崩れ落ちた日常
空はどこまでも澄み渡っていた。
山脈の端に寄り添うように広がる小さな村〈アルベル〉は、
いつもと変わらぬ日常の営みを続けている。
畑には麦が実り、子どもたちは川辺で魚を追い、
行き交う大人たちは収穫祭の準備に忙しい。
その光景の片隅に、ひとりの少年がいた。
カイ・アルヴァス──十五歳。
素朴な農民の息子でありながら、
村では少し変わった子どもとして知られていた。
というのも、彼は時折「これから起きる出来事の断片」を
夢のように見ることがあったからだ。
本人にとっては当たり前の感覚であり、
たとえば「鍋をひっくり返す未来」を見れば、
何となく手を伸ばして鍋を支えてしまう。
そんな小さな奇跡を繰り返すたびに、
周囲は「勘のいい子だ」と噂するのだった。
「カイ! また空を見てるの?」
声をかけてきたのは幼なじみの少女、アリア・フェイン。
栗色の髪を肩で切りそろえ、腰には木製の練習剣を下げている。
鍛冶屋の娘で、男勝りの気質を持つ。
「……ああ。なんだか、今日は嫌な予感がして」
「またそれ? 心配性なんだから」
アリアは呆れたように笑い、彼の隣に腰を下ろした。
──そのとき。
突如として地面が揺れた。鳥たちが一斉に空へ舞い上がり、
村人たちが驚きの声を上げる。
カイの脳裏を、鋭い閃光のような映像がよぎった。
──村を覆う黒煙。倒れる人々。牙をむく獣影。
未来視の欠片が警鐘を鳴らす。胸の鼓動が激しく跳ね上がった。
「アリア、逃げろ!」
叫ぶより早く、森の奥から異様な唸り声が響いた。
姿を現したのは、常の魔獣よりはるかに大きな影。
漆黒の毛並みに覆われた狼が、炎のように赤い瞳を光らせていた。
村を守る柵など意味をなさない。
怪物は一足で飛び越え、家屋を爪で薙ぎ払う。木の柱が折れ、悲鳴が響く。
「嘘……魔物が、こんなところに!?」
アリアは剣を抜き、震える足を必死に支えて構える。
だが村人たちに戦える者はほとんどいない。
鍛冶屋の父が斧を振るったが、一撃で吹き飛ばされた。
カイの足は震えていた。
目の前の怪物に向かうことなど、本来できるはずもない。
それでも──彼の視界に、また断片が走る。
「アリアが爪に貫かれて倒れる未来」。
喉が焼けるように熱くなった。
「やめろおおおおっ!」
気づけば手にしていたのは、近くの木から折った枝だった。
無謀だとわかっている。枝ごときで魔物を止められるはずがない。
だが未来を変えたい一心で、彼は怪物へと飛びかかった。
空気を裂く唸り声。振り下ろされる巨大な爪。
絶望に染まる一瞬、金属の音が鳴り響いた。
「──バカ! 逃げろって言ったでしょ!」
アリアだった。
彼女は恐怖を押し殺し、カイの前に立ちはだかって剣を構えていた。
震える膝を叱咤しながら、必死の形相で。
カイは息を呑んだ。
これまで小さな未来しか見えなかった自分が、
初めて「選ばなければならない瞬間」に立たされていた。
逃げるのか。戦うのか。
その選択が、確かに未来を変えていく。
燃え盛る炎の中、少年と少女は怪物に相対する。
彼らの戦いは、やがて千話を超える長き物語の始まりにすぎなかった──。