第十一巻:精誠の力と死生の異路
『至孝、厳冬を溶かす』
継母を想う孝子、王祥。彼は肌を刺す寒気も意に介さず、衣服を脱ぎ捨てたその身を、冷たく硬い氷の上へと横たえていた。骨張った痩身は、祈りそのものであった。天を恨むでもなく、運命を呪うでもない。ただ一つの願い――病の母が欲する一匹の魚を、この氷の下から届けたいという、純粋でひたむきな願いだけが、彼の内なる炎となって燃え盛っていた。
どれほどの刻が過ぎたか。世界が息を殺したかのような静寂の中、ぴしり、と微かな亀裂の音が響いた。それは王祥の真下から。音は細い線となり、線は蜘蛛の巣のように広がり、やがて、彼の体の形に沿って、氷がまるで意思を持ったかのように自ら解け始めたのである。
陽光の届かぬ暗い水底から、二匹の鯉が、きらめく水飛沫とともに躍り出た。その鱗は、月光を宿したかのように白銀に輝き、生命の歓喜に満ちていた。それは、天が至孝の誠心に感応した、声なき答えであった。
【しおの】
一念、岩をも通す
楚の国の熊渠子という男が、ある夜道を歩んでおりました。闇の中に、獣が伏しているかのような黒い影。彼はそれを、待ち伏せる虎と思い込み、満身の力を込めて弓を引き絞り、矢を放ちました。手応えは確かで、矢は深く突き刺さり、金属の鏃は影に飲み込まれ、ただ矢羽だけが震えておりました。
おそるおそる近づいてみると、それは虎ではなく、道端に眠るただの石くれ。己の思い込みに苦笑しつつ、彼は再び同じ石に向かって矢を射てみました。しかし今度は、甲高い音とともに矢は砕け散り、石にはかすり傷ひとつ残りませんでした。
漢の時代にも、右北平の太守であった名将・李広が虎と見誤って石に矢を射立てたという話が伝わっておりますが、これもまた、熊渠子の逸話と軌を一にするものでありましょう。
これについて、かの劉向はこう述べています。「誠の心が極みに達すれば、堅い金属や石ですら打ち開くことができる。ましてや、人の心に響かぬ道理があろうか。夫が呼びかけても妻が応えず、人が行動を起こしても誰も従わぬ時、その心には必ずや曇りがあるのだ。その場を動かずして天下を正す者は、ただ己の内にすべてを求めるものである」と。
弓聖の気配、猿を泣かす
楚の王が庭園で気ままに過ごしていた折、一匹の白い猿が戯れておりました。王が弓の名手たちに射るよう命じましたが、猿は放たれた矢をことごとく叩き落とし、あざ笑うかのように甲高い声をあげます。
そこで王は、天下にその名を知られた弓の達人、由基を呼び寄せました。由基が進み出て、ただ静かに弓を構え、弦に手をかけた、その瞬間。猿はたちまち木にしがみつき、悲痛な叫び声をあげて泣き始めたと伝えられています。
また戦国の世、更羸という者が魏王に奏上しました。「私は、矢を番えず、ただ弦音を響かせるだけで、飛ぶ鳥を地に落としてご覧に入れましょう。」魏王は訝しんで尋ねます。「其方の射術は、そのような神域にまで達しているのか。」更羸は静かに「然様、可能でございます」と答えました。
しばらくして、東の方角から雁の一群が鳴きながら飛んでくるのが見えました。更羸が弓を構え、矢を放つことなく力強く弦を弾くと、その鋭い風切り音に驚いた一羽の雁が、たちまち翼の力を失い、地に落ちたのでした。
水神のごとき勇士
斉の景公が長江や沅水のほとりを渡っていた時のこと。突如、水面が割れ、巨大な黿が姿を現し、王の馬車の左側にいた供馬の口輪に喰らいつき、水中へと引きずり込もうとしました。供の者たちが驚きおののく中、古冶子という若者が、何のためらいもなく剣を抜き、荒れ狂う水の中へと飛び込みました。
彼は水中を斜めに五里、流れに逆らって三里も進み、ついに砥柱と呼ばれる岩の下で、その巨大な黿を討ち果たしました。
古冶子は、左手に黿の首を、右手に沈められた馬を掴むと、まるで燕が舞い、白鳥が飛び立つかのように軽やかに水面へと躍り出ました。そして天を仰いで雄叫びをあげると、その声に応えるかのように、川の水が三百歩も逆流したといいます。その神がかりの姿を目の当たりにした人々は、皆、あれこそは川を司る神、河伯の化身ではないかと噂し合ったと伝えられています。
干将・莫邪、復讐の剣
楚の刀匠、干将と莫邪の夫婦は、楚王の命により剣を鍛えましたが、完成までに三年の月日を要しました。王はこれに激怒し、干将を殺そうと待ち構えておりました。
鍛え上げられた剣は、雌雄一対。妻の莫邪は身重で、まさに産気づこうとしていました。夫は妻に言い遺します。「私は王のために剣を鍛えたが、三年もかかってしまった。王の怒りは凄まじく、参内すれば必ず殺されるだろう。もしお前が男の子を産んだなら、大きくなった時にこう伝えよ。『家の戸口から南の山を望め。松の木が石の上に生えている。父の剣はその背にある』と。」
そうして干将は、雌の一振りだけを携え、楚王のもとへ赴きました。王は案の定、大いに怒り、剣を鑑定させると、二振りあるべき剣が一振りしかないことを知ります。雌はあれど雄がない。王の怒りは頂点に達し、その場で干将を斬り殺してしまいました。
莫邪が産んだ息子は、赤と名付けられ、やがてたくましい若者へと成長しました。彼は母に問います。「父上はどこにおられるのですか。」母は涙ながらに語りました。「お前の父は楚王のために剣を鍛え、三年をかけて完成させましたが、王の怒りに触れて殺されました。父が旅立つ時、『息子に伝えよ。戸を出て南の山を望め。松の木が石の上に生え、剣はその背にある』と、私に言い遺して……」
