第2話「王城の混乱」
翌朝、王城の騎士詰所は異様な緊張感に包まれていた。
戦勝祭での襲撃事件の報告書が各部署に回され、騎士たちは神妙な面持ちで読みふけっている。平和だった日常が、一瞬にして崩れ去った現実を突きつけられていた。
アレン・グランヴェルは詰所の隅で小さくなっていた。頬に残る傷跡が、昨日の出来事が夢ではなかったことを物語っている。周囲の視線が気になって仕方がない。
「おい、あれが例の新米か」
「王女様の前で剣を弾かれたって聞いたぞ」
「まあ、時間稼ぎにはなったんだろうが……」
ひそひそ話が聞こえてくる。アレンは肩を縮めた。確かに自分は何の役にも立たなかった。むしろ足手まといだったかもしれない。
「アレン」
声をかけられて顔を上げると、ロラン・ディアークが立っていた。
「騎士団長がお呼びだ。すぐに謁見の間に来い」
アレンの顔が青ざめた。騎士団長バルドウィン卿に呼び出されるなど、ろくなことではない。おそらく昨日の失態を叱責されるのだろう。
「わかりました」
重い足取りで立ち上がるアレン。周囲の騎士たちの視線がさらに集まる。
「大丈夫だ」ロランが小声で言った。「お前は悪いことはしていない」
しかしアレンには、その言葉が慰めにならなかった。
謁見の間は王城の中でも特に重厚な造りになっている。
高い天井、石造りの壁、そして正面に据えられた騎士団長の席。バルドウィン・レグナム卿は五十代後半の偉丈夫で、長年の戦歴が刻まれた顔には威厳が漂っていた。
アレンが部屋に入ると、既に数人の上級騎士が並んでいた。副団長のエドガー卿、近衛隊長のマーカス卿、そして教官のダリウス卿。錚々たる顔ぶれに、アレンの緊張は頂点に達した。
「アレン・グランヴェル騎士、前に出よ」
バルドウィンの声が響く。アレンは震える足で前に進み、深く頭を下げた。
「昨日の件について聞く」バルドウィンは冷たい視線でアレンを見下ろした。「報告書によると、お前は独断で刺客に立ち向かったそうだな」
「は、はい」
「命令系統を無視した行動だ。新米が一人で何ができる」
副団長のエドガーが厳しい口調で言った。
「殿下に何かあったらどうするつもりだったのだ。お前の身勝手な行動で、かえって危険を招く可能性もあったのだぞ」
アレンは何も言い返せなかった。確かにその通りだ。自分は何も考えずに飛び出しただけだった。
「しかしながら」
バルドウィンが手を上げて制した。
「殿下はお前の行動を評価しておられる。『恐怖に負けずに立ち向かった勇気』だそうだ」
アレンは顔を上げた。王女が自分のことを?
「だが、勇気だけでは騎士は務まらん」教官のダリウスが口を開いた。「昨日のお前の剣技を見たが、話にならん。基本すらできていない」
「実力不足は明らかだ」マーカスも続けた。「王女殿下の護衛など、百年早い」
厳しい言葉が次々と投げかけられる。アレンは俯いたまま、ただ耐えるしかなかった。
「しかし」
バルドウィンが再び口を開いた。
「殿下の直々のご希望でもある。お前には特別訓練を課す。ダリウス卿の指導の下、基礎から叩き直してもらう」
「え?」
アレンは驚いて顔を上げた。てっきり降格処分か、最悪の場合は騎士団から追放されると思っていた。
「ただし」ダリウスが険しい表情で言った。「私の訓練は厳しいぞ。覚悟はできているか?」
「は、はい!」
アレンは勢いよく頭を下げた。チャンスを与えてもらえるだけでも有難い。
「では決定だ」バルドウィンが立ち上がった。「明日から特別訓練を開始する。期待しているぞ、アレン騎士」
謁見の間を出ると、アレンは大きく息をついた。
予想していたよりもずっと良い結果だった。むしろ王女の口添えで、特別な指導を受けられることになるとは。
「よかったな」
ロランが待っていて、声をかけてくれた。
「はい……でも、まだ実感がわきません」
「当然だ。これからが本当の試練だからな」
ロランの表情は複雑だった。
「ダリウス教官の特訓は騎士団でも有名だ。今まで何人もの騎士が音を上げて逃げ出している」
「そうなんですか……」
「だが、その分確実に強くなれる。お前次第だ」
