斬風ー南海の軍刀ー
一九四四年。南太平洋、ビアク島。
熱帯の湿った風が、血と火薬と汗の匂いを巻き上げて吹き抜ける。木々の隙間から差し込む陽光が、鋭く反射する軍刀の刃を白く照らした。
「突撃――ッ!」
その声とともに、男が密林から飛び出した。喉から迸る叫びは、獣の如き怒号。砲声と銃声が交差する中、男は軍刀一本を振るって米兵の陣に斬り込んだ。
名を、志村少尉という。
帝国陸軍歩兵第十二連隊所属。三十歳。旧制中学を出た後、農村で教鞭を取っていたが、日中戦争の召集で志願し、そのまま軍人となった。だが、彼はただの「軍人」ではなかった。
斬って、斬って、斬り伏せる。
それが、彼の戦場での在り方だった。
九四式軍刀。長巻造りの反りが深い一振り。柄は自ら巻き直し、鍔は古刀の意匠を取り入れて鍛冶職人に鍛えさせた特注品。刀身には、師と仰いだ居合の師範から譲り受けた家伝の銘が刻まれている。
《風、裂く刃》
それはまさしく彼の姿を象徴していた。
敵弾が飛び交う中、志村少尉は伏兵に囲まれた小隊を救出すべく、わずか三名の残兵と共に敵陣中央に突撃した。銃弾が彼の軍帽を吹き飛ばす。仲間が一人、また一人と倒れていく中、志村は止まらなかった。
「てめえらの火力なんぞ、風に届かん!」
吠えるような声。気合とともに、米兵の銃を横薙ぎに斬り払う。肩口から胸へ、ひと太刀。次の兵が反撃の銃を構えた刹那、志村は地を蹴って跳んだ。
――ザンッ!
首が飛んだ。血が空に舞う。
あまりの斬撃に、米兵たちは一瞬、動きを止めた。その隙を突いて志村は横陣へ突っ込み、混戦に持ち込む。軍刀を左右に薙ぎ、敵を押し分ける様は、まるで一振りの疾風が戦場に降り立ったかのようだった。
やがて、敵小隊は総崩れとなった。
斬られた者、逃げ出した者、腰を抜かして捕虜となった者。
志村は汗と血に塗れた軍服をはためかせながら、小隊の救出に成功する。
兵のひとりが呟いた。
「……少尉殿は、本当に人間ですか……?」
志村は、軍刀の血を袖で拭き取り、鞘に納めた。
「違うな。人間なら、こんな風に斬れん」
空を見上げる。その瞳には、疲労と諦念、そしてどこか遠くを見つめる光があった。
⸻
志村は、決して狂っていたわけではない。
彼は、日本刀を人斬りの道具とは考えていなかった。
彼にとって軍刀とは、魂だった。かつての教え子たちに語った言葉を、今でも胸に刻んでいた。
「武器を振るうことは、命に責任を持つことだ」
しかし、戦場では理屈が通じない。
仲間を守るには、斬るしかない。生きるには、斬るしかない。
――そして、死ぬにも。
⸻
一九四五年五月。
連合軍の反攻は激化し、ビアク島守備隊は壊滅寸前だった。志村少尉は、最後の一隊とともに、山中に籠もっていた。
弾薬は尽きた。食糧も底をついた。
それでも、志村は軍刀を捨てなかった。
そしてある夜、彼はひとり、敵陣へと姿を消した。
後に米軍の記録には、こう残されたという。
「5月18日未明、敵性将校とみられる人物が単身で前線を襲撃。7名の兵が斬殺され、混乱の中で当該人物は消息を絶つ。遺体は発見されず。」
⸻
志村少尉は今も、南の島の風の中にいる。
その軍刀が、なお風を裂いていると信じる者がいる。