赤はすぐさま戸口に立ち、南を望みましたが、そこに山影は見えません。ただ、家の前にある堂の、松の木でできた柱の下に、石の礎があるだけでした。彼は斧を手にすると、その礎の背を叩き割り、中から果たして一振りの雄剣を見つけ出したのです。
その日から、赤は昼も夜も、父の仇である楚王への復讐だけを胸に誓うのでした。
ある夜、楚王は夢を見ました。眉間が一尺もある若者が「仇を討つ」と叫んでいる夢です。王は気味悪く思い、すぐにその若者の首に千金の懸賞金をかけました。
お尋ね者となった赤は、山中へ逃れ、悲しみに満ちた歌を歌いながらさまよいました。そこへ一人の旅人が通りかかり、声をかけます。「若いの、何をそんなに悲しそうに泣いているのか。」赤は答えました。「私は干将と莫邪の子。楚王に父を殺され、仇を討ちたいのです。」
旅人は言いました。「王がお前の首に千金を懸けていると聞いた。その首と剣を私にくれぬか。私がお前のために仇を討ってやろう。」赤は「望外の幸せにございます」と答えると、自ら首を刎ね、両手で己の首と剣を旅人に捧げたまま、仁王立ちに絶命しました。旅人が「その志、必ず遂げよう」と誓うと、若者の体はようやく地に崩れ落ちたのです。
旅人はその首を携えて楚王に謁見しました。王は大いに喜びます。旅人は言いました。「これは勇者の首。大釜で煮なければ、その怨念は消えぬでしょう。」王はその言葉に従い、首を煮させました。
三日三晩煮続けましたが、首は少しも爛れることなく、湯の中から飛び上がると、怒りに燃える目を見開きました。旅人は再び進言します。「この子の首は、どうしても煮えませぬ。王が自らお越しになり、その目でご覧になれば、きっと爛れましょう。」
王が釜に近づいた、その瞬間。旅人は剣を抜き放ち、王の首を斬り落としました。王の首もまた、湯の中へ。そして旅人は、自らの首にも刃を向け、三つの首が同じ釜の中に落ちました。
三つの首は互いに喰らい合い、やがてすべて煮溶けて、どれが誰の骨か見分けがつかなくなりました。人々はその肉と骨を分け隔てなく葬り、その地を「三王墓」と呼ぶようになりました。その墓は今も、汝南の北、宜春県のあたりにあると伝えられています。
首なき将軍
漢の武帝の御代、蒼梧出身の賈雍が豫章の太守を務めておりました。彼は不思議な術の心得があったといいます。ある時、国境を越えて賊を討伐に出ましたが、不覚をとり、賊に首を刎ねられてしまいました。
ところが、賈雍は首のないまま馬に乗り、悠々と陣営に帰還したのです。兵士たちが驚き恐れて集まってくると、賈雍は胸の中から語りかけました。
「戦は利あらず、賊に傷つけられてしまった。さて諸君、頭があるのとないのとでは、どちらが良いと思うかね。」
役人たちは泣きながら答えます。「頭がある方が、よろしゅうございます。」
すると賈雍は言いました。「いや、そうではない。頭などない方が、かえって良いのだ。」
その言葉を最後に、彼は静かに息絶えたのでした。
怨念の言葉
渤海太守の史良の姉に、嫁入り前の娘がおりましたが、なかなか縁談がまとまりません。腹を立てた史良は、あろうことかその娘を殺し、首を斬り落として持ち帰ると、家の竈の下に投げ込み、「これで火葬にしてくれるわ」と言い放ちました。
すると、その首が口を開き、こう語りかけたのです。「叔父上、あなたは私をいつも傍に置いてくださったのに、どうしてこのような仕打ちをなさるのですか。」
後日、史良は夢を見ました。あの首が「あなたから頂いた品々、お返しいたします」と言うのです。目を覚ますと、かつて娘に与えた香りの良い髪飾りや金の簪などが、枕元に置かれていたといいます。
碧玉と化した血
周の霊王の時代、萇弘という臣下が無実の罪で殺されました。蜀の人々が彼の流した血を密かに持ち帰り、大切にしまっておいたところ、三年後、その血は美しい碧玉に変わっていたと伝えられています。
憂いを呑む酒
漢の武帝が東方へ旅をした折、函谷関を出ようとすると、道に奇妙なものが立ち塞がっていました。それは身の丈が数丈もあり、牛に似た姿で、青い目がらんらんと光っています。四本の足は大地にめり込み、身動きはすれど、その場を離れようとはしません。百官は皆、恐れおののきました。
その時、東方朔が進み出て、酒を注がせてほしいと願い出ました。数十樽もの酒をその奇妙なものに注ぐと、それは霞のように消え去ってしまいました。
帝がその訳を尋ねると、東方朔は答えました。「これは『患憂』、すなわち人々の憂いが凝り固まって生まれたものでございます。この地は、かつて秦の時代の牢獄か、罪人や労役者が集められた場所でありましょう。酒は憂いを忘れさせるもの。故に、これを消し去ることができたのです。」
帝は感嘆して言いました。「ああ、万物に精通した士とは、これほどのものか。」
雨を呼ぶ至誠
後漢の諒輔、字を漢儒は、広漢新都の人でした。若くして下級役人となりましたが、私的な交友を好まず、清廉潔白な人物でした。従事という官職に就くと、大小の公務を滞りなくこなし、郡や県の役人たちから深く敬われていました。
その頃、夏に大干ばつが起こり、太守は自ら庭に出て、灼熱の太陽に身を晒して雨を乞いましたが、雨は一滴も降りません。五官掾であった諒輔は、山川の神々に祈りを捧げる役目を命じられました。彼は天に向かって、こう誓いを立てます。