廊下を歩きながら、ロランは続けた。
「ところで、殿下がお前に会いたがっておられる」
「え?」
「今から謁見室に向かえ。正式な感謝の言葉を述べたいそうだ」
アレンの心臓が跳ね上がった。王女と二人きりで会うなど、夢にも思わなかった。
「でも、俺なんかが……」
「殿下のご命令だ。断れるわけがない」
ロランは肩を押して歩かせた。
「緊張するな。殿下は優しい方だ」
謁見室は騎士団長の部屋よりも格段に豪華だった。
絨毯が敷かれ、壁には美しい絵画が飾られている。窓からは王城の庭園が見え、色とりどりの花が咲き誇っていた。
「お待たせいたしました」
扉が開き、リリアナ・セリオス王女が入ってきた。昨日とは違い、今日は気品のある青いドレスに身を包んでいる。しかしその笑顔は変わらず温かかった。
「アレン騎士、お怪我の具合はいかがですか?」
「あ、はい!もう大丈夫です」
アレンは慌てて膝をついた。緊張で声が震えている。
「顔を上げてください」リリアナは椅子に腰かけながら言った。「昨日は本当にありがとうございました」
「いえ、俺は何も……結局、何の役にも立てませんでした」
「そんなことありません」リリアナは首を振った。「あなたがいなければ、私は今ここにいないかもしれません」
「でも、剣も弾かれて、地面に倒されて……」
「それでも立ち向かってくださいました」
リリアナの声には確信があった。
「恐怖で震えながらも、私の前に立ってくださいました。それがどれほど勇気のいることか、あなたはわかっていますか?」
アレンは答えられなかった。自分では当たり前のことをしたつもりだった。
「私には多くの護衛がついています。皆、優秀で強い騎士たちです」リリアナは窓の外を見つめながら続けた。「でも、昨日あなたが見せてくれたような『純粋な勇気』を持つ人は、そう多くありません」
「純粋な、勇気……?」
「打算も計算もない、ただ人を守りたいという気持ち。それこそが騎士の魂だと、私は思います」
リリアナはアレンを見つめた。
「だからこそ、あなたには強くなってほしいのです。技術を身につけ、経験を積んで、本当の騎士になってください」
「はい!」
アレンは力強く頷いた。王女の期待に応えたい。その気持ちが胸の奥で燃え上がる。
「特別訓練を受けることになったそうですね」
「はい。ダリウス教官の指導を受けます」
「大変でしょうが、頑張ってください」リリアナは微笑んだ。「いつか、あなたが私の騎士として誇れる日が来ることを信じています」
謁見室を出たアレンは、足取りが軽やかだった。
王女の言葉が胸に響いている。純粋な勇気、騎士の魂——自分にもそんなものがあるのだろうか。
「どうだった?」
ロランが廊下で待っていた。
「すごく……優しい方でした」
アレンの表情を見て、ロランは苦笑いした。
「まさか惚れたんじゃないだろうな」
「え?!そ、そんな……」
アレンは慌てて否定したが、頬が赤くなっているのがわかった。確かに王女は美しく、優しく、立派な方だった。でもそれ以上の感情は——
「まあ、騎士が主君に憧れを抱くのは自然なことだ」ロランは肩を叩いた。「だが、身分を忘れるなよ」
「わかっています」
本当にわかっているのだろうか。アレン自身にも確信がなかった。
騎士詰所に戻る道すがら、同期のガレスが駆けてきた。
「アレン!どうだった?処分は?」
「特別訓練を受けることになった」
「よかったな。てっきり降格かと思っていた」
ガレスは安堵の表情を浮かべたが、すぐに顔を曇らせた。
「でも、ダリウス教官の訓練だろう?大丈夫か?」
「どうして?」
「『地獄の教官』って呼ばれているんだ。去年も三人が音を上げて辞めていった」
アレンは gulp と生唾を飲み込んだ。
「まあ、でもアレンなら大丈夫だろう」ガレスは励ますように言った。「昨日の件で、お前の根性は証明されたからな」
根性か。アレンは昨日のことを思い返した。確かに恐怖で震えていたが、最後まで諦めなかった。それが根性と呼べるものなのだろうか。
その夜、アレンは自分の部屋で剣の手入れをしていた。
