は墓の中であったことがわかったのです。家族は後悔し、嘆きました。
別れてから四年後の三月三日、盧充が水辺で催された宴に興じていると、突然、水面に二台の子牛の車が現れました。車は水中に沈んだり浮かんだりしていましたが、やがて岸辺に近づいてきます。宴席にいた誰もが固唾をのんで見守る中、盧充が車の後ろの戸を開けると、中には崔氏の娘が三歳になる男の子と共に乗っていました。
盧充はその姿を見て喜び、手を掴もうとしましたが、娘は後ろの車を指差し、「父君が人払いをしておられます」と言いました。見ると、そこには少府がいます。盧充が挨拶に向かうと、娘は子供を抱いて車に戻りました。
盧充は金色の鉢(鋺)を彼女に渡し、一首の詩を贈りました。
きらめく霊芝のようなその姿は、なんと美しく輝いていることか!
華やかな美しさは生前から際立ち、その素晴らしさは神秘を物語っていた。
花開く前に、若くして霜に遭い、しおれてしまった。
栄光は長く冥府に閉ざされ、この世で輝くことはついになかった。
陰陽のめぐりも知らぬまま、賢人なるあなたが突然やって来た。
出会いは浅く別れは早いが、すべては魂とただ一人の君の導き。
何を私に贈るというのか、この金の鉢で我が子を養うがよい。
睦まじい日々はこれでお別れ。腸はちぎれ、肝は傷むほどに悲しい。
盧充が息子と鉢と詩を受け取ると、二台の車は忽然と消え失せてしまいました。
盧充が息子を連れて帰ると、周囲の人々は彼を鬼の子だと思い、皆遠くから唾を吐きかけました。しかし、息子の姿に何の変化もありません。息子に「お前の父は誰だ」と尋ねると、息子はまっすぐ盧充の懐に飛び込みました。
人々は初めこそ驚き、不気味に思っていましたが、盧充が贈られた詩を読んで、生と死を超えた不思議な心の通い合いに感嘆したのでした。
後日、盧充は車に乗って市場へ行き、その金の鉢を売ろうとしました。彼はわざと高値をつけ、すぐには売ろうとはしません。誰か、この鉢に見覚えのある者が現れるのを期待していたのです。すると突然、一人の年老いた侍女がこれを見て、主人に報告しました。「市場で、車に乗った男が、崔家のお嬢様の棺にお納めした鉢を売っております。」
その主人とは、崔氏の娘の伯母にあたる女性でした。彼女は息子に見に行かせると、老女の言った通りです。息子は車に乗り、名を名乗って盧充に尋ねました。「昔、私の叔母が少府に嫁ぎ、娘をもうけましたが、その娘は嫁ぐ前に亡くなりました。家族はそれを悼み、金の鉢を贈って棺の中に入れたのです。どうか、その鉢の由来を教えてはいただけませんか。」
盧充が事の次第を話すと、その息子も悲しみに声を詰まらせました。息子は家に帰り、母に報告します。母はすぐに盧充の家を訪ね、息子を迎え入れて対面しました。親戚一同が集まります。子供の顔立ちは崔氏の娘に似ており、また盧充にも似ていました。子供と鉢が、すべてが真実であることを証明していたのです。
伯母は言いました。「私の姪の娘は、三月の末に生まれました。その父が『春の気候は、暖かく穏やかである』と言ったそうです。願わくは、この子が強くありますように。」そこで、その子に温休という名がつけられました。温休とは、幽婚、すなわち幽霊との結婚を意味し、その兆しはすでに現れていたのです。
この息子は後に立派な人物となり、郡守二千石の位を歴任し、その子孫は代々官位を継ぎました。今もなお、その子孫である植、字を子幹という者が、天下にその名を馳せているということです。
鬼の悪戯と予兆
後漢の武建元年(148年)、東莱に池という姓の者がおりました。家で常に酒を造っていましたが、ある日、三人の見慣れぬ客がやって来て、皆で麺や飯を持ち寄り、酒を求めて飲んでいきました。しばらくすると、ある人がやって来て、「林の中で、三人の鬼が酔いつぶれているのを見ました」と告げました。
呉の孫権が、武衛兵の銭小小を処刑した時のことです。彼の亡霊が大通りに現れ、借家人であった呉永に話しかけました。亡霊は永に書状を渡し、街の南にある廟へ届けて、木馬を二頭借りてくるように頼みます。永が言われた通り、酒を木馬に吹きかけると、木馬はたちまち鞍や轡もすべて揃った立派な馬に姿を変えたということです。