「私が郡の重役でありながら、的確な進言もできず、賢者を推挙することも、悪を退けることも、民を安んじることもできませんでした。その結果、天地は塞がり、万物は枯れ果て、民は苦しみに喘いでおります。すべての咎は、この私にあります。今、太守は自らを省み、私に民のために祈るよう命じられましたが、私の誠が足りぬのか、天には届きません。あえてここに誓います。もし正午までに雨が降らねば、この身を焼いて罪を償いましょう。」
彼はすぐに薪を積み上げ、自らの身を捧げる覚悟をしました。すると、正午を迎えようというその時、にわかに山から黒雲が湧き起こり、雷鳴が轟くとともに、沛然と大雨が降り注ぎ、郡内全土を潤したのです。世の人々は、彼の至誠が天を動かしたのだと、口々に称えたといいます。
徳は災いを退ける
呉郡の何敞は、若い頃から道を好み、俗世を離れて暮らしていました。里が大干ばつに見舞われ、人々も作物も疲れ果てていた時、太守の慶洪は、役人に印綬を捧げさせ、無錫の長官になってほしいと懇願しました。しかし、何敞はそれを受けませんでした。
彼は一人、静かに嘆息しました。「郡に災いがあるというのに、どうして私一人が安穏と道に浸っていられようか。」
そう決心すると、彼は険しい道を越えて無錫県へと赴き、明星の祠に身を寄せました。すると不思議なことに、あれほど猛威を振るっていたイナゴの害が、たちまち消え失せてしまったのです。何敞は、その後すぐに姿をくらましました。後に方正博士に推挙されましたが、いずれも固辞し、故郷で静かにその生涯を終えました。
後漢の徐栩、字を敬卿は、呉の由拳の人です。若い頃は牢獄の役人でしたが、その法裁きは常に公平でした。彼が小黄県の県令であった時、近隣の県では大イナゴが発生し、野には草一本残らぬ有様でしたが、不思議と小黄県の境を越えると、イナゴは皆飛び去り、決して集まることはありませんでした。
視察に来た刺史は、徐栩が何の対策もしていないことを咎めました。徐栩がその職を辞すると、まるで彼の言葉を待っていたかのように、イナゴの大群が県内へとなだれ込んできたのです。驚いた刺史は非礼を詫び、彼を元の職に戻しました。すると、イナゴは再び跡形もなく飛び去ったといいます。
神獣の守護
漢の和帝の御代、王業、字を子香が荊州刺史となりました。彼は巡察の旅に出るたび、必ず身を清め、斎戒して天地に祈りを捧げました。「どうか私の愚かな心を助け、民に不正がないようお導きください」と。
彼が荊州を治めた七年間、風は穏やかで、災厄も不正も起こらず、山には豺狼さえ姿を見せませんでした。彼が湘江のほとりで亡くなった時、二匹の白い虎が現れ、頭を垂れ、尾を引きずりながら、その亡骸の傍らで夜を明かしたといいます。葬儀が始まると、虎は州境を越え、忽然と姿を消しました。民は皆で碑を立て、これを「湘江白虎墓」と呼びました。
呉の時代、葛祚が衡陽太守であった頃、郡境の川に巨大な流木が横たわり、それが妖怪となって船の往来を妨げていました。人々は祠を建てて祈祷しましたが、祈れば流木は沈み、祈りをやめると再び浮かび上がって船を破壊するのです。
葛祚は職を辞してこの地を去るにあたり、多くの斧や鉞を用意させ、民の憂いを断ち切る決意をしました。決行を明日に控えたその夜、川の中からざわめきが聞こえてきます。見に行くと、あの巨大な流木が自ら動き出し、数里下流の入り江へと移動していたのです。これ以降、船旅の危険はなくなりました。衡陽の人々は葛祚のために碑を立て、「正しき徳と祈りにより、神木は自ら移りぬ」と、その功績を刻んだということです。
孝、万里を超える
曾子が師である孔子に従って楚の国にいた時、ふいに胸騒ぎがしたため、暇を乞うて故郷へ帰りました。家で待っていた母に尋ねると、母は言いました。「お前のことを案じ、自分の指を噛んだのだよ。」
この話を聞いた孔子は言いました。「曾参の孝の心は、その精誠が万里の彼方まで届き、母子を通じさせるのだな。」
周暢は、生まれつき心優しく、幼い頃から大変な孝行者でした。母と二人きりの暮らしで、彼が外に出ている時、母が息子を呼びたいと思うと、いつも自分の手を噛みました。すると不思議なことに、周暢は手の痛みを感じ、すぐに母のもとへ駆けつけたのです。
役人であった治中従事はこれを信じず、周暢が畑仕事をしている間に、母に頼んで手を噛んでもらいました。すると、周暢はやはりすぐに家へ帰ってきたということです。
元初二年(115年)、彼は河南尹となりました。その年の夏、大干ばつに見舞われ、いくら雨乞いをしても効果がありませんでした。周暢は洛陽城のそばで行き倒れた一万余りの遺骸を集めて手厚く埋葬し、義塚を立てました。すると、たちまち大雨が降り注いだといいます。
氷上の鯉と帳の中の雀
王祥、字を休征は、琅邪の人。生まれながらの孝行者でしたが、早くに実の母を亡くし、継母の朱氏に仕えました。しかし継母は彼に冷たく、しばしば父に讒言したため、父の愛をも失い、いつも牛小屋の掃除をさせられていました。
それでも父母が病に伏せると、衣の帯も解かずに看病を続けました。ある冬の日、継母がどうしても生の魚が食べたいと言い出しました。季節は真冬、川は厚い氷に閉ざされています。王祥は衣服を脱ぎ、氷の上に身を横たえ、自らの体温で氷を溶かして魚を捕ろうとしました。すると、氷が突然自ずから裂け、二匹の鯉が躍り出てきたのです。彼はそれを持ち帰り、母に供しました。