新米騎士の部屋は狭く、簡素な造りだった。ベッドと机、そして武器を置く棚があるだけ。でも一人で考え事をするには充分だった。
剣身を布で磨きながら、アレンは今日一日のことを振り返った。
騎士団長からの叱責、王女との謁見、そして明日から始まる特別訓練。すべてが夢のようだった。
「強くなりたい」
アレンは剣を光にかざしながらつぶやいた。
「絶対に強くなって、今度こそ殿下を守ってみせる」
コンコンとドアがノックされた。
「入っています」
「失礼する」
入ってきたのはロランだった。手には書類を持っている。
「明日からの訓練予定表だ」
受け取った紙を見て、アレンは息を飲んだ。朝の五時から夜の九時まで、びっしりと予定が書き込まれている。
「基礎体力強化、剣術基本動作、戦術理論、実戦想定訓練……」
「ダリウス教官は手抜きをしない」ロランは椅子に腰かけた。「本気でお前を鍛え上げるつもりだ」
「はい……頑張ります」
「ただし」ロランの表情が真剣になった。「無理は禁物だ。体を壊しては元も子もない」
「大丈夫です」
「そう言うと思った」ロランは苦笑いした。「お前は真面目すぎるからな」
しばらく沈黙が続いた。窓の外では夜の静寂が広がっている。
「なあ、アレン」ロランが口を開いた。「どうして騎士になろうと思ったんだ?」
「え?」
突然の質問に、アレンは戸惑った。
「故郷の村が賊に襲われたことがあるんです」アレンは遠い目をした。「その時、騎士の方が助けてくれて……俺も人を守れる人間になりたいと思いました」
「なるほど」ロランは頷いた。「純粋な動機だな」
「ロラン先輩はどうして?」
「俺か?」ロランは天井を見上げた。「父親が騎士だったからな。跡を継ぐのが当然だと思っていた」
「家系なんですね」
「ああ。でも、最初は義務感だけだった」ロランは振り返った。「お前のように純粋な気持ちはなかった」
「今は違うんですか?」
「今は……」ロランは少し考えた。「この国を、この国の人々を守りたいと思っている。殿下のお役に立ちたいとも思っている」
「すごいです」
「お前だって同じだろう。昨日の行動がそれを証明している」
ロランは立ち上がった。
「明日は早いから、もう休め。訓練は想像以上に厳しいぞ」
「はい、ありがとうございました」
ロランが部屋を出ていくと、アレンは再び一人になった。
明日から始まる新しい生活への不安と期待が入り混じっている。果たして自分は本当に強くなれるのだろうか。
ベッドに横になりながら、アレンは王女の言葉を思い返した。
『純粋な勇気』『騎士の魂』
自分にはまだ実力が伴っていない。でも、気持ちだけは本物だと思う。
「必ず強くなる」
アレンは暗闇の中でつぶやいた。
「殿下の期待に応えてみせる」
窓の外では夜風が木々を揺らし、葉擦れの音が聞こえていた。王城は静寂に包まれているが、どこか緊張感が漂っている。
影の騎士団の脅威は去っていない。いつまた襲撃があるかわからない。
その時こそ、本当に王女を守れる騎士になっていたい。
アレンは拳を握りしめた。明日からの試練に立ち向かう決意を固めて。
同じ頃、王城の地下深くで秘密の会議が開かれていた。
「計画の第一段階は失敗に終わった」
黒いフードを被った男が報告した。昨日の刺客だった。
「新米騎士一人に邪魔されるとは情けない」
別の男が嘲笑した。
「甘く見すぎていた。警備も予想以上に厳重だった」
「次はない」
奥の席から低い声が響いた。明らかに上位者の声だった。
「王女は必ず始末する。王国の象徴を失えば、民の心は折れる」
「しかし、警備が強化されています」
「それも計算のうちだ」声の主は不気味に笑った。「内部に我々の仲間がいることを忘れたか?」
刺客たちの間に緊張が走った。内通者がいるということか。
「次の機会を待て。必ずチャンスは来る」
会議は終了し、男たちは闇の中に消えていった。
王城の平和は、まだしばらく続くかもしれない。
しかし影の騎士団の魔の手は、確実に伸びてきていた。
そしてアレンにとって、真の試練はこれから始まるのだった。
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