南陽の宋定伯は、若い頃、夜道を歩いていると、一人の鬼に出会いました。定伯が尋ねると、相手は「私は鬼だ」と答えます。鬼が「お前は誰だ」と聞き返してきたので、定伯はとっさに「私も鬼だ」と嘘をつきました。鬼が「どこへ行くつもりだ」と問うので、「宛市へ行きたい」と答えると、鬼も「私も宛市へ行くところだ」と言い、二人は連れ立って歩くことになりました。
数里ほど歩くと、鬼が言いました。「歩くのが遅すぎる。互いに背負い合って行かぬか。」定伯は「それは良い考えだ」と応じます。まず鬼が定伯を数里背負いました。すると鬼は言いました。「お前は重すぎる。もしや鬼ではないのではないか。」定伯は答えます。「私は新米の鬼なので、体がまだ重いのだ。」今度は定伯が鬼を背負う番でしたが、鬼は羽のように軽く、ほとんど重さを感じませんでした。
このように何度か背負い合った後、定伯は再び言いました。「私は新米の鬼なので、何を恐れるべきか、まだよく知らない。」鬼は答えました。「我々はただ、人の唾だけが苦手なのだ。」
二人が共に歩いていくと、やがて川に行き当たりました。定伯は鬼に先に渡るよう促し、耳を澄ましましたが、鬼が渡る音はまったく聞こえません。定伯が渡ると、「ざぶ、ざぶ」と水音がしました。鬼はまた言いました。「どうして音がするのだ。」定伯は言います。「死んだばかりで、まだ水に慣れていないのだ。どうか許してくれ。」
宛市に近づくと、定伯は鬼を背負い、その肩の上で相手を力いっぱい捕えました。鬼は「キーキー」と甲高い声をあげて、降ろしてくれと頼みましたが、定伯は聞き入れません。そのまま宛市の中へ連れて行き、地面に下ろすと、鬼は一匹の羊に姿を変えました。
定伯はすぐにそれを売ることにしました。羊がまた変化するのを恐れ、唾を吐きかけてから売りに出すと、千五百の銭で売れたということです。当時の富豪であった石崇は、この話を聞き、「定伯は鬼を売って、千五百銭を得た」と語ったと伝えられています。
潁川の鍾繇、字を元常は、数ヶ月もの間、朝廷への出仕を怠り、その精神状態は常軌を逸していました。ある人がその理由を尋ねると、彼は言いました。「常に美しい女性が私のもとを訪れるのだ。その美しさは、この世のものとは思えぬほどだ。」
尋ねた者は言いました。「それはきっと幽霊に違いありません。殺すべきです。」
次に女性が来た時、彼女はすぐには部屋へ入らず、戸口に佇んでいました。鍾繇が「どうしたのだ」と尋ねると、女性は言いました。「あなたは、私を殺そうとお考えですね。」鍾繇は「そんなことはない」と否定し、熱心に招き入れると、女性は中へ入りました。鍾繇は心に恨みを抱きつつも、殺すには忍びず、ただその太ももを刃で傷つけました。女性はすぐに外へ飛び出し、新しい綿で傷口から流れる血を拭いながら、道を通って去っていきました。
翌日、ある者がその血の跡を辿っていくと、一つの大きな墓にたどり着きました。墓の中を覗くと、そこには美しい女性が横たわっており、その体はまるで生きているかのようでした。白い練絹の衣をまとい、赤く刺繍された襦袢を身に着けています。そして、その左の太ももには確かに傷があり、襦袢の中から取り出した綿で血を拭った跡があったということです。
この巻のあらましと探求
1. 簡潔な要約
『捜神記』第十六巻は、生と死の境界線が薄墨のように淡く、時に交じり合う世界の物語です。この巻では、亡くなった者が鬼となり、あるいは魂として現世に干渉する様々な逸話が語られます。疫病の起源のような神話的な話から始まり、無念の死を遂げた者が役人に罪を訴え出るサスペンス、死してなお愛する人と結ばれようとする哀切な恋物語(幽婚)、そして人間と鬼との滑稽な化かし合いに至るまで、その内容は多岐にわたります。全体を通して流れるのは、死は終わりではなく、死後もなお感情や秩序が存在するという、当時の人々の死生観そのものです。
2. 各場面の魅力:不思議さ、人情、面白さ、そして恐怖
この巻に収められた物語は、それぞれが異なる光彩を放っています。
【不思議さ】― 体系化された冥府の存在
最も不思議さを感じさせるのは、蔣済の息子の物語に見られる「驚くほどに体系化された冥府」の姿です。死後の世界は混沌とした闇ではなく、「泰山府君」を頂点とし、「泰山令」「伍伯」「録事」といった役職が存在する官僚社会として描かれています。まるで地上の朝廷をそのまま写し取ったかのようなこの世界観は、当時の人々が未知なる死後の世界を、自分たちの理解できる社会構造に当てはめて解釈しようとした試みの表れでしょう。死者が夢枕に立ち、人事異動の口利きを頼むという発想は、奇妙でありながらも妙に現実的で、読む者に深い不思議さを感じさせます。
【人情味あふれる場面】― 紫玉と韓重、死を超えた愛
この巻で最も胸を打つのは、呉王の娘・紫玉と韓重の悲恋です。生前に結ばれなかった二人が、墓前で再会する場面は、人情味の極致と言えます。特に、紫玉が自らの悲運を詠う歌は、叶わなかった恋の痛みと、それでもなお変わらぬ想いの深さを静かに、しかし強く訴えかけます。彼女が「体は遠くとも心は近くにあることを、どうして一時たりとも忘れられましょう」と語る時、読者は生と死という絶対的な壁すらも越えようとする、純粋な愛情の力に心を揺さぶられます。これは単なる怪談ではなく、普遍的な愛の物語なのです。
【面白さ】― 宋定伯、鬼を売り千五百銭を得る
物語の中には、思わず笑みを誘われるような滑稽な話も含まれています。その代表が、機知に富む若者・宋定伯が鬼を騙す物語です。鬼と道連れになり、「新米の鬼だから重い」「死んだばかりで水に慣れていない」と嘘を重ね、ついには鬼の弱点(唾)を聞き出します。そして最後には鬼を捕まえて羊に変え、市場で売り払ってしまうという結末は、痛快そのものです。恐怖の対象であるはずの鬼が、人間の知恵の前ではどこか間が抜けていて愛嬌すら感じさせます。これは、庶民の間に語り継がれたであろう、たくましい人間の知恵とユーモアを称える昔話の典型と言えるでしょう。
【恐怖心をあおられる場面】― 蘇娥の訴え、生々しい殺人事件の告白
この巻で最も生々しい恐怖を感じさせるのは、亭長の龔寿に惨殺された蘇娥が、刺史の何敞に事件の真相を訴える場面です。彼女の語りは、抽象的な怨念ではなく、「戈や戟を持って」「刀で脇腹を刺し」「楼の下を掘り、妾を下に、婢を上に埋め」といった、あまりに具体的で克明な描写に満ちています。このリアリズムこそが、読者の恐怖心を煽ります。これは超自然的なホラーというよりも、人間の残虐性が引き起こした犯罪ドキュメンタリーに近い感触があり、その無念の深さがひしひしと伝わってくるのです。
3. 深掘りと検証:物語が示す「真実」とは何か
これらの物語をさらに深掘りすると、当時の人々が何を信じ、何を伝えようとしていたのかが見えてきます。
検証①:物的証拠による「真実」の証明
『捜神記』の物語が巧みなのは、超常現象を語る際に、必ずと言っていいほど「物的証拠」を提示する点です。辛道度がもらった金の枕は、実際に墓から消えていました。談生の妻が残した真珠の着物は、王家の墓に埋葬された本物でした。盧充の息子が持っていた金の鉢もまた、棺に納められたものでした。これらの「証拠」は、物語に圧倒的な信憑性を与えるための重要な装置です。これは、単なる空想話ではなく、「本当にあったこと」として語り継ごうとする作者の強い意志の表れと言えるでしょう。
検証②:死後も続く「人間」の感情と社会
この巻の幽霊たちは、決して異質な怪物ではありません。彼らは、死後もなお人間的な感情を持ち続けています。故郷が恋しくなる温序の魂、息子の出世を願う蔣済の息子、愛する人と結ばれたい紫玉。彼らの願いは、生きている人間のそれと何ら変わりません。このことは、死が魂の断絶を意味するのではなく、ただ存在の様態が変わるだけなのだという思想を反映しています。死後の世界もまた、我々の世界の延長線上にある、もう一つの社会なのです。
検証③:無鬼論者への警鐘
阮瞻や施続の門弟のように、「幽霊など存在しない」と断じる理屈屋が、本物の鬼に論破され、死に至る物語が二つも収録されているのは非常に示唆的です。これは、人間の知性や理屈だけでは到底測り知れない世界の存在を認めよ、という強いメッセージです。目に見えるものだけが全てではないという、一種の警鐘として機能しており、人々に対して謙虚であること、そして神仏や霊魂といった人知を超えた存在への畏敬の念を持つことの重要性を説いているのです。
総括として、『捜神記』第十六巻は、単なる怪奇譚の寄せ集めではありません。それは、死という最大の不可知に対して、当時の人々が紡ぎ出した一つの壮大な「答え」なのです。そこには恐怖だけでなく、愛や悲しみ、笑い、そして確固たる秩序が存在していました。私たちはこれらの物語を通して、古代中国の人々の豊かで深遠な精神世界を垣間見ることができるのです。