またある時、継母が黄雀の炙り焼きが食べたいと言うと、今度は数十羽の黄雀が彼の寝所の帳の中へと飛び込んできました。彼はそれを捕らえて母に捧げました。郷里の人々はこの不思議な出来事に驚き、彼の孝行な心が天に通じたのだと信じました。
氷を叩く涙
王延もまた、至って孝行な人物でした。継母の卜氏が、厳しい冬のさなかに、生の魚が食べたいと王延に命じました。しかし、どこを探しても獲物は見つかりません。怒った継母は杖で彼を打ち、その体は血に染まりました。王延は汾水のほとりへ行き、厚い氷を叩きながら泣きました。すると突然、五尺もの大きな魚が一匹、氷の上に飛び出してきたのです。王延はそれを持ち帰り、母に供しました。不思議なことに、卜氏がその魚を食べても、何日経っても尽きることがありませんでした。この奇跡を目の当たりにした継母は心を改め、王延を実の子のように慈しんだということです。
病を癒す至孝
楚僚は、早くに実母を亡くしましたが、後母に大変な孝行を尽くしました。後母が腫瘍を患い、日ごとに衰えていくのを見て、僚は自らその腫瘍を口で吸い、膿と血を吐き出しました。そうすると、夜には母が安らかに眠ることができたのです。
ある夜、僚は夢を見ました。小さな子供が母に語りかけています。「もし鯉を食べさせれば、その病はたちまち癒え、長寿を得られるでしょう。さもなくば、長くはありますまい。」母は目を覚まし、その夢を僚に告げました。
時は十二月、川は氷に閉ざされています。僚は天を仰いで嘆き悲しみ、衣服を脱いで氷の上に身を横たえました。すると、一人の童子が現れて僚が寝ていた場所を指差した途端、氷が突然自ら開き、二匹の鯉が飛び出してきたのです。僚はそれを持ち帰って母に捧げると、病はすぐに癒えました。僚自身も、百三十三歳という長寿を保ったといいます。これもまた、至孝の心が天の神に通じ、奇跡的な応報があったためであり、王祥や王延の出来事と同じでありましょう。
愛は盲いた目を開く
広陵の盛彦、字を翁子は、母の王氏が病で目を失って以来、自ら身の回りの世話をすべて行っていました。母が食事をする際は、必ず自分の口で噛み砕いてから食べさせました。母の病が長引くにつれ、母は苛立ちから下女たちをしばしば打ち叩くようになりました。これを恨んだ下女たちは、盛彦が留守にしている隙に、蠐螬(コガネムシの幼虫)を炙って母に食べさせました。母は美味しいと思って食べましたが、何か腑に落ちないものを感じ、こっそりと一片を隠しておいて盛彦に見せました。それが何であるかを知った盛彦は、母を抱きしめて号泣し、そのまま気を失ってしまいました。やがて彼が意識を取り戻すと、不思議なことに、母の目が突然開き、光を取り戻していたのです。病は、それによって癒えたということです。
青い鳥が運んだ霊薬
顔含、字を弘都は、次兄の妻である樊氏が病で目を失ったため、心を痛めていました。医者の処方には蚺蛇という大蛇の胆が必要でしたが、いくら探しても手に入りません。顔含は憂い嘆き、数ヶ月を過ごしました。
ある昼下がり、彼が一人で座っていると、突然、青い衣をまとった十三、四歳ほどの童子が現れ、青い袋を顔含に授けました。顔含が開けてみると、それはまさしく探し求めていた蚺蛇の胆でした。童子は黙って戸口を出ると、一羽の青い鳥に姿を変え、空へと飛び去って行きました。その胆で薬を作ると、兄の妻の病はすぐに癒えたといいます。
天が与えた黄金
郭巨は隆慮の人で、一説には河内温の人とも言われます。三兄弟でしたが、早くに父を亡くしました。葬儀を終えると、二人の弟が財産の分与を求めました。郭巨は二千万銭の財産を、弟たちに一千万ずつ分け与え、自分は何も取らず、母を連れて家を出ました。夫婦で雇われ仕事をしながら、懸命に母の暮らしを支えました。
しばらくして、妻が男の子を産みました。郭巨は深く思い悩みます。「この子を育てれば、母への奉公がおろそかになる。また、母が食事を得ても、孫に分け与えてご自分の分が減ってしまうだろう。」心を鬼にした彼は、野原に穴を掘り、我が子を埋めようと決心しました。ところが、地面を掘ると、石の蓋が見つかり、その下には黄金が一釜も入っていたのです。中には朱で書かれた札があり、こう記されていました。
「孝子郭巨に、黄金一釜を賜う」
この出来事によって、郭巨の孝行な名声は天下に響き渡りました。
七年分の粟と白い鳩
新興の劉殷、字を長盛は、七歳で父を亡くし、その哀しみは礼の定めを超えるほどで、三年間、歯を見せて笑うことがありませんでした。彼は曾祖母の王氏によく仕えていましたが、ある夜、夢の中で人から「西の垣根の下に粟がある」と告げられました。目覚めて掘ってみると、十五鐘もの粟が出てきました。器には「七年分の粟、百石を、孝子劉殷に賜う」と記されていました。以来、家族はその粟を七年間食べ続け、ようやく尽きたといいます。
後に王氏が亡くなった時、劉殷夫婦は悲しみのあまり痩せ衰え、命も危ういほどでした。その時、柩が安置されている隣家で火事が起こり、風は激しく燃え盛ります。劉殷夫婦は柩を抱きしめて号泣しました。すると、火はたちどころにその勢いを失い、消えてしまったのです。その後、二羽の白い鳩が庭の木に巣を作り、彼らを見守るように留まっていたということです。
玉を生む畑
楊公伯は、雍の雒陽県の人。元は仲介業を営んでいましたが、生まれつき篤実な孝行者でした。父母が亡くなると、終南山に葬り、そのまま墓のそばに住み着きました。山は八十里も高く、頂には水がありません。公伯は麓から水を汲み上げ、坂の頂上で旅人たちに無償で水を与えました。
三年が経ったある日、一人の男が水を飲みに来て、礼として一斗の小石を与えました。そして、「高平の良い土地に、石のある場所を見つけてこれを蒔きなさい。やがて玉が生まれるだろう」と言い、さらに「楊公はまだ妻を娶っていないが、後に良き妻を得るだろう」と予言めいた言葉を残し、姿を消しました。
公伯はその言葉に従って石を蒔き、数年後、時折見に行くと、玉の子供が石の上に生まれているのを見つけました。彼はこのことを誰にも話しませんでした。さて、右北平に徐氏という評判の娘がいました。彼女は気品にあふれ、多くの求婚を断っていました。公伯は試しに徐氏に求婚すると、徐氏は彼を気の触れた男だと思い、戯れに言いました。「真っ白な璧玉を二つ持ってきたなら、あなたとの結婚を許しましょう。」
公伯が玉を蒔いた畑へ行くと、果たして五つの白璧が手に入りました。彼はそれを結納として送りました。徐氏の一族は大いに驚き、ついに娘を公伯の妻としました。天子がこの話を聞き、彼の不思議な徳を称え、大夫の位に任命しました。公伯は玉を蒔いた場所の四隅に、それぞれ一丈の大きな石柱を立て、中央の一頃の土地を「玉田」と名付けたということです。
仁徳の報い
東平の衡農、字を剽卿は、幼くして父を亡くし、継母に大変な孝行を尽くしました。彼はいつも他人の家に間借りしていましたが、ある時、激しい雷雨に見舞われました。彼はその頃、頻繁に虎に足を噛まれる夢を見ていたため、妻を呼んで庭へ出ると、地に三度頭を下げて祈りました。その直後、屋根が轟音とともに崩れ落ち、三十人余りが下敷きになって亡くなりましたが、衡農夫妻だけが無事であったといいます。
羅威、字を徳仁は、八歳で父を亡くしましたが、母への孝行は並々ならぬものでした。母が七十歳になった時、凍えるように寒い日には、常に自分の体で寝床を温めてから、母をそこに寝かせたといいます。
王裒、字を偉元は、城陽営陵の人。父は時の文帝に殺されました。王裒は父の墓のそばに庵を結び、朝夕、墓前にひざまずくと、柏の木にすがって慟哭しました。彼の涙がかかった木は、やがて枯れてしまったということです。母は雷をひどく恐れていましたが、母が亡くなった後は、雷が鳴るたびに墓へ駆けつけ、「裒はここにおります」と声をかけ、母の魂を慰めたと伝えられています。
鄭弘が臨淮太守となった時、郡民の徐憲が喪に服していましたが、その哀悼の様は人々の心を打ち、白い鳩が彼の家の戸口に巣を作りました。鄭弘は彼を孝廉に推挙し、朝廷では彼は「白鳩郎」と呼ばれました。
孝婦の冤罪
漢の時代、東海に大変な孝行嫁がおりました。姑の世話を実によくしていましたが、姑は「嫁が私を養うために苦労している。私はもう老い先短い身。若い者をいつまでも煩わせることはない」と言い、自ら首を吊って死んでしまいました。
ところが、姑の娘が役所に「あの嫁が母を殺したのです」と訴え出ました。役人は孝婦を捕らえ、牢に入れました。厳しい拷問に耐えかねた孝婦は、ついにやってもいない罪を自白してしまいます。
当時、于公という者が獄吏を務めており、彼は言いました。「この嫁は姑を十数年も養い、その孝行ぶりは誰もが知るところ。人を殺めるはずがない。」しかし、太守は聞く耳を持ちません。于公は必死に訴えましたが聞き入れられず、訴状を抱いて泣く泣く役所を去りました。
その後、郡内は大干ばつに見舞われ、三年もの間、雨が一滴も降りませんでした。新しい太守が赴任してくると、于公は言いました。「孝婦は無実の罪で死にました。前の太守が彼女を枉げて殺した咎が、この干ばつを招いているのです。」太守は直ちに孝婦の墓前で祭祀を行い、その墓を表彰しました。すると、たちまち天がかき曇り、大雨が降り注ぎ、その年は大豊作となったということです。
長老たちの語り伝えによれば、孝婦の名は周青といい、彼女が処刑される際、車に十丈の竹竿を立てさせ、五枚の幡を吊るし、衆人の前でこう誓いを立てたといいます。「もし私が有罪ならば、斬られた血は地に流れ落ちるでしょう。もし私が無実の罪で死ぬのなら、この血は天へと逆流するでしょう。」刑が執行されると、その血は青黄色に染まり、幡の竹竿を伝って駆け上り、旗の先端に達すると、再び幡を伝って流れ落ちた、と。
父を追う娘
犍為の叔先泥和に、雄という娘がおりました。永建三年(128年)、父の泥和は県の役人として、県長の命で巴郡太守へ書状を届けに行く途中、船で急流に呑まれて溺死し、遺体は見つかりませんでした。
娘の雄は嘆き悲しみ、生きる望みを失いました。彼女は弟の賢と夫に、必死で父の遺体を探すよう命じ、もし見つからなければ、自ら水に身を投げて探すと言いました。雄は当時二十七歳。貢という五歳の息子と、貰という三歳の息子がおりました。彼女はそれぞれに刺繍した香袋を作り、金や真珠、腕輪などを入れ、二人の子に与えました。その悲しみに泣く声は、絶えることがありませんでした。
十二月十五日、ついに父の遺体が見つからなかったため、雄は父が落ちた場所へ小舟を漕ぎ出すと、数度泣き叫んだ後、自ら水中に身を投げました。彼女は流れに巻き込まれ、深い川底へと沈んでいきました。
その夜、雄は弟の夢枕に立ち、「二十一日に、父上と共に現れます」と告げました。約束の日になると、夢の言葉通り、父と娘は固く抱き合った姿で、川面に浮かび上がってきたのです。県長はこのことを太守に報告し、朝廷にまで上奏されました。そして役人が派遣され、雄のために碑を立て、その姿を描かせ、彼女の至孝を後世に伝えたということです。
貞節なる妻
河南の楽羊子の妻は、どこの家の娘かは知られていませんが、自ら進んで姑の世話をよくしていました。ある時、他家の鶏が誤って庭に入り込み、姑がそれを盗んで殺し、食べてしまいました。妻は鶏肉に手をつけず、ただ泣いていました。姑が不思議に思って訳を尋ねると、妻は言いました。「我が家の貧しさを嘆いているのです。よそのお宅のお肉を頂かなければならないほど貧しいのかと。」それを聞いた姑は、恥じ入ってその肉を捨てました。
後に、盗賊がこの家に押し入り、姑を人質に取りました。妻は刀を手に立ち向かいます。盗賊は言いました。「その刀を捨て、俺に従えば命は助けてやる。さもなくば、この姑を殺すぞ。」妻は天を仰いで嘆息すると、その刀で自らの首を刎ねて死んでしまいました。盗賊は、その気高さにうたれたのか、姑を殺さずに立ち去りました。
太守はこの話を聞き、盗賊を捕らえて処刑し、妻に絹の褒美を与え、手厚く葬ったということです。
病を恐れぬ心
庾袞、字を叔褒の時代、咸寧年間に疫病が大流行し、二人の兄が亡くなり、次兄の毗もまた危篤となりました。疫病の猛威を恐れ、父母や弟たちは皆、家を離れて避難しましたが、庾袞だけは一人残り、決して去ろうとしませんでした。親族が強く説得しましたが、彼は「私の性分は、病を恐れぬのです」と答えるだけでした。
彼は一人で次兄の看病にあたり、昼夜眠らずに付き添いました。その間も、亡くなった兄たちの棺を撫でて、哀悼の意を表すことを欠かしませんでした。そうして十数旬が過ぎ、疫病の勢いが衰えると、家族が戻ってきました。次兄の病はすっかり癒え、庾袞もまた、何事もなかったかのように元気であったといいます。
相思樹の伝説
宋の康王の家臣であった韓憑には、何氏という美しい妻がおりましたが、康王が彼女を無理やり奪ってしまいました。韓憑がこれを恨むと、王は彼を投獄し、過酷な労役刑に処しました。
妻は密かに韓憑へ手紙を送りましたが、その言葉は謎めいていました。
「その雨は降りやまず、川は深く渡れない。日が出ずる時、我が心に射す」
後に王がその手紙を手に入れ、側近に見せましたが、誰もその意味を解せません。臣下の蘇賀だけが、こう解き明かしました。「『雨は降りやまず』とは、憂い、思い焦がれていること。『川は深く渡れない』とは、会うことが叶わぬこと。『日が出ずる時、我が心に射す』とは、死を覚悟した心を表しております。」
間もなく、韓憑は自ら命を絶ちました。
妻は、自分の衣服が脆くなるよう、密かに細工をしていました。王が彼女を高い台の上へ連れて行った時、妻はそこから身を投げました。側近たちが捕まえようとしましたが、服は手の中でぼろぼろに崩れ、彼女の体は地に落ちて絶命しました。帯には、遺書が結びつけられていました。
「王は生を望み、私は死を望みます。願わくは、この骸を韓憑のもとへ賜り、共に葬ってくださいませ」
王は激怒し、その願いを許さず、二人の墓が互いに見えるように、少し離して埋めさせました。
そして王は言いました。「お前たち夫婦の愛が尽きぬというのなら、その墓を一つにしてみせよ。もしそれが叶うなら、私はもう邪魔をすまい。」
すると、一夜にして、二つの墓の端から大きな梓の木が生え、十日ほどで人が抱えるほどの太さになりました。その幹はしなやかに曲がり、互いに寄り添い、根は地中で交わり、枝は空で絡み合いました。そして、一対の鴛鴦が、常にその木の上に棲みつき、朝も夕も離れず、首を交わし合って悲しげに鳴きました。その声は、聞く者の心を深く打ちました。宋の人々はこの夫婦を哀れみ、その木を「相思樹」と呼びました。「相思」という言葉は、ここから始まったと言われています。南の人々は、この鳥こそ韓憑夫婦の魂の化身であると伝えています。今も睢陽の地に韓憑城があり、その物語を歌った詩は、今なお人々に口ずさまれているということです。
情念が生んだ命
漢の末期、零陽郡の太守であった史満に娘がおりました。娘は門下書佐という役人に恋をし、密かに侍女に命じて、その役人が手を洗った後の水を飲ませてもらったのです。すると娘は身ごもり、やがて男の子を産みました。子が歩けるようになると、太守は孫を抱き、「さあ、お前の父を捜しなさい」と命じました。
子はためらうことなく、まっすぐにあの書佐の懐へと這っていきました。驚いた書佐が子を突き飛ばすと、子は地面に落ちた途端、水に姿を変えて消えてしまいました。太守が娘を厳しく問いただすと、娘は事の次第をすべて白状しました。太守はついに、娘とその書佐を夫婦とさせたということです。
望夫岡の悲恋
鄱陽の西に、望夫岡という丘があります。昔、この地の陳明という男が梅氏という娘と婚約しましたが、婚礼を挙げる前に、妖しきものに妻を連れ去られてしまいました。陳明が易者に相談すると、「北西に五十里行った先に求めよ」とのお告げがありました。彼がその通りに行くと、底の見えない深い穴がありました。縄を使って人を降ろしてみると、果たして妻を見つけ出すことができました。
陳明はまず妻を穴の外へ引き上げさせました。しかし、彼と同行していた隣人の秦文は、嫉妬からか、陳明を引き上げずに見捨ててしまったのです。残された妻は、夫の帰りを待ち続け、貞節を誓ってこの丘の頂に登り、遠くを望み続けました。そのため、この丘はその名で呼ばれるようになったということです。
母子の断絶
後漢の南康の鄧元義の父、伯考は、尚書僕射という高官でした。元義が故郷に帰った後も、その妻は姑によく仕えましたが、姑はなぜか彼女を憎み、部屋に閉じ込めて食事も満足に与えませんでした。妻は痩せ衰えていきましたが、最後まで不平一つ言いませんでした。
ある時、伯考が嫁のやつれた様子を不審に思い尋ねると、元義の息子である朗(当時まだ数歳でした)が言いました。「母上は病気ではございません。ただ、ひどくお腹を空かせているだけです。」伯考は涙を流し、「どうして実の姑がこれほどの仕打ちをするのか」と嘆き、嫁を実家へ帰らせ、華仲という男のもとへ再嫁させました。
華仲は将作大匠という官職にありました。ある日、妻が朝廷の車に乗って出かけた時、元義が道端でその姿を見かけ、人に語りました。「あれは私の元の妻だ。彼女には何の過ちもなかったが、母がひどく当たってしまってな。彼女はもともと、高貴な身分の人なのだ。」
元義の息子である朗は、成長して役人になっていましたが、実の母から手紙が来ても返事を書かず、衣類が送られてきてもすぐに燃やしてしまいました。しかし、母はそれを少しも気にかけませんでした。母は息子に一目会いたくなり、息子の親戚である李氏の家を訪れ、人を介して別の用件と偽り、朗を呼び出してもらいました。朗がやって来ると、母の姿を見て二度礼をし、涙を流しましたが、すぐに立ち去ろうとしました。母は後を追い、彼に言いました。「私は死ぬ思いでした。あなたの家から追い出されましたが、私に何の罪があったというのです。どうしてそのような冷たい態度をとるのですか。」
しかし、朗は最後まで母と和解することなく、縁を絶ってしまいました。
鉄錐の暴く罪
厳遵が揚州刺史であった時のことです。巡察の途中、道端で泣いている女性を見かけましたが、その泣き声に真の悲しみが感じられません。誰の死を悼んでいるのかと尋ねると、女は「夫が焼け死んだのです」と答えました。
厳遵は役人に命じて遺体を運ばせ、女と少し話をした後、役人に言いました。「この死人は、焼け死んだのではないと言っている。」そうして女を捕らえさせ、遺体を監視させました。「何か冤罪があるに違いない。」
しばらくして役人が「遺体の頭に、ハエが集まっております」と報告しました。厳遵が頭を調べさせると、髪の中から一本の鉄の錐が見つかりました。厳しく尋問すると、女は、姦通のために夫を殺したことを白状したということです。
死してなお交わる友誼
漢の范式、字を巨卿は、山陽金郷の人。彼は汝南の張劭、字を元伯と深い友情で結ばれていました。二人は共に都の太学で学びましたが、後に故郷へ帰る際、范式は元伯に言いました。「二年後の同じ日に、必ず君の家を訪ねよう。その時は、ご両親にご挨拶し、お子さんにも会わせてほしい。」二人は固くその日を約束しました。
約束の日が近づくと、元伯はそのことを母に話し、食事を用意して友を待つよう頼みました。母は言いました。「二年もの月日が経ち、千里も離れた場所での約束を、どうしてそんなに信じられるのですか。」元伯は答えました。「巨卿は信義に厚い男です。決して約束を違えたりはしません。」母は「それほど言うのなら、お前のために酒を用意しておきましょう」と答えました。
約束の日、果たして范式は時間通りに到着しました。彼は広間に上がり、元伯の母に礼を尽くし、友と酒を酌み交わして心ゆくまで語り合い、そして別れを告げて去って行きました。
その後、元伯は病に倒れ、日に日に重くなっていきました。同郷の到君章と殷子征が、昼夜を問わず見舞いに訪れました。元伯は臨終の際、嘆息して言いました。「ああ、我が死の友に会えぬまま逝くのが、心残りだ。」
殷子征は言いました。「私と君章は、これほど心を尽くしているではないか。我々が死の友でなくて、他に誰を求めるというのだ。」元伯は静かに首を振り、言いました。「あなた方二人は、私の生の友だ。山陽の范巨卿こそが、私の死の友と呼ぶべき人物なのだ。」
そして間もなく、元伯は息を引き取りました。
その頃、遠く離れた山陽で、范式は突然、元伯の夢を見ました。元伯は黒い衣に冠をつけた正式な姿で現れ、呼びかけます。「巨卿よ!私は何日に死に、あの時刻に葬られる。永遠に黄泉へと旅立つのだ。もし君が私を忘れていないのなら、どうして駆けつけてくれぬことがあろうか。」
范式ははっと目覚め、悲しみに泣き続けました。彼はすぐに友のための喪服に着替え、葬儀の日に間に合うよう、馬を走らせました。しかし彼が到着する前に、すでに葬列は出発していました。墓穴に着き、棺を降ろそうとしますが、棺はぴくりとも動きません。元伯の母が棺を撫でながら言いました。「元伯や、お前は誰かを待っているのかい。」
その時、白い馬に引かれた白い車が、泣き声とともに近づいてくるのが見えました。母はそれを見て言いました。「あれはきっと、范巨卿に違いありません。」
范式が到着すると、喪主に弔意を述べ、棺に向かって呼びかけました。「行け、元伯!生と死は、道が違う。これにて永遠の別れだ。」
会葬に集まった千人の人々は、皆、その友情に涙しました。范式が棺を引く綱を手に取ると、あれほど動かなかった棺が、初めて静かに前へと進んだのです。范式はそのまま墓のそばに留まり、墓を整え、土を盛り終えてから、静かに故郷へと帰って行ったということです。
この第十一巻について、要約、各場面の魅力の深掘り、そして物語の背景にあるものの検証という三つの視点から、多角的に解説いたします。
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1. 簡潔な要約
この巻は、人間の「情」と「誠」が、物理法則や生死の理をも超えるほどの絶大な力を持つことを、数々の奇跡譚や怪異譚を通して描き出した物語集です。
物語は大きく分けて、以下のテーマで構成されています。
精誠の力: 強い意志や集中力が、石に矢を突き立て、天候すらも動かす超自然的な力を発揮する話。
至孝の奇跡: 親を思う子の純粋な孝行心が、真冬の氷を溶かして魚を出現させ、天から食料を授かり、神々や動物の助けを呼び寄せる話。
愛憎と信義: 夫婦の深い愛や友への固い信義が、死を超えて復讐を遂げさせたり、魂となって再会を果たしたりする話。
怨念と怪異: 理不-尽な死を遂げた者の強い恨みが、首だけになっても言葉を発したり、血が天に逆流したりといった恐ろしい怪異現象を引き起こす話。
全体を通して、目に見えない人間の内なる力が、いかに現実世界に影響を及ぼすかをドラマチックに描き、道徳的な教訓を伝えています。
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2. 各場面の魅力の深掘り
この巻には、人間の感情の様々な側面を映し出す、印象的な場面が散りばめられています。
【不思議さと人情味あふれる場面】
王祥、氷上の鯉を得る: この巻を最も象徴する場面です。病の継母のために、真冬に氷の上に裸で横たわる王祥。彼の「孝」という純粋な人情が、極寒の自然の摂理を捻じ曲げ、氷を自ら融かして鯉を出現させるという不思議な奇跡を呼びます。人間の温かい心が、最も冷たいものを溶かすという詩的な構図は、読む者の心を強く打ちます。
范式と張劭、死友の交わり: 生前の約束が、夢と魂を通じて死後も守られる物語です。友を待つ張劭の魂が、自らの棺の歩みを止めるという現象は、友情という人情が死という絶対的な壁すらも越えることを示す不思議な奇跡です。友情の尊さを、幻想的な筆致で描き出しています。
【面白さ(奇妙さやユーモア)のある場面】
賈雍、首なき将軍の弁舌: 首を失っても平然と帰還し、部下に「頭などない方が良い」と言い放つ将軍の姿は、壮絶でありながらもどこかシュールで、ブラックユーモアすら感じさせます。極限状況が生んだ奇妙な面白さがあり、強烈なインパクトを残します。
東方朔、「患憂」を酒で消す: 巨大な怪物を「人々の憂いが凝り固まったもの」と看破し、憂さを晴らす「酒」で消してしまうという発想は、非常にウィットに富んでいて面白いです。博覧強記の賢者・東方朔のキャラクター性が際立つ、痛快なエピソードです。
【恐怖心を煽られる場面】
干将・莫邪、三王墓の復讐: この物語の恐怖は、その執念のすさまじさにあります。自ら首を刎ねた息子の首が、大釜で三日三晩煮られても爛れず、目を見開いて王を睨み続けるという描写は、怨念の視覚化として圧巻です。復讐のために自らの命すら捧げる人々の狂気と、煮えたぎる釜の中で三つの首が溶け合うグロテスクな結末は、強烈なトラウマを植え付けます。
孝婦(周青)、逆流する血の叫び: 無実の罪で処刑される女性が、「もし私が無実なら、血は天に逆流するだろう」と叫び、その言葉通りになる場面は、壮絶な恐怖を感じさせます。それは、個人の声が届かない理不尽な権力への、最後の、そして最も鮮烈な抵抗です。青黄色の血が天に昇るという超常的な光景は、彼女の無念の深さを物語り、為政者への静かな警告となっています。
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3. 検証の深掘り
これらの物語を、単なる荒唐無稽な話としてではなく、当時の人々の世界観や価値観を反映したものとして深掘りしてみましょう。
儒教的価値観の寓話化:
この巻で繰り返し描かれる「孝」や「信義」は、儒教において最も重要な徳目です。物語が編纂された魏晋南北朝時代は、戦乱で社会秩序が乱れた時代でした。そのため、為政者や知識人たちは、こうした奇跡譚を通して「善い行いをすれば、天が必ず応えてくれる」という応報思想を民衆に示し、道徳心を高めて社会の安定を図ろうとしたと考えられます。王祥や郭巨の物語は、まさにそのための教化的な寓話と言えるでしょう。
人々の願望と不安の投影:
干ばつで雨が降る、イナゴが去る、疫病が収まるといった奇跡は、自然災害や病といった抗いがたい脅威に晒されていた当時の人々の切実な願望の表れです。個人の徳の力で災厄が退けられるという物語は、人々に希望と、困難に立ち向かうための精神的な支柱を与えました。一方で、怨霊や祟りの物語は、理不尽な死への恐怖や社会への不信感が投影されています。声なき民の怒りや悲しみが、怪異という形で物語に昇華されたのです。
史実と伝説の融合:
李広、曾子、東方朔といった実在の人物を登場させることで、物語にリアリティと権威を与えています。これは、歴史上の英雄や賢者のイメージを借りて、物語の教訓をより効果的に伝えようとする創作上のテクニックです。また、「三王墓」や「相思樹」のように、実在の地名と物語を結びつけることで、「これは本当にあったことなのだ」と人々に信じさせる効果を狙っています。これは、現代の都市伝説にも通じる構造です。
総じて『捜神記』第十一巻は、古代中国の人々が、世界をどのように捉え、何を信じ、何を恐れていたのかを雄弁に物語る、「心の記録」と言うことができるでしょう